-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

59.機工師の手



「キルナ」
 呼びかけると、青ざめた顔が力なくあげられ、苔色の瞳がこちらを見た。湯気を立てる茶のカップを差し出してやると、そろそろと受け取る。
「あのチノだ、僕の愛弟子はきっと大丈夫。それに遺跡のことは調べつくされているんだから、すぐに救出してくれるよ」
 ぽん、と軽く頭を叩いてアナトールはその隣に腰かけた。遺跡の管理人が駐在する小屋の片隅に設けられた椅子で、二人は暫く黙ったまま時を過ごす。既に現場には職員が駆けつけているだろう、今は大人たちに任せて待っている他に出来ることもなかった。

『先生に迷惑かけたらいけないんだ』
 じっとカップの水面を見つめるキルナの横顔を伺いながら、アナトールは昔のことを思い出していた。それはまだ互いをよく知らなかった頃のこと。エメラルドグリーンの髪を二つに結った少女は、こちらを指差して舌足らずな声で堂々と告げたものだ。
『お姉ちゃんに言いつけてやるもんねっ!』
 まだ外界との折り合いがつけられずに荒れるままであった幼い自分の目の前で、べーっと舌を出して走っていった少女は、暫くして同じ顔をした賢い姉を連れてきた。相手が女子だからといって、二対一での口論には勝てなかった。二人の息はそれほどまでにぴったりだった。
『お姉ちゃんがお姉ちゃんでいられるために、わたしはわたしでいるの』
 そう遠くを見ながら呟いていたのはいつの日のことだったろうか。
 この双子は、幼い頃に震災で両親を失ってからたった二人で生きてきたのだ。その合間にどれほどの心の揺れ動きがあったのか、アナトールには推し量れない。だが二人はいつだって共にあった。傍から見ればただの仲の良い双子の姉妹に過ぎないだろうが、二人の絆は深く、そして強い。
 幼い頃に孤独を味わったアナトールは、そんな二人がほんの少しだけ羨ましかった。年齢の割に荒波を越えてきた彼には、頼れる肉親が一人もいなかったのだ。母は父に愛想を尽かして出て行ってしまったし、父と共に暮らした時代は痛みと血の記憶しか残っていない。幼学院にいた時、長期休業中になっても帰らなかった彼を見つけて話を聞き、あの手この手を尽くしてあの父親から守ってくれた学園長がいなかったら、きっと学園の卒業も出来なかったろう。
「こら、キルナ。君がしっかりしないでどうするんだい、お姉さんなんだろう?」
 人形のようにぴくりとも動かないキルナにそう語りかけた瞬間、どこか遠いところで鈍い音が聞こえる。同時に彼女の肩がふるりと震えた。アナトールは始め気にも留めなかったが、ゆるゆるとキルナの瞳が見開いていき――、その手からカップが滑り落ちて砕け散るのに、目を見張った。
「キルナ?」
 不穏なものを感じ取って、震える肩に手をかけようとしたが、それは叶わなかった。轟音が大地を太鼓のように叩き、激震に足元を取られてアナトールは体勢を崩した。
「わっ?」
「や――!」
 消え入りそうな声で悲鳴をあげるキルナを慌てて片手で庇いながら周囲を見回すと、嵐の中の小船のように部屋中がかき回され、職員が慌てふためいている。
 この建物が倒壊するのではないかと一瞬胸を凍らせたアナトールだったが、それ以上にキルナが指が白くなるほどの力でしがみついてきた時、電流が走ったように動きを止めた。彼女たちがどうやって両親を失ったのか、彼はよく知っていたのだ。
「き、キルナっ!」
 ただでさえ双子の妹と離れ離れになっている中での出来事だ、パニックを起こしかねない。だが、思った以上に泣き叫んだりすることはなく、ただ身を固くして震えているだけであった。若干ほっとしながら、アナトールは周囲をもう一度見回した。
 揺れはそう長いものではなく、少し経つとほぼ収まってくれる。部屋は竜巻が過ぎた後のような見るも無残な様子になっていたが、怪我人はいないようであった。
 最低限のことを確認すると、アナトールはすぐ傍の少女に意識を戻す。キルナは揺れが終わってからも、目を固く閉じて何かに耐えるように胸元を握りしめていた。
「キルナ。もう大丈夫だよ」
 気休めにすらならないことを知りながらも声をかけて、アナトールは耳を澄ませた。色を無くしたキルナは俯いたまま、震える声を押し出すように唇に乗せた。
「……チノ」
 掠れた音色にアナトールは顔を歪ませて、そっと彼女の頭に手を乗せてやる。冷静で気の強いこの少女が自分を保っていられるのは、隣で無邪気に笑う双子の妹がいるからなのだ。そう考えると、チノがキルナを同い年であるにも関わらず姉と呼ぶのも、姉を姉として支えてやるためかもしれない。
 頭の片隅で、マリンバに地震が起きたなど今まで聞いたこともなかったこと、ならば何故今になって突然そのようなことが起きたのかと疑問に感じながら、アナトールは出来る限りキルナの視界に部屋の惨状が入らないように注意して寄り添っていた。


 ***


 ――あのね、あのね、実は……。
 ――この地は『光と闇の戦場』になったことがあるの。対の獣の戦いとか、人間は呼んでるみたいだけど。その戦いのおかげで、大地の奥底にとても強い魔力が植え付けられたんだよ。
 ――でもね、何十年か前から人間たちがこの地に魔力を封じる結界を張ってしまったから、今は力の流れが酷く淀んでしまってる。
 ――ううん、長い時が経って魔力が薄れたと思ってるだろうけれど、それは人間がそう感じるだけ。ずっとずっと地中深く、魔法の力は渦を巻いているんだ。
 ――淀みが溜まったこの地はとても不安定だから僕が見に来たんだけど、さっき僕や君が魔法を使ったからもしかしたらそれに誘発されて――。

「つまり結構やばいことにのぉおっ!?」
 最後まで言い切らない内にズン、と腹の底に響く太鼓のような音がしたかと思うと、大地が大きく震えだした。顔を突き合わせていた俺たちは見事にお互いの額をぶつけあって、その場に崩れ落ちる。
「は、早く流れを解放してあげないと――!」
「解放するってどうやってだ!?」
「えっと、と、とにかく魔力源の直下に行かないことには」
「それどこですかっ!」
「こっちの方角っ!」
 唸りたける轟音の中を叫びながら進むが、ぱらぱらと天井から砂や土くれが落ちてきて視界が遮られる。今にも崩落してきそうで、それが恐ろしかった。
「大丈夫だよっ! 多分これは初動だろうからこの揺れはすぐ収まるはず――わぷっ!?」
 モーシュはそう言った途端、べちょっと天井から落ちてきた土の塊に襲いかかられて悲鳴をあげる。ほ、本当に大丈夫なのか。
 だが土まみれの妖精が言った通り、揺れは十秒程度で収まった。走り続けながらちょっと安心する。しかしこれが初動ということは、本格的に恐ろしいことがこれから起きるということか。
 揺れを見るに、本当に俺たちが魔術を使ったことでその導火線に火をつけてしまったのかもしれない。結界の中で無理に浮遊などの高等魔術を行使したのだ、足元で魔力の流れが淀んでいたらそれに呼応して流れが狂い、水晶が破裂したときのようなことが、とんでもないスケールで起きる可能性がある。この妖精曰く、『爆発』――。
 つまり地中深くに淀んだ魔力が一気に爆発を起こす。
「ひっ」
 考えただけで、先ほどの比にならないほど全身が産毛だった。都市の直下でそんなことが起きたら――そんなの、想像したくもない。
「そのヤバいやつはあとどれくらいでくるんだっ!?」
「きっと数十分はかかるだろうけど――ああもう、僕がもう少し頭が良くてドジじゃなかったら! 全部僕のせいだっ」
「ひ、卑下しないでいいからとにかく食い止めてくれっ! その魔力源の直下に行けば大丈夫なんだよな?」
「た、たぶん」
「たぶん!?」
 頼みの綱の妖精モーシュは、情けない顔でカクカクと頷いた。炭鉱のように掘り進められた道は水たまりが多く、走っていると足をとられそうになる。しかも服も重たく濡れていたので、すぐに息があがって苦しくなってきた。
「でも君の力を借りればなんとかなるかもっ! こっち、曲がるよっ」
 ぱたぱたと羽根をはばたかせながらモーシュは狭い小道を曲がって行く。目指すは魔力源の直下、つまりはあの広場の真下ということだ。だからあまり遠くはない筈と自分を勇気づけて、俺は必死で後を追った。
 そうして道はある小部屋に突き当たった。先ほどいた部屋よりは広いが、それよりも耳を打った声に俺は立ち止まって目を剥き、モーシュがぱっと体を翻し俺の背後に隠れた。


 ***


「おいっ!」
 駆け寄って膝をつき、少女の顔を覗きこむまでが、酷い揺れの中では至難の業だった。しかしニフリスは突然の出来事に色を失いながらも、機敏に動いた。
 チノは腕で頭を庇うようにして蹲る。だが顔を近づけると、その様子が尋常ならぬことにニフリスは気づいた。呼吸の音がおかしい。小刻みに震える唇が何かをしきりに呟いていたが、この揺れの中では何を言っているかまでは掴みとれなかった。そして引っ張って立たせようとすると、手負いの獣のように嫌がった。
「や――、いや、嫌っ!!」
「バカ! こっちだ、早く来い!」
 この状況下でニフリスが考えたのは、まず崩落の危険から身を守ることだった。その為なら自分の詮無いプライドなど捨てられる。この先の『翼の間』に移動することがまず先決と考え、そちらに少女を誘おうと考えたのだが、この反応は妙であった。だが、そんなことに構っている余裕もなかった。
「死にたいのか!」
 無理矢理引きずるように立たせ、道に駆け込む。そうしている内に揺れはおさまってきたが、安心はできなかった。地震により脆くなった部分は時間差で崩落する危険性も考えられるのだ。
 駆け込んだ『翼の間』は、昔見たそのままの姿であった。しかし感慨にふけっている間もなく、ニフリスは少女を奥の方に押し込んだ。それなりに広い空間ではあるが、そこにあるモノが狭苦しそうに横たわっている為、奥には屈みこまないと進むことができない。自分の体もそこに滑り込ませ、ニフリスは静寂の中に耳をすませた。
 地震はそこまで大きいものではなかったが、この地で生まれ育った彼にとってこんな出来事は生まれて初めてだ。だから、どの程度揺れれば崩落が起きるのかは見当がつかなかった。
 暫く立っても何も聞こえてこないのでひとまず胸を撫で下ろすと、ニフリスは背後に首を回した。そこでは、異国の少女が肩を震わせて蹲っていた。
「おい」
 これだから女というものは嫌いなのだ。些細なことですぐに泣くものだから、扱いが面倒臭い。
「泣くなよ」
 自分の体を守るように小さくなっていた少女は、喉をひきつらせるように呼吸しながら、そろそろと顔をあげた。
「……」
 まるで子供のようだとニフリスは思った。グラーシア学園の生徒はアナトールのように不敵な面構えを崩さない理屈固めの連中ばかりだと思っていたから、その様子は酷く奇妙に見えた。
 声を出せばしゃくりあげてしまうのが自分でもわかっているのだろう、小柄な少女は黙ってこちらを睨んでいる。そういえばまだこの少女の名を知らないことにニフリスは気がついた。
「ここは安全だ」
 不安げに低い天井を見上げる少女に、ニフリスは手を伸ばして黒い天井を撫ぜた。
「お前、機工師だろ。感謝するんだな、こんな時じゃなきゃ滅多に見れねぇシロモノだ」
 まるで屋根のように巨大な金属の板が二人を覆っている。その先には、見上げるような巨大な黒い塊。どんな金属でできているのか分からない上、現代の技術では削り取ることすら出来ぬほど硬いそれは、未だその半分を土の中に埋もれさせながらこの部屋の柱となって安置されている。万が一崩落があったとしても、この分厚く強い屋根が身を守ってくれるだろう。無論、何もないところで生き埋めになるよりはマシという、気休め程度のものでしかなかったが――。
「これ――」
 少女が、瞳をふるりと瞬かせた。恐る恐る、座ったまま小さな指で金属に触れる。灯りが近くにあったので、照らされたその手を見たニフリスははっとした。彼女の手は女性のそれとは思えないほどに骨ばって傷つき荒れた、そしてニフリスにとっては見慣れた機工師の手だった。
「鉄の翼だ」
 だから、少しだけ語ってやる気になった。周囲への注意を忘れぬまま、ニフリスはその中ほどから土に埋まる巨大な翼の下で、静かに口を開いた。
「大空を自在に舞う鉄の翼。中身は全く分からねえ、実際に空を飛んでたのかも定かじゃねぇ。だから大半の機工師は信じねぇしただの飾りっていう奴もいる。だが、きっとこの翼は古い古い時代に――青い空の中を、飛んでいたはずだ」
 人を乗せていたと思われる中心部分から向こう側もすっかり土に埋もれてしまって、さらに発掘も難航しているため、かの翼は未だ全貌も掴めない。しかし幼い頃、父親に連れられてこの部屋を見たときのことをニフリスは忘れたことがなかった。このただの巨大な金属の塊が風をとらえ、宙に浮かんだというのだ。誰も行ったことのない空の高みに、この翼はきっと人を乗せていったのだ――。
「俺はこの翼を蘇らせる」
 険しい瞳に強い意志の光を宿して、きっぱりとニフリスは言った。その夢が、大人たちを苦笑させるほどに途方もない目標であることを理解した上で、若い機工師は尚、その得体のしれない鉄の翼から目を離さなかった。
「お前はなんで機工師になったんだよ」
 小柄な少女は、暫く黙ってなめらかな金属の表面を触っていた。そうして、ぽつりと呟いた。
「……助けたいの」
「は?」
「わたしのお父さんとお母さんは地震で死んじゃった。あの町も今は復興したけど、消せない傷痕はいっぱい残ってる。わたし、あそこで困ってる人たちを助けられるような機工師になりたい」
 ニフリスは瞬間、呼吸を忘れて淡々と語る少女を見た。淡いエメラルドグリーンの髪は、南の大陸に住む者の証だ。そして、その大陸のある都市で何年か前に起きた凶事のことはまだ記憶に残っていた。マリンバからも復興を助ける為に機工師が派遣されたし、ニフリスのいた工場でもいくつもの商品を寄付したものだ。この少女は、その災害の只中にいたのだ。
「お母さんはね、わたしとお姉ちゃんを庇ってがれきの下敷きになったの。あともう少し早く大人が来てくれてたら、それかちゃんとした救出用の機械があったら、お母さんは助かったかもしれない」
 先ほど、揺れの中であんなに怯えていたのもやっと理解出来た。それと同時に、ニフリスは何を言っていいのか分からなくなった。そんな彼を見て、やっと少女は薄く笑った。
「わたし、人を助ける機械を作るの。たくさん作って、人に笑っていてもらいたい」
 それは自分程に熱く燃え上がるものではなかったが、まるで静謐な闇の中に燃え上がる崇高な炎のようだった。
 ニフリスは元々、グラーシアの出身者が好きではなかった。彼らは温室の中で理論ばかりを学んで、ろくに鉄の一つも加工できない状態で卒業するくせに、自らの出自を鼻にかけて高慢に振る舞う。実際にやりもしないで作業効率が悪いだのなんだの口ばかり出し、自分は予算も納期も無視した好き勝手な図面を書くだけなのだ。
 アナトールはその点ではまだましな方であったが、むしろそれを過大評価されて工場長である父親に気に入られているのが腹立たしかった。あの尊大な男だって、現場での技術力ではニフリスには程遠い。
 けれど、この少女は。
 そう思ったとき、ニフリスは猫のように素早く物音を感知していた。誰かの足音を捉えたのだ。
 助けが来てくれたのか――、地震もあってまだ間もないのにここまでやってきた速さを疑問に思いながらも、胸が高鳴る。翼の下から這い出て、ニフリスは叫んだ。
「おい、こっちだ!」


 ***


 俺たちは互いに互いを見つめあいながら、少しの間黙っていた。だらだらと頬から冷や汗がでるのを感じながら、俺は硬直するしかない。そうすると、目の前の――ニフリスが怪訝そうに眉を潜めた。
「誰、お前」
「なにっ」
 肩を飛びあがらせる。ももももしかして、チノやキルナに喧嘩ふっかけてたときも小さくなってた俺には気づいていなかったのだろうか。
「俺、そんなに存在感なかったのか……?」
 そりゃぁ、あの喧嘩に巻き込まれるのは遠慮したいが、まるで目にも止まっていなかったならそれはそれでちょっと悲しい。
「ユラス……? な、なんでここにいるのっ」
「なんだよ、お前の知り合いか」
 ニフリスがそう言いながら俺が作り出した光の照明を不思議そうに眺める――って、やばい!
「いやっ! なんでもございません!」
 自分でもよくわからない言い方で光を消した。ここで俺が自由に魔術を使うことができると知られてはいけないのだ。そして、背後にモーシュがいることも隠さなければいけなかった。
「ああン?」
 非常に疑わしげな顔つきでガンをとばされて、顔をそむけながら二歩くらい下がる。
「お前、どっから入ってきた」
「ひぃっ!?」
 案の定、敵意むき出しで距離を詰められた。チノにそれとなく助けを求めようとしてみるが、ああこっちもなんか腕を組んで首を傾げている。
「が、頑張ってユラスっ」
 背中に隠れながらモーシュが小声で応援してくれるが、全く役に立ってくれなかった。人を騙す魔術とかってないんだろうか、ないだろうなぁ。
「たぶんここが魔力源の真上だから、時間稼いでっ。僕がなんとかしてみるから――」
 そう言うなりモーシュは俺の背中にぴっとりと張り付いたまま、詠唱を口ずさみだした。妖精族のこいつとしては人間に存在を知られたくないんだろうし、その気持ちは理解できるんだが、それにしても何故俺が板挟みで慌てなきゃいけないんだろうか。
「は、はは。実はさ、さっきの地震で俺も橋から落ちちゃって! 死ぬかと思ったけどなんとかなってもう嬉しいっていうか!?」
 若干やけっぱちで適当にでまかせを言ってみると、ニフリスは信じられない、というように日に焼けた顔をしかめながらこちらを見やっている。そういえば俺、水たまりの中に突っ込んだものだから酷い成りをしているのだった。
「わ、ユラス。服とか大丈夫?」
 チノが盛大に顔をしかめて、口で心配しながら一歩下がってくれるのにさりげなく傷つく。
「――ったく、揃いも揃ってバカばっかじゃねぇかよ、グラーシアの生徒ってのは」
「わたしと一緒にしないでよっ!」
「はは、ははは。仰せのとーりで……おいモーシュ、まだか」
 さりげなく背後を伺うが、返事はない。不安をかきたてられて、じわじわと脂汗が滲み出てきた。もうこれは、この二人にモーシュのことを言った方がいいのではなかろうか。
「とにかく、もう揺れも収まったしさっさと行くぞ」
「ちょ、うぇっ!?」
 止める間もなく、肩をぶつける勢いで歩きだしたニフリスに思わず道を譲り、青ざめながら俺は首を振った。
「いやっ、ちょっと待ってくれ!」
 モーシュの言うことが正しければ、力の流れが淀んでしまった魔力源をどうにか解き放たないことには最悪の事態は免れない。そしてそれはこの魔力源を直下とする場所でなくては出来ないのだ。
「ンだよ」
 きっと一刻も早く外に出たいのだろう、そういう表情を包み隠さずよこしてくれて、ああはい俺もそうしたいんですけどと言いたくなる。
「さっきからどうしたの。なんかヘンだよ?」
 チノまで疑りの目線をよこしてくれてきて、これはそろそろ限界かも、とキリキリ痛む胃に手をやりながら背後を振りかえろうとしたその時だった。
『――ユラスっ!』
「んのっ?」
 不意に背中を撫でられた心地であった。声が耳の内側から聞こえてきて、全身に鳥肌が立つ。それはモーシュの肉声でなく、不思議な響きを持って心に干渉してくる言霊であった。
 いや、――これは知っている。相手の心に直接声を伝える魔術で――俺でもうまく使えるか分からないくらいの超高等術だ。しかし、結界の中で力を半減されている妖精のモーシュが何故こんなことを?
『なんとか魔力源と繋がったよ! このまま魔力を発散させちゃうから、皆を集めて!』
「は、発散? 何をしでかすつもりだっ?」
 奇妙な俺の独り言に、ニフリスが得体の知れないものを見る様子でチノにぼそぼそと喋っているが、もう気にしている余裕もなかった。
『転移術を使うよ! 大丈夫、僕の階級なら使っても怒られないしっ』
「や、て、てんっ!?」
 転移術、そう聞いた瞬間に目が眩む。そこまでくるともはや伝説に近い術である、この魔力源の力を借りれば使えるのかもしれないが、本当に使う気か。
『君の力も合わせればきっと成功するよ、たぶん!』
 たぶん、とか付け足さないで頂きたい。

「だぁっ、ちょっと二人とも聞いてくれ! 頼む、頼むからちょっとの間だけ目を閉じてて欲しいんだほんの少しだけっ!」
 転移術を使っている最中は、きっと術者であるモーシュの姿が見えてしまうに違いない。だが突然の俺の申し出に、当たり前であるが二人は思いきり疑問をぶつけてきてくれた。
「ンでだよ」
「本当にどうしたの? もしかして頭打った?」
 ああ――、この俺の切羽詰まった気持ちを万分の一でも二人に分け与えることができたなら。
「やばいんだ急ぎだ、後でパフェでも奢ってやるから頼むニッフーも!」
「……誰がニッフーだ誰が」
 ニフリスがぴきりとこめかみを引きつらせてくれるが、今は好都合だ。とにかくこちらに気を向かせないと。
「三秒だ! その間だけ目を閉じててくれ、そしたら好きなだけ殴ってくれても構わないからっ!」
 余計なことを言ってしまった気もするが、もう撤回する時間もない。だがあまりの勢いに気圧されたか、チノがこんなことを言ってくれた。
「ま、いーよ。ユラスはそれで気が済むんでしょ?」
「ああ済むすぐ済むとても済むっ! 急いでくれっ」
 俺の背中で、次第に俺にもわかるほどの魔力の渦が巻いていく。魔術とは、絶えず流れゆく世界の流れを操る技。力が一定の法則に従って収束し、ゆるゆると広がっていく。
『ユラス、行くよ! 最後の言葉だけ一緒に言ってね』
「わ、分かった」
 小さく答えて、ごくりと唾を呑む。しぶしぶと目を閉じる二人にはきっと感じられない、魔力の流れ。それが、物理的な力にみるみる変化していき、足元がカッと輝いたかと思うと周囲を光の玉がいくつも尾を引いて飛び回りはじめた。ぞっとするような強大な力に体が震えるのを感じながら、俺はその瞬間を見計らった。
 風が舞い始めたその瞬間、二人の腕を引っ掴んで近くに寄せる。二人ともぎょっとして目を見開いたが、もう構う間もなく、俺は解き放つ為の言葉を口にしていた。
『――精霊の御名において』
「――精霊の御名において」
 心が弾けるほどの魔力が体内に流れ込み、俺の体は海に呑まれたように砕けて散っていった。


 ***


「――ふっ」
 自分が息をし始めたことが不思議でならない。鉛のように体が重たく、更に顔をもたげた瞬間に、
「あうっ」
「べふっ」
 そんな感じに妖精が脳天に振ってきて、再び地面とキスする羽目になった。
「ん、うう?」
 再び恐る恐る顔をあげると、周囲のまばゆさに目を細める。しかしそれは、魔術によるものではない自然の光であった。
「ぅ、あつつつつ……」
 きっと多量の魔力を操ったからだろう、頭がトンカチで叩かれたみたいに痛む。だがそこが見たことのある景色であったから、頭を押さえながらも俺は息を呑んで周囲を見まわした。
「うまくいった……!」
 モーシュが、心から安堵した表情で呟く。そこはあの広場のど真ん中。対の獣が戦った場所であり、魔力源の中心――つまり俺たちがいた場所の真上になる。
「うん、もう大丈夫。魔力源も安定してるみたい。あはは、四人も転移させちゃったもんね」
 太陽の光をいっぱいに浴びて、モーシュがぴんと羽根を伸ばす。俺は、今だ信じられない気持ちでその顔を見返した。
「も、もう大丈夫なのか?」
「うん!」
 小さな体で伝説的魔術を行使してみせた妖精の少年は、子供みたいな笑みを浮かべる。その事実を前に、幾千の時を越えていく妖精族の底知れぬ力に触れた気がして、俺は何度も目を瞬いた。
 そして。
「……ユラス?」
 顔をあげると、チノとニフリスが何が起こったか分からぬといった風に辺りを見回し、俺たちを奇異の眼差しで見つめていた。そう、俺と、その目の前で喜ぶモーシュと――。
「え?」
「ン?」
 二人が、モーシュを見て目を点にした。
「……」
 ああ。
 これが、現実ですか。
「あは、あはははは」
 俺は乾いた笑いを浮かべながら、人間の目に晒されていることに気づいて硬直しているモーシュをむんずと掴んだ。ごめんなさい、小さき賢人。
「じゃ、そういうことで」
 それだけ告げると、脱兎のごとくその場から離脱する俺であった。全力で逃げた。とにかく、体の全てを使って逃げ出した。
 走っている途中、手に握られて目を白黒させているであろう妖精のことを思いながら、俺は今後のことを考えた。

 ああ。本当に、どうしよう――。




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