-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

52.狭い世界



 薄青に沈む朝もやの吹き溜まりの中、木陰の古びた椅子とテーブルはその形をぼやかし、耳が痛くなるような静寂は、ひっそりと彼の姿をそこに隠していた。
 たっぷりと布を使ったローブは冬の気配に熱を奪われ氷のように冷たく、目を伏せたままの彼の様子は景色と共に凍り付いてしまったかのような静けさに落ちている。

 ――はじまりは、一体いつのことだったのだろう。

 男は薄く眼を開いたまま、ぼんやりと感慨にふける。この歪みは、何を起として始まっていったのだろうか。
 紫の少年が目覚めたときか。
 彼の存在がこの世にあれと誰かの唇から紡がれたときか。
 それとも、この都市が英雄の手により成ったときか。
 あるいは――。
「あなたが、生まれたときでしょうか?」
 開いた唇から、口内に早朝の瑞々しく冷たい空気が流れ込んできて、彼は薄く笑ってテーブルに置物のように座る紫の鳥をちらりと見た。
 鳥もまたまどろんでいるのか。声をかけたこちらに見向きもせず、もやに紛れたままでいる。
「――セト君」
 そう紫の少年によってつけられた鳥の名をなんとなしに呟いて、彼は僅かに顔を歪め、空を見上げた。風はなかった。このまま眼を閉じれば冷たくなって消えてしまえるのではないかと思うほどに、世界は時を止めていた。
 しかし、停止したかに見えるそれは見せかけにすぎない。もう、冬がすぐそこにやってきていた。時計の針は足取りを止めず、雲は流れて霧はやがて晴れ、まどろみと目覚めを繰り返す内に時は過ぎていくのだろう。
 体温が奪われていくのを感じながら、彼は瞑目する。さきほど少女に嘘をついたことが、彼の胸をじんわりと灰色に染めていた。
 そう。彼は嘘をついたのだ。崩れてしまわぬよう、毅然と絶っていられるよう、あの小さな汚れた部屋で、彼はその喉を使って狂言を紡いだのだ。
 本当は、本当は――。
 ざわめきはじめた心の様子を他人事のように眺めて、彼は口元を歪めた。自分を糾弾した男の言葉が焼きついて離れなかった。
 ――奴と同じ眼だ。
 ふっと息を短く吐き出す。ふ、ふふ。それは、搾り出すような彼の笑い声だった。
 顎を引くと、長い前髪が頬にかかった。ああ、救いようがない。やはり、この体はもう壊れてしまったままなのか。狂気は抑え込むことが出来ないのか。この手に望みを得ることは出来ないのか。
「――わかりません」
 自らの絶望からの問いに、弱々しく返す。顔をあげた男の横顔は酷く無防備で、まるで親を見失った子供のようだった。ふらふらと視線をさまよわせた彼は、けれど痛みを覚えながらもそっと手をもたげる。掠れた声で、己が渇望した世界を唇に乗せる。
「それでも私は望みます」
 一度は砕けて散ったこの心が求める光景を。何度でも、この入れ物が朽ちて果てるまで。そう、それが得られるというなら、他には何も望まない。それだけで、それだけで、彼はほんの少しずつ、自らの心を繋ぎ合わせることができるのだから。
 だから、それだけで――。
 紫の鳥は、彼の独白に耳を傾けたままぴくりとも動かない。世界が始まったときからそこにいると言わんばかりに、紫の翼を折りたたんで座している。
 男はふと朝の霞んだ景色の中に、懐かしい幻を一瞬だけ見た気がして。一人、孤独に一人、聖なる都市の片隅に佇む――。


 ***


 俺は一人、第二考古学研究室の自席に座って絶賛怠惰中であった。
 舐めていた棒付き飴をタバコのように二本の指でつまんで口から離し、悩ましげに溜め息をつく。
「――はあ」
 気が滅入っていた。
 やる気が起きない。
 何をするのも面倒くさい。
 何故、そんなことになっているのか。
 それは、由々しき問題が山脈のごとく目の前に立ちはだかっているからである。
「……」
 うん、いや。
 本当のところを言うと、――明日、期末考査なんである。
「うわーん!!」
 一人で頭を抱えて突っ伏した。
「現代科学と魔術実習Bは苦手なんだーっ!」
 部屋が無人なのをいいことに、大声をあげながら煩悶30秒。
 だって、現代科学の分野は俺が元から持ってた知識の中には何故か微塵も含まれなかったから、勉強しなきゃいけないし。実習の方は魔力を300程度に押さえ込みながら魔術行使をしなきゃいけないから疲れるし。
 欝だ。風邪でも引いて休んでしまいたい。
 しかも、このことを愚痴るにも愚痴れる人が見当たらない。これらの要因は全て、俺自身の謎に起因するのだから。
 知能の面においては、頭の中にある情報量が半端ないのは確かなのだが、何故だか方面によってはぽっかりと情報が欠けていることが最近分かってきた。現代科学が良い例だ。公式や理論を見ても、全く覚えがない。故に一から学ばないといけないのである。いや、それが学生として正しいあり方なのだろうけれど。

 力まかせに飴をボリボリ噛み砕いて、新しい包みに手を伸ばした俺は、ふと机の端に置き去りにされた本に目をとめた。
 世界鳥類図鑑。これは、セトの種類を調べようとした残骸だ。結局、あまりの鳥類の多さに嫌気がさして、半ばまで読んだ辺りで放り出したのである。
 そういえば、返却期限がもうすぐだったか。そろそろ返しにいかないと。
「うーん」
 俺はぼんやりと本のページをぱらぱらめくった。色とりどりの鳥の図が丁寧に描かれている。ぼうっと見ている分には少しおもしろいかもしれない。茶色の鳥から白い鳥、黒、灰、鮮やかな緑、そして紫。
 ……。
「――うん?」
 紫?
 ムラサキ?
「……」
 俺は、たっぷり五秒固まって、
「な、なんだってぇーーっ!?」
 血液を逆流させながら音速で本を手元に引っ張り寄せ、そのページを覗き込んだ。
 ばくばくと心臓が鳴る。震える指で開いた資料を確認すると――確かに、そこには紫の鳥が記されているのであった。
 マジか。
 ぱらぱらめくっただけで引き当てるなんて。俺ってばなんて運の持ち主だ。
「どれどれ」
 俺は逸る気持ちを抑えて、注意深く添えられた文章を読んだ。そうして、もう一度スケッチされた紫の鳥の絵をじっくり吟味して――、違和感に突き当たった。
「うん?」
 この鳥は、セトと同じ種では……ない。
 何故なら、スケッチされたその鳥は縮尺を見るに体長が手の平ほどしかなく、色もセトのような鮮やかなものではなかったからだ。顔立ちもどこか違う。
 色や顔立ちについては、個体差というくくりで片付けられるかもしれない。だがこの大きさの違いはどうしたことか。セトは腕で抱えるほどもあるのだ。
 では、セトはこの種ではない、別の紫の鳥の種なのか。
 だがその仮説も、添えられた説明文が打ち消してくれる。
『世界で唯一、紫の翼を持つ鳥』
 ということはこの記述が正しければ、セトは全くの新種になるんだろうか。
「売ったら大儲け?」
 よこしまなことを考えている場合ではない。それにそんなことしたらセトに殺されそうだ。
「はて」
 俺はもう一度、まじまじとその文章に目を通す。
 紫の鳥は、イザナンフィ大陸の奥地に生息。嘴は大きく、羽根が短いのが特徴。
 そして――100年ほど前に絶滅。文章はそう締めくくられている。

『冗談じゃねぇ。ねぇよ、そりゃありえねぇ』

 あの医者の人の言葉が脳裏に浮かぶ。
『犬でもあるまいし鳥がそんな知能あるわきゃねぇ』
 鳥にとって、ありえない知能。まるで俺の言葉を理解しているようなそぶり。
 また、いつか壊れた楽園が燃えた夜、セトの放ったあの光――。あれは多分、何かの魔力によるものだ。だが魔術を使う鳥など、それこそ考えられない。
「俺と同じ――だよなぁ」
 ありえない知能と、未知数の力と。そして、体にもつ紫色と――。
「……分からん」
 口の中で飴を転がしながらぼやいて、俺はとりあえずその資料をとっておくことにした。
 もちろん、本自体は図書館に返さなければいけない。だが、魔術を用いることでページを転写することは可能なのである。学園の所定の場所に行って申し込めば、担当の人がやってくれる。
「んー」
 俺は、鼻から息を抜いてちょっと考えた。転写に手続きが必要な理由は無論、それに魔術を用いるからである。この都市では魔術は行使できないようになっているから、魔術が使える限られた場所に行かなきゃいけない。
 でも。俺には、この場で魔術が使えてしまうわけで。
 わざわざ徒歩で移動するのは、ただでさえ気が滅入ってる俺にとってこの上なく面倒臭――いや、多大な労力を強いるが故に精神状態を著しく損ねかねないのである、たぶん。
「……」
 俺は、右を見た。左を見た。
 窓の外を見て、扉が閉まっていることを確認した。
「よし」
 明日は実習の試験もあることだし、その練習だ。そういうことにしておこう。どうせ誰も見ていないし。
 転写術の手法は既に実習で習っている。引き出しから白紙を一枚取り出して、開いたページに重ね置く。俺は一度深呼吸して、その上に手をかざした。
「――精霊の御名において」
 習ったのは印をきる方式であったが、個人的に詠唱の方がやりやすいのでそちらに従う。
 言葉に呼応して周囲の空気がざわめく。しゅるり、と流れが収束して指先に集まってくる。半眼のままそれを操ると、白紙だった紙にじわじわと黒い点が染み出した。はじめはただの散乱した染みであったそれらは次第に線を成し、情報となって形作られる。
「ふぅ」
 転写は割合簡単な術だ。俺はあっさりとそれを終えて、魔力を解き放った。魔術行使後特有の脱力感にさいなまれながら肩から息を抜いて、
 ――がちゃん。
「のぅぁあああっ!!」
 突然開かれた扉に、口から心臓が出る気分で文字通り飛び上がった。
「……せ、せんぱい」
 扉を開いたのはヴィエル先輩だった。真っ青な俺を見て怪訝そうな顔をしている。幸い、こっそり魔術を使っているのは見ていなかったようだった。
「ど、どーも、いやとても良いお日柄ですね」
「――」
 上ずった声で取り繕いながら、転写済みの紙をさりげなく机にしまい本を閉じる。しばらくヴィエル先輩はそんな俺を眠たげな目で眺めていた。だ、大丈夫だ、見られてはいないはず多分おそらく。
「……ぁ、あの、先輩?」
 恐る恐る口を開くと、先輩はふいっと視線を外して中に入ってきた。一番奥の席、先輩の定位置だ。古い椅子にだらしなく腰掛けると、先輩は断りもなくタバコを咥えて火をつけた。まぁ俺はそこまで気にならないからいいんだけど。
 でも、とりあえず窓は開けた方がいいかな。ふわっと煙の臭いが鼻を刺激する。
「アンタ」
 窓枠に手をかけた俺の背中に、呼びかけが当たって落ちる。
 ……。
 うん、なんだ、この空気。
 なんだかこれから尋問でもされるみたいだ。
「は、はい」
 やや緊張気味に振り向くと、ヴィエル先輩が強い眼差しをこちらに送ってくれていた。
 ええと。
 オレ、ナニカワルイコトシマシタカ。
 どうしよう。怖い。逃げてしまいたい。ああ、でも先輩の場合大剣でもひっさげて追ってきそうだ。とっ捕まえられ切り刻まれて無残な最期をさらす可哀想な俺様――。
「ごめんなさい命だけは勘弁してください」
 平身低頭、這いつくばって謝った。
「アンタさ」
 ふふっとヴィエル先輩はかすかな笑い声を漏らす。
 俺はちょっと片眉をあげた。今日の先輩、一体どうしたんだろうか。いつもはこんなに積極的に話しかけてくることはないのに。
 そんな先輩は机の角で灰を払って(ああ、あとで掃除しておかないと)さらりとこんなことをのたまった。
「命、惜しい?」
「……」
 ……。
 言語、思考の両方がパーンと派手に破裂する音を、俺は聞いた。
 ……。
 いや、待ってくれ。
 俺、殺されること前提なのか?
「えーと、その、ええはい最低限生きていたいですいやすいません生きててすいません」
 獣に追い詰められた小鹿のごとくぷるぷる震える。
 ヴィエル先輩はそんな俺をどう思ってか、ふいっと床に目をやって気だるげに桃色の髪を払った。真っ直ぐ伸びたそれがさらさらと再び背に落ちる。
「あ、あの先輩。何か御座いましたでしょうか」
 大魔王様に話しかける気分で尋ねると、先輩は逆に聞き返してきた。
「アンタ、ここにいて楽しい?」
「え」
 楽しい、ここにいて?
「俺……楽しくなさそうですかね?」
 ぽりぽりと頬を指でかいて、俺は首を捻った。本当に先輩、何かあったんだろうか。
「えっと」
 どう答えたものかと戸惑ったが、一人虚空を眺めるヴィエル先輩にはどこか真剣なものが垣間見えたので、俺は背筋を伸ばして窓を開いた。ひゅう、と冬の冷たい風が吹き込んでくる。
 ――ここにいて楽しいか。
 それは、グラーシアの生活が楽しいか、ということだろう。でも目覚めてからこの地しかしらない俺は、他に比べるところを知らない。
 他人の話でこの地はいびつなのだと聞いたことはある。だからもしかしたらそこで暮らす俺の生き方もいびつなのかもしれない。
 けれど。俺は窓に背をつけて少し俯いた。ガラスの窓はひんやりと冷たい。
「俺、世間知らずっていうか。今まで狭い世界しか見たことがないから、他人から見たら俺の人生なんて楽しくなさそうなのかもしれないですけど。でも、ここでは俺にとって何もかもが新しいんです。人と話すことも、知らないことを知ることも、考えることも」
 春に目覚めてからの記憶。学園への編入。寮での生活。研究室での出来事。過去を求めて都市を出た夏の日。俺を糾弾したあの灰色の少年と。壊れた楽園で助けを求めてきた、人形のような少女との出会いと――。
 記憶を失くすまでの俺がどんな人間だったのかは分からない。でも、今こうしている俺にとってそれらは楽しいことでも悲しいことでも、心に焼き付いている大切な記憶だ。絶対に忘れたり失くしたりしたくない。
「だから楽しいですよ。それに、この都市好きですし」
 俺のその言葉を紫煙をくゆらせながら聞いていたヴィエル先輩は、ふっと目をふせた。長いまつげがゆらめくのが印象に残る。
「ここ卒業したらどうするつもり」
「や、わからないです」
 俺は苦笑した。一年以上先の自分がどうなっているかなど、予想もつかない。グラーシアに残るのか。どこか違う場所に行くのか。
 ああ、でも別の場所に行くってのも面白いかもしれない。そこにはきっと、ここで俺が得たような俺の知らないことが沢山あるのだろうから。
「どうしましょうかね」
 そんなことを考えていたから、返答の声も弾んだ。先輩は唇から細く煙を吐き出して、ふいっと顔を背ける。
「――何もかも忘れてる――か」
「え?」
 よく聞き取れなくて顔をあげる。が、そのとき元気よく扉が開かれたので、俺はそちらに振り向いた。鞄を手にシアが入ってくるところだった。
「遅くなってごめんなさい、お疲れさまですぅ――って」
 シアは挨拶すると一転してぎょっと目を見開いた。
「先輩ぃっ! なにやってるんですかぁ、室内でタバコはダメって言ったじゃないですか! もうすぐ監査が来る時期だってご存知ないんですかぁ、ユラスさんものんびりしてないで止めて下さいよぅ、ああ私は悲劇という名のフライパンで身を焦がされている気分ですぅ!」
 一息でここまで言ってのけるシアにはいつも感心する。
 ヴィエル先輩はおもむろにタバコを押し付けて消すと、頬杖をついてそっぽと向いた。もうー、とぶつぶつ言いながら机に鞄を置くシア。いつもの光景だ。
「ってそうだ、聞いて下さい大変なんですよぅ、というか先輩担任から呼び出されたのに行かなかったでしょう! 酷いです何故か私が呼ばれたんですよぅ!」
 ここに来るのが遅れたのは先生に呼び出されていたからか。シアは言うが早く鞄を開けて封筒を取り出した。
「なんだ、それ」
「これ、先輩に渡すようにって。とにかく先輩、開けてみて下さいよぅ」
 『担任から』『先輩に』『手紙』。
 俺は、ひっと息を呑んだ。ももももしかして、それは――退学勧告とかそういう類の書類だろうか。先輩、授業さぼるし。繁華街で遊んでるし。ここまで来て卒業させてもらえないとか? そうだ、だからさっきの先輩様子がおかしかったのか!? 
 とんでもなく失礼な方向に思考を転がす俺だったが、シアも似たようなことを考えていたらしい。頬杖をついたまま手紙を受け取る先輩に、不安げな顔を向けている。
 先輩は煩わしげに封筒を開封し、無言で複数の書類に目を通した。
「な、何が書いてありますか」
 黙りこむ先輩に冷や汗がでるのを感じながら問いかける。すると先輩は気だるげに息を吐き出して、ぽっと書類を投げてよこしてきた。読みたきゃ読め、といわんばかりに。
 俺とシアは顔を見合わせて、拾ったそれを二人して覗き込んだ。
「――」
 暫くの沈黙の中、先輩がライターをいじる音だけが落ちる。
「……先輩」
 シアが、呆然と呟いた。
 俺も、呼吸を止めて文面を何度も見直していた。
 そして、やっとのことでその意味を理解して――。
「おめでとうございますぅーっ! グラーシア先端考古学研究所なんていつの間に申請だしてたんですかぁ!?」
「先輩、グラーシアに残るんですかっ! 孤高の旅に出るとかじゃなく!?」
「……一度に喋るんじゃないよ」
 ヴィエル先輩はちらっとこちらに視線をよこして、皮肉げに口元を歪めた。
「よっぽど人手不足だったらしいね」
 そう。その書類は――ヴィエル先輩が卒業後、このグラーシアの研究機関に配属されることになったことを知らせるものだった。グラーシアの生徒は多くがこのように卒業後は都市内の施設に入るのだ。
 それにしてもあのヴィエル先輩が普通に研究者の道に進むなんて、わからないものである。
「ということは、これからも都市でお会いできるんですねぇ! こっちにも遊びに来て下さいよぅ!」
 きっとシアも先輩が遠くに行ってしまうのではないかと心配してたのだろう。目じりに涙まで浮かべている。本当に嬉しいんだな、こいつ。
「じゃあ、お祝いしましょうっ! ユラスさんケーキ買ってきてください」
「おう、ケーキなら任せてくれ」
 勝手に盛り上がる俺たちを横目に、ヴィエル先輩は呆れたような笑みを浮かべているのだった。
 うん、でも本当に良かった。来年も先輩がグラーシアにいるのなら、相談事もしに行けるし。新しく研究室に入ってくる生徒も紹介できる。皆でどこかに遊びに行っても面白いかもしれない。先輩は面倒臭がりそうだけど――。
 とにかく今は、と思って俺はとっておきのケーキを買出しにいくべく、足取り軽く研究室を出た。


 ***


 その頃、第一考古学研究室ではグリッドが仏頂面で書類に目を通していた。
 担任から渡されたそれは、彼が志望した研究施設からの受け入れ承認通知であった。
『貴殿を我がグラーシア先端考古学研究所の研究員として受け入れたく――』
 文章をごく当たり前のように眺め、必要事項を確認するとグリッドは何の感慨もなく書類を封筒にしまった。志望した機関に入れたからといって、彼の顔色は少しも変わりはしない。それは当たり前のことだし、ここにいようがどこにいようが、彼にすることに変わりはないのである。何を喜べというのか。
 ふと彼は、あの桃色の髪の女はどうしたのだろうと考えた。
 成績も良くないだろうし、あの様子では受け入れてくれる場所に苦労しているのではないだろうか。
「――馬鹿馬鹿しい」
 口の中で呟いて、かぶりをふる。あんな女を気にかけるなど。あのときの自分はきっとどうかしていたのだ。そう、きっとそうだ――。
 まあ、いい。あの女が行き場をなくして困ることがあれば、自分の行き先でも紹介してやってもいいだろう。無論、きちんとした態度で向こうから頼んできたら、の話であるが。
「ふん」
 グリッドはいつものように眼鏡の位置を直して、書き途中の論文に向き合うのだった。




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