-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

57.古代遺跡



 気を取り直して俺たちが向かったのは、神獣が戦ったとされる広場の奥まったところにある地下への穴――そう、マリンバの直下に眠る古代遺跡への入口だった。
「へえ、一般人でも入れるのね」
 先ほどの怒りは遺跡への興味にかき消されたのか、キルナは機嫌を取り戻しつつある。だがチノの方は未だぶすっとしながら、建てられた看板の説明に見入っていた。
「安全な一部分だけだけどね。ほら、見てごらん。これが現在確認されてる遺跡の見取り図だ」
 俺たちは看板に描かれた複雑な地図を見上げる。マリンバの古代遺跡は、町のいくつかのところにその入口が開いているらしい。迷宮のように入り組んだ道は見るからに一日で踏破できるようなものではなく、見つめているだけで気が遠くなりそうだ。それが地下に何層も重なっており、遺跡の巨大さは想像もできなかった。
「こんなに広いの? しかもまだ地下に発掘中ってあるわよ?」
「うん。マリンバの遺跡はまだその本来の広さも深さも定かではないんだ。あまりに広すぎるし、しかも老朽化しているからね、いつ崩落するとも限らないから発掘は難航してる」
 説明書きを読むと、ウッドカーツ政権時代はここで多数の労働者が貴族の命により遺跡の遺産を掘りだそうとして、崩落で亡くなったとある。しかし、それでも貴族たちが大金を積んで人を送り込むほどの遺物がここには眠っていたのだ。金銀の塊から奇妙な機械仕掛けの乗り物、また不思議な光を宿す機械の箱、全く何の用途に使われるのかわからない部品の数々――。
 特に機械的な部品については、マリンバの機工師たちの解析によって現在の技術産業に大きな貢献をもたらしている。噂によると大陸を貫く蒸気機関車にも、古代の遺物から着想を得た技術が多く使われているらしい。
「すごい……! へえ、ここに装甲車が眠ってた部屋があるんだね! わあ、地下四階にあったんだ……ってことは、もっと奥に行けばもっとすごいものがあるかもしれないんだよね?」
「こらチノ。危ないからやめなさい」
「はは。そうだね、一般人が入れるのはこの一階の赤く塗られたところだけだよ。それでもおもしろいものは沢山あるから心配は無用だ」
「ええー、じゃあこの『鋼鉄の道』にも行けないの?」
 チノはぷうっと頬を膨らませる。よっぽど遺跡見学が楽しみだったらしい。
「そうだな。チノが将来有名な機工師になって、町の遺跡修復隊に選ばれたら入れるかもしれない」
「ほんとっ?」
「もう、先輩もおだてないで下さい。何かあったらどうするの」
「大丈夫だよお。お姉ちゃんたら心配症なんだから」
 腕を組んで溜息をつくキルナと、くすくす笑うチノ。ようやく先ほどの一件を忘れてきたみたいだ。
「わたし、一流の機工師になるよ。それでさっきのムカつく野郎をひざまずかせて靴でも舐めさせてあげるんだからっ」
 前言を撤回する。全然忘れていないようだった。

 入口の小屋で入場料を払い、俺たちはぽっかりと空いた穴に続く階段を恐る恐る降りていった。灯りをたいているからか、むっと空気がこもっていて生暖かい。
「わ、なによこれ。随分暗いじゃない」
「雰囲気があっていいじゃないかい。ほらごらん。あそこに行けばもう少し明るくなるよ」
 穴といってもそれはかなり巨大なもので、高さも幅も蒸気機関車が通れそうなくらいある。発掘品を外に出すためにはこんな広さの入口が必要だったのだろう。足場も木製の階段で固められていて、遺跡という割に歩きやすい。現代の技術の産物である電球によってその奥底が薄ぼんやりと浮かび上がっている。その先にどんなものがあるのか。機工師でなくとも、胸がどきどきした。
「な、なんか古代の魔物とかでてきそうな感じですね」
「わはは、流石に魔物はいないよ。いてもネズミとかコウモリ程度だね。あと、ゴキ」
『いやーーっ!!』
 双子の見事な悲鳴デュエットと共に先輩が殴り飛ばされる。
「いたた……酷いなあ。嘘じゃないのに」
「やだやだ無理! 絶対無理!」
「まずいことになったわ。今日はセライムがいないのよ? 対黒い悪魔の最終兵器なくしてあたしたちにどう戦えっていうのよ……」
 そういやセライム、教室で黒いアレがお出ましになったときも、平然と紙ごしに掴んで窓の外に放り投げていたっけか。あいつはそういうのに面しても、恐ろしいまでに平気なのだ。
「ううー、大丈夫かなあ。ユラスは使い物にならなさそうだし」
「うむ。ご期待に沿って俺は逃げるぞ」
「胸張って言うんじゃないわよ」
 そんなことを話していると、ついに階段が終わり地下一階――第一層と呼ばれる場所に辿り着く。
 マリンバの地下遺跡は、ミラース歴が始まる以前に栄えた古代文明の跡だと言われている。遺跡から発掘された遺物の数々は、現代よりも遥かに高度な文明の存在を無言で語るが、何故古に花開いた機械文明が滅びてしまったのか、知る者はいない。
「おわ」
 俺は思わず息を呑んで立ち止まった。目の前に広がっていたのは、魔力を宿した水晶球に仄かに照らされた、広大な石畳の部屋であった。といっても、その石畳はところどころ崩落して黒い穴を覗かせ、代わりに俺たちの足元には木製の橋が渡されている。入口にほど近いからか、広間といっても良いくらいの広さがあった。しかも壁はまだ土がむき出しになっている。本来は更に広かったのだろうから、その大きさは計り知れない。それらが仄暗く照らされている様は、一気にその場から現実感をはぎ取るほどに神秘的だった。
「わあ――!」
 チノが目を輝かせて橋の手すりから身を乗り出す。石畳のところどころには石碑のようなものが置かれ、まるで神殿の入口のようだ。石碑はほとんどが朽ちていたり半ば砕けていたりして、何が書いてあるのかは定かでない。
「あの石碑は何が書いてあるのかしら」
「古代文字だからね、完全解読はされていないけれど――でも一部は解読されている。『記憶』、『星』、『海』、『空』、そんな単語レベルでだけれどね。ここに眠るものたちの説明をしているのではないのかと考えられている」
 歩いていくと、渡された橋の途中に看板があり、この広間の説明がされていた。ここからはよく見えない石碑の模写も描かれている。俺はそれを見てはっとした。

『忘れることなかれ。禍々しき記憶。語り継ぐ賢者は千代の時を越え。分かたれた記憶。その銘、蒼き根源、紅き根源、紫なる――』

「――っ!?」
 ぞわりと言い知れぬ寒気に鳥肌が立つ。意図せず流れ込んできた得体の知れない響きにぞっと胸の底が冷えて、思わず目を背けた。それは知らない言葉で、知っている響きで、確かに俺の心に牙を立てた。
 待て。
 あそこに描かれていた不思議な文字が――読めた?
 いや。頭の中に流れ出すものをせき止める。――例え読めたとしても、俺は黙っていなければいけない。俺は、今はただの学生なんだから――。そう念じながらぎゅっと顔に手を押し付ける。
「ユラス君?」
 ふらついた俺を訝しく思ったらしい。顔をあげるとアナトール先輩が眉を潜めてこちらを見つめていた。
「あ、いえ……」
 唾を飲み込んで、俺はぎこちなくいつもの笑みを浮かべた。そうだ。今、俺は何も見なかった。何も読むことができなかった。そう、心の中で何度も唱える。そのくらいしないと、足元が崩れ落ちてしまいそうだった。
「ちょっと暗くて、足元が狂いますね、ここ」
 駄目だな。このくらいで慌てていては。強くならないと。
 目を閉じて、開いて。そうすると少し心は落ち着いてくれた。うん、もう大丈夫。
「そうだね……?」
 アナトール先輩はそれからも不思議そうにこちらを見やっていた。
 そのとき視界の端で、石碑の一つの影がちらっと光った気がした。もちろん、誰も気づいていなかったけれども。


 ***


 それにしても――。
 古代文字なんて読めちゃったんだなあ、俺。
 歩きながらやっと落ち着いてきて、俺はどうにかその事実を胸の内に落した。
 ううむ。これでは『百年の時を眠り続けた世紀の魔術師』説が有力になってしまう気がする。嫌だな、それ。
「うーん、もうちょっと、こう……捻りを加えたというか、そういう設定もふっ!?」
 腕を組みながら考えていたら、立ち止まったアナトール先輩の背中に思い切りぶち当たった。
「わ、すいませ……」
「なんで同じ日に何度も会うのかなあ、もう」
「え?」
 心底うんざりしたような口ぶりに首を傾げて見回すと、キルナとチノも同じように不穏な気配で身構えている。
 そこには先ほどと同じように観光者用の橋が渡されていた。だが、床までの距離はちょっと心臓に悪いくらいに遠い。もしかしたら底は第二層なのかもしれない。そんな空中回廊のような橋の上からは、壁から浮き出す金属の破片や機械を掘りだした形跡を見ることができて、橋の中央辺りには座り込んで何かをいじっているニフリス少年の姿があった。
 ああ。なんだかとっても嫌な予感。
 ちらっとニフリスはこちらに目をやって、興味なさげに顔を手元に戻す。彼の横には『作業中・足下にお気をつけて/マリンバ地下遺跡修復隊』と書かれた看板が無造作に置かれていた。
「なにアイツ、ここの修復作業に携わってんの?」
 小声ではあるが、地下ではめちゃめちゃ声が反響するから絶対聞こえてるぞ、チノ。
「悪かったな、携わっててよ。あんまり騒がずさっさと行ってくれ」
 ああ。やっぱり聞こえてる。ぷうっチノが頬を膨らませて腰に手をやる。敵意まるだしである。
「なにやってるの」
 堅牢で幅の広い木製の橋をずんずん踏みしめて、止める間もなくチノは近寄って行った。その間にも手際よくニフリスはロープの端の金具を装着し、もう片方を橋の一部に取り付ける。
「あんたには関係ないね」
 邪魔するなという目線でチノを一瞥すると、ニフリス少年は曲芸師みたいな身軽さでひょいと橋を飛び越えた。そのまま体と橋を繋ぐロープを巧みに手で操って下に降りていく。本人は顔色一つ変えずにやっているが、薄暗い地下に命綱ひとつで飛び込んでいくのはとんでもなく勇気を必要とするだろう。流石、マリンバの機工師。三人には申し訳ないが、内心でちょっぴり賛辞を贈る俺である。
 ニフリスは淀みない動作で底まで降りていくと、腰に縛ってあった工具を取り出し、そこにあった照明の水晶球をいじりはじめた。まるで俺たちなど意識の外にあるようだ。
「おお、すごい」
 感心して思わず口にだすと、チノにギロリと鬼のような形相で睨まれた。恐ろしかったので慌てて両手で口を塞ぐ。
 と、その瞬間であった。ざわっと背筋が泡立った。耳の奥底で幼い響きが聞こえてきたのは同時のことだった。
『――わっ、わっ、いけない! どうしよう――!』
 声をあげる間もなかった。ニフリスがいじっていた水晶球が突然光を失ったかと思うと、悲鳴のような甲高い音をたてて砕け散ったのだ。解放された魔力が衝撃波となって辺りに巻き起こる。ミシリ、という嫌な音に真っ先に反応したのはチノだった。続いて腕で顔をかばっていたニフリスが俺たちの方を仰いだ。チノが橋の一部にくくりつけられたロープに手を伸ばした。その木製の橋の壁面が、ミシミシと音をたてながらひびわれていくのが見えて、アナトール先輩も駈け出した。しかしこの距離だと間に合わない!
「危ないっ!!」
「おい、バカやめろ!!」
 チノとニフリスの声が交差する。チノの手がロープを掴んだ瞬間、金具がくくりつけてあった橋の手すりが折れる。
「チノっ!!」
 キルナの悲鳴が木霊した。チノは間一髪でロープを掴んだが、その為に体を前につんのめらせた。男一人の体重がもろにかかるロープだ。小柄なチノに支えられるわけがない。それどころか、ロープの重みに引きずられてチノの体は宙に舞った。勿論、その先にいるニフリスと共に。
「――っ」
 チノの見開いた瞳が、最後の最後、視界に焼きついた。不意に何かの魔力を感じた気がしたが、凍りついた世界の中で二つの体はいとも簡単に老朽化した床を突き破り、闇の中へ消えた。
 何もかも終わるのに、たった数秒ともかからなかった。崩落の後、嘘のような静寂が一瞬だけ俺たちを包みこみ、それを絹を裂くような声がかき消した。
「――ゃ、チノ……チノっ!!」
「キルナ!」
 後を追おうと橋の壊れた手すりに駆け寄るキルナを、アナトール先輩が止める。しかしキルナは我を忘れたように目を見開いたまま先輩の腕の中で暴れた。いつもの冷静なキルナからはかけ離れた、今までに見たこともない取り乱しようだった。
「行かなきゃ! チノが、チノが!」
「落ち着いてキルナ! 道連れになったって仕方ない、まずは人を呼ばないと――」
「嫌よ! あの子のところに行かなきゃ」
 ぱんっ、と乾いた音が泣き叫ぶキルナの声を途切れさせた。アナトール先輩が軽くキルナの頬をはたいたのだった。キルナの瞳が揺れて、呆然と先輩の顔を見上げた。
 アナトール先輩は、静かな声で言い聞かせた。
「キルナ。――自分が今、何を一番にすべきか。分かるね?」
 ひとつひとつの単語を言い含めるように区切りながら聞かせると、キルナは暫く呆然とした後、震えながら頷いた。アナトール先輩は厳しい顔つきで素早く俺に指示を下した。
「僕とキルナで外の人に言ってくる。ユラス君はここで待って、人が来たら事情を説明してくれ」
「は、はい」
 自分が固まったまま何ひとつ動けなかったことに、その瞬間気づいた。同時に、どっと汗が噴き出して胃の奥がぎゅっと縮む。突然の出来事はまるで現実感を奪い取り、夢の中にいるように足元がおぼつかなかった。
 アナトール先輩はすぐにキルナの手を引いて元来た道を戻って行った。キルナをここに置いていかなかったのは、あいつがまた勝手にチノを追おうとするかもしれなかったからだろう。
 二人がいなくなると、がらんどうの大部屋には俺だけが残された。足音も遠ざかり、そうなると先ほどのことが何もかも夢のように思えてくる。
 しかし――これは現実だ。腰が抜けたままよろよろと壊れた手すりのところまで行くと、遠い床にぞっとするような黒い穴が口をあけて闇を覗かせていた。底は第何層になるのか、見当もつかない。息を呑んで、その場に座り込む。
「――」
 チノの見開かれた瞳が脳裏に浮かんだ。こんなところから落ちて、無事なんだろうか――。
 ……いや。
 がくがくと震える体を抱えて、かぶりを振る。そんな事実に今の俺は震えているのではない。
「……動けなかった」
 俺には、ここでも魔術を行使することができる。誰も知らないし、知られてはいけないけれど、でも俺はあのとき、魔術を用いて二人を助けることができたはずなのだ。水晶球が砕けたその瞬間、ニフリスを空中浮遊術でも使って守ることができたなら、こんなことにはならなかった。
 なのに、俺はただ見ていることしかできなかった。突然の出来事に、呆然と立っていることしか。いや、動けはしたはずだ。けれど一瞬の迷いが全てを決した。知り合いたちに魔術が街中で使えることを知られてしまうことへの不安が、体を縛り付けていたのだ。
 そんな理由で? そんなくだらない理由で、俺は何も出来なかったのか。

 まるで、あのときと同じように。何もせずに見ているだけなのか?

 ――ごぽごぽごぽ。

「――っ!」
 じわじわと胸の奥底に眠る何かに心を蝕まれて、息が詰まった。このまま、二人がもしも帰ってこなかったら――。いや、そんなことがあるはずがない。けれど、この高さだ。一刻を争う怪我をしていても不思議ではない。
 冬だというのに、だくだくと汗が額を流れるのを感じていた。このままではいけないと、心の奥がわめいていた。
 セライムだったら、どうしたろう。あいつがここにいたら? あいつが俺だったら。ああ間違いない、ためらいもせずに魔術を行使したことだろう。でも俺にはそれが出来なかった。なら、そんな俺にあいつは何を言うか――?
 座ったまま、橋の下をもう一度そっと覗きこむ。アナトール先輩は後を追おうとしたキルナを止めた。こんな高さから落ちたら危険だし、それにその向こうに何があるのか分からないからだ。
 しかし俺は『こんな高さから落ちても危険ではない』。
 ごくりと唾を呑んだ。意識すら遠くなりそうな緊張の中で、俺はかたく目を閉じて頭のもやを振り払い、そして決断した。
「――」
 詠唱をほとんど飛ばして、一気に魔力を集中させる。もたもたしていると人が来てしまう。震える体を叱咤して立ち上がり、息を思いきり吸い込むと、思い切って魔力を解き放った。
「精霊の御名において」
 俺の体はその瞬間、羽根を得たように舞い上がると、一気に暗闇に向かって落ちていった。


 ***


「バカ。起きろよ」
「――うー」
 なんだか全身が重たくて節々が痛い。嫌な夢を見た後のように心がすくみあがって、心臓が嫌な音をたてていた。
 ここはどこだろう。ぼんやり目を開いて、チノは記憶を手繰った。先輩に呼ばれてマリンバに来て、地下遺跡に入って。それで――?
「わっ!?」
 ほぼ何も見えない暗闇の中でぬっと伸びてきたものに腕を掴まれ、大声をあげながら飛びずさろうとした。だがぐっと握られてしまってそれも叶わず、抵抗しようとした瞬間にぶっきらぼうな声がした。
「動くんじゃねえ」
「え――ぅ、ええ」
「情けねえ声だすなよチビ」
 その声には聞き覚えがあった。しかも、やたらに腹の立つ記憶だったので、すぐに誰なのかを思い出した。そして、何故こんなところにきてしまったのかも。
「あ、あなたニフリ」
 だが次の瞬間、雷鳴に似た大声を出されて、チノの体はすくみあがった。
「んのバカ!!」
 頭から冷水を浴びせるような強い声だった。
「てめぇ機工師だって言ったか? ええ? 何やってンだよ、あそこであんなことしたらてめぇも一緒に落ちるって野良猫だってわかる道理だろうが! バカじゃねぇのか、とっさの判断がそれだなんてよ、それでも機工師か」
「――んなっ」
 チノは一瞬ぽかんとそれを聞いて、そうして息を吸ったが、言葉が出てこなかった。ニフリスの言うことは、確かに正しかったが、しかしそれ以上に――あのときの恐怖が、今になってやっと襲いかかってきたのだ。ロープに引きずられて宙を舞う体。闇に落ちていく瞬間の絶望感。今生きていることが不思議で仕方ない。
 心がぎゅっと締め付けられる同時に、体が嘘のように震えだして涙が滲みだした。そうなるとひどく自分の体が小さくなってしまったように思えて、急に姉の顔が恋しくなった。
 ニフリスはそんなチノの様子を、暗がりの中で敏感に察知したようだ。小馬鹿にするようにわざとらしく息を抜いた。
「ったく、これだから女ってのはすぐびーびー泣きやがってよ。面倒臭い」
「な、泣いてないもん」
「泣いてんだろうが」
「泣いてないもんっ!」
 半ばムキになって、チノは腕で目元を乱暴に拭うと立ち上がった。
「わたしだって、何も考えてなかったわけじゃないよ! あなた一人で落ちてどうするつもりだったの」
「はあ? バカじゃねえの」
 ニフリスはどうやら座ったままのようだ。やっと暗闇に目が慣れてきて、周囲の影がぼんやりと見えるようになってきた。
「待つに決まってんじゃねえか。ここで不測の事態が起きた場合は、その場に危険がない限り待機が基本だ。今頃アナトールの奴が上に呼びに行ってるだろうさ、下手に動けば向こうにも手間がかかる」
 これだからグラーシアの連中は。そう嫌味ったらしく付け加えるのに、チノは眉間にしわを寄せる。どうしてこうグラーシアを忌み嫌うのだろう。
「ったく、面倒かけさせやがって。いいからてめぇはそこでじっとしてな」
 ぼりぼりと頭をかいてニフリスは手持ちの工具を漁りはじめ、小さく舌打ちした。
「ちっ、予備の水晶までイッてやがる。なんなんだよ全く」
 恐らくは灯りに使う魔力を秘めた水晶が、先ほどの一件で全て壊れてしまったのだろう。チノはまじまじと周囲を見回した。真の闇ではないから、恐らくはどこかに光があるはずで、それはつまり人の手の入っているところであることを示している。つまりここは、完全に人に知られていない区域ではなさそうだ。確かにニフリスの言うとおり、黙って待っていれば助けは来てくれるだろう。
 それにしても、とチノはともすれば再び震えだしそうな体を抱きしめながら考えた。何故自分たちはほぼ無傷なのだろう。体の節々は確かに痛いが、あんなところから落ちた痛みとはとても思えない。
 かたん、と背後から音がして、ふとチノは振り向いた。ニフリスも機敏に手を止め顔をあげた。
 ぼうっと、闇の中に煌めく光が現れた。それは岩陰から零れだす弱い煌めきであったが、この暗闇の中では十分まばゆく、チノは思わず目を細めた。
 そうしている内にニフリスにぐっと腕を引かれる。危ないから下がれ、というように。
「――ぁっ」
 高くか細い声がしたと思った次の瞬間、チノはよく知った感覚に襲われた。それは魔力によって空気の流れが変化する感覚だ。つまり、誰かが魔術を使っている――?
 頭上から鋭い破裂音がしたときには、ニフリスは猫のように素早く走り出していた。腕を掴まれたチノは恐怖に胸を凍らせ、転びそうになりながら続く。今の破裂音が何によるものだったのかは分からなかったが、とにかく身に危険が迫っていることは確かなようだった。

「わっ、ちが、違うんだよ――待って、待って――」
 彼らが脱兎のごとく走り去った後、そんなかき消えてしまいそうな声が小さく闇に木霊したが、聞く者はもちろん誰ひとりとしていなかった。そして小さな煌きは、上から別の気配が降ってくるのに気付いて慌てて岩陰に消えていった。




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