-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

60.変わらないもの



 広大な敷地を誇る工場の裏手、人気のない埃っぽい道でアナトール先輩は難しげに顎に手をあてていた。
「それは、今後も起こりそうなことなのかな?」
「……えっと」
 俺の肩からは髪に隠れるようにしてモーシュが落ち着かなそうに目を泳がせている。そんな様子を見た先輩は、ふっと表情を緩めて苦笑した。
「僕じゃ緊張するかな?」
「あ、ううん、ごめんなさい……」
 沈んだ声に俺も頬を指でかいた。俺はあの場から勢いで逃げだした後どうすることもできずに、モーシュを説得してアナトール先輩への相談を承諾してもらったのだ。
 俺としても魔術を今までになく使いすぎた為か全身が鉛のように重たくて、頭がうまく働かなかったせいもある。とにかく信頼できる人を頼る他に良い案が思い浮かばなかったのである。
 モーシュはやはり人の目に晒されると尻込みしてしまうのか、冬の風にかき消されてしまいそうな声で語り始めた。
「今回は溜まった魔力の塊を吐き出しただけだから、また時が経てば結界の下で外に出れない魔力は淀んでいってしまうと思う……」
「魔術規制の結界が、そんな弊害を生んでいたなんてねぇ。君たちの力も弱まってしまうんだって?」
「う、うん。思ってたよりもちょっと辛いや」
 そう言いながらちらっと俺に視線をくれる。何故だか分からないが、モーシュは俺の傍にいると体が楽になるそうなのだ。近くにいなかった時は、遺跡の魔力を秘めた水晶にまで力を借りる程だったのだから、相当辛かったのだろう。
 ふむ、とアナトール先輩は前髪を払って難しげに眉を潜めた。
「放ってはおけない事態だね。今後、君たちに苦労して来てもらうのも大変そうだし……」
 暫く黙って考え込んでいた先輩は、やはり俺が頭の隅で考えていたことを口にした。
「ちゃんとした人にそのことを伝えて、対策を立ててもらわないといけないね」
 さっとモーシュの顔が曇る。聞けば妖精は一族の掟で人と不用意に関わることを禁じられているそうなのだ。
 けれどアナトール先輩は、そんなモーシュの反応も予想していたらしい。静かに頷いて膝を屈め、モーシュを同じ高さで見つめた。
「古い時代、温厚な君たちは戦争に明け暮れる人間たちから一族を守る為に関わりを断ったと聞いている。そして今回の事件も、人の業が引き起こしたことだ。君たちから見れば人間は恐ろしい存在で関わりたくないのは分かるよ」
「ち、違うよっ」
 突然勢い良く顔をあげたモーシュは早口でまくしたてた。
「ぼ、僕は知ってる。人間だって、とても優しいこと。僕のことを助けてくれた人間は今まで沢山いた――ユラスみたいに。だから僕は人間が嫌いじゃないんだ、話したくないわけじゃないんだよ。ただ……関わってはいけないって、それが、女王さまが決めた妖精族の方針なんだ」
 モーシュが必死で語るその言葉は、手に乗るほどの背丈しかない体から発せられたとは思えないほどに痛切で、目を丸くして聞いていたアナトール先輩もゆっくりと頷いた。
「そうか。それなら無理はいえないな。――そうだな、なら僕から話してみよう」
「話すって、当てがあるんですか?」
 問いかけると、アナトール先輩はにっこりと笑って得意げに髪をかきあげた。
「僕はこれでもマルベール社の機工師だよ。工場長に話を通せばきっと分かってくれるはずさ」
「こ、工場長さんとお話できるんですか」
「ふっ。僕の才能を持ってすればたやすいことだ」
 俺たちの会話の意味が分からなかったのか、きょとんと首を傾げるモーシュ。だから詳しく説明してやった。
「マルベール社っていったらマリンバでも一二を争う工場だぞ。俺の学園の魔力測定器とかも確かここの使ってる」
「工場長は市長にも顔がきくからね。大丈夫だよ、あの人に出来なくとも、この僕が淀んだ魔力をうまく逃がす発明をしてみせよう。面白そうだなぁ、大気中に放出するのは勿体ないからむしろ応用して物質内投射するのも良いかもしれない。素材は何がいいかな。ああでもそれだけ容量が大きいとヴェル反応を起こす可能性もあるから、ううむ」
「せ、先輩」
 にやつきながら発明の算段を立て始めたアナトール先輩をさりげなくこっちの世界に引き戻す。放っておいたらそのまま帰ってこなくなりそうだ。
 モーシュはそんな先輩の様子をぽかんと見つめていた。
「ああ、すまなかったね。ついつい興奮してしまった。ではモーシュ君、もう少し詳しい話をしてくれるかな?」
「――人間って、すごいや」
「うん?」
 聞き返すアナトール先輩を大きな瞳でじっと見つめたモーシュは、思いきった風に口を開いた。
「そのコウジョウチョウって人に話をすればいいんだよね?」
 アナトール先輩も俺も、一瞬意味が分からず目を剥いて小さな妖精を見るしかない。モーシュはそんな俺たちを見返して微笑んだ。
「その人一人に会うだけなら、大丈夫。今すぐ会わせて」
「え、お前……怒られるんじゃないのか」
「えへへ。もう君たちと話した時点で怒られるのは決まってるし――それに、人間たちは僕にも追いつかない勢いで新しいものを生み出す力がある。人は未来を紡ぐもの――聖典の通りだね。僕はそんな君たちの力になりたいんだ」
 途中はまるで独り言のように、だがしっかりと俺たちの顔を見てモーシュは言いきった。かと思えば、頭に手をやって煩悶する。
「あ、でもできればコウジョウチョウさんって人以外の人には会わないようにしてほしいな。流石に階級落とされちゃうかもしれないし、あぁそうなったらまた怒られるなぁ」
 くすり、と笑ったのはアナトール先輩だった。妖精を見たのはやはり初めてだったそうだが、次第にこの妖精の気質が分かってきたらしい。
「分かった、任せてくれていい。僕が工場長のところまで連れていくから」
「う、うん」
 モーシュが返事をして会話もどうにかまとまったので、俺はアナトール先輩について歩き出そうとした。だが、先輩にぽいっと小さなものを突然放られて、慌てて受け取る。
 見てみるとそれは、洒落た革製のキーホルダーのついた銀色の鍵だった。先輩は苦笑しながら服をつまんでみせてくれる。
「君は僕の部屋に戻って着替えておいで。そんな姿で出ていったら女性に嫌な顔をされてしまうよ」
 あ、と思って俺は自身の姿を見下ろした。忘れていたけれどそういえば、体中泥まみれなのであった。


 ***


 ニフリスはちらちらと階段に意識を向けては、不機嫌そうに眉を潜めていた。
 先ほど、あの気に入らない同僚がやってきたかと思えば、工場長である父に何かを小声で告げて二人で上の階に行ってしまったのだ。自分が呼ばれなかったことがまず気に入らなかったし、父がやけに驚いた顔をしていたのも気になる。よほどのことがあったのだろうか。
 だが、彼にはここから目を離せない理由があった。
「ねえ、あれ何? ぶらさがってるやつ、どういう機構してるの?」
「……なんでお前らの相手しなきゃいけねえんだよ」
 いささかげっそりした顔で、ニフリスは腹の底から溜息をついた。工場の一階、広大な作業室ではチノが様々な工作機械に目を輝かせている。姉のキルナはあまり興味がないのか端のテーブルに頬杖をついて暇そうにしているのだが、こちらもこちらでニフリスが何か言うたびに目を光らせていたりする。
 都市でも屈指の技術力を誇るマルベール社の工場は、今は冬の長期休業中の為閑散としていた。だから業務の邪魔になるということはないが、それでも目の前でうろうろされているだけでニフリスにとっては面白くない。
 何故関係者でもない双子の姉妹がここにいるのかというと、他でもないニフリスの父親本人があの事件後、チノに謝りにきたことに端を発する。
 あの事件は、原因が不明だろうと、マルベール社製の水晶が割れたことによって起きたのだ。その話を聞いた父は吹っ飛んできて、息子のことなどそっちのけで双子に這いつくばる勢いで謝罪した。
 そしてその後、何故かニフリスは思いきり灸をすえられたのであった。聞けば、『こんないたいけな女の子を巻き込みやがって』とのこと、向こうが勝手に巻き込まれたんだと言い返したら『お前はそれでも男か』と拳骨が降ってきた。確かに一般人を事件に巻き込んでしまったのは悪かったとは思うが、それにしても理不尽な話である。
 更にいらつくことに、双子は大人びた様子で、自らの向こう見ずな行動が引き起こしたことだと逆に謝ったりしたものだから、父はすっかりこの双子が気に入ってしまったらしい。是非うちに茶でも飲みにきてくれと言い始めて、――この現状である。
 そういえば走り去って行ったあの奇妙な紫の少年は、未だに姿を現さない。ニフリスもチノも、未だあのとき起きたことが信じられずにいた。あの少年が奇妙な技を使ったことで何故か瞬時に地上に出てしまったのだ。自分の体がばらばらに分解されていく不思議な感覚は思い出したくもない。そして、あのときに見えた気がした、やたら小さい人影――。
 分からねえ奴、と口の中で呟いて、ニフリスはやっと名を知ることとなった小柄な少女を眺めやった。
「マルベール社は魔術用品産業が大黒柱なんでしょ? 翼を作りたいんだったら別の工場に入るとか考えなかったの?」
「バカ。お前の頭と違ってそう能天気でもいられねぇんだよ、このマルベールは」
 ぴきりとチノのこめかみがひきつり、遠くからキルナの殺意が混じった目線が突き刺さってきたが、にべもなく腰に手をやってニフリスは続けた。
「……いつまでも魔術用品だけじゃやってけねぇんだよ。時代は常に新しいモンを求めてきやがる」
「翼を作ってどうするの」
「決まってンじゃねぇか」
 鼻を鳴らしてニフリスは作業台にもたれかかる。
「マディンに行くに決まってる」

 チノが口を半ば開いたまま固まった。
「……マディン?」
 それは数百年前に消し飛んだといわれる滅びの大陸の名だ。今では地図に描かれることもなく、止まぬ嵐のために誰も近寄れない魔の海域となっている。
 ある魔術師によって吹き飛ばされたその瞬間まで、かの大陸には強大な力を持つ帝国が栄華の極みの中にあった。だが彼らの生存は絶望視されており、大陸は命の息吹のない死の荒野と化していると言われている。
「海路じゃ無理ってんなら、空からなら行けるだろうが」
「そ、それ、本気?」
「時間はかかるだろうけどな。今になっても教会の連中が遺跡の発掘を邪魔しやがる。『翼の間』を見たろう」
 顎をしゃくってみせると、チノは確かに、と頬に指を当てた。
「奴らにいわせりゃ大空は精霊神のおわす聖なる宮だから人が翼を持ってそこを汚すことは許されねぇんだと。お影で『翼の間』はただの置物の部屋として捨て置かれちまった。全く冗談じゃねぇよ」
「う、うん。確かに随分前から手をつけられた痕跡がなかったけど……でもマディンに行ってどうするの?」
 チノに問われて「さぁな」と軽く返したニフリスは、窓の外に視線を投げた。薄い色の空には、淡く雲がたなびいている。あそこから大地を見下ろすのは、どんな気分なのだろう。
 そして、海を越えて誰も知らぬ大陸に渡って行くことが出来たなら、それはどんな気分なのだろう――。
「マディンかあ」
 途方もないものを見たような顔で、チノはぼんやりと呟いた。目の前の故郷の為に技を磨こうとする彼女にとって、見たこともない場所に一人飛び出していこうとする広大な夢は想像の範疇も越えるのだろう。
 だが、同じように外の空に視線を馳せた少女は、ニフリスを見てにっこりと笑った。
「いいじゃん、すごい夢」
「――な、なんだよ」
 まさかそこまで直接肯定されると思っていなかったニフリスはどういう顔をしていいか分からず、頬をひきつらせた。ニフリスのこの夢を若さ故と苦笑する者は多かったが、真っ直ぐに笑みを向けられることはなかったのである。
「ま、わたしも負けないけど。あははっ頑張ろうね」
 手を後ろで組んで、くすくすと笑う。狼狽したようにニフリスは踵で地面を叩いた。
「なんでお前なんかと競わなきゃいけねえンだよ。バーカ」
「んなっ。バカは余計でしょ!? 何かにつけてバカバカって!」
「るせーよバカ。甲高い声でぎゃあぎゃあ騒ぐんじゃねえよ」
 短く刈り込んだ栗色の髪を撫でつけて顔を背ける。猫が居心地の悪さにのっそりと動き出すように、彼はそのまま背を向けた。
「あ。ちょっと待って、まだこっちの説明してもらってないよ。あの工作機械新しい型だよね? どうやって使うの?」
「バカ企業秘密だ。自分で調べろ」
「教えてくれたっていいじゃんっ」
 後ろからちょこまかついてくる気配をうるさそうに払って、ニフリスは鼻から息を抜いたのだった。


 ***


「お嬢さんは機械は好きじゃないかね?」
 頬杖をついていた手がふと離れる。キルナが顔をあげたその先には、髭を生やした中年の男が悪戯っぽい光を目に湛えていた。
 がっしりと筋肉のついた肌は日に焼けて浅黒く、動作も大ぶりで豪快な印象を与える。そんなマルベール社の工場長ベンダーズの表情はどこかおどけていて子供っぽい。古い樽の上に板を打ち付けただけという簡素な机の反対側で、工場長はウインクをしてみせた。キルナも思わず苦笑して居住まいを正す。工場長の後ろではアナトールが腰に手をやっていた。
「――嫌いではないんですけど、でも妹ほどでは」
「彼女は魔術科の所属ですから。ね、キルナ」
「はい」
 少し離れたところでは、ニフリスがチノにせがまれて心から嫌そうな表情のまま工作室を案内してやっている。ただ機械のことを喋るのは嫌いではないらしく、一度話だしてしまえば口が回るのか、暫くするととても流暢な説明が流れ出した。
 そんな様子を遠目に見て小さく吐息をつくキルナに、ふっと工場長の目が細まる。
「妹さん。ありゃいい機工師になるぜ。真っ直ぐな目がとてもいい。ウチも娘が欲しかったなァ」
 最後は悩ましげにため息をつく工場長を横に、キルナはじっと二人を見つめていた。
「俺はぼちぼち行くから後は二人で戸締りしとけな。さあて。久々に面白え話が入ってきやがった、どう調理すっかなぁ。腕がなるぜえ」
 多忙な工場長はどこか玩具を貰った子供のように浮足立った様子だ。バキバキと関節を鳴らせながら、アナトールに残りを任せて出て行ってしまった。アナトールは優雅な振る舞いで簡素な椅子に腰かけて、浮かない表情のキルナに顔を向ける。
「キルナ?」
「……もしかしたら、あたしがいなくともあの子は十分にやっていけるのかもしれないわ」
 ぽつりと落ちた言葉に、アナトールの片眉がぴくりとあがる。
 しかしキルナはどこか思いつめた顔で、作業台と工作機械の立ち並ぶ広い部屋を瞳に映し続けた。
「なんでそう思うんだい?」
 問われれば口元は歪むような笑みを作る。
「だってあの子、すぐに泣くのよ。負けず嫌いだし、意地っ張りだから平気で体を壊すようなこともするし――だからあたし、あの子を守らなきゃって思ってた。たった一人の家族だし、あの子はあたしの妹だから」
 でも、とチノと同じ顔をした双子の姉は、遠い景色を見るように目を細める。しかし不意に口調は明るくなった。
「いざとなったらあたしの方が駄目だった。あの子が目の前から消えていくって思うだけで耐えられなかった。依存してるのは、きっとあたしの方だわ。あの子はあんなに外に目を向けてるのにね」
 頬杖をついて、笑いながらも苦々しく唇に乗せる。アナトールも倣ってチノとニフリスの様子を眺めた。いつだって自分の知らないものに目を輝かせていた、双子の妹の姿を。
「キルナは魔術師、チノは機工師。二つの道は、違うものだからね」
 アナトールののんびりした声に、キルナは瞳を瞬かせた。アナトールは物知り顔の教師のように指をぴんと立てて笑う。
「魔術はこの世界に多大な発展をもたらした。それは間違いない事実だ。魔術の万能の力はあらゆる面で地に満ちる人間の助けとなった。しかしそんな魔術の罪を知っているかい」
「魔術への研究が不十分だった時代は平気で恐ろしいことやらかしたんでしょ。人間に無理に魔力を注いで超人作ろうとしたとか」
「それもある。でもね、一番の罪はその万能さにあるのだ」
 言いながら彼はテーブルのペン立てから細い定規を取り出した。
「傷を癒し、人を傷つけ、火を起こし、幻影を映す。あまりに有用すぎる魔術に人はすがり、その為に科学、工学、医学の進歩は甚大な影響を被った。昔は簡単な風邪なら薬草で、重い病を患ったらすぐに魔術師の元へっていう感じだったらしいからね。魔術で治せない病が不治の病と呼ばれていたのに、最近の研究でそこいらの薬草組み合わせて投与したらあっさり治ったなんて話もあるくらいだ」
「でもその問題なら今は各分野でも研究が進んでるし、今までの魔術との応用でいくらでも――」
 そこまで反論しかけて、キルナはあっと口を噤んだ。その話は、ついこの前に授業で聞いた気がする。確か現代魔術応用の授業で講師が語った、現代魔術の大きな課題。
「人口増加による魔術師の不足……?」
「そう」
 アナトールは出来の良い生徒にするように満足げに頷いた。
「魔術は昔、大衆ではなく身分の高いものの為にあるものだった。術者の負担もあるから、多くの人に恩恵を与えることは出来なかったのだ。魔術師は大抵の者が時の権力者に仕えていたといわれているしね。しかし身分制度がなくなった今、増え続ける人と魔術師とのバランスが崩れてしまった」
 魔術というものは、ほんの簡単なものなら経験さえ積めば大抵誰にでも扱える。しかし、実際に人に役立つものとなると相当の訓練を積み知識を蓄えねば出来ぬものなのである。それらをこなして魔術師になれる者は、そう多くはない。
 例外として魔力を秘めた物質から力を得る方法もあるが、肝心の魔力を秘めた物質というのが非常に希少価値が高いのだ。その上、強い力を持つ物質は、各都市の魔術規制の結界を張る為にほとんどが使われてしまっている。
「だから今、工学の世界では魔術の手を離れた機械の開発が注目を集めている。大きい力を少数に与えるのではなく、小さな力を全ての人に与える技術さ」
 持っていた細い定規を窓にすかすようにして、ふっと目を細める。
「変わらないものは何もないのだよ、キルナ。工具だって摩耗する、永遠に古いままではいられない。様々な人の営みは今、魔術の手から飛び立とうとしているのだ――まあ、これはフェレイ先生の受け売りだけど」
「で、同じようにチノがあたしの手から飛び立とうとしているのだってうまくまとめるつもりですか」
「ふっ。君は相変わらず辛辣だ」
 わざとらしく前髪をかきあげたアナトールは、でもね、と不意に優しい瞳でキルナを見下ろした。
「だからといって魔術が消えていくわけではない。僕たちの魂に浸透した魔術の恩恵が完全に断ち切られることはないだろうさ。君とチノの絆のようにね。僕が見る限り、まだまだチノには君が必要そうだ」
 どこか嬉しそうに、どこか羨ましそうに、アナトールは目の前の双子の姉にふっと笑いかけるのであった。

「あの子は君の喜ぶ顔を見たいが為に先に進むことができるのだから」




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