-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

55.アナトール先輩



 人のざわめき。息使い。幾重もの足音。肌に感じるそれらは全て、生き物の住処の証。そんなものに取り巻かれて――。
「さーまよう人びーとあーめなる御国のあーるじーをみーよやー」
 賛美歌を歌わずにはいられない俺は、絶賛迷子中であった。
 連れを見失ってしまったが為に、見ず知らずの土地に一人。周囲には、佇む俺など見えもしないように流れていく人々。冷たい風が身に染みる。
「キルナー、チノー」
 名を呼びながら歩き回るが、それらしい人影はすっかり見当たらない。完全にはぐれたようだった。
「どうしよう」
 チノは確か、なんとか広場のガラクタ像前で待ち合わせとか言ってたっけ。俺は頬をかきながらちょっと考えた。
「うーん」
 この人だかりの中では、お互いを探すのは大変そうだ。やみくもに探して見つかるとも思えないし――。
「仕方ない」
 俺は頷いて決心した。うん、なんとかしてその待ち合わせ場所ってところに一人で行ってみるか。そこで落ち合うことができるかもしれないし。
 そう決めると、俺は人ごみの中を歩き出した。広場っていうくらいだから、人が流れる方向に行けばそんな感じのところにぶつかるだろう。

 ――それにしても、すごいところだ。どうやら今俺がいるのはグラーシアでいう大通りみたいなところのようだが、その様相はまるで違う。
 カンカン、と上からの音に顔をあげれば、なんと屋根と屋根の間に渡された橋を人が工具を担いで渡っている。あんなところ、怖くないんだろうか。
 扉が開きっぱなしの飲食店では、湯気のあがるスープをふるまっているのか、古い椅子に所せましと様々な人々が腰掛ている。道のあちこちには得体のしれない巨大な機械が点在し、それをいじる機工師のお兄さんもいる。
 声を張り上げチラシを配るのは、工具店のおじさんだ。店もけたたましい色合いで値札の紙がそこら中に貼られ、人だかりができている。かと思えば、そんな人ごみの中を数人がかりで資材を運ぶ人の姿。
 なんというか、いろんなものが流動的で生き生きしている。そしてそれらの音もすごい。まるで、時が一刻過ぎるのですら惜しんでいるようだ。
 だが、始めはそんなものを興味深く眺めていた俺も、段々と不安を感じ始めていた。
 ――いつまで続くんだ、この通り。
 グラーシアでは、大通りを歩いていればやがて広場に辿り着く。しかし、先ほどから結構歩いているはずなのに、そのような場所は見えてこない。
「うーん」
 これは人に聞いてみた方がいいかもしれない。キルナたちも心配してくれてる(と信じたい)だろうし。
 この土地の人に道を尋ねるのはかなり怖い気もするのだけれど、仕方ない。誰か、こんな迷える羊たる俺に手を差し伸べてくれそうな人を探さなくては。
「うん?」
 きょろきょろとあたりを見回すと、ふいに甘い匂いが鼻をくすぐった。でも花とか香水とか、そういった華やかな類のものではない。もっと人間の原始的な欲望を喚起させる――食べ物の匂い。
 ぱっと振り向くと、道の角に屋台が見えた。前面には年季の入った赤い看板が掲げられている。その奥では、肝っ玉がよく据わってらっしゃるんだろうなぁとつくづく思わせる太ったおばあちゃんが木製の箱の蓋をあけていた。甘い匂いはそこから拡散し、俺まで届いたらしい。
 おばあちゃんは箱から二つ、湯気をたてる白いものを取り出して紙に包み、屋台の前にいた男の人に渡した。男の人は代わりに銅貨を差し出している。
 何か甘味の店なのだろうか。俺の甘党としての興味がむくりと首をもたげる。
 ちらっと脳裏で考えてみた。
 旅先で出会う、グラーシアにはない甘味に舌鼓。
「最高だ」
 俺は迷うことなく、熱い意志を胸にそちらに向かった。今の俺の出で立ちは、古に炎の堕天使と恐れられた女将軍プリエル・ボロウドゥールの気高さにも勝ったろう。
 ひょいと近づいて屋台の様子を覗きこもうとすると、つい今しがたここで甘味を買った男の人と目があった。地味だけど垢ぬけた感のある服を着た若いお兄さんだ。金色の長い前髪の下で、銀縁の眼鏡と共に丸い瞳がきらりと光る。
「おや、君。旅行者かい?」
「あ、はい」
 俺は若干どぎまぎして頷いた。まあ、こんな大荷物を抱えているのだから、旅行者とばれるのは当り前だろうけれど。
 するとお兄さんはニッと目を細め、屋台に目配せした。
「君はとても運がいいな。この店との出会いは女神の思し召しと考えていい、何故ならここの蒸し饅頭は知る人ぞ知る銘菓だからだ」
「やだねぇ、おだてないどくれよ!」
 屋台のおばあちゃんが赤面して腰と手を同時に振る。男の人はふわっと前髪をかきあげて、俺に流し目をくれた。
「二つ買うことをお勧めするよ」
「えっと」
「いらっしゃい、旅の人。この饅頭は一つ食べると一年長生き、二つ食べると三年長生き。マリンバの元気の源さ! さあさあ、買うなら今しかないよ」
 おばあちゃんはすっかり商売モードで口上を述べながら、木製の入れ物の蓋を開いてくれた。ふんわり香る甘さ、そして中から覗く雪のように白い饅頭の様子に空の胃袋が反応して、思わずごくりと唾を飲んだ。
「じゃ、二つ」
「まいど!」
 つられて頼むと、おばあちゃんは手際よく二つを包んでくれた。代金を払って紙袋を受け取ると、隣で先ほどのお兄さんが饅頭にかぶりついている。饅頭からは湯気がたって、なんとも食欲をそそってくれる。
「熱い内に食べるのが礼儀だよ、君もすぐに食べるといい」
「はい」
 俺は紙袋を開いて、白くてふわふわした饅頭を割れ物のように取り出した。儚く柔らかい生地が、指に頼りない感触を与えてくる。ほかほかと温かいそれに、俺は迷うことなくかじりついた。
「――」
 刹那、目を見開いた。
 しっとりとした白い皮は軽やかな歯ごたえを。中からとろりと溶けだす懐かしい味のクリームが、優しい甘みでそれらを彩る。冷たい空気に触れたからか、ふわっと湯気が漂い、鼻孔を甘い香りでいっぱいにした。
 ああ――。
 俺は、ぎんと強い光を瞳に宿し、お兄さんを見上げた。
 お兄さんもまた、悠然と笑ってこちらを見下ろした。
 俺たちは暫しの間、まるで仇敵同士のように睨み合って――。
 ――がしっ!!
 固く固く、握手を交わしあった。
 この瞬間、俺たちの間には幾千の山を越え幾万の猛獣と戦いあらゆる苦楽を分かち合った戦士たちよりも深い絆が生まれたのであった。
 甘味好きに、悪い人はいない。それ以外に、この絆に理由が必要だろうか。いや、ない。
「うまいです」
「だろ」
 お互いに何年も前から親友だったと言わんばかりに、にやりと笑い合う。それから暫く、俺たちは無我夢中で饅頭をはふはふしながら貪り食った。甘さが控え目だからか、同じ味なのにいくら食べても飽きがこない。決め手は後味をひかないクリームだ。コクがあるのにするすると口に入ってくる。
 それにこの寒さの中で、ほかほかの饅頭は体を芯から温めてくれた。かじかんだ指もじんわりと温められる。この上なく幸福だった。
 マリンバ、とってもいいところ。
 そんな方程式が脳内を塗りつぶしていく。
「この饅頭の素晴らしさが理解できるとは、君は中々見込みがあるな。観光かい?」
「そんなとこです」
 ぺろりと二つの饅頭を食べ終わって指についたクリームを舐めると、お兄さんは悪戯っぽく笑った。中肉中背でとりわけすごい美男子というわけではないが、笑顔には愛嬌があって世話好きな印象を与える。そしてどこか知的でゆったりとしたところがあった。フェレイ先生にちょっと似てるのかな。
「この時期に珍しいね。ディスリエ大陸から来たのかい?」
 きっと俺の髪と瞳の色を見て、そうと判断したんだろう。俺は苦笑して否定し、グラーシアから来たのだと告げた。
「いや、連れとはぐれちゃって。そういえば、ガラクタ像ってどこに――」
 俺がそう尋ね、お兄さんがふと眉を跳ね上げた、その瞬間だった。
 背中に、悪寒が走った。折角饅頭が温めてくれたはずの体が、瞬時にして凍りついた。
 ああ。嫌な予感。
「ユラスのばかーっ!!」
「どぅふっ!!」
 俺の体は、華麗な孤を描いて中に舞った。無論、背後から思いきり蹴り飛ばされたからである。世の無常さを身をもって知る俺である。
「げふっ!」
 地に虫けらのごとく叩きつけられる俺に、罵倒は容赦なく降り注いだ。
「このカスっ!! はぐれたと思ったら何こんなところで油売ってるのーっ!」
 チノであった。キルナもまた、凍りつくような目線を送ってきてくれている。どうやら俺を探し回ってくれていたらしい。天国と地獄という心境をこれでもかと味わう今日この頃。
「もうー、アナトール先輩もガラクタ像前にいないし! 今日は最悪――あれ?」
 倒れた俺の背中を爪先でぐりぐりしていたチノが、ぴたりと止まった。お怒りが収まるのをただひたすら待っていた俺が顔をあげると、双子が同じ顔で固まっている。そして、その先でにこにこしているのは先ほどのお兄さん。
「……」
 先に動いたのはキルナだった。つかつかとお兄さんのところまで寄っていって、何をするのかと思えばおもむろにお兄さんの胸倉を掴み――ってちょっと待て!
「お、おいキルナ――」
「ガラクタ像の前で待つと言ってましたね、――先輩?」
 俺はぎょっとしてお兄さんとキルナを見比べた。ええ、待ってくれ。展開についていけない。キルナが先輩って呼ぶことは、もしかしてこの人が。
「はは、キルナ。女性は見るたびに美しくなる、すっかり見違えたね。いやしかし、体の線という点に関していえば、もう少しゴッ!!」
 胸倉を掴まれようがものともせず、キルナの胸の辺りをちらちら見ながら言い放ったお兄さんは、華麗な正拳突きをくらって水平に投射されていた。そのまま地面に叩きつけられ、もうもうと砂煙があがる。俺は思わず目を反らして、その怒りがこちらに向かないことをただ祈った。
「ふっ……ふふ。拳のキレは格段に良くなったな、先輩は嬉しいよ」
 腹を押さえながらも金髪をかきあげ、お兄さんは立ち上がってくる。打たれ強い人のようだ。
「なんなら蹴りもご覧にいれましょうか」
「そうだな。また別の機会にしてくれると嬉しい」
「せ、先輩! アナトール先輩っ! なんでこんなところにっ!」
「ふっ、よくぞ聞いてくれた!」
 そう。お兄さん――アナトール先輩は、大袈裟なそぶりで腕を開き、晴れやかな笑みを湛えてこう言った。
「はじめは待っていたのだが、吹きすさぶ寒さに凍え体は悲鳴をあげた! この悲哀を癒すには饅頭を食べるしか道はないと死に瀕する体を抱えはるばるここまで」
 最後まで言わない内に、アナトール先輩はキルナとチノ、それぞれの蹴りをくらって宙を舞う風の人になっていた。


 ***


「そうか、君がユラス君だったのか。どうりでフェレイ先生の言う子によく似ていると思った」
「俺のこと聞いてたんですか?」
 マリンバの飲食店はとても賑やかだった。木張りの店内を照らすのは裸の電球。机や椅子は長年の使用を物語るように、独特の光沢を放っている。俺たちはその片隅に座って、キルナとチノは古い友人との邂逅を、俺は新たな友人との出会いをそれぞれ果たしていた。
 隣に座るアナトール先輩は俺よりも二つ上と聞いたが、見た目はもっと年上に見える。物腰が落ち着いているからかもしれない。切るのが億劫なのか少し長めに伸びた金髪、銀縁の眼鏡の向こうでやわらかく笑う明るい空色の瞳。服は一見普通なのだが、さりげないところに飾りがついていて趣味の良さを伺わせている。だがそんな様子も決して目立つわけではなく、よくマリンバに溶け込んでいた。ちょっと機工師って感じはしないけれど。
 先輩は優雅なそぶりで、無骨なカップに入ったコーヒーを飲んだ。
「フェレイ先生とはよく連絡をとっているからね。手紙にはよく君のことが書かれていたよ」
「うっ」
 思わず顔をひきつらせる。フェレイ先生、この先輩に俺の何を語ったんでしょうか。
「先輩、休暇はいつまでとれたんですか?」
「勤勉たる僕は工場からの評価も上々。初めての長期休暇だし、七日は休むよう言われたよ」
 キルナの質問に受け答えする先輩の姿は、機工師というよりは学者だ。やっぱりグラーシア出身だからかな。
 すると、砂糖をたっぷりと入れた紅茶を飲んでいたチノが、机に腕をついて身を乗り出した。
「先輩、最近は何作ってるの?」
 その瞬間、不意にキルナの口元がひきつったが、俺にはその意味がわからなかった。アナトール先輩は、よくぞ聞いてくれたといわんばかりに前髪をかき上げた。
「最近やっと金属加工をかじらせてもらったよ。そうそう、うちの工場に最近金属のひずみを計測する機械がきてね」
「え、そんなのあるの!? 実験方法はどうやって」
「うん、験体を筒状に加工して研磨するだろう、それをアルディートで固定してその先端に荷重をかけながらトルクをかけるんだけど」
 ……。
「たわみが」
「制作精度の誤差は」
「ボルチャー係数が」
「破断面の様子はね」
「でもユルグ率を考慮すると」
「問題は硬化時間で」
 ……。
「ユラス」
 ふと、顔をあげると、キルナが何かを悟った笑みをこちらに向けていた。
「理解しようと思わない方が身のためよ」
「……そうだな」
 世の中、俺の知らない世界もあるんだなあとしみじみする。やっぱりこの先輩は一端の機工師なのだ。チノの嬉々とした顔を見ると、会話の弾みようもよくわかる。こいつ、本当に機械が好きな奴だから。
「いや、チノが変わっていなくて嬉しいよ。マリンバは良いところだ、熱い魂が宿っている。少しの滞在でも十分な刺激をくれるはずだよ」
「明日はどこに連れてってくれるの?」
「乙女たちの要望とあらばどこへでも」
「ほんとっ!? じゃあ、えっとねぇ……」
「この際だものね、十分奢ってもらいましょ」
「ふ、任せておきたまえ」
 チノは嬉しそうに荷物からパンフレットを取り出すと、キルナと算段を始めた。そんな様子を、アナトール先輩は頬杖をついて楽しげに眺めている。面倒見の良い人だ。

「ああ、そういえば。ユラス君、鷹目堂で働いてるんだって?」
 不意にそんなことを聞かれて、ちょっとびっくりする。
「え? ええ、そうですけど」
「ハーヴェイさんとティティルは元気にしてる?」
「ええ、まあ。でもなんでですか?」
 するとアナトール先輩はニッと目を細めて、ぎょっとするようなことを言ってくれたのだった。
「聞いていなかったのかい? 僕、君が来るまであそこで働いていたのさ」
 ――俺たちのマリンバの観光は、そんな感じで幕を開けた。




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