-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

61.不器用な完璧さ



 冷たく乾いた風が外套の表面を撫でていく。ランプの灯火が放つ温もりすら忘れる気分で、俺は屋根の上からの夜景に見入っていた。
「素晴らしい夜景だろう。あの小さな輝きの一つ一つが人の営みを語っている。夜空の瞬きにも勝る、人々の息使いが聞こえてくるようだ」
 隣で詩人のように語るアナトール先輩の息が白くなって流れていく。先輩が暮らす小さな下宿所の屋根からは、暗い谷間に隠れるようにしてひしめく家々の橙や黄色の輝きが一望できた。グラーシアと違って夜も出歩く者の多いマリンバの夜景は冬だというのに賑やかで、人々のざわめきがさざ波のように耳に届く。
 歩けばぎしぎしと音のする屋根の上でこんな夜に座っている理由はただ一つ。人目を忍んで帰るモーシュを見送る為であった。
「人間はすごいなぁ。ついこの前、この都市が出来たばっかだと思ってたのに」
 モーシュは俺の肩に腰かけ、大きな瞳に灯を映しこんでしみじみと呟いた。
「君から見たら百年の時など一瞬のことだろうね」
「うん……気がついたらどんどん時は経っていっちゃうし世界も変わっちゃう。いつか、時に置いていかれるんじゃないかなぁ」
 冗談めいた口調に俺も苦笑した。幾千の時を越えていく妖精の心の内は、ちょっと想像もできなかった。
「ありがとう。そろそろ行くよ」
 肩からモーシュがついっと離れて浮かび上がる。工場長との話はうまくいったらしく、モーシュは夜になるまで俺の服の影に隠れていたのだ。
「そうだ、お礼をしなきゃね」
「いや、いろいろ助けてもらったし。別に構わないぞ」
 モーシュはかぶりを振って、俺たち二人を見下ろした。
「ううん、お礼させて欲しい。ささやかなことしかできないけれど――」
 そう言うなり、不意にするりと降りてきて俺の額のすぐ前で悪戯っぽく笑う。
「ちょっと力を借りるね」
 俺にしか聞こえない囁きを残すと、モーシュの唇から詠唱が零れていく。それと同時に血液がぞわりとよだち、魔力を吸い取られているのだと感じた俺は体を震わせた。頼りない光がモーシュの周りをふわふわと舞い始めたかと思うと、次の瞬間、ありえないことが起きた。
「――精霊の御名において!」
 口元に笑みを刻んだまま、モーシュが高々と手の平を天に向けて突き出す。見上げた空は曇が広がっていた筈だった。だが俺もアナトール先輩も、目をひん剥いてその空を仰いだ。
 ぶん、と視界が歪んで震える。夜空に投げかけられた不可視の塊が四方に散り、中央から目を見張るような光景が広がった。
「――」
 あんぐりと口を開けたまま、声を出すのも忘れてそれに見入る。
「……エンゼルティア」
 アナトール先輩が呆然と呟くのに、モーシュは嬉しそうに微笑んだ。
「夜空の瞬きにも勝る人の息使い。けれど、人を見守る為に夜空に昇り涙した天使の想いも忘れませんよう」
 俺たちの頭上には、研ぎ澄まされた青白い光を放つ月と、宝石箱をひっくり返したような満天の星々が夜空を隅まで覆い尽くしていた。先ほどまで雲に閉ざされていたにも関わらず、だ。
 人を惑わす幻術なのだと頭ではすぐに分かったが、それにしても星屑が俺たちを見下ろす情景をこの小さな妖精が生み出したなど、とても信じられなかった。
「えへへ。心配しないで、君たち二人にしか見えないし、それに多分すぐに見えなくなっちゃうから――この天使の涙たちは」
 古い伝説によれば、月は暗い夜空の下に歩む人を憂いた天使が自ら星になったものと言われる。それ故に天使星ともいわれる月が満ちた時、まるで周囲の星屑が天使が流した涙のように見えることから、満月の夜空を人はこう言うのだ。天使の涙、エンゼルティアと。
「ユラス」
 ただただ目の前の出来事に圧倒されていると、ふとモーシュが耳に顔を寄せてきた。アナトール先輩は夜空に見入っていて気付かない。俺の耳元で、モーシュはそっと囁いた。
「君はやっぱり他の人と違う。君は不思議な力を持っている。この先、もしかしたらその為に苦労することもあるかもしれない。でも、覚えていて。君の魔力は、真っ直ぐに落ちる滝のように淀みのない、とても綺麗なものだよ。だから、きっと大丈夫」
 俺は何かを言わなくてはいけない気がして口を開いた。けれどモーシュはぱっと俺から離れると、小さな体を翻して大きく手を振った。
「君たちに精霊の加護がありますよう! さよなら!」
 透き通った羽根をはためかし、一直線に妖精の少年は闇夜に消えていく。その姿が見えなくなるまで、たった一瞬のことだった。
 冷たい空気が髪を揺らす。俺たちは妖精が去った後も、暫く残り火を探すように虚空を見つめていた。
「……まるで夢でも見てるみたいだな」
 ぽつりとアナトール先輩が呟く。俺も頷いて未だ広がる星空に視線を馳せる。
「すごい高等魔術ですよ。……もしかすると俺たち、とんでもない力をもった妖精に会ってたのかもしれません」
 俺の力と地下に流れる力を使ったとはいえ、移転術すら行使してみせた妖精だ。それに女王の命でここに来ていたというのだから、高い地位についていたのかもしれない。
 それにしても、随分とのんびりしたところがあった妖精だったが――。

「フェレイ先生にいい土産話――にはならないか。まさか妖精と会ったなんて話せないしなぁ」
「や、もうこの都市に来たこと自体土産話になりますよ」
 フェレイ先生は今頃どうしているだろう。きっと紅茶を飲みながら本を読んでいるに違いなかった。古めかしい屋敷で、橙色のランプに囲まれて。
「先生はほとんど都市から出ませんからね」
「そうだね。良くも悪くも籠居症で困ったものだ。用事があるか、病院の話をしない限り本当に外に出ないんだ」
「ああ。なんで病院があそこまで嫌いなんですかね」
 ちらっとでもその話題がでるだけでさりげなくその場を辞してしまうフェレイ先生の奇行に、アナトール先輩も肩をすくめて首を振った。
「あの人の中身は全く持って謎だ。だが学園は首席で卒業するし、教師になればあっさり地位を上り詰める怪物であることに間違いはない。いずれは倒さねばならぬ敵だな」
「いっ、いずれは倒す!?」
「はは。人間として勝つというだけの話だよ、仮にも恩師だからね。まあ、既に料理と掃除にかけては勝っているが――。そう、あれは忘れもしない、僕が高等院に入ったときの話だ」
 アナトール先輩は突然険しい顔になって腕を組んだ。
「僕は決闘を申し込んだ。ああ、血生臭いものではないよ、単なる歴史上の人物しりとりだ」
「……しりとり?」
 あれか、前の人が言った最後の単語と同じ音から始まる単語を挙げていくという、ごく単純な遊びだ。
「先生は生物学が専門だったから、勝てると思った。勝負は正午から始まりキルナが夕餉の支度を整えるまで続いた」
「ぶっ」
 噴いた。一体何時間やっていたんだ。
「でもね、平然とした顔で僕も知らないような人の名前挙げて講釈まで付け足すんだよ、あの先生。結局勝てなくて、腹いせに翌日の夕飯にピーマンをしこんで家中の時計の針を逆方向に回るように改造してやったっけ」
「……何してるんですか」
 俺が来る前のフェレイ先生宅も中々波乱があったようだ。「ふっ、僕も若かったな」とか先輩はぼやいているが、今もあんまり変わっていないんじゃないかと思う。とても口には出せないけれど。
「なんかね。不器用な完璧さなんだよね」
 アナトール先輩はふとそんなことを口にした。俺が顔を向けると、長い前髪を風に遊ばれるまま、夜空に語りかけるように続ける。
「地位を上りつめて、人気もあるんだから一人でも生きていける筈なんだ。ただ慈善活動したいなら寄付でも何でも手立てはある。なのに、自分の手だけで生徒を守ろうとして……昔はそんな先生が傲慢に見えて、よくつっかかったものだよ」
 俺と違って、幼学院の頃からフェレイ先生を見てきた先輩は、口元を歪めるように笑って息を白く染めた。
「でもね、先生は否定しない。そうかもしれませんねぇ、とか言ってさ。いつも一方通行、見返りなんかなくて当然と思ってる。そうそう、もう一つ忘れられないことがあった。いつだったかなぁ、皆でこっそり宴を準備したことがあるんだよ。たまにはきちんと先生に感謝を伝えようって」
 暫く俺はアナトール先輩の語る準備の内容に耳を傾けていた。キルナとチノが主導になったこと。セライムがうっかり先生に情報を漏らしそうになり冷や冷やしたこと。エディオが珍しく手伝ったかと思えば、セライムとタメをはるくらい恐ろしい料理が出来上がったこと。
「……あいつも料理オンチですか」
「材料切ったりするのはうまかったから、任せたんだけどね。パスタはどろどろ、オムレツは消し炭だった」
 そういえば、あいつの作ったコーヒー、なんだかとてもすごい味がしたっけ。先輩はひとしきり笑うと、ふと小さな声になって続けた。
「でもね。いざ料理が出来て、居間も飾り付けて、先生呼んだんだけどさ。それを見た先生、どんな顔したと思う?」
「え、そりゃ嬉しそうな顔して……どうしたんですか、美味しそうなお料理ですねぇ、とか」
 答えた俺の前で、アナトール先輩は一瞬真顔になった。
「そう、確かにそんなこと言ったよ。でも、少し間を開けて――ね」
 ふるりと唇が震えた。アナトール先輩はどこか苦しげに笑って続ける。
「びっくりしてた。闇の底の囚人が、砂糖菓子でも見たみたいな顔でね、暫くぼうっと僕たちを見つめていた。すぐにいつもの調子に戻っちゃったんだけどね。多分、一生忘れないよ、あんな先生の顔」
 ふっと脳裏に過ぎる、フェレイ先生の姿。
 暖炉の炎が、ぱちぱちと優しくはぜている。
 紅茶を飲みながら、暖炉の傍でくつろぐ子供たちを遠い眼で見つめていた横顔。
 ――そう、まるで自分だけ別の部屋から、遠い世界に思いを馳せるように。
「先生はね、手紙で君のことを本当に嬉しそうに書いていたよ。まだ何も知らない子だけれど、きっといつか大きな鳥になるって」
「……そんなこと書かれてましたか」
 面と向かって言われると恥ずかしくなって、思わず頬を指でかいてしまう。けれどアナトール先輩はくすりと笑って、空を見上げた。
「先生がこんなに一人の生徒に興味を持つのは見たことがないよ。きっと期待されてるんだろうね」
「そ、そうでしょうか」
 それは俺の出生が特殊すぎるからっていうのもあると思うのだが。
「君は何か、先生にとって特別なんだろうな」
「え?」
「――いや、空の景色が消えていくと思ってね」
 見上げると、霧がかかっていくように煌めきが霞んで消えていくところだった。後には、灰を振りまいたような曇り空が戻った。
 聴覚すら操られていたのか、喧噪も大きくなったかのようだ。俺にはなんとなくそれが寂しくて、暫く何もない頭上を見上げていた。


 ***


 セライム、ごめんね。

 本当の父がいなくなって、二人きりだった頃に母は自分を抱きしめて何度もそう言ったものだ。胸の奥底に、消え入りそうな声が今も木霊して離れない。

 部屋には大きな鏡があった。花と妖精の銀細工をあしらった、全身を映し出せる鏡だ。
 セライムは椅子に頭をもたれさせたまま、ぼんやりと鏡に映る自分の青い双眸と見つめあっていた。
『――何をしに戻ったのだろう』
 家に帰ったとて何をするわけでもなく部屋に閉じこもり続けて、何日が経ったろうか。
「キルナたちはもう帰ってきたかな」
 誰にともなく口を開いて、中が干からびていることに気付く。声は掠れたものにしかならず、冬の午後に消えていく。
 屋敷の暮らしは静かだった。多忙な父は帰ってくることも少ないし、弟は町の学舎に通っている為、夕刻にならねば帰ってこない。
 弟は非常に優秀な子供であったが、グラーシア学園の受験はしなかった。グラーシアは学者の聖地であるが、その閉鎖的な気質から政治や商売の才を育てるには不向きな都市であったためだ。
 本来ならセライムも、同じようにこの町の学舎に通う筈であった。だが、当時の彼女にそれは耐えられず、自らの意思でもって遠く離れた都市に足を伸ばしたのである。
 ――否。結局それは、ただの逃げだ。
 鏡に映る生気のない少女を見つめながら、セライムは母を思った。か細い体に端麗な衣装をまとう、ガラス細工のような母。
 しかし、目を閉じれば思い浮かぶのはそのような作り物ではなかった。瑞々しい花のような涼やかさで笑い、暖かな掌で頬を撫でてくれた影が、陽炎のように瞼の裏を揺らめく。
 そして実の父を失ったあの時、頼りなげに手を繋いで歩いた長い道――。
 静かにセライムは瞳を開いて自分の顔を観察した。ゆるゆると波打つ濃い金髪の中に、表情もなく青い目が瞬いている。頬に指で触れて、そのまま顔を覆った。
『似ているのか』
 時が経てば、傷は癒える。日常の繰り返しは、どんな過去の苦しみですら優しくかき消していってしまう。
 だからだろう、あの頃から遠ざかれば遠ざかるほど、母は自分から離れていった。顔を見るだけで、苦しくて仕方ないのだろう。自分でも思うときがある、自分の顔が実父に似ているのではないかと。
 それはもう今はいない、忘れられた人だ。
『けれど止まっていては、進めない』
 セライムは、母に会いに行くべきか悩み続けていた。父がいないと食事すら共にしない母とは、あれから顔をあわせていなかった。
 一年後からは、ここが自分の家になる。商才のない女であるから、父の紹介で縁談もくるだろう。どこかの誰かと、ユルスィート家を繋ぐ為に。
 どこぞのお姫様みたいね、とキルナが聞いたら笑うだろう。だが子連れの母を貰い受けて不自由なく育ててくれた父には恩を返さねばならない。黙って待っていても、彼女の人生は進んでいくのだ。
 でも、とセライムは拳を握り締めた。これから死ぬまでの人生を、母と遠く距離を置いたままに過ごすのはあまりに悲しかった。
 意を決してセライムは椅子から起き上がり、部屋を出てみることにした。
 恐る恐る天井の高い廊下に進み出てみると、自分の心臓が飛び出そうなくらいに高鳴る。落ちつけ、といいきかせても呼吸は浅くなり、急に一人であることが心細くなった。
 母の寝室は二階の奥にある。誰かと出会わないかと怯えながらセライムは早足で進んだ。今の自分の姿を他人に見られたくなかった。
 過去の出来事は、未だに彼女を捕え続けている。傷は癒えても、足枷が消えることはない。だからこそ、母に会いたかった。様々なものが変わってしまったのだとしても、母と昔のように話がしたかった。
 心のどこかにしこりを残すままに歩いていくと、母の寝室から丁度誰かが出てくるところだった。はっとして立ち止まると、向こうもこちらに気づいて足を止めた。
「お嬢様。いかがなされましたか」
 使用人の老女であった。茶器の乗った盆を持って、怪訝そうな顔をしている。
「ぁ……その、お母様には会えますか」
 ぴくっと老女の口元が動いた。だが彼女は暫し待つようにとだけ丁寧に告げて、再び部屋の中に入って行った。
 待っている間は、まるで時が薄く引き延ばされてしまったかのようだった。冬の弱い日差しを窓から受けながら、明るいのに人の気配のない廊下で両手を握りしめているしかない。
 母と会ったら何を話せばいいだろうか。どういった風に振る舞えば、母は笑ってくれるだろうか――。
 がちゃん、と扉が開いて、セライムは肩を跳ねさせて顔をあげた。老女の顔は能面のように表情が読めない。
「お会いにならないそうです」
 何を言っているのか、よく分からなかった。
「……え?」
 現実が手の届かない場所に逃げていってしまったように、意識がぼんやりとする。聞き返すセライムに、老女は恭しく頭を下げながら、静かに言い放った。
「疲れているため、今度にして欲しいと。奥様はお体が丈夫ではないのです、ご自重下さいませ」
「……」
 何度も瞬きをするセライムに、老女はもう一度礼をすると扉を閉め、去って行った。セライムの前には閉じた扉だけが残された。
 暫くの間、彼女は黙って扉を凝視していた。しかし、不意にその体がふらりと傾いだ。
「どうして」
 崩れることこそなかったものの、震える呟きは粉雪のように儚い。
「どうして……お母さん」
 母は、この扉の向こうにいる。狭かったけれど大好きだった家。インクの匂い。積まれた雑誌。そこで母は確かに笑っていたのに。
 なのに、今は何も言わずに拒絶する。
 鼻の奥がきゅっと縮んで、もう我慢が出来なかった。歯を食いしばって、走り出した。どこか遠いところへ行きたくなった。誰にも、何にも縛られない空の彼方へ。
 流れの淀む室内にはとてもいられなくて、玄関に走る。何ふり構わず力任せに飛び出して、セライムは自分の屋敷を見上げた。
 どうして自分はここにいるのだろうと思った。何故父は死んでしまったのだろうと考えた。何の為に世界はセライムを置いて進んでいってしまうのだろう。一人で置き去りにされなければいけないのだろう。
「――っぅ」
 激した感情から、涙が一滴零れる。
「ああ」
 ここが、自分の未来の牢獄だ。
 運命として受け入れねばならない、針だらけの鳥の籠。
 もしも、そこから抜け出す手があるのなら――。
 それが出来ないことを知っていて、しかし考えられずにはいられない自分にも気づいてしまって、涙が止まらない。心が割れそうだった。誰かの手がひたすらに恋しかった。
 ふらふらと歩き出す。親とはぐれた子のように、あてのない町をたった一人。
 背後からは、春を告げる激しい嵐の気配が近づいていた。




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