-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち 58.小さき賢人 穴の中に降りていくと、辺りは突然明度を失い、視界は暗闇に閉ざされた。唾を呑みこんで手を掲げると、空気の流れがしゅるりと収束して煌めきとなり、眼下を青白く照らす。 むき出しになった土がひんやりと湿ってぴとん、ぴとん、と音を立てる穴の内部は、それ以外は全くの無音だった。暫くして達した虫の巣のように複雑に掘られた区域では、探索の途中で放り出されたのか、古めかしい工具が散乱している。しかしその層にも人の気配がなく、床には崩れたばかりの穴がぽっかりとあいていて、その先では壁の至るところから角のように鈍色の金属が突出していた。二人はどこまで落ちていったのだろう。 ここまで長い時間魔術を行使し続けたのは初めてだったからか、時が経つにつれて指先が冷たくなり息が苦しくなってきた。魔術は発散するものより集中するもの、瞬発的なものより長期的なものの方が体の負担も大きい。 「――ん、」 少し頭がぼんやりとしていたらしい、ぐらりと体が傾きかけて、慌てて体制を立て直した。ゆっくりと降りていっているから、先ほどから随分と魔術行使を続けている。自分の限界がどのくらいなのかは知らないが、そろそろ休んだ方がいいのかもしれない。 と、そんなとき、耳をつんざくような怒鳴り声が下から聞こえてきた。それに答える声には――聞き覚えがある。チノだ。 「チノ……っ」 思っていたよりもずっと精神を消耗していたらしく、声は掠れたものにしかならなかった。その上、下手に力を入れてしまったのが悪かったらしい。不意に空気の流れが手の中で滑って、灯りとなっていた光が霧散してしまった。慌てて再び手をかざそうとすると、ガッ、と背中に何かが当たって服が引っ張られ、体が拘束される。 「うぇっ?」 何が起きたか分からぬ内に服によって首が締まり、ぎょっとして見上げると、消えていく光の中に壁から突き出した巨大な金属片に外套の一部が引っ掛かっているのが見えた。 いけない、このままでは首吊り死体になってしまう。外套を脱ぐかして抜け出さなくてはと思い首に手をやるが、冷たい指はまるで他人のもののように力が入らない。 「んくっ……!」 無駄だと思いながら足をじたばたさせるが、横は絶壁、下は暗闇。灯りが消えてしまった為、周囲がどうなっているかもわからず、そうしている間にもぎちぎちと喉に外套が食い込んでくる。 い、嫌だ、こんな死に方っ! そんなことを考えた瞬間、何かの波動を直下から感じた。これは収束した空気の刃――魔術によるものだ。そう思ったときには、頭上で鋭い破裂音が鳴り響く。だが、金属の欠片が降ってきたと同時に、俺の体は再び宙に投げ出された。服が引っ掛かっていた金属片が折れたのだ。 「んのぉっ!?」 何が何だか分からずに魔術を放つが、ろくに効果を為さず光の尾だけを散らして消えていく。死ぬ、と思ったその瞬間には、意識は黒く塗りつぶされていた。 起き上がると同時に、全身が悲鳴を上げるように痛んだ。手をつくとべしょっ、とか嫌な音がしてドロドロした液体が周囲に飛び散る。うう、なんだこれは。 むせこんで、口の中に入った恐ろしく不快なものを吐き出す。どうも、水たまりっぽいところに突っ込んだらしい。服がぐっしょりと濡れていた。 「うー……」 暗い。視界が闇に閉ざされ、目をいくらこらしても全く何も見えず、しかも泥水が目に入って悶絶するに至った。 「痛い、うー」 なんだかみじめな気持ちになってきて、暫くめそめそする。なんで俺、こんなところにやってきたんだっけ。 ――そうだ。俺は、チノとニフリスを助けるためにやってきたんだった。しかし、周囲に人の気配は感じられなかった。恐らくあいつらもここに落ちてきたのだろうに。 「移動したのか?」 ということは、少なくとも骨を折るような大怪我はしていないことになる。あんな高さから落ちたのだから、ちょっと信じられないけれど。 とにかく、二人を探そうと俺は恐る恐る立ち上がって、重たい右手を掲げた。やはり魔術行使が体にきているらしく、全身が風邪でも引いたみたいに気だるい。そういえば青年期に無理な魔術行使をすると成長を妨げるばかりか重大な病を招きかねないとかなんとか、授業で習ったっけか。でも今は緊急事態だし、そんなことを言っている場合ではない。半ば無理矢理指に力を込めて詠唱を行い、光を灯した。 「――えっ」 不意に背後から声がして、振り向いた俺は喉をひきつらせて固まった。 仄かな光が、岩影から浮かび上がっていた。そこに、恐る恐るこちらを伺う人の影があったのだ。 その姿は、俺が作った灯に照らされて白日の元にさらされた。それは人の形をしていたが、人ではなかった。手の平に乗る程度しかない背丈、瑪瑙色の髪に無性的で大きい瞳、つんと左右に長く伸びた耳。そして煌めきを宿す四枚の羽根を持つ、妖精族と呼ばれる種族の少年が、おどおどとこちらを見上げていたのだった。 俺は呆気にとられて暫くそいつと見つめあった。温和で臆病な妖精族は古い時代に人との関わりを断ち、深い森の住人となった筈で、人前に姿を現すことは滅多にない。一生に一度その姿を拝める人も少ないだろう。彼らはこんなにも小さいし、見つかっても高等な魔術を操る故に、簡単に人間の目の届かない場所に隠れてしまうのだ。 「君、ニンゲン?」 そんな感じに頭の辞書から『妖精』の項目をだくだくと脳内に垂れ流していた俺は、窺うような高い声にびくりと背筋を正した。どうしよう、俺、世にも珍しい妖精族に話しかけられちゃってる。 「あーいやまあ、えーうん、そうともいえなくもなかったりするなぁあはは」 妖精はきょとん、と首を傾げて難しげに眉根を寄せた。 「ううん、君、なんか不思議な感じ、うーん」 「ううん、俺もなんか不思議な感じだうーんえーと」 俺様、大混乱である。 すると妖精は突然はっとしたように口元に手をあてて飛び上がった。見るからにあわあわしている。俺もあわあわしているけれど。 「そ、そうだ! あの、ごめんなさい、僕が余計なことしたばっかに変なことになっちゃって。でも他の人には僕のこと言わないでほしいんだ、怒られちゃう……」 妖精はそこまで一息に言い切ると、羽根をぱたぱたさせながら小さな手で頭を抱えた。 「ああ僕、いつまでたってものろまなんだ。だからこんなことになるんだ。うう、怒られるだろうなぁ。どうしよう」 今にもへなへなとその場に崩れてしまいそうな口調である。なんだか哀れに思えてきて、俺は思わずその場に屈みこんで顔を近づけた。 「大丈夫か?」 「うー、さっきも君を助けようとしたら男の子と女の子がびっくりして逃げてっちゃうし……」 はっとして拳に力が入る。そうか、さっき金属片に引っかかった俺を助けてくれたのはこの妖精なのだ。もしかしたらあの高さから落ちた二人を助けたのも同じかもしれない。そう思うと、気が急いて口早に俺は尋ねた。 「な、なあ。その二人、どっちに逃げてった?」 「え? うん、あっちの方向」 大きな瞳に涙を浮かべた妖精はマッチ棒みたいに細い腕で、ある方向を指さした。こんなに小さいのに人間と同じ指が正しくついているのが、少し不思議だった。 妖精が指した方向に首を回すと、通路が薄暗く遠くまで延びているのが見えた。ここだけがちょっとした外れの小部屋になっているらしく、上の層まで吹き抜けになっているのだ。 「ねえ君。なんで魔法使えるの?」 「ふっ!?」 耳元から不意に問われて、俺は昏倒しかけた。びびび、びっくりするからやめてほしい。妖精はその羽根をはためかせて俺の肩口まできていたのだ。そして、その問いにどう答えようか俺は悩んだ。妖精は体は小さいが、一説には三千の時を生きると言われ、『小さき賢人』『森に住まう具眼の子』とも別称される。そんな存在に『いや俺も知らないんですハハハ』とか言ったら仲間のところに連れていかれて磔刑にでもされるんじゃなかろうか。 妖精たちに取り囲まれ殺される俺様な様子を思い浮かべて恐怖しながら、俺はとにかく歩き出した。まずチノたちと合流しなければいけない。乾いてきた頬から泥がぽろぽろと落ちるのを払って、口元を歪める。 「んー、……魔法を使えることが、魔法?」 妖精が使った言葉を借りてそんな風に答えた。なんだテメェふざけた言葉遊びしてんじゃねぇよ磔刑にされてぇか――とか言われないかビクビクしたが、妖精は不思議そうにふぅん、と頷いて俺の肩に腰かけた。妖精族の割に人間慣れしているみたいだ。 「そうだね、とにかくあの二人を助けなきゃ。本当にごめんね、ごめんね。僕がもうちょっとうまく動けてたらこんなことにはならなかった」 しゅん、という言葉が似合う仕草で俯く様子は、まるで本物の幼子のようだった。きっと、俺の軽く数十倍の時を生きているだろうに。 「なんでこんなところにいたんだ?」 「うん。女王さまの命で、この遺跡の様子を見に来たんだ」 左手の腕輪をさすりながら妖精はとつとつと語ってくれた。 「でもね、僕たちの魔力はここでは人間たちの張った結界のせいでかなり弱まってしまうの。だから僕、飛ぶのも辛くなってきちゃって。それで、あの水晶球の魔力を借りることにしたんだ」 「で、その水晶球をニフリスがいじりだした、と」 「……うん」 俺は納得した。魔術規制の結界により弱ってしまったこの妖精は、照明に使われている魔力を秘めた水晶球の力を得ようとしたのだ。力を秘めた物質から魔力を抽出する魔術など、妖精にしてみたら目を閉じていてもできる技だろう。だが、それをしている途中でニフリスが水晶球の点検を始めてしまったのだ。内部の流れが狂って水晶は破裂し、解放された魔力があの出来事を引き起こしたのだろう。 妖精は俺の肩でじっと何かを考えていたかと思うと、意を決したように頷いて、俺の前に浮かび上がった。 「人とは関わっちゃいけないって言われてるんだけど。でも、僕のせいだからなんとかしなきゃ! ねえ、君。僕に力を貸して。君はちょっと不思議なんだ。君といると、なんだか楽になる。君は普段から魔力を帯びているのかも。僕、あの二人を無傷で外まで送ってあげたいんだ」 大きな瞳が真摯な光を宿してこちらを見つめる。だから俺もその眼を見て頷いた。その申し出はこちらにとっても願ったり叶ったりだし、何よりもこの妖精の必死な姿がなんだか微笑ましかった――いや、長い年月を生きる妖精にこんなことを思うのは失礼なのだろうけれども。 「分かった。とにかく急がなきゃだな」 「ありがとう。僕はモーシュ」 「俺はユラスだ」 「ユラス」 モーシュと名乗った妖精の少年は嬉しそうに俺の名前を口にして、踊るように俺の周囲をくるくると舞った。 「人間に名前を教えてもらったのは何年ぶりだろう。うん、ユラス。覚えたよ、忘れない」 そんな様子に苦笑しながら、俺は通路を急いだ。まだ二人はこの近くにいるはずだ。 「って、そうだ忘れてた!」 「どわ!?」 突然ぴたりとモーシュに静止されて、思わず突っ込みそうになり、すんでのことで免れる。転びかけてよろよろしていると、穏やかな妖精の声は先ほどと一変して切羽詰まったものになった。 「どうしようどうしよう! さっきの崩落、爆発の引き金になってなければいいけど――」 「な、なに、爆発?」 非日常的かつ平和でない単語の出現に目をひん剥く俺の前で、モーシュは頭を抱えてどうしようどうしようと唸っている。 「ちょ、ちょっと待て、爆発ってどういうことですか若造たる俺にもわかるように教えて頂きたくっ!?」 思わず敬語になりながら、俺は苦悩する目の前の妖精に問いかけた。 *** 息が切れるほどに走って、もう無理だと思っても腕を掴まれていて止まらせてもらえなかった。文句も泣き言も喉の奥に消えて、いよいよ純粋な怒りが溜まってきたところで、やっと彼は足を止めた。 がくりと体が前に傾ぐ。転ぶのだけは膝に手を当てることで防いだが、胸がひどく波打っていて、暫くチノはろくに言葉を紡ぐこともできなかった。 「――ンなんだよ、ったく」 先に回復したらしいニフリスの忌々しげな舌打ちが聞こえてくるが、恨み事を言いたいのはこちらだ。走っている最中は何も言わずに曲がったりされたので何度転びかけたか分からない。 だがこの暗闇ではそんなチノの険悪な目線も届かなかったようで、ニフリスはぶつぶつ言いながら鞄を漁りだした。まずは灯りになるものが必要なのだ。 「何か持ってるの」 「るせえ、黙ってろ」 ばっさりと言い捨てられて、いよいよチノはむっとして眉を吊り上げた。 「水晶、全部壊れちゃったんでしょ。代わりになるものあるの?」 ニフリスはその問いには答えず、腰についた鞄の中を探り続ける。しかし、苛立った手さばきがその答えを無言で返してきた。 「もう! 困ったなら困ったって言ってよね」 業を煮やしたチノは、肩から下げていた小さな鞄から包み紙を取り出した。昨日、工具店に行った折にセライムへの土産にと買っておいたものだ。 手探りでそれを取り出してスイッチを入れると、手のひらで包むだけで消えてしまいそうな光がぼうっと灯った。照らされたニフリスは目を細めながら片眉を跳ね上げる。 「なんだそれは」 「ホントはセライムへのお土産だったんだけど。でもちょっとしか持たないからね」 赤っぽい無粋な光を放つそれは、手に乗る大きさのただの置物だった。しかも、台座にガラス玉が乗っていて電力でぺかぺか光るだけというもの。ニフリスの顔が盛大にひきつった。 「何お前、そんなアホなモン土産に買ったのかよ」 「んなぁっ! 違うもんね! 聞いて驚いてよ、これに使われてる電池はリナリウム式なんだから! 超最新鋭でしょ! 小型で軽量、こんな置物の中にも入っちゃうんだから! 発光時間は短めだけど」 「……だからってそれを土産にする奴があるかよ」 お姉ちゃんと同じこと言わないでよ、とチノは内心で思ったが、流石に口にはださなかった。 「分からん女だな。ふん、さっさと行くぞ。こうなったら俺たちだけで出なくちゃいけねぇ」 「それはこっちのセリフだよっ」 べーっと舌を突き出して一人で歩き出したチノを、ニフリスは鋭い眼差しで睨めつける。 「おいバカ! 勝手に歩きだすんじゃねぇよ、ここがどこだかわかってんのか!」 だが振り向いたチノも同じくらいに眉を吊り上げて言い返した。 「見れば分かるよ、ここ『鋼鉄の道』でしょ!?」 わんわんと声が反響する中、ニフリスが目を剥いて周囲を見回す。そうして口をへの字にしてこちらを見上げる小柄な少女を前に、半ば呆然と呟いた。 「……ンで分かんだよ」 「写真で見たことあるもん。こんなに金属片が突き出してる場所なんてここくらいでしょ。わたしたちが落ちたのは第一層のあそこの直下だと考えれば、多分第四層の古井戸の跡、そこからほぼ南東に走ってきたから地図ともあうもんね」 聞いている内に、ニフリスは奇妙なものでも呑み込んだような顔つきになっていく。 「お前、ここの地理知ってンのかよ」 「入口に看板があったでしょ、さっきそこで地図見たもん」 「ハァ?」 ニフリスは思わずといったように聞き返したが、チノにとってそれは当たり前のことだった。地図の見方は幼い頃に父に教わっていたし、大抵のものは設計図と同じようにざっと目を通しただけで頭の中に叩きこめる。ニフリスに連れられて走ったときも、とにかく方角のことだけを考えていた。 「オイ、待てよ」 「早くしないと電池切れちゃうでしょっ」 「待てッ!!」 そちらの方に向けて再び歩き出したチノを、がっちりと太い腕が拘束して止めた。チノはそういうやり方が不快で、顔をしかめて見上げる。だが、見返す瞳も黒目がちで大きく、強い光を宿していた。 「バカ、この無知が。そっちは危ねえんだ、毒ガスがでるところがある。まともな装備していかねぇと死ぬぞ」 腹の底に響く低い声に、びくりとチノの肩が震えた。だが、こんな少年に自分の弱いところを見せるのは嫌で、唇を噛み締めて睨み返す。大嫌い、と不意にその顔に言ってやりたくなったが、それは負け惜しみでしかなかったので言えなかった。 「こっちだ。ここが『鋼鉄の道』なら、反対側からでも回れる。他にも危険なところがあるんだ、道覚えてるくらいで勝手にチョロチョロすんじゃねぇ」 「ふん、わたしが言わなかったらここがどこだかも分かんなかったくせに」 掴まれた腕をもぎ取って強かに言い返すと、ニフリスも気に障ったように頬を引きつらせて舌打ちをした。足早に進み始めたニフリスの背中を見やったチノは、鼻から息を抜いて後を追いだした。 「ねえ、なんであの水晶壊れちゃったの?」 歩きはじめると辺りはしんと静まり返ってしまう。初めは洞窟のように掘られた通路のあちこちから顔を覗かせる金属片の煌めきを物珍しそうに見ていたチノだったが、慣れてくると段々と心細くなってきて思わず尋ねた。 「あン?」 「だっておかしいでしょ、保護回路もあるはずなのに突然破裂するなんて。不良品だったのかな」 「バカ。ンなことはありえねえよ。ウチの製品にそんなん混ざるはずがねぇ」 チノは灯りを手にしたまま首を傾げた。ニフリスの言うところの『ウチの製品』とはつまり、彼の働き先の工場のものであって、彼はあの先輩も同じところに働いているのであって、確かその工場は――。 答えに突き当たった瞬間、背筋に電流が走り、足を止めて叫んだ。 「ま、マルベール社! マルベール社の製品!?」 「るせえな、そうだよ」 マルベール社とはマリンバが誇る名高い工場である。確かに考えてみれば都市の名物でもある地下遺跡の照明にそんな高級品が使われていてもおかしくはない。そして、技術屋の名門が作り出した魔術用品に粗悪品が混じっているなど、ニフリスの言う通り考えられなかった。では何故、彼が手をかけた瞬間に事故が起きたのだろう。 「――最近照明の調子が悪いって言われて調べにきたらこれだ。そういや妙に出力が落ちてたなぁ、なんか魔力の流れが狂うモンの影響でも受けたか」 ニフリスは短く刈り込んだ栗毛をかきむしりながら思考にふけっていたが、最後に分かんねぇ、と呟いて前を向いた。 「とにかく、もう一度実物見ねぇとなんとも言えねぇ。さっさと戻るぞ」 「あ、あれってもしかして!」 言い終わらない内にチノのそんな声が被さり、ニフリスが首をまわすと、小柄な少女は少し先まで行ったところにある横道を伺っていた。 「……『翼の間』」 震える声で少女が小さく呟く。マリンバの地下遺跡には、重要な地点ごとに名前がつけられている。彼女が見つめる先には、その小さな唇が紡いだ名の小部屋があるのだ。 『翼の間』。それは、このマリンバで生まれ育ったニフリスにとっても特別な名前であった。その名を聞くだけで、言い知れぬ深い何かが胸の底を打つのを彼は感じた。幼い頃、一度だけ父に連れられて見せてもらったかの間の光景は、今でも目を閉じれば鮮明に思い出すことができる。 「今は出ることが先決だ、寄り道してる暇はねえよ」 口で彼はそう言ったが、実際はただ目の前の子ネズミのような少女を自分の思い出の場所に入れたくなかっただけかもしれない。チノはむっと唇を突き出して不服そうな顔をした。機工師を志す者は誰でも憧れる場所であるし、一般公開はされていない為、今は彼女にとっての絶好のチャンスなのだ。しかしニフリスは頑なに首を振った。 「バカ。言ったろ、チョロチョロすんなって。この辺りは危険だ、さっきのショックでいつ崩落が起きるか――」 不意にごとり、と鈍い音がした。ニフリスが訝しげに顔をあげると、チノがあの置物を取り落とし、灯りが地面に落ちていた。何やってるんだ、と言いかけたところで――少女の体も、傾ぐ。 「――!?」 その場に屈みこんだ少女を見たニフリスは一番初めに、有毒のガスを疑った。ここは地下遺跡の中でも最深部に近く、今になって突然噴き出してきたのかもしれない。しかし駆け出すにも自分も吸ってしまうかもしれないと思うと足がすくみ、目の前が真っ暗になった気がした。 ぐらりと世界が揺れはじめたのは、その迷いの最中だった。 Back |