-紫翼-
二章:星に願いを

06.行かなくてよろしい



 くしゅん、と小さな体が更に縮こまるようにして跳ね、短い髪がふわっと前になびく。
「大丈夫か? 風邪でもひいたか」
「――いえ、大丈夫ですわ」
 セライムの気遣わしげな表情に、口元を押さえたまま、横顔を淡い亜麻色の髪に隠してセシリアは返した。
「この季節は体調を崩しやすいからな。きちんと栄養のあるものを食べているか?」
「……セライムさんは過保護に過ぎます」
 俯きがちに不満を言うセシリアの頬は僅かに紅い。二人は、人通りも穏やかな午後のグラーシアの大通りを歩いているのだ。
 女性としては長身のセライムと、幼学院の制服を着て並ぶセシリアの二人は傍から見ればちぐはぐそのものであったが、セライムにはまるで気にした様子がない。通行人がちらちら不思議そうな視線を投げてくるのに肩身が狭くなりつつ、幼い少女はそっと小声で告げる。
「お忘れでなくて? 私はこんな姿をしていますが、あなたよりも長い年月を生きているのです」
「ああ。うーん、そういえばそうだったな」
 がくっ、と自分の中で何かが傾いで倒壊する音を聞きながら、セシリアは幼い顔に見合わぬ溜息をついた。今更緊張感を求めても仕方ないことは分かっていたが、何か釈然としない。
 だが、次に降ってきたのはそんな胸の濁りすら吹き飛ばす、鮮やかなまでの笑顔であった。
「でも、お前はお前だろう? それとも私に気遣われるのは迷惑だろうか」
「い、いえ。そういうことではなくて」
 あまりに真っ直ぐな物言いに、セシリアはたじろいで言葉をもつれさせた。前で重ねた手をぎゅっと握って、視線を道ばたに這わす。

 話がしたい、と金髪の少女を誘ったのはセシリアの方であった。あの屋敷でセライムと出会ってから、セシリアはずっと心の内にある疑念を抱き続けていたのだ。
 それを言うか否か、屋敷の中で幾度も彼女は考えた。しかし、あの時はそれどころの話ではなく、尋ねそびれてしまったのだ。
 だが、今でもそれを告げようと思うと息が詰まり、刃物を持ったように手が震える。それは、もしかしたら目の前の少女の禁忌に触れることかもしれないのだ。
 けれど、と違う部分で考える。彼女にとって悪夢でしかないこの都市に再び訪れたのは、その悪夢と戦うためだ。例え針のむしろの上を歩くことになろうと、真実が知りたかった。
 愛する人を狂わせたのは、そして自分にこの体を与えたのは、一体何だったのか。それを知らないままでいれば、ずっと自分はマーリアの影に怯えたまま暮らすしかないように思えた。

 しかし、そんな彼女の胸中など知る由もなく、セライムは快活に笑う。太陽のように眩しく、きらきらと。あの時も、このひたむきな優しさと強さに助けられたのだ。セシリアは高いところにある横顔を見てそう思った。
 己の疑念は、もしかすると全てが杞憂なのかもしれない。扉だと思って叩いたところは、ただの壁に過ぎないのかもしれない。むしろそちらの方が嬉しい、とさえ感じる。この――明るい表情を見ていると。
 ただ、皮肉なことに、そんな彼女の横顔を見れば見るほど、同時に疑いも膨らんでいくのであった。それほどまでに、あまりにも彼女は――。

 セシリアは、中央広場まで行くと、噴水の縁に腰かけた。ここなら道行く人とも距離がとれるし、他に座っている者もいない。小声で話せば会話は誰にも聞こえないだろう。
「こんなところでいいのか?」
 セライムは不思議そうに首を傾げながらも、隣に座ってくれる。あのような事件を経たからといって、たった二日間の出会いでこんなにも親身になってくれる優しさが嬉しく、そして胸が痛んだ。やはり自分の疑念は勘違いなのではないかと、一笑に付してしまいたくなる。
 そうであることを心から願いながら、セシリアは呼気を落ちつけた。この都市に再びやってきたのは、真実を知るため、そして紫の少年と金髪の少女にそれぞれ問いを投げるためであった。
「セライムさん」
「うん?」
 セライムはこちらの言葉を待つように首を傾げてくれる。熱い器にそうっと触れるように、セシリアは小さな唇を薄く開いた。
「あなたに――お尋ねしたいことがあるのです」
 なんだ、と言わんばかりにセライムは笑う。
「ああ。もちろん構わない」
「あの晩のこと、あの方とユラスさんの会話を覚えていらっしゃいますか」
 まず、ひとつめの矢を放った。ふっとセライムの瞳が過去を映して見開かれ、笑みが消えて真剣な表情に変わる。その話か、とセライムは小さく呟いて、考えにふけるように眉を寄せた。
「完璧には覚えていないな。私も随分と混乱していたから」
「あの方はユラスさんに問われて、論文と石が、傷つき衰弱した男性によってもたらされたもの、と答えました」
 セライムはじっくりと考えて、慎重に頷く。当時は拳銃が突き付けられていたのだ。記憶も断片的にしかないのだろう。
 こちらの恐れを悟られないよう、ゆっくりとセシリアはふたつ目の矢を放った。
「実のところを申し上げると、初めにその方を見つけたのは私なのです。今から10年前のことになりますわ」
 10年前。その単語に、電流が走ったようにセライムの肩が跳ね、その表情から色が消えた。セシリアも片手で自分の腕を強く掴み、己を失わないように目を開いたまま、固まるセライムをじっと見つめていた。
 ああ。――やはり、これは扉なのだろうか。
 セシリアは、引絞ったみっつ目の矢で、扉を穿った。

「あなたによく似た顔と姿をされた、男性でした。――心当たりはありませんか」


 ***


 俺は、体を風にして――いや、きっと傍から見たらこれ以上なく滑稽な速さなのであろうが、とにかく全力で疾走していた。
 元から運動は得意ではない。むしろ能力的には残念な部類に入るであろう。だが今はその事実を恨む間もなく、全てを一歩先へ踏み出す足に注いでいた。道行く人が好奇の視線をくれるが、遺憾なことに、そんなのはもう慣れている。故に俺は走った。地の果てを目指すがごとく、ただ走った。
 はっきり言おう。俺が悪いんじゃない。俺は善良たる小市民であり、基本的に恨まれる筋合いはないはずだ多分恐らく。なのに今の今、俺は追われる身であった。
 何故そんなことになったかというと、それは以下のように語られる。


 例の教授に目をつけられた翌日のこと。
 俺はこれから起こることへの不安に、思わず春風味新鮮果実山盛りパフェを二つほど完食してから研究室に向かった。本当に、甘いものを食べないとやってられない。
 シアと会ったのは、学園の奥まったところに足を踏み入れた辺りである。シアもまた、何かを考え込むように眉間にしわを寄せて歩いていた。
「あ、ユラスさん。昨日は大丈夫でしたか?」
 こちらを見たシアは、心配そうに駆け寄ってきた。だが、いつものこいつにしてはいやに言葉少なだ。まるで臨戦態勢をとるかのように、厳めしい顔つきで鞄を握りしめている。
 嫌な予感は、そのときからしていたのだ。だが俺には刺激しないように努めるのが精一杯で、そうして二人で研究室の扉を開いた。
 中では既に、昨日出会った男子生徒が席に座って、参考書に目を落としていた。
 するとシアはあからさまに眉を吊り上げ、ばん、とわざと音をたてて扉を閉める。つかつかと自分の席に行って腰かけると、ふんだと言わんばかりに自分の研究の世界に入ってしまった。無論、男子生徒の方は顔をあげもしない。
 既に冷戦状態であった。
 ああ。なんてことだ。
 思わずもう帰っちゃおうかなとか考えつつ、とりあえず男子生徒に話しかけてみることにする。未だにこの生徒とは会話を交わしていなかったからだ。名前も知らないし。
「あ、あのー」
 恐る恐る声をかけると、男子生徒は顔をあげてこちらを見た。輪郭を覆うくらいに伸びた灰がかった茶髪、色白の肌に浮かぶ細い眼と薄い唇が、いかにも優等生という印象を作りあげる。シアが嫌いそうな手合だ。
 だが、予想に反して彼はふっと笑い、貴族じみた優雅な態度で首を傾げた。
「何かご用ですか、先輩」
 うっと詰まるくらいの優等生オーラを放たれて、若干のけぞる。ああ、俺もちょっとこういう人苦手かも。
「あ、うん、いや。今年入ってきた人だ……よな? えーと、名前は?」
 こんなときに悠然とした対応ができればいいのだけれど、思いきり声が震えてしまう俺である。ダルマン先生が聞いたら罵倒の嵐だろうな。
「クラーレット・ユーリズと申します。昨日名乗ったのを聞いていらっしゃいませんでした?」
 言われてみれば、昨日のどさくさの中で名乗っていた気がしなくもない。俺はぽりぽりと頬をかいて、ひきつった口元でどうにか笑みを作った。
「そ、そうだっけな。俺は――もう知ってるだろうけど、ユラス・アティルドだ。一年間よろしくな」
「ええ、お噂はかねがね耳にしています」
 その噂の半分以上はあまり宜しくない話なんだろうなぁ、と窓の外に視線を馳せていると、クラーレットは本を閉じてこちらを真っ直ぐに見上げてきた。
「昨日は大変失礼しました。面倒事を避ける為に、あのような口前になりましたが、この研究室を守るためのことですので」
「うん?」
 俺は首をひねる。多分、昨日俺が医務室に運ばれたとき、実際にあったことと違う説明をしたことについて、話しているんだろうけれど。この研究室を守るためって、どういうことだ?
「だからって嘘をつくのは最低だと思いますけれどねぇ。ユラスさんに何かあったらどうするつもりですか」
 声の方を見ると、シアがちらっと眼をあげて、陰険な視線を送ってきてくれている。どうやら二人は、この点で衝突したらしい。
 だが、クラーレットの方は悪びれもなく、子供の反論を説き伏せるような面持ちで微笑んでみせた。
「元よりこの研究室は、召喚術の研究を行っていることで異端と見なされています。こんなつまらないことで完全に潰されてしまっては、先輩方も面白くないでしょう」
「……つまらないこと?」
 シアの声が低くなる。完全にキレる一歩手前であった。ああ。帰りたい。すごく俺、帰りたい。
「ユラス先輩も、召喚術目当てでこの研究室に入ったのでしょう。教授にあれだけ期待されていて、羨ましい限りですよ」
 そう優しい口調で言ったクラーレットの瞳に、笑みは見えない。強い欲望と野心、そして嫉妬を秘めた目だった。
 ……いや。でも。
「あのさ、クラーレット。俺さ、別に召喚術やりたくてここに来たわけじゃないんだが」
「え?」
 クラーレットは出鼻をくじかれたように眉を潜めた。
「では何故先輩はこちらに?」
「……あー」
 あみだくじで決めました、とか、とても言えない俺である。そんなこと告げた瞬間、捕殺間違いなしな空気であった。
 もうちょっとまともな方法で研究室決めた方が良かったかな、とか今更ながらに考えてしまう。
「それに、教授にあそこまで気に入られているのは何故――」

「遅い」

 ぞわっと背筋が産毛だって、俺は全身を凍りつかせた。悲鳴をあげられるならあげたいが、それも喉元で消えてしまう。
 俺たちは全員共に時間を止めて、開かずの扉を注視した。しわがれた声は、確かにそちらから聞こえてきたのだ。
「うすのろ。無駄話に興じる暇があったらさっさと入ってくるがいい」
 決して誰とは言わないが、その話しかけている相手が誰なのか、この場にいる全員が理解していた。シアが不安げにこちらを見やり、クラーレットはくすりと笑う。
「先輩、僕も連れて行ってもらっていいですか」
「無駄なのははいらん」
 俺が答える前に、扉の向こうから痛烈な一言が帰ってきて、クラーレットはひくりと顔を歪ませた。こここ、怖い。
 だが、クラーレットはすぐに冷静な顔を取り戻して、絶対に心では笑っていない笑みをこちらに見せてくれる。
「では先輩、僕はここで待っていますので」
「……」
 胃が、これ以上なくキリキリ悲鳴をあげた。


 研究室の奥に呼ばれた俺を待っていたのは、件のダルマン先生と、そして何処から持ってきたんだというような、いかつい機材であった。なんでも魔力2000まで対応できる、国でも何個もないものだとかなんとか――。とにかく、それで俺は魔力測定をさせられたのである。
 結果は、四桁にやっと届いた程度の数値。強い魔術を行使した後の頭痛にさいなまれ、その場に蹲る俺に、ダルマン先生はそこらのゴミでも見るような視線をくれた。
「――なっとらん。お主、魔術の基礎を何処のバカに習った」
 ガツッ、と杖を叩き、労りの代わりに怒りのお言葉を注いでくれる。
 そんなこと言われたって、俺は高等院からの編入生であるし、実技の方は授業でもあまりやらないから大体自己流です、と自己弁論したら、ますます怒られた。
「全く集中できとらんし、扱い方といったらまるで豚以下だのう。食ってぶくぶく太るだけが能かお主は。ええッ?」
 お、俺、そんなに太ってないつもりなんですけど。泣きたい心境にかられながら、げしげし杖でつつかれる。もうこれ、虐待の域に達してるんじゃなかろうか。
「まあ、下手な癖がついていないのが唯一の救いかの。よろしい。最低限、その程度の行使など屁でもないくらいになってもらわんといかんからの」
 それから、恐ろしい特訓が始まった。やることは授業でやったのと似た魔術訓練なのだが、とにかく教える人が怖い。しかも、これで俺の方が力で勝っていれば実力行使で逃げることもできたのだが、この先生、技の面からすると俺の数段は上であった。
 魔術規制の結界が解かれたそこでダルマン先生が杖をかざすと、びりびりと肌を刺激するほどの魔力が一瞬にして生まれる。人間だろうから、500以上はいってないんだろうが、とにかく発動までの時間が短い。それに、魔術行使に対して全く疲れを感じているように見えなかった。
 ――本当はとてつもない人なんじゃないだろうか、この先生。こんな今にも潰れそうな研究室の主ではあるけれど。

 そんなわけで、地獄のような特訓を経て、鷹目堂に行く時間が近づいた。だからそれを告げると、
「そんなものは行かなくてよろしい」
 と、至極鮮やかに言い放ってくれて、俺はなんだか気が遠くなった。そもそも、度重なる魔術行使で精神は擦り切れる寸前といった具合だ。正直、視界はぼやけていたし、どんよりと頭も重たくて、もう簡単な魔術を行使することすら無理であった。
 そんな俺の落ちくぼんだ目を見て、ダルマン先生は何かを考え込むように暫く唸っていた。相変わらず黒いローブで覆われているから、表情はあまり読めないのだけれど。
 するとダルマン先生は、座り込んだ俺にずいっと顔を近づけ、血の気がひくような笑みを浮かべて提案したのであった。

「なら、その働き先に行くまで私に追いつかれなかったら、行っても良い」



 俺は全速力で逃げる。とにかく逃げる。何がなんでも逃げる。
 そう、俺は走っていた。このままでは体が消し飛ぶのではないかと不安になるくらいに、全力で走っていた。
 ――なのに。
「ククク!」
「ひっ」
 背後を振りむくと、夢にでてきそうな恐ろしい笑みを浮かべて黒ローブの塊が追ってくる。こちとら全力なのに、なんで何年も引きこもっていた人間がこんなに速いのか。それは、ローブから僅かに見える羊皮紙が物語っていた。魔術規制を一時的に解除する護符を持っていたのだ。魔術を駆使して足を速めたダルマン先生は、ズタボロになりながら逃げる俺をいたぶるように追いかけているのであった。
 そんなこと言ったって、俺は公式には魔術は人並みにしか扱えない身であるから、こんな屋外で魔術を使うわけにもいかないし。
「久々に見る太陽よの! ククッ、体力もまた魔術行使になくてはならないもの。その程度では追いつかれてしまうぞっ」
「ひーっ!」
 英雄ウェリエルの銅像の脇を通り抜け、そのまま学外へ。ここから鷹目堂までは大通りを一直線に行けばいいのだが、しかし直線を走ってはすぐに追いつかれてしまうだろう。
 ここで捕まったら恐ろしい特訓が待っているだろうし、ついでにハーヴェイさんに軽く首をねじり切られる。追いつかれるわけにはいかなかった。
 一瞬のためらいの後、俺は学園を出て左に進路をとる。曲がり道を使って追手をまこうと思ったのだ。ばさばさと白いケープをなびかせて疾走する俺を、周囲の人々が驚いたように見るが、きっとそれを追う黒い塊にはもっと肝を冷やしたろう。何日どころか何年単位で洗っていない黒いローブに身を包み、暴力的なまでの異臭を放ちながら進むそれを、魔物と呼ばずに何と呼ぼう。
 だが俺は、女子寮への入口前を通りすぎて自分の誤算に気付いた。英雄ウェリエルによって計画的に建設されたこの都市には、脇道がほとんどないのだ。これでは曲がり道があっても、まくことが出来ない!
 頭の中が凍りつくのを感じながら、とにかく最初の角を右に折れた。じわじわと不安が喉元までせりあがり、疲労は視界ですら眩ませる。
「わっ?」
 曲がった先、出会い頭に人にぶつかってしまった。といっても、全力だったとはいえ体力を使い果たした俺の速度では、双方軽く足をふらつかせるほどのものでしかなかったが。
「す、すいませんっ」
 俺は謝ると同時に走りだす。ぶつかった人には悪いが、今は足を止めている場合ではない。
 だが、突然事態は俺の考え得ぬ方向に転がった。ぶつかった人――べっこう色の髪をした細身のお兄さんは、俺の姿に目を瞬かせ、そして俺が走ってきた方向を見ると、突然俺の腕を掴んで引っ張ったのだ。
「こっち!」
 いきなりのことに、嘘のように体は傾いで連れていかれる。そのまま飛び込むように、俺とお兄さんは見知らぬ建物の門の影に倒れこむ。塀が突き出るような作りになっているので、ぱっと見れば姿が消えたように映るだろう。だが、門の正面まで来てしまえば丸見えだ。
「これ着て」
 お兄さんは目を白黒させる俺の前で、素早く自分の帽子と上着を脱いだ。まずは俺にその帽子をぼふっと目深にかぶせ、ついでに膝まである上着を羽織らせてくれる。背の高い人のだから、俺が着るとほぼ靴の辺りまで覆われてしまった。
 何が起きているのか分からず顔をあげる俺を立たせると、お兄さんは悪戯っぽく笑って人差し指を唇にあててみせた。そのまま、ちらっと切れ長の瞳で道の方を伺う。
 ダルマン先生の姿が見えたのは、そのときだった。俺を探しているのか、ちらちらと隙なく周囲を伺っている。
「大丈夫だって、きっと君の論文は受け取ってもらえるから行ってきなよ」
 そう言いながら、さりげなく俺を隠すように動いて腰に手をやるお兄さん。俺は心臓をばくばくさせながら固まっていることしか出来ない。
「もう。君は臆病でいけない。なんなら僕が代わりに行ってこようか」
 お兄さんが明るくそう言う間に、ダルマン先生は通りすぎて行ってしまった。暫く経っても俺はその場から動くことが出来ず、お兄さんが通りを見に行ってくるまで、声をだすこともできなかった。
「――行ったみたい。もう大丈夫だよ」
「……」
 がくっ、と足が折れて、俺はへなへなとその場にへたりこんだ。お兄さんも琥珀色の瞳を丸くして、顔を覗きこんできた。
「大丈夫?」
「……り、がとうございます」
 頭がくらくらして思考がまわらないが、かろうじて礼を言う。見知らぬお兄さんは、あまり学者のようには見えなかった。細長い手足をしっとりとした服に包んで、まるで良家の御曹司のようだ。その表情は子供のようにくるくると変化する。
「あはは。グラーシアの学生も色々大変そうだねぇ。ほら、立てるかい」
 腕をとってもらって、俺はなんとか立ち上がった。太陽を一杯に吸い込んだべっこう色の髪が、きらきらと光の輪をかぶっているのが眩しい。まるで天使に遭遇したみたいだ。
「本当にありがとうございます。助かりました」
「なんの」
 頭を下げると、お兄さんは得意げに歯を見せて笑った。良い人に助けられたみたいだ。
「あ」
 そういえば、と俺は懐から懐中時計を取り出した。時間は――ああ、ギリギリだ!
「す、すいません! あの、俺」
「うん? あー。急ぎなの? ならその服持ってっていいよ。替えはグレイヘイズに買ってきてもらうし」
 お兄さんは俺の途切れ途切れの言葉から、言いたいことを鋭く察してくれたらしい。ああっ、助けてくれた人がこの人で本当に良かった。
「俺、鷹目堂って古本屋で働いてるんで、来て頂ければ返しますんでッ! すみませんっ」
 俺が平伏するように感謝を述べながら走り出すと、お兄さんははらはらと手を振ってくれる。
「うん、分かった。僕はレンデバー・ロッキーニ。君の名前は?」
 既に数歩離れたところで、俺は振り向いて口を開いた。
「ユラス・アティルドですっ」

 ――そう。それが、俺とその人の出会いであった。




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