-紫翼-
二章:星に願いを

05.忘れられていくもの



 ――お主は現実に黄金の卵を持っておる。有象無象の輩がお主目当てに寄ってくるだろうに、よく今日まで無事でいられたものよの。
 ――能ある鷹は爪を隠すがの、獲物を見つけても爪を見せない鷹はただの間抜けに過ぎんぞ。
 気にするまいと思えば思うほど、思考は汚染されていってしまうものだと痛感する。いつまで経っても、あの闇の中で投げられた言葉が棘となって、慢性的な痛みを残すばかりであった。
 どうせ俺は臆病者ですよ、と内心で呟いてみてもただ虚しい。結局のところ、何もかもが図星であり反論出来なかったのだから。
 禍々しい顔つきをした、あの教授の言うとおりである。考えてみれば、よくも今まで無事でいられたと思う。襲撃されて病院送りになったり、火事に巻き込まれたりと、普通に生きていれば起こらないはずの出来事にブチ当たりすぎだよな、俺。本当に見えない手で操られているんじゃないかと思うくらいだ。
 これも全て、得体の知れない俺の力に起因するものだったのだろうか。俺は――自分の正体を知るべきなのだろうか。
「うう」
 頭が痛い。あまりに恐ろしいが為に蓋をしてそっと置いておいた水瓶に、再び亀裂が入りそうだ。
 でも、過去を全て取り戻せと言われたわけではない。己の爪を使いこなす力を持て、とあの黒ローブの老人は言ったのだ。確かに、今まで俺はろくに抵抗する力も持たず、ただ目の前のことに振り回されるばかりだった。
 出来るんだろうか。自分の失くした記憶に目を瞑ったまま、自分の力を知り、それを自在に使うことなど――。
 いや。弱味を握られている分、俺に選択肢は残されていないわけなのだけれど。世の中は理不尽である。
「ユラス君」
 世を儚んで遠い目をしていた俺は、ふと渡された書類によって現実に引き戻された。
 ここはグラーシア学園、中央棟の医務室である。部屋の主人はミューラ先生だ。俺は、研究室で倒れてしまって、ここまで運ばれてきたそうである。
「この書類に必要事項を書いて頂戴。ペンは持てる?」
「あ、はい。なんとか」
 俺は包帯を巻かれた右手でペンを受け取って持ってみせた。割れた水晶がかすめて、右手の甲がざっくりいっていたのだ。切り傷というものは、痛くない割に痺れる。だが傷は浅いものだったようで、ちょっと嫌な感じはするが書きものができないほどでもない。
 濡れたような巻き毛の茶髪をすっきりと一つにまとめたミューラ先生は、苦笑して腕を組んだ。
「あなた、春は貧血になりやすいのかしら? 去年も試験のときに倒れてたわね」
 ああ、と思って頷き、頬をかく。シアともう一人の生徒は、あの研究室で起こったことをろくに告げずに適当に怪我の理由をつけて、俺が貧血で倒れたと説明したらしい。なんでそんな風に言ったのかは分からないが、不安げなシアと、こちらを無機物でも見るようにしていた男子生徒を見る限り、後者の方がそうしろと指示したのだろう。あの男子生徒は、ちょっと妙なところがある。
 俺が倒れていたのはそう長い時間ではなかったらしい。起きたときは二人ともいたのだが、大丈夫だと告げて帰ってもらった。そんなに重症でもなかったし。
「あのときは驚いたものよ。試験中に気分の悪くなる生徒はいても、倒れる子なんて見たことなかったわ」
 ミューラ先生の口ぶりに、ふと一年前の編入試験のことを思い出して、懐かしさがじんわりと胸に染む。そういえば、あのときもミューラ先生が診てくれたんだっけ。
 ミューラ先生は、鷹目堂の主人ハーヴェイさんの奥さんだ。つまりティティルの母親でもある。言われてみれば、ティティルは茶色の巻き毛といい、顔だちといい、よくミューラ先生に似ている。ハーヴェイさんに似てなくて良かった、本当に良かったとこっそり思ってしまったのは内緒である。
 その為、こうやって医務室に世話になる以外にも鷹目堂で会ったりしていたから、目の前にいても気張らなくていい。
 医務室は澄んだ空気の中できちんと片づけられており、あの闇を経験した身をしてはなんとも気が落ち着く。思わず息をつくと、ミューラ先生はくすぐったそうに微笑んだ。若い先生ではないが、身なりも仕草もさっぱりとしていて、温かい人柄で気をほぐしてくれる。
「この時期は環境も生活習慣も変わるし、疲れが溜まりやすいの。ちゃんと栄養をとるのよ。特に男の子は食生活が偏るから」
「はい」
 耳が痛いお言葉に、俺は苦々しく頷いた。普段から朝食はコーヒーだけだし、寮生活ではろくに料理など作らないから、食べに行くのも面倒になるとその辺にあるもので済ませがちだ。
 書き終えた書類を渡すと、ミューラ先生は眼鏡をかけてそれらに目を通し、慣れた動作でさらさらとペンを走らせる。そうして、それらの一部を封筒に入れて、ちょっと戸惑ったようにこちらを見た。
「これ、本当は医務室利用記録として保護者宛に送るんだけど。あなたの保護者は学園長だったわね? 直接渡した方が早いかしらね」
「あ、はい」
 俺は頷いて少し慌てた。医務室を利用すると、保護者に連絡がいくのか。フェレイ先生にまた心配をかけてしまう。
 ミューラ先生はそんな俺をどう思ったのか。ふと封筒に目を落としたまま呟いた。
「――学園長は春休みも元気そうにしてた?」
 俺たち以外に誰もいない医務室は静まり返って、強い風に窓が揺れるくらいしか音がない。
「ええ、元気でしたけど」
 なんでそんなことを聞くんだろうと思いながら返すと、ミューラ先生は目を閉じて考え込むように微笑んだ。
「そう。ならいいの」
 その年月を重ねた瞳は、どこかとても遠いところを見ているような気がした。


 ***


 さわさわとゆるやかな風が、枝葉の海にぽっかりと開けたそこへ吹き込んで髪を揺らす。深い林中で、そこだけ足元まで届く陽光のために、一帯はあたかも照明をつけた舞台のようだ。ただし、それは悲劇の舞台であったけれども。
「こりゃまた、見事に焼けたものだねぇ」
 レンデバーは靴の先で煤の塊を軽く突いた。ぼろりと崩れるそれに目を細め、そのまま中へ足を踏み入れる。
 グレイヘイズもまた、眼前の焼け跡に顔をしかめた。去年の秋に放火され、主人と共に燃え尽きた屋敷は、周囲の木々と共に痛々しいまでの様相を呈している。荒れ放題の瓦礫と灰が入り乱れた塊と化して、もう何処が建物で何処が庭だったのかもわからない。焼失を免れた周囲の林が風に揺れる囀りはどこか物悲しく、ひっそりと風化していく科学者の隠れ家の跡を弔うようだ。
 門のところには、最近手向けられたらしい花束が供えてあった。この家に縁がある者が弔いに来たのだろうか。既に日数を経て茶色くしなびたそれは、逆に忘れられていくものへの哀愁を誘うようでもある。
「死者一名、セシルス・オヴェンステーネ。戸籍上の繋がりはないが、妻であったと見られるマーリア・ファネルの古い遺体も発見――。生存者は二人の子と見られる八歳の娘、セシリア・オヴェンステーネ、それと屋敷に滞在していたグラーシアの学生が四名、か」
 レンデバーは手にした紙束の記述を淡々と読み上げながら、既に意味を為さない門を越えて、燃え残った玄関と思われる煉瓦の表面を軽く払って腰かけた。
「儚いものだね。生徒の証言だと、このセシルスという男は素晴らしい学者だったというじゃない。論文の一つも残せずに死んでしまうなんて、さぞかし無念だったろうにね」
「しかしレンデバー。何故わざわざこんな焼け跡に足を運ぶ必要が?」
「ふぅん」
 ぷぅっと頬を膨らませたレンデバーは、嫌な場所に触られた猫のように顔を背け、そっけなく言い返した。
「僕だって、こんなに綺麗に燃えてるなんて思わなかったよ。これじゃあ証拠なんて出てこないだろうね。まるで誰かが何かを隠すために、徹底的に燃やしつくしたみたいだ――あ、いいもの持ってるね」
 グレイヘイズが懐から取り出した煙草に目ざとく反応して、レンデバーがねだってくる。この主人は普段は吸わないのだが、考え事をするときは紫煙をくゆらせながらということが多かった。
 貰った煙草にいそいそと火をつけて、薄く開いた唇から細く煙を吐き出しながら、レンデバーは膝の上の紙束をまくった。全て、グレイヘイズが調べた最近のグラーシアで起きた事件についての書類であった。
「この話振られる前にさ、ちょっと不思議な噂を聞いたんだよね」
 自分も一服つきながら、グレイヘイズは主人をちらりと見た。レンデバーの横顔には、面白げな笑みが浮いている。
「まずは事件を整理しよう。この屋敷にはセシルス・オヴェンステーネという人嫌いの引きこもりが住んでいた。妻は調べによるとマーリア――十年以上前にコラソンから旅行に行くと告げて失踪した女性とみられている。何があったか、ここに二人は長い間住んで、マーリアは娘を生んだ。だが、マーリアは何らかの理由で何年も前に死亡し、屋敷にはセシルスと娘のみとなった」
「――娘は母の死因を知らなかったのですか」
「それがね、混乱してたのか、最初の方の聴取ではよく分からないことばかり供述したらしいんだよ。――伯爵は罪人です、母は私です、とかなんとか」
「は?」
「おかしいでしょ? しかももっと面白いことにね、最後の晩に泊まった生徒たちが、口を揃えて供述してるんだよ。あの娘は、自らを『マーリア』と名乗った、とね」
「……どこからそのような話を?」
「あはっ、僕の顔の広さと人望の賜物に決まってるじゃん」
「……」
 顔の広さは百歩譲って認めるとして、人望というものがあるのか――いやそもそもその単語が彼の辞書に入っているのか。グレイヘイズは苦虫を噛み潰したような顔で腕を組んだ。レンデバーは長い足を組みかえて、ふっと声を低くする。
「でもね、グレイヘイズ。有能な君が調べたところで、そんな情報は一つもでてこなかったでしょ? それもそうなのさ、この事件――重要なところは全部、上の連中がもみ消したらしいからね」
 ぴくり、とグレイヘイズの太い眉が跳ねた。にやりと口元を歪めてレンデバーは続ける。
「他にも楽しいお話はいっぱいあるよ。ねえグレイヘイズ、聞きたい?」
「……拝聴します」
「ふふ。君は素直でいい」
 普段から不機嫌そうな顔をしているグレイヘイズの眉間にしわが寄ると、まさに鬼神のような表情になる。レンデバーは内心で、これはこのままでも魔除けになるなと考えた。
「じゃあ話すよ? まずは一つ。この焼け跡から捜査班の根気強い捜索で発見されたマーリアの遺体は、焼けた地下室に転がっていたらしい」
「転がっていた?」
「そう」
 ぱちん、と指を鳴らしてレンデバーは半眼になった。
「完全に白骨化してたらしいから、亡くなったのは数年前と推測されるんだけどね。倉庫兼実験室と見られる地下室の奥底の隅っこに、まるで打ち捨てられたみたいに転がっていたらしいんだ」
「……殺されていた、ということですか」
「そうかもしれない。でもね、こっちの話はどうだい? 同じく、その近辺からね、いくつも他の骨が見つかったらしいんだ。一部だけらしいけどね、10才にもならない子供の骨が、少なくとも10体以上」
「10体……!?」
「ちなみに、ヴェンダー現大総統の下、平穏を享受するこのリーナディア合州国にそんなに沢山の失踪児童はいないことを付け加えておくね。海外から引っ張ってきたなら別だけど」
 わざとらしい口調に肩をすくめながら、グレイヘイズは口元を引き締め、焼けおちた屋敷を見上げた。
「この書類の通り、生徒たちはセシルスが娘を溺愛していたと供述してる。娘も同じように、セシルスに虐待のようなものを受けたことはないと言ったそうだよ。なのに、見つかった遺体のことを警視院の担当官が口にした瞬間――娘は突然取り乱した」
 レンデバーは立ち上がり、グレイヘイズと同じように忘れられた廃墟を眺め、ぽつりと口ずさんだ。
「職員に取り押さえられて、娘は気を失った。けれど、そこにいた者が聞いている。泣き叫ぶような言動の断片――その中にあった『石』という単語。こんな話もある、この屋敷が燃えた夜――グラーシアの魔術規制結界を監視していた男が、強大な魔力反応を都市外に検出した、とね」
 はっとして、グレイヘイズは体が震えるのを感じた。一方、レンデバーは突然うう、と唸って煙草を倒れた支柱に押し付けた。
「グレイヘイズ。君の煙草、ちょっときついよ。僕はデリケートなんだから」
「人の嗜好にまでケチをつけないで下さい、レンデバー」
 唸るような反論も何処吹く風といった様子でレンデバーは大股で歩いて行って、瓦礫の山と化した屋敷の中を覗きこむ。グレイヘイズは心からの溜息をついた。
「……それで、その娘とやらは?」
「今年、グラーシア学園に入学したよ」
 日に焼けたグレイヘイズの表情が緊張に険しくなる。
「……押さえますか」
「やだなあ、グレイヘイズ。君は血の気が多くていけない」
 気楽に行こうよ、とレンデバーは切れ長の瞳に陽の光を吸い込む琥珀色を宿し、くすくす笑った。子供のような仕草は、体の細さと相まって女性的でもあるが、その表情にはどこにも隙がない。
「あんまり最初からチョロチョロすると蛇の尻尾踏んじゃうかもしれないでしょ? まずはとにかく情報を集めようよ」
「上の連中に先を越されませんか」
「あはは。あんな脳なしに何ができると思う?」
 グレイヘイズは盛り上がった筋肉の為にやや窮屈な上着の裾を揺らし、僅かに笑った。確かに、下手に動いた連中は片っ端から血祭りにあげられ、今やこの話の噂を知る者でも息を潜めて事を静観している。国を守るべき者たちが、自らの業の尻拭いをすることも出来ず、命を惜しんで、これらのことを見て見ぬふりをしているのだ。
「むう。証拠の一つでも残ってるかと思ったけど、これはちょっと無理だねえ。帰ろっか、グレイヘイズ。僕、お昼寝したい」
「そうですね」
 持っていた書類を押し付けて、レンデバーはべっこう色の髪を翻すように踵を返し、林の中に進んでいってしまう。グレイヘイズは受け取ったものを大事にしまい、煙草をその辺の瓦礫に押し付けて消すと、廃墟を振り返ることもなく主人の背を追った。




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