-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

51.境界線



 薄気味悪い。そう言われたときから、居場所など何処にもないことを知っていた。
 安住の地など自分には程遠い。希望を持ったことはあった。吐き気がするような故郷から逃げ出したとき。海を渡れば、そこに光があるのだと心の片隅で信じていた。自分がいた場所より深い闇が渦巻く場所などないと思っていた。
 しかしそれは甘ったれた子供の幻想で。踏み出したはずの新天地が前にいた場所とそう変わらないことを知り、何かを諦めたその瞬間、彼女は自らを守るものが自らでしかありえないことを悟った。
 諦観は彼女を強くした。人を寄せ付けぬ格好、振る舞い。生きる為に必要なものだった。防具のようにそれらを身につけ、武器のように惜しみなく振るった。それらをそつなくこなす程度には彼女の頭は回った。いくら自分を哀れんだところで助けてくれる者などいないことを、幼くして彼女は知っていた。

 そうやって生きていれば、闇はいつだって隣にあった。
 潔癖を装う聖なる都市は、その実かき集めた汚物を己の片隅に無理矢理に押し込んでいたのだ。そこで堕ちていくのは酷く簡単なことのように思えた。
 ただ、悪意に満ちた光の中でも十分に生きる力を持つ彼女は、頭まで闇に覆われてしまうことも出来なくて、ぎりぎりの境界線を歩き続けることによって今日に至る。
 しかし時にふと立ち止まって考えるのだ。
 どちらにも行けない自分はなんて空虚なんだろう。そう思うたびに、境目を歩いている自分の体が鉛のように重く感じられる。
 いっそのこと、深淵に足を踏み出してしまえば、そうすれば自分は安定するのだろうか?
 
 だから、気付けばこんな場所にいるのだろうか。
 男に言われた場所に赴いた彼女は、小汚い部屋に背を壁につけて、目の前の男を眺めている。
 彼が語るは恐ろしく残酷な物語。聖なる学び舎を侵食する有象無象の輩たち。その中心にいるのは――紫の少年。ある日学園にやってきた編入生。己のことを一切話さぬ正体不明の少年。
 男は、全てを闇に帰さねばならないと語った。
「あれを誘き出せ。あれはお前だったら油断する」
 男は陰鬱な表情を宿すまま、薄暗い部屋に溶け込んでいる。
「あれを見くびるな。扱う魔力は未知数――この都市など指先ひとつで潰す可能性すらある」
 ヴィエルは男の暗くけぶる緑の瞳を正面から見た。にわかに信じがたい話である。彼が語る恐ろしい少年は、彼女の目に映るあの少年と全く結びつかない。
「あれを呼び出すだけでこの金。悪くないだろう?」
「呼び出した後、どうするつもりさね?」
 境界線が、すぐそこにある。触れれば二度と帰ってこれないであろう闇が、そこで鎌首をもたげている。
 彼は、――ラオと名乗った男は、歓喜を瞳に宿してにやりと口の端を吊り上げた。その横では、小さなテーブルに拳銃が鈍い光沢を放っている。
「長かった悪夢が終わる――それだけだ」
 恍惚すら見える表情はぞっとするほどの狂気を覗かせていて、ヴィエルは思わず嫌悪の表情を浮かべずにはいられなかった。
 だから、つとめて抑揚を消した口調で返す。そんな声は自分でも驚くほどに低かった。
「アタシには信じがたい話だけど」
 狭い部屋の奥底で粗末な椅子に腰掛けていたラオは、ぴくりと頬を動かした。まるで予想外のことを聞かれた、といわんばかりに。
 彼の年齢は40代後半といったところか。しかし髪をぼさぼさに伸ばし、それが濁った瞳にかかる様子は、陰鬱な老人のようにも見える。服の裾から覗く手足は枯れ木のように細く、まるで亡霊のようだ。
「グラーシアの徒はそこまで愚かなのか?」
 ラオは舐めるようにこちらを見上げ、口元を歪める。
「夏に起きた高官が殺害された事件を知っているだろう」
 壁を背につけて立つヴィエルは、大陸中を揺るがせた事件を思い起こした。凶悪な惨事の様子は幾日も新聞の中を踊り狂ったが、未だに犯人は捕まっていない。
「奴がやった」
「――」
 ぐらり、と視界がくらみそうになる。ラオは拳銃に指を滑らせながら、とつとつと語る。
「その高官こそが、全ての始まりと言っていい。彼の依頼で事は始まった。しかし崩壊は訪れ罪人は体を切り刻まれ臓腑を引きちぎられ、部屋を黄昏より昏い真紅に染められた」
 黒に滑る指がかたかたと痙攣したように震える。次は自分だ、と呟くように。
「あれは人を憎んでいる」
「――アタシにはそうは見えない」
 正直なところを告げると、男は顔をあげぎょろりとこちらを睨んだ。足が勝手に一歩さがろうとするが、背の壁に阻まれてかつりと音を立てるだけに終わる。
「あれは躾をされていない獣と同じだ。無邪気に牙を立て人を食らう」
 正気の光を失いかけた目だと思った。たちの悪い夢でも見ているようだ。彼が語る物語は、どこまでが真実なのか。
「俺だって、こんなことはしたくない。あんな恐ろしい場所から開放されたんだ、小金でも稼いでとっとと国を出ようと思った。だが、あれが生きている限り、あれは俺たちを追うだろう。地を引き裂く怒りを持って!」
 ぶつぶつと呟くような音は、次第にほとばしる咆哮にとって変わる。何かに取り付かれたように目を見開いた男は、ぜいぜいと耳障りな呼吸音を響かせ、浮かしかけた体を再び椅子に収めた。
「――あれは、化け物だ」
 むせかえるような嫌悪と憎悪を含んだ呟き。
 生粋の紫水晶をはめ込んだような瞳を思い出す。彼の瞳は曇ることも、しかし輝くこともなく、ただ世界を映していた。まるで外界の様相を取り入れるだけで精一杯という風に。
 ふう、と無理に息を吐き出してヴィエルは顎を引く。
 このラオという男から聞きだせる情報はこれだけか、と彼女は思考を巡らせた。元より紫の少年の正体を知る為に彼女は彼の話を聞いたに過ぎなかった。
 しかし、彼が語る物語は耳が凍るような悪夢。どこまでが真実なのか掴めない、むしろ全て狂言なのではと疑うほどの深い闇。
 彼は紫の少年を消すという。
 ヴィエルは努めて息を深く吸い込みながら、内心で薄く笑った。目の前の男は、現在の紫の少年を見たことがあるのだろうか。
 真実はこの男にはない、と彼女は口には出さずに断じる。悪夢のような物語は途方もなく、雲を掴むような話だったからだ。
 何よりも――普通の生徒と同じように振舞う紫の少年を消してしまおうと考えるなど、常人のすることではない。
 適当にこの場を切り上げて、警視院に行こうと思った。こんな男を野放しにしてはおけない。

 しかし、と別のところで違う彼女が呟くのだ。
 もしも彼の言葉が真実だったなら?
 あの少年が、彼の言う通りの化け物だったなら?
 そんなことはありえる筈がなかった。人にありえない力と知を持ち、途方もない目的の為に彼が存在するなど。
 ――だが確かに。確かに紫の少年には妙なところがある。彼の周囲に蠢く何かは、確実に存在する。
 ではこの男を信じるというのか。
 そうだ。この男の話を全く信じていなかったなら、今宵ここに来る必要などなかったのだ。すぐに警視院に駆け込んでしまえば良かった。
 なのに足はもつれ、混迷に戸惑う内に気がつけばここまで来ていた。
 自分は、何を求めているのだ。その闇に、自らの身を投じたがっているのか。
「あれが生きることを許される場所など」
 何重にもなって聞こえてくる言葉。ああ、境界線がすぐそこにある――。
「そんなところは、どこにもない」
「聖典エリシュによれば」
 その時のことだった。
「精霊の女神はこの世の歴史を語り継ぐ為に妖精を、現を律する為にエルフの一族を、そして未来を紡ぐ為に人を作りだしたそうです」
 反射的に背筋が伸びる。陰鬱な室内に響くは穏やかな旋律。
「しかし妖精は外界との交わりを絶ち、エルフは人との戦の末滅び、地には人が満ち満ちた」
 かつり、かつり。乾いた足音。男が顔色を変えて立ち上がり、拳銃を構える。その姿に今更ながら腹の底がぎゅうと締め付けられるのを感じながら、ヴィエルは閉じた扉が軋みながら開くのを――見た。
「人はひたすら未来を夢見ました。彼らの短い寿命は彼らに多くを学ぶことを許さなかった。だから人は満たされることを知らず手を伸ばし続ける。その為に自らを、そして触れたものを歪めてしまったとしても――」
 まず、目立たない色合いのローブの裾がゆったりと覗く。そして、この大陸では珍しい銀に近い淡い水色の髪。乾いたそれでやや俯きがちな横顔を隠して、彼は部屋に足を踏み出す。男は混乱の表情で拳銃を握りなおす。
 ヴィエルは突然の侵入者があまりに知っている人物であるが故に、このときばかりは色を失った。
「けれど、歪んでしまったもの、いびつなものに居場所が与えられないのは――あまりに悲しいと思いませんか?」
 ゆるりと顔があがる。長身ではあるが、線の細さがまるで威圧を感じさせない。灯りに照らされた色白の面は隠者の印象を与え、学者としての知性を穏やかな佇まいの中に潜ませている。
 彼は突きつけられた拳銃を見止めて、しかし意にも介さぬように首を傾げて微笑んだ。聖なる学び舎を主席で卒業し、教員になってからは目を見張るような速さで頂点まで上り詰めた、その人は――。
「はじめまして。フェレイ・ヴァレナスと申します」
 そう男を正面に、静かに名乗った。
 視界のはずれにヴィエルの姿を捉えているだろうに、彼はそちらには見向きもしなかった。
「――レィ、ヴァレナス」
 ラオははじめ、呆気に取られたように身動き一つもできなかった。しかし、喉の奥でその名を呟き――。
「……っ!」
 理解が訪れるとにわかにその体は震えだし、飛び退くように壁まで後ずさった。
「お前、まさか」
「随分探しました。ようやく会えましたね」
 まるで彼は自分だけが別の世界にいるかのごとく、親しげに笑いかけた。だが橙に照らされたそれは、ぞっと背筋が凍るような違和感を与える。
 彼がもう一歩近寄ると、ラオの引き金にかけられた指は今にも弾を発射しそうなほどにがたがたと震えた。目は血走り声が荒ぶ。
「よっ……寄るな!!」
 そう拳銃の標準を彼の額にあわせようと腕をあげる。
 対して、くすり、と零れる笑み。彼は眉尻を下げて、困りましたねと小さく呟いた。
「そんなに震えていてはこの距離でもあたりませんよ。いいえ、撃つこともできないでしょう。あなたは人を撃ったことがないのでしょう?」
 びくりと男の肩が動揺に揺れた。
「安心して下さい。今のところ、あなたをどうこうしようという気はありませんよ。ただ――お話がしたかったんです」
 耳あたりの良い、お伽話を語るような音色は、まるで終わらない悪夢を語るようでもあった。ラオは心臓を握りつぶされたように目を見開き、亡霊を見る目つきで彼の顔を見た。深い闇の落ちた、底の見えぬ表情を。
「あれを囲ったのはお前か……!」
「あなたは何故ここにいるのですか?」
「当たり前だ、あれを闇に葬る為に決まっている!」
「何故です?」
 軽やかな口調で、荒れた言葉に淡々と返す。対するラオは肩をいからせ、手負いの獣じみた表情を隠そうともしなかった。
「あれは化け物だ」
「それで、人を撃ったこともないようなあなたが、あの子を殺そうと思ったのですか」
「黙れ……っ!」
 しかし彼は怯む様子もなく、更に一歩距離を詰める。背を壁につけたまま、ラオは額に汗を浮かべて口を開いた。
「貴様、何が狙いだ」
「あの子は私の生徒ですよ。教師が生徒を守るのは当然のことでしょう」
「まさか知らないのか、あれの正体を」
「明るくて元気な、普通の男の子ですよ」
「違う。あれの中には憎悪が満ちている。あれは化け物だ。自分が何をしているのか分かっているのか? あれは必ず殺すだろう、お前も俺も、全てを憎み殺すだろう!」
 ちぐはぐな会話。噛みあわない二つの像。
 ヴィエルには、どちらが正しいのか理解できない。
 しかし、彼はそれを聞いてゆったりと頷いた。
「――そうですね。確かにあの子はいつかあなたを、そして私を怒りの余りに消してしまうかもしれない」
 そう紡ぐ彼は、でも、と続ける。
「でも、そうはなりません、きっと。あの子は――良い子ですから」
「あれを飼いならすつもりか」
 ふっとラオの声が低くなる。
 ラオは浅い呼吸をしながら、男を正面から見上げた。石像のように微動だにしない彼の前で怯えるラオはあまりに滑稽で、趣味の悪い絵画でも見せられているかのようだ。
 だが、不意にクッと彼の喉が鳴った。その瞳には嫌悪と憎悪が渦巻き、口元は笑みの形に歪んだ。
「――奴と同じ眼だ」
 その言葉を受けて、初めて長身の彼は口を閉ざした。ラオはそんな彼の表情を見て、開き直ったように吐き捨てる。
「そうだ。奴もそんな眼をしてやがった。人がする眼じゃない、狂った眼だ。己の欲の為にあらゆるものを犠牲にする。お前たちにとっては、人の命もただの数値なんだ。人がどれだけ泣こうが苦しもうが、お前たちにしたら檻の中で嘆く実験動物のようにしか見えないんだろうよ!」
 がん、とラオは拳銃を机にたたきつけた。ひきつったように震える喉はきっと笑っているのだろう。ヒューヒューと呼吸音が聞こえる。
「奴は悪魔だ。そしてお前もな。何もかも、あれの存在が最優先だ。その為にいくつの犠牲が払われたと思う。俺はお前たちには何もかも奪われた。お前たちはルーシャを奪いやがった!!」
 刃そのもののような言葉を持ってして、ラオは尚も吐き散らした。
「はは、お前はこんなこと聞いても何とも思わないだろうがな!」
 狂ったように体を折り曲げて笑う。彼は何も言わない。言葉は続く、どこまでも続く。
「お前たちは全能を装ってさぞかし良い気分だろう! だがもうこりごりだ、お前たちに付き合うのも、あれに追われ続けるのも!! 俺は一人で生きてやる。こんな悪夢を今すぐにでも終わらせてやるんだ!!」
 笑いながらわめく姿は道化のように滑稽で、だが禍々しい凄みがあった。人とは思えないようなひび割れた声になっても、怒りの言葉は止まらない。
「さあ、どうする? ここでお前は俺を殺すか? 眉の一つも動かさずに? やってみるがいい、どうせあの日に殺される筈だったんだ。そうしないと、お前の大事な化け物を退治してしまうかもしれない!」
 暫くはわんわんと笑い声が小汚い部屋を占拠し続けた。
 しかしそれも次第に止み、ラオは力尽きたように項垂れる。まるで劇が終わって操り手を無くした人形のように。
 彼は相変わらず、静謐な佇まいでその様子を瞳に映し続けていた。
「――良いことを教えてあげましょう」
 沈黙の中に落ちた言葉はいやに小さく、覇気がない。ただし、潰えるほどに弱くもなかった。ゆるゆるとラオが面をあげた。憔悴したその顔はまるで死人のようだ。
 彼はそれを見て頬を緩め、うっすらと笑う。絵本の挿絵のように、見る者を安心させる笑みを湛える。それは一部の隙もない完成された表情。聖人の温かみと、人形の冷たさを両方持ち合わせている。
「あの子はあなたのことを覚えていませんよ」
 まるで福音のように彼は告げた。ラオの瞳が跳ねる。彼はやわらかく頷いて続けた。
「そう、あの子は何もかも忘れてしまったのです。だから、海を越えてどこへでも失せなさい」
 くすくすくす。水色の髪が揺れる。
「この地はもうすぐ警視院の取り締まりが厳しくなりますよ。あなたのいるべき地はここではないのです」
 ラオは暫く、理解の訪れない顔で怪訝そうにそれらを聞いていた。だが、思考を重ねて――何かに突き当たったらしい。一瞬だけ眼を見開くと、ふっと笑って弱々しくうめいた。
「――狂ってる」
「それと、もうひとつ」
 嘆きにも似た呟きは、無慈悲にも静かな一声にかき消される。
 つと長身の彼の影が動いた。顔色一つ変えぬまま。ゆらりとその影がラオの顔に落ちた。ラオから見れば、逆光に照らされ深い闇の落ちた彼の姿が死神にも思えたかもしれない。ひっと息を呑んでラオは身を硬くする。
「あの子に指一本触れてごらんなさい」
 優しげな音色はへたりこみかけたラオに無慈悲に降り注いだ。彼の口の端が吊り上って三日月を描く。
 凍り付いてしまったかのようにラオは声もなく喘いだ。しかし呼吸すら許さぬとばかりに――。
 長身の男は、聖なる学び舎の長たる彼は、凄惨な笑みを浮かべて見下ろした。

「私の全てをかけて――あなたを消します」


 ***


 部屋にはヴィエルと学園長のみが残されていた。男は、学園長の最後の一言を聞いた瞬間、学園長を突き飛ばすようにして部屋を飛び出していったのだ。元々、気がふれているような様子であった。最後の一言で壊れてしまったのかもしれない。ただ、離れたところにいたヴィエルにはその言葉が何であったのか、聞き取ることは出来なかった。
 既に学園長の表情からは相手を食らうような禍々しさは消え、普段と変わらぬ穏やかさが戻っている。
「ヴリュイエール君、でしたね」
 机の上に散乱した銃器を見下ろしていた学園長は、ゆったりとヴィエルに向き直る。
 ヴィエルは、はっとして周囲を見渡した。手の平が、驚くほどに汗でぬるついていた。
「ユラス君のことが気になりましたか」
 そんなヴィエルを見て苦笑を滲ませ、学園長は眼を伏せる。
「――とにかく、あなたが無事で良かった。さあ、帰りましょう」
 反射的にヴィエルは眼光を研ぎ澄ませた。目の前にいるモノが――人ではない、得体の知れない怪物のように思えていた。
 あの陰鬱な男は紫の少年の危険さを説き、彼は化け物なのだと語った。しかし、こうしてみると――。

 この学園長こそが、危険な化け物ではないか。

 動かないヴィエルの様子に、学園長は何かを読み取ったらしい。淀むことなく、真っ直ぐに彼は続ける。
「ヴリュイエール君。あなたがしばしばこの辺りに来ているという話は聞いていました。しかし、ここまで危険なことに関わる必要はなかったでしょう?」
「……アンタに何の関係があるのさね」
 すると学園長はふわりと胸に手をやって首を傾げる。
「私はこれでもあなたの教師ですよ」
 ――その刹那、ぞわりと耐え難い嫌悪感が巻き起こって、ヴィエルは拳を握り締めて学園長を睨めつけた。歯を食いしばらなければ、そのまま殴りかかっていたかもしれない。
「アンタが教師だなんて」
 腹の底がぞっと冷えるのを感じながら、彼女は悟っていた。
 あの薄汚れた男が語った物語が、真実であったことを。
 そして、この男は。
 この男は、知っているのだ。
 紫の少年の正体を。
 そこに潜む闇を知って、なのにただ笑みを張り付かせたままそこにいる――!
「何者さね、アタシにはアンタが一番危険に見える」
 殺されるかもしれない、と頭の隅で感じた。彼の思惑はわからないが、自分は真実の破片を知ってしまったのだ。闇に一度足を踏み入れてしまえば、もう後戻りは出来ない。
 しかし学園長は声を荒げるわけでも、先程のように牙を剥くわけでもなかった。
 この空間に似つかわしくない、困ったような表情を浮かべて視線を床に彷徨わせている。まるで、次に言うべき言葉を捜すように。
「――あなたが知りたいのは、私がここに来た理由ですか、それとも私がこの件に関わっている理由でしょうか?」
 暫くの間を空けて、声。
「両方さね」
 吐き捨てるような返答に、学園長は苦笑した。
「私が願うことは、あの子が――全ての生徒が、普通に暮らしていけること。それだけです」
 ちらちらと光る灯火に、細い瞳が揺れている。
「その為に、出来ることをしているだけですよ。あの方はあの子を殺そうとしました。だから、そうさせない為にここに来たに過ぎません」
「ユラス・アティルド」
 ヴィエルは一人の少年の名を呟き、続けていくつかのことを語った。それはあの男に教えられた全てだった。
「――そうあの男は語ったさ。それが真実であったなら、あの男はある意味正しい。アンタは間違ってる」
「あの子が、闇に葬られるべきだと?」
 夜の海にたゆたうように、光は悲しげに揺らめく。
 ヴィエルはひとり拳を握り締めた。だって、あの物語がもし真実なのだとしたら、紫の少年は本来ここにいるべき存在ではないのだ。
 人にありえない力を持ち。
 人にありえない知能を埋め込まれ。
 そして、人として生きることも許されなかった――その筈だった。
 学園長はふんわりと笑った。
「あの子は確かに、闇より生まれました。途方もない欲を背負わされて、今もあの子の体は悲鳴をあげ続けている。けれど」
 口の端から零れる笑みには先程の禍々しさはなく、むしろ生の最果てにいる寂しい老人のようでもある。
 なのに光は消えはしない。彼の瞳は曇らない。
「けれど、あの子はもう何もかも忘れているのです。そうして、己の有り様に苦しみながら、それでも必死で目まぐるしい外界を取り込んで生きようとしている」
 どうして、人はこんなにも真っ直ぐな顔が出来るのか。
「そんなあの子に、幸せになってほしい。――人として、当たり前の幸福を知ってほしい。きっとあの子は、そうやって生きることが出来るはずだから――私はほんの少し、そのお手伝いをしたいのですよ」
「傲慢な考え方さね。ユラス・アティルドが真実を知ったら? アンタが全てを知っていて、自分に何も教えずにいたと気付いたら、……アンタはただじゃ済まない」
「……そうでしょうね」
「そうさせない為にアンタは動いてる。ユラス・アティルドをうまく操作しようとしているだけさね。それがどんなに残酷なことだか気付きもしないで」
「ええ、そうでしょう」
 淡々と返事をする彼は、闇を秘めた瞳をしていた。そこに宿る光は消えないが、それはただ周囲の光を映しているに過ぎない。その奥には、途方もない歪みを抱えている。
 けれど、歪んでいるのは自分も同じかとヴィエルは内心で笑う。
 一人の人間に守られながら、紫の少年は屈託なく笑っていた。己の中に潜むものには気付いていたかもしれない、しかしあの少年は闇に没することなく、光の中にいる。
 それが羨ましかったのかもしれなかった。特別であるのに、何処にでもいるような少年として振舞える彼が。彼女には、とてもそうすることは出来なかったのに。だから、身を守る為に武装する他なかったのに。
 彼にはいびつな体を守ってくれる他者がいる。
 彼は笑いながら光の中にいる。
 そのなんと幸福なことだろうか。
 目の前の男を糾弾しながら、己の深淵を覗き込んでしまったヴィエルは愕然とした。
 なんだ。それでは自分も――ただ、差し伸べられる手を待っているということか。吹き荒れる風から守ってくれる背中を待っているということか。
 けれどそんな人など実際には何処にもいなくて、今後も現れないだろうということが身に染みて分かっていて。
 だから嫉妬にかられて、特別である筈なのに普通であり続けるあの少年を、暴いてやりたくなったのか。
「ヴリュイエール君」
 無様だと思った。この上なく無様だ。
 諦観したそぶりをみせて、どこかで救いを求めていたなど。
「ヴリュイエール君。何故、ウェリエル・ソルスィードはこのような都市を作り出したのだと思います?」
 ふと話は妙な方向に転がって、しかしもう反抗する気力も殺がれてしまって、ヴィエルはただ顔をあげた。
「この都市は学びの聖地。学問の楽園。しかし、だからといってこの都市に集まるのは決して聖人ではない、ただの人なのです。故にここには憎しみがあって、歪みがある。一握りの希望を胸にやって来た人の中には、それに耐え切れず、壊れてしまう者もいる。ウェリエルもきっと分かっていたでしょう」
 流れるように唇にそう乗せた学園長は、でも、と付け加える。
「でも、夢を見ずにはいられなかったのではないでしょうか。得られないものへの悲しみに咽び、絶望に永遠に浸っていられたなら、それはどんなに幸福だったことか。けれど人はそうではいられない。手を伸ばさずにはいられない」
 ――例えその手で互いを傷つけ、歪めあったとしても。
「それでいいと思うんですよ、私は。生きていれば、絶望にも出会うでしょう。憤怒にかられて誰かを傷つけることもあるでしょう。自分をかき消してしまいたくなることもあるでしょう。しかし、何度でも手を伸ばすことは出来るのです。人には、必ずその力が宿っているのですから」
 傷ついては立ち上がって、また手を伸ばす。
「だからあの子も。きっと、生きていけるでしょう。例えいつか真実を知ったとしても、――私という存在に絶望することになったとしても」
 学園長はそこまで言い終わると、少しだけ疲れたように息を抜いた。まるでその日を予知しているかのようだった。
 否。その日は必ず来るだろう。紫の少年という存在はあまりに特異でいびつで、それでいて多くのものを巻き込んだ嵐そのものである。彼がいかに目を閉じたとしても、いつの日か必ず真実は牙を剥いて彼に襲い掛かるだろう。
 その日を、目の前の学園長はどんな顔で迎えるつもりだろうか。
「ヴリュイエール君、よく聞きなさい。あなたはあなたが思っているほど孤独ではありません。闇は確かにすぐ傍にある、けれどそれは万人に同じこと。闇は甘い。心は閉ざせば閉ざすほど安堵をもたらす。そしてそうやって堕ちた人間が再び光を掴むには、途方もない時と刻苦を必要とします。それは茨の道であるけれど、成し得ることができないわけではない。けれど、それでも」
 優しく笑う様子は陽だまりの中にあるのが正しいはずなのに、彼の笑みはどこか闇の匂いが漂っている。
 この男はもしかしたら、一度闇の中に落ちたことがあるのだろうか?
 しかし彼はかぶりを振る。決して人を惑わす風でもなく、真っ直ぐに静謐な瞳でこちらを見据える。
「それでも、絶望の末、孤独に心を閉ざすままにしているのは、とても悲しいことです」
「――アンタに何が分かる」
「理解は出来ません。出来ないからこそ、私はあなたに伝えたいことがあるのです」
「アタシはそんなこと望まない」
「私がその分望んでいるのです」
「アンタは何を望んでる」
 唇がわななくのを感じながら問うと、学園長は気が遠くなるような理想を口にするのだ。
「誰もが幸福を知る場所、誰もが生きるための光を持つ処」
 幸せそうに笑いながら。
「私は、そういう世界が見たい」
 ヴィエルは、喉の奥に言葉が消えていくのを感じた。
 なんという人間なのだろう、目の前の男は。
 ありもしない楽園を夢見て、その為にこんなことまでするというのか。
 それは既に狂気すら滲み出ている。
 箍が外れている。常軌を脱している。
 ――この男は、壊れている。
 薄い氷の上で踊っているようなものだ。酷く危なげな均衡を保って、彼は今ここに立っているのではないか。
「だから、あなたに教えてあげましょう。大丈夫です。あなたに向けられる瞳は決して嫌悪と好奇心だけではないのですから」
 ローブで覆った体はふとすると折れてしまいそうで、そう思うとこの笑みは不意に砂になって消えるのではないかとすら思った。
 なのに彼は立っていた。一人、闇の中からこちらを俯瞰していた。
 つと、ローブの長い裾がゆれる。慣れた様子でたっぷりとしたそれをさばき、学園長は閉じかけた扉まで歩いていってそれを開いた。扉はひどく古いもののようで、響きは酷く耳に残った。
「――入りなさい」
 扉の向こうの狭い通路の向こうへ、声を投げる。次の変化が起こるまでは、少しの時を要した。
 だが、戸惑うような足音と共にやってきたものは、彼女の言葉を失くすのに十分すぎて――ヴィエルは、ただ瞳にその姿を映した。
「あなたを心配して、追いかけてきたそうですよ」
 悪意でしか、見られていないと思っていた。
 だって、こんなにも違う。特別と凡庸、荒廃と振興。相反するもの。決して交わることのないもの。
 取り巻く世界はきっと違うのだと。光の中を行く者。闇に没する者。その合間を、ぼんやりと歩くことしかできなかった自分。
 なのに――。
 彼は、緋色の髪も絡まって普段の硬質な印象を覆す様子でそこにいた。眼鏡の位置をしきりに直す仕草をしながら、彼はこちらを見て眉を潜めた。けれど、その瞳を失望と共にそらすことは、なかった。
 そう。
 あの夕日の中で何も言うことが出来ず、泣きそうな顔で佇んでいたグリッドがそこにいたのだった。




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