-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

56.ヤな人



 冬だというのに、だくだくと汗が額を流れるのを感じていた。呼吸を忘れていたのかもしれない。極度の緊張に、意識すらも遠くなりそうだった。
 目下の暗闇を凝視し、そのまま瞼を伏せる。時は無情な足取りで針を回し、過ぎていく。波打つ鼓動の早さが、決断を迫っている。拳に食い込んだ爪の痛みを他人事のように感じながら、俺はひとり、ぎゅっと目を閉じて歯を食いしばった。
 なんで、こんなことになったんだっけ――。


 ***


「ふはっ!?」
 なんか苦しいなあと思う内に油汗が滲みだし、いよいよ死にそうになって俺は飛び起きた。同時に、ぱっと被さっていた気配が退いていく。体が勝手に空気を求めて喘ぎ、新鮮な空気を肺に送り込む行為を繰り返す。そうして、やっと自分がどこにいるのかと考えるに至った。
 ええと、俺は今、グラーシアを出てマリンバに来ているのであって。
 それで――。
「おはよう、ユラス君」
 見上げたそこにはアナトール先輩がいて、部屋には香ばしい朝食の香りが立ち込めていた。
 ああ。思い出した。ここは、アナトール先輩の暮らす下宿屋の一室だ。双子の姉妹は宿を別にとったのだが、俺は先輩の厚意で部屋に厄介になっているのだった。朝の白い光が、開かれた窓から降り注いでいる。
「……はようございます、先輩」
 奇妙な違和感に半ば呆然と答えると、アナトール先輩はニッと笑う。
「中々目覚めがよろしくないね。やむなく『起きない子を起こす秘術その3』まで実行させて貰ったよ」
「……え」
 そういえば、なんで起きた瞬間あんなに苦しかったんだ。なんだか鼻でも詰まったみたいに呼吸ができなくなって――?
「さあ、朝食の支度は整っている。乙女を待たせるのは紳士ではないよ、ユラス君」
「は、はい――?」
 よくわからないまま、テーブルに促された。

 アナトール先輩の部屋は、町外れの古ぼけた下宿屋の3階にあった。窓を見れば隣の家の窓に飛び移れそうなほど間が近くて、建付けも悪いし、壁が薄いのか隣の音もまる聞こえだ。けれど、よく整理されていて、何よりアナトール先輩がそこで楽しそうに暮らしているのがわかる部屋だった。隅にはその辺で拾ってきたらしきスクラップが転がっていて、修理しようとした形跡がみられる。部屋の壁にも、将来を夢見るように複雑な機械の設計図がいくつも貼り付けてあった。

 グラーシア学園での生活の良いところは、制服の着用が定められている点にあると思う。朝は何も考えずに決まった制服に袖を通せばいい。それができなくなるのが長期休業中の面倒なところだよなぁと思いながら、俺は鞄から着替えを取り出した。アナトール先輩は既に黒い服に着替え、こげ茶の上着を羽織っている。俺はここに来て2日、この先輩の寝起きを見たことがなかった。
 アナトール先輩の料理は、フェレイ先生の太鼓判の通り非常においしい。豪勢ではないが、安く買える素材でうまく作ってるなあとしみじみしながら、俺は朝食を頂いた。いつもスアローグとの朝はコーヒー一杯で済ませていたのだから、それとは比べものにならない健康的な生活である。
「今日は何処行くんですか?」
「ふっ、よくぞ聞いてくれた」
 俺の問いに、アナトール先輩は芝居じみた動作でさらっと髪をかきあげた。
「そうだな――言うなれば、そこは神の降り立つ聖地の跡。神獣たちの戦いの痕跡だよ」


 ***


「神獣……?」
 キルナとチノが、同じ顔で目を丸くする。こういうときの表情は本当にそっくりだ。
「そう。このマリンバの地にはね、今から数百年も昔のある晩、どこからとこもなく相反する力を持つ対の獣が降り立ったのだよ。朝は紅玉、夜は紺碧の瞳。谷をも渡る巨体、白銀の鬣、雷鳴のような鳴き声、岩をかみ砕く強靭な牙、大地を引き裂く鋭い爪をもつ、美しく猛々しい2匹の獣」
 ようやく歩くのにも慣れたマリンバの通りは、相変わらず猥雑な様相を呈している。昼だというのに電球をぎらぎら光らせて存在を主張する工具店の前を通りすぎて、アナトール先輩は講義をするように語った。
「その頃、もうこのマリンバには人が住んでいたのだけどね。獣を恐れて人々は逃げ出した。何故なら対の獣は降り立つが早く、互いを互いで喰らいあうような壮絶な戦いを始めたからだ。戦いのさなかでは、大地は悲鳴をあげ、太陽ですら昇ることを渋り、狂った風があらゆるものを薙ぎ倒し、はるか彼方の海まで荒らしたと語られる」
 ああ、その話は――聞いたことがある。この世が終わるような壮絶な戦いを続ける対の獣の伝説。最近わかってきたことだが、何故か世界にはこのような対で戦いあう獣や鳥、魔物たちの伝承が伝わる地がいくつも点在している。そしてその言い伝えについては、考古学者どころか魔術師たち全員の興味の対象になっているのだ。何故かというと――。
「戦いは十の夜明けと十の晩を経て終焉を迎えた」
「どっちが勝ったの?」
 チノは機工科所属だからか、この伝承のことをほとんど知らないらしい。目を輝かせて問われ、アナトール先輩はくすりと笑った。
「それは誰も知らないのだよ。あまりにも壮絶な戦いは、そこに人を寄せ付けなかったから。それに、戦いが終わると対の獣は双方とも忽然と姿を消してしまったんだ。そして後に残ったのは――」
「強大な……魔力源」
「そう」
 俺の答えに、アナトール先輩は満足げに頷いた。
「戦いが終わってからというもの、この地で魔術を行使するとやたらうまくいく。魔力を蓄えられる植物がみるみる育つ。対の獣が神獣と呼ばれるのはそれが所以さ、あの戦いは魔をこの地に植えつける儀式だったと人は考えてる」
「へえ、対の獣の話は聞いたことがあったけど、それってマリンバの話だったのね。でもマリンバの魔力源だなんて聞いたことないわ」
「そりゃね」
 アナトール先輩は俺たちを先導しながら、眼鏡の向こうの瞳をすっと細める。
「神獣が降り立ったのはもう数百年前。それから長い時間をかけて、この地の魔力は薄れていってしまったのだよ。戦いの舞台だったと言われる広場には、当時の学者たちの足跡が沢山残ってるんだけどね……」
 気がつけば、人でごった返す道を抜けて、少し寂れたところに差し掛かっていた。道がだんだん開けていくと同時に、町並みも少し違ってくる。けれど、空気はやはりマリンバのそれだった。アナトール先輩は皮肉げに口元を少しだけ歪めた。
「今はただの観光地さ」

 博物館や資料館から土産物屋までが軒を連ねる広場は、真ん中に建てられた記念碑を除けば、至って普通の土地にしか見えなかった。
「……本当にここで戦いがあったのかしら」
「まー、もうはっきりとした年代がわからないくらい昔のことだからねえ」
 キルナが眉を潜めるのを見て、ひょうひょうと答えるアナトール先輩は、冬の冷たい風に唇の端を引きながら空を見上げた。
「ともあれ、夢があっていいだろう? それに良い時期に来たね、とても空いている」
 先輩の語るところによると、夏は結構な人が観光に来るらしく、この辺りの混雑は嫌になるほどだそうだ。今見る限りでは広場は閑散としていて、人影も少ない。
「――あれ」
 アナトール先輩が不意に、低い声で呟いたのはそのときのことだった。
 その視線の先では、古びた作業着を着た、俺たちと同じくらいの少年が、脇道からでてくるところだった。そうして彼もこちらに気づいて、離れていてもわかるくらいに眉間にしわをよせて立ち止まる。
「あっちゃぁ。ヤな人に会ってしまったものだなあ」
 俺たちにしか聞こえないくらいの小声でごちた先輩は、しかし顔に人の良い笑みを浮かべ、会釈して近寄って行った。なし崩しに俺たちも続く。
「おはようございます、ニフリス」
「なんだお前かよ。気楽に散歩なんていい御身分だな」
 アナトール先輩の挨拶に、栗色の髪を刈り込んだ少年は明らかな挑発で答えた。どうみても先輩のが年上っぽいのに。少年は小柄ながら太い眉の下に細い眼を光らせ、傍から見てもわかるほど強くしなやかな体躯をしている。短く切った茶髪が冬の風の中では寒々しく見えるのだが、本人はまるで寒さを感じているように思えない。まさにマリンバの機工師って感じだ。無骨な手には、作業道具が入っているらしき古ぼけた袋を持っている。
「ええ、工場長の厚意でね。感謝していますよ」
「あの親父は甘やかしすぎるんだよ。新入りの癖にのんびりしてるといつか足元すくわれるぜ、頭でっかちさんよ」
 ひくっ、とアナトール先輩の口元が引きつったのは気のせいかもしれない。先輩は至極笑顔でそうですねぇ努力しますとか言ってる。でもなんか合間に電流でも流れてる気がして不穏だ。ああ、俺に火の粉が降りかかりませんように!
「なんだ、こいつら。ひ弱そうな連中だな」
 火の粉どころか火の玉が降ってきた。
 アナトール先輩の影に隠れそうになる俺と、むっとする双子の姉妹。なんだか険悪な流れになりつつある。
「僕の後輩です。学園が長期休業中なんで、遊びにきたんですよ」
 後輩、という言葉を聞いた瞬間、気に障ったように少年の体が揺れた気がした。気がしただけであって欲しい。なんだ、ここではグラーシア学園って評判悪いのか。
「フン、てことはお前ら機工師か?」
「機工学科はわたしだけだよ」
 つっけんどんにチノが言うと、少年は嘲笑するように口元を歪めた。
「はは。おもしれえな、女子供が工具持ってオママゴトかよ」
「――なぁっ」
 直球の罵倒に、キルナの片眉が跳ね上がり、チノの頬がぱっと紅潮する。俺はというと、止めるべきか逃げ出すべきか、どちらも恐ろしくて出来ずに、とりあえず目線を反らして逃避していた。だって、怖い。
 必死で勉学に励んでいるチノと、そんな妹を大事にしているキルナのことだ。今の一言は心をいたく傷つけたろう。一歩踏み出しかけた彼女たちを止めたのは、アナトール先輩だった。
「ニフリス。あなたは女性を貶す為に足を止めたのですか?」
 その声には真剣な怒りが含まれていたが、ニフリスと呼ばれた少年は悪びれなく肩をすくめてみせた。
「悪い悪い、ちょーっとからかいたくなっちまっただけだ。そんな顔すんなって。じゃあな、麗しの学園の生徒さんよ。俺も忙しいんでね」
 ひらひらと手を振ってニヤリと笑い、身軽な動作で歩いて行く。後には、とてつもなく空気を悪くされた俺たちだけが残された。
 無論、はじめにチノが爆発した。
「む、むかつくー! 何アイツ、何なのーっ! わたしを敵に回したこと、絶対後悔させてやる……っ!」
「チノ、落ち着きなさい。あたしが代わりにブチ殺すわ。で先輩、あのクソは一体どこの誰」
 この双子、こういう危険思想もそっくりである。俺はあわあわしながらアナトール先輩を見上げた。先輩はふむ、と難しげに顎に手をやっていた。
「彼はニフリス。僕が働いている工場の跡取り息子だよ。どうも僕のことを嫌っているらしいんだ。気を悪くさせてすまなかったね」
「なんで嫌ってるんです?」
 俺は素直に首をひねる。だってこの先輩、嫌われるような人柄じゃないし。
 するとアナトール先輩は眉尻を下げて苦笑した。穏やかな眼差しは、無知な俺のことをちょっと眩しがるみたいだった。
「グラーシア学園卒業の肩書はね、確かに世界に通用する。けれど、だからといって全ての人から歓迎されるわけではないんだよ。ユラス君」
 少年――ニフリスが去った方向を見る。獣のようなしなやかな姿は、既に視界から消えていた。
 学びの楽園、グラーシア。そして、最高学府として名を馳せるグラーシア学園。
 その地しか知らない俺にとって、アナトール先輩の言葉は胸に深く落ちた。
「そうだな、仕返しにまたコーヒーに下剤でも仕込んでやるとするか」
 最後にアナトール先輩がぼそりと零した一言については、俺は聞かなかったことにした。なんだかとてもあまりに恐ろしかったので。




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