-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

62.青い双眸



 胃の底がすくみあがるような雷鳴にぎくりとして手を止める。首を回すと、ごうごうと唸る風と共に雨粒が激しく窓を叩くのが見えて、なんとなく不安をかきたてられる。
 この地方に春を告げにやってくる大きな嵐の足取りは、今年は随分遅れたらしい。天地がひっくり返るような雨が降り出したのは、マリンバから帰ってきた翌日、つまり今日の朝からであった。
 久々の湿気た空気が体にまとわりつく。嵐の最中ではグラーシア中の店や施設が閉まってしまう為、鷹目堂に行く必要もなく、俺は荷物の整理に手をつけていた。フェレイ先生の家に来て落ち着く間もなくマリンバに出掛けたものだから、ろくに荷物が片付いていなかったのだ。
「あー……課題もやらないと」
 鞄の奥の方に入っていた紙束を取り出して、座り込んだままぼりぼりと頭をかく。マリンバですっかり休日気分になっていたから、軽く中に目を通してみてもやる気が起きない。その上に雨が降ると、どうにも気が滅入る。
 ふう、と息を抜いて、下に行くかな、と考えた。居間にはキルナやチノがいるだろうし、話せば気も紛れるかもしれない。ここで怠惰に時を過ごすよりは、そちらの方が生産的だろう。
 俺たち上級生の男子が使っている部屋は三階にある。廊下の突き当たりにはテラスに続くガラス張りの扉が見えた。そこにもけたたましい雨風が吹き付けている。
 嵐というものはその先にある春と引き換えに、土を削り取り木々を薙ぎ倒し、雷を轟かせながらこの都市をひとしきり荒らしていく。しかし過ぎ去ってしまえば一斉に花々が芽吹き、また強い風の中にある春が訪れるのだ。あの、俺が目覚めた日のような。
 そう、もう俺が目覚めて一年が経つのだ。そう思うと感慨深く感じられて、なんとなく体がテラスの方に吸い寄せられた。
 びしびしと鋭い音をたてて大粒の水滴がガラスを横殴りにする。そこに手をついて空を伺うと、昼だというのに鈍色の雲によって灰のように濁っている。水気の多い空気がむっと雨の匂いを伝えてきて、不意に眩暈を覚えた。
「――ん」
 胸の内から滲み出た不快感に眉を寄せる。もしかしたら風邪でもひいたのかもしれない。今日は朝から食欲もないし――。
「うん?」
 開いた俺の目が、視界の外れに何かを捉えた。吹き荒れる外の風景に、色彩の異なるものが見えたのだ。霧に没したように視界が悪い最中で奇妙に明るいあれは、とろけた黄金――?
「ま、待てっ」
 それが何なのか理解した瞬間、頭からどっと血液が全身に流れ出し、口が勝手に動いた。扉にへばりついて目をこらし、軒先に立つ人影を信じられない気持ちで見つめる。あれは、あれは、まさか。
 混乱しながら周囲を見回したが、頼れる人影はない。探している余裕もなかった。俺は反射的に駆け出して、階段を転げ落ちるように降り、何かの冗談であって欲しいと祈りながら玄関を開け放った。

 ぶん、と耳元で風が唸る。雨が室内に吹き込んで絨毯に斑点模様を穿つ。嵐の都市はまるで別世界だった。思わず顔を手で庇いながら、俺はその先にあるものに目をこらした。
 滝の中にいるような世界では、粒の叩きつける音で聴覚など役には立たない。視界ですら濁ってけぶる。鼻の中は湿った匂いで一杯で、冷たい水は体をみるみる冷やし、体中の感覚が遠のいていく。
 遥か向こう、門の外に金髪の少女が佇んでいた。
 嘘だろう、と呟こうとした顔が奇妙に捻れるのを自覚する。
 だって、ここにはいない筈だ。あいつは元気な顔で、故郷に戻っていった。いつだって強かで、目映く、騎士のように背筋を伸ばしていた。
 なのに波打つ濃い金髪は重たく濡れて体に張り付き、服の裾は風に弄ばれるまま、地に植わった樹のようにぴくりとも動かずに、深く暗い瞳がこちらを見返している。何の表情もない氷のようなその目線が、俺の思考を氷結させた。みるみる自分の体が濡れていく。冷たい灰に汚染されていく。
 呼ばなければ、と数秒遅れて体のどこかが叫んだ。今すぐにでもその名を呼んでこちらに引きいれなければと。だが同時に、呼びかけた瞬間にその姿が幻のように消えてしまいそうで。声もなく喘いだ俺の一瞬の迷いが、少女の体をふらりと動かせた。
 一体いつからそこにいたのだろう。枯れたススキのように全身をみすぼらしくした少女は、顔を歪ませた。あまりに遠くて、泣いているのかも分からない。反射的に前に身を出すと、びくりと獣のように少女は踵を返し――走り出した。
「セライムッ!!」
 やっと呼べたその名前がどれほど遅かったか。後悔に掻き立てられて俺はその背を追う。力任せに外門をこじ開けてあいつが立っていたところまでいくと、既にその影は風雨にかき消されかけていた。
「――っ!」
 音が鳴るほどに歯を噛みしめた口内に容赦なく雨水が入ってくる。全身に槍になって降り注ぐ冷たい豪雨を受けながら、それを振り払うように大地を蹴った。このまま見送ってしまったら、あいつは二度と帰ってこない。何故だかそんな予感が胸に冷たく沸き起こっていた。
 川のようになった道を走れば一瞬にして靴は浸水し、がぽがぽと重たくなる。足をとられそうになり何度も転びかけながら、けれど目だけは見開いて、遠くの影を追った。
 だが俺なんかよりずっと身体能力に長けたあいつは、両手を広げて襲い来る風など簡単に切り裂いて駆けていく。差は縮まるどころか広がっていく。
「くそっ」
 この体を突き動かすのは、あいつを失ってしまうことへの恐怖からだろうか。よくわからない。しかし全身が炎になったように熱く、刺すように冷たい雨に顔を歪めながら、それでも足を止めることだけはしなかった。
 そう。いつかの日がそうであったように。降りしきる豪雨の中を走った。気が遠くなるような土砂降りと雷鳴の混じる地響き、滑る道、重たい体、何もかもを忘れてただ走った。振り返ることはおろか、立ち止まることすら許されなかった。
 確かあの時は、逃げていたのだった。
 何からだろうか。
 それは、それは――。
「っ!?」
 ついに猛威を奮う風になぶられて、横に倒れた。ろくに受身も取れず、衝撃による痛みは思考をはっきりとさせる。
 はっとして頭を振る。駄目だ。どうも走っていると、自分が何を考えているのか分からなくなる。いや、そんなことすら考えている暇はないのだ、今はセライムを追わないと。
 口に入った水を吐き出して濡れた袖でぬぐい、再び前進を開始した。かろうじて足はまだ走ってくれた。
 無人の大通りは嵐を恐れ、全ての家屋で固く門戸を閉ざしている。こんな日に外にいる馬鹿はきっと俺たち以外にはいまい。
 もう一度名を呼んで立ち止まらせたかったが、貧弱な体では既にそれすら不可能だった。段々と速度が落ちてくる。寒さと重たさが襲いかかってきて、雨水でぐしゃぐしゃに濡れた顔を歪めた。
 顔に張り付く髪を乱暴に振り払い、重たくなる衣服に苛立ちながら、嵐の中で尚輝く金を探す。遥か前方。まだ、俺はそれを捉えている。
 視界があまりに悪かったものだから、広場でやっとそいつが転んで止まったのを気づいたのも、随分と近づいてからだった。
「せ、セラ、」
 頭がくらくらして口が回らない。心臓が破裂しそうな勢いで胸を内側から叩く。唾と雨水が混じったものを呑みこんで、ようやく俺はそいつに手を伸ばす。平衡感覚がなく、俺も今にも座り込んでしまいそうだった。
 だがどうにか腕を掴むに至る。長い髪に隠れて、セライムの表情は見えない。無言で引っ張りあげながら、どこか雨を凌いで休めるところを探した。ここからフェレイ先生の自宅まで戻れる力はとても残っていない。
「あ」
 俺はそこでやっと、目の前にある建物に気付いた。
 顔をあげると、広場の中央に建つ時計塔が、巨人のようにぬぅっと黒い影となってそびえていた。


 ***


 見上げると、嵐は未だに小さな窓の外を揺さぶり続けている。ごうごうと反響する風の叫びには、絶海の孤島に取り残されたかのような錯覚すら覚える。
 セライムは蹲って動かず、俺もぐったりと中心柱にもたれかかって呼吸を落ちつけていた。
 時計塔の中は無人だった。普段からこの建物は内部の一般に公開されているので、一階の狭いホールはいつでも入れるのだ。今日は嵐だからか、上の階にいるはずの管理人の気配もなかった。
 煉瓦で組まれたホールは独房のように質素で、遥か上方についた窓からしか光が届かない為に薄暗かったが、空気が籠っているのか若干温かかったのが救いだった。狭いそこでお互いに向かい合い、俺は棒のようになった足を投げ出して暫く目を閉じていた。突然の運動による疲労で、全身が石のようであった。
「うう」
 ぽたぽたと水滴が垂れる髪に手を突っ込んで、眩暈を払う。いけない、追いかけてきた方が駄目になっていては形無しだ。
「おい、セライム」
 あまり大声はださなかったつもりだったが、互いの距離が近かったのと吹き抜けになった天井に反響したのが重なって、セライムの体がぴくりと動いた。
「……」
 そろそろとセライムはこちらを伺うように顔をあげた。すっかり水浸しの金髪が貼りついた顔は、憔悴して青ざめている。目の周りが腫れたその表情は、普段のセライムを知っているだけに思わず目を逸らしそうになった。
「……すまない」
 霞んで消え入りそうな返事が、暫しの合間の後に返ってくる。俺は微かに笑った。欲しいのは謝罪ではなくて、理由だ。だが問いかけてきたのはセライムの方だった。
「なんで追ってきた」
「なんでってそりゃ……普通、追いかけるって」
 セライムは膝を抱えたまま俯く。
「なあ、ユラス。お前は私を強いと言ったな。今の私を見ても、同じことが言えるか?」
 ふと落とされた呟きに、俺は迷って息を抜くことしか出来なかった。口の端を引いたセライムは、瞳の中の澄んだ青を揺らめかせた。
「私は、帰ってきてしまった」
 雷鳴が窓の外で光り、不意に閃光が部屋を白く焼く。頷いて先を促すと、まるで幼子のようにセライムはぽろりと涙を濡れた頬に零した。いつでも野に咲く花のようにぴんと伸ばしていた背筋は、今は手折られたように弱々しい。
「どうしたんだ」
「……どうしても駄目なんだ、私は。いくら念じたって消えない想いというものは本当にあるんだな。諦められない、認められないものは、どうしていつまで経っても心に残り続けるんだろう」
 セライムはゆらりとこちらに瞳をもたげて、自嘲するように笑った。
「ユラス。私はお前にひとつ嘘をついていた」
 息が詰まりそうになりながら見返す俺に、セライムは細い指で顔を覆う。
「い、いや――別にそんな、嘘の一つや二つで腹立てたりはしないつもりなんだが」
 俺は努めて平静に、自然にそう言った。今はセライムの言葉を聞かなければいけない。ここで吐き出させてやらなければ、普段のセライムはこれらを全部抱え込んでしまうだろう。しかし、すっと息を吸ったセライムが唇に乗せた次の言葉に、俺の胸は凍りついた。

「私の本当の父親は死んだと言ったが――もしかしたら、生きているかもしれないんだ」

 ごうっ、と風が再び吹き付ける。雷鳴が背中に落ちたようだった。
「……え」
 ちょっと待て。
 確かこいつ――小さい頃に父親が亡くなって、母が再婚して……それで、新しい家に馴染めないとかなんとか言っていなかったか。
 なのに、その亡くなった父親が生きている?
 絶句する俺の目の前で、ずぶ濡れの少女はふるふると首を振る。
「分かってる、もう帰ってこないことなんて。でも、もしかしたらって思ったら、あそこはとても耐えられなくて」
 冷たい石の床に縋るように這わされる指。涙を湛えた瞳。
「――私は、影に縛られて何処にも行けない。どうしたらいい。亡霊みたいな記憶に縛られて、あそこで暮らすしかないんだろうか」
「や――おい、ちょっと待て」
 人前であることを忘れたように嘆きを紡ぐセライムを止める。危うい影がそこに立ちこめていたからだ。
 セライムは息をきらしたように暫く荒い吐息をついていたが、ふとこちらを見て、静かな声で話しだした。
「私の父は新聞記者だったんだ。母方の家は政治家も出すような格式高い家柄だったから、結婚には随分反対されて、ほとんど駆け落ち同然で一緒になったと聞いた」
 頷くと、セライムは父の姿を思い出したのか、遠いところを見るようにぽつぽつと続けた。
「後になって調べて知ったんだが……父は、かなり強引なやり方で取材をする記者だったらしい。危険な現場にも平気で足を運んだりして、誰も触れたがらない事件にも首を突っ込んでいたと。確かに昔、何日か帰ってこなかったことはよくあったんだ。だけど、いつだったか……出かけてから何日経っても帰ってこなくて、母が心配して警視院に届け出た。編集者の人も来て皆で探してくれたけど、結局見つからなかった。私と母は、母の実家に戻ることになった」
 ふっと瞼の裏に、置き去りにされた幼い少女とその母親の姿が思い浮かんだ。記者との結婚を反対されるまでに裕福に育った女は、幼い娘を一人で育てる力など持ち合わせてはいなかったろう。夫を失っては、頼れるものは実家しかない。実家でどんなことがあったか分からないが、――そうしてこいつは、今の家の娘になったのだ。
 しかし、その話が真実であるならば、セライムが言ったように父親の生存は絶望的だろう。事件を追う内に何かに巻き込まれて、そしてどうなったか――。
「何の事件を追ってたは分からないのか」
「ああ――編集室の方にも、大きな事件を追う、と告げて一人で出て行ったきりだったそうだ」
 実際の新聞記者が大事件というくらいだから、同時に危険も多かったに違いない。それも単独で行くなど素人目から見ても無謀すぎる。
 だがそのとき、それまで冷静に事実を紡いでいたセライムの声が不意に歪んで震えた。
「でも、帰ってくるって言ってた。絶対に無理しない、帰ってくるって、私にも、……お母さんにも」

 ――ごぽごぽごぽ。

 こちらを見つめていた瞳があった。
 青い双眸。波打つとろけた黄金の髪。
 口元を引き縛ったまま、儚いほどひたむきな瞳でこちらを見つめていた。
 黒い穴。同じようにこちらを向いている。
 だから、それを認識して、そうして俺は――。

「ユラス?」
「うん?」
 さっと視界が晴れて、顔をあげるとセライムが心配そうにしている。その表情に、何かがぶれて重なって、しかし瞬きをすれば消えてしまう。
「ああ、悪い。ちょっとぼーっとした、……それで結局行方不明のままなのか」
「いくつかの町で目撃されていたらしいが、どれも出て行って数日までだ。それからどうなったかは――」
 セライムは噛み締めるように続ける。
「幸せな家だった」
 何かを夢見るように。望郷を指に宿して、そっと思い出の輪郭をなぞるように。
「新しい家にいっても、そこに馴染まなくてはいけないと思っていたけれど、私はきっと何処かで、お父さんが迎えに来てくれるのを待っていたんだな」
 お父さん。
 そう呟く少女が年端もいかぬ幼い響きを持ってして、置き去りにされたそのままの姿を描きだす。
「お父さんはもういないって分かってるのに、でも本当はきっと生きていて、楽しい日常が戻ってくるんだって、そう思わないではいられなかった。家を逃げ出してここに来てからも、ずっとずっと信じていたんだ。受け入れてなんてなかったんだ。私は、私は」
「セライム」
「現実を受け入れようと思って手を伸ばしてみても、駄目だった。お母さんはもう私を見てくれない」
 いけない、と思って身を起こし、セライムのすぐ傍らに膝をついた。だが予想外にセライムは自分の中に閉じこもるのではなく、その手を伸ばしてきた。濡れた手が、俺の濡れた服を掴む。全身でぶつかるように、セライムは泣き声の代わりに慟哭を持って激情を迸らせた。
「なんで帰ってこなかったんだ……っ! お父さんがずっといてくれれば良かった、何処にも行かなければ良かったんだっ! 置いていかれた私は何処に行けばいいんだ、お父さん、おとうさ……っ」
 それはきっと、誰にもぶちまけられなかった淀みだったのだろう。息使いが聞こえるほど近く、頭一つ下で震える少女を前に、俺はその髪にぎこちなく触れる。哀れなほどに震える肩が、しゃくりあげる音が、ゆるりと理解を脳裏にもたらす。歪みは何処にでもあるのだと知る。
 快活に笑っていたこいつが、胸の内にどうしようもないいびつなものを抱えているのは。俺の心にいびつなものがあるのと、もしかしたら同じことなのだろうか。
 家族を失う痛みも、それを得る喜びすら知らない俺だけれど――。
「至高のものは、存在しないのかな」
 俺たちは、己の歪みを隠して、何事もなかったかのように同じところをくるくると廻る。嘆きはいつだって嵐に吹き消されて弱々しく、辿り着くべき答えなど程遠い。
「そっか」
 撫でてみて、セライムの頭がこんなにも小さいことを初めて知った。曖昧な温もりがじんわりと胸に落ちて、俺は静かに口を開いた。
「分からないものは、分からないもんな」
 縋りつくように掴まれていた襟元が、一層強い力で握りこまれる。
「……すまない、私は」
「いいって」
 あげかけられた顔を、ぐいと手で押し戻してやる。こんなに近くで瞳を合わせたら、俺の方が呑まれてしまうかもしれない。俺はまだまだ弱いから。
「なあセライム。お前の本当の親父さん、もう八方尽くしても消息は分からないのか?」
「……中等院にあがったときに、私も一通り調べたんだ。でも、何も分からなかった」
「じゃあ、今調べたら何か分かるかもしれないわけだ」
 自分のことしか考えられなかった俺に今出来る精一杯の提案を、俺は口ずさむ。
 息を呑む音が聞こえる。雨が謳う、風が踊る。世界を洗い流し、春を背後にひきつれてくる嵐が、小さな孤島の片隅で起きることなど知らぬ様子で過ぎていく。
「手伝うよ。もう一度だけ、詳しく消息を追ってみるんだ。卒業まで一年もあるんだぞ。もし何も掴めなくても、最後まで手を尽くしきったら、きっと何か変わるんじゃないのか」
「――」
「いや、無理して実家に帰ったりして、我慢するのがいけないんじゃないのかって思っただけだ。なんかさ、俺も昔の記憶がないけど、最初は色々もがいて、どうしようもなくなって、そしたら今は別に思い出さなくてもいいかなって思い始めてるし」
 今度こそ、セライムの青い双眸と俺の瞳がかちあった。互いに迷子である俺たちは、こうやって生きていくことしかきっと出来ないのだろう。絶望の淵から、そっとあてもなく手を伸ばすような真似くらいしか。
 でも、今はそれで十分だ。俺がそう思って笑うと、セライムはそんな俺をぼんやりと腫れた瞳で見上げた。
 雷鳴の音は、ゆったりと、確実に遠のいていく。春が来るのだ。もう少し、次の陽が昇る頃には。
 ふくふくと太った新芽が花開き、明るい空を風が笑い声をあげて渡って行く。大陸の向こうから、暖かな土地を求めて鳥たちがやってくる。
 あと、もう少しで。

 それが俺の破滅への第一歩であることを、そのときの俺は知る由もないのであった。
 ――青い双眸は、いつだって闇から俺のことを見つめている。


 <一章:聖なる学び舎の子供たち 了>




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