-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

50.光を求めて



 頭が別のことを考えていたからか、ペンの先はいつの間にか空を彷徨う。ふと見れば、余白を汚してしまっていることに気付いて、グリッドは顔をしかめた。
 ペンを置いて、ぐしゃりと汚れた紙を丸め足元のくずかごに落とす。集中力を欠いていることがまず腹立たしかった。
 第一考古学研究室の彼の席には、城塞のように資料や書籍が整然と積み上げられており、彼と外界との壁になっている。グリッドは紅い髪をかきあげて、冷めたコーヒーで舌を濡らした。昨日、あの少女を見かけてからというもの、何故こんなに苛立つのか。それが分からないことが、彼を更に苛立たせた。
 香りなどとうに飛んだコーヒーは、ただ黒い苦味だけを伝えてくる。眉間にしわを寄せたまま、グリッドは全身から息を抜いた。そのまま背もたれに身を預けてしまいたかったが、そんな動作は彼の選択肢には含まれていなかった。自分はそのような振る舞いをするような人間でないと、彼は考えている。
 だが、そのように振舞ったところで何になるのだ、と心のどこかが笑う。そのようにしたところで、決して自分は特別になどなれはしないのだ。ならば、警戒するように周囲との距離をとり、人を見下し、馬鹿げたプライドにしがみついている自分など、滑稽なだけではないか。
「――」
 ぐっと自分の腕を自身できつく掴んでいることに気付く。胸の奥が無性にむかむかして、吐き気がした。こんなときに限って、思い出したくない連中ばかりが脳裏に浮かぶ。
 特別である筈なのに、そのようなものはいらないと平然とした顔をして平凡以下の研究室に入った少年。
 まるで遠慮もなく、自分にくってかかる少女。
 そして、そのような者たちに囲まれて尚孤高に佇む桃色の――。
 がたんっ、と珍しく音を立てて立ち上がったグリッドに、周囲の者たちは顔をあげた。だが、声をかける者はいない。彼らは不機嫌な室長を不思議そうに見やり、また各々の世界に戻るだけだ。プライドが高いグリッドと世間話をするような人間はいないのだ。
 むっと胸の中に立ち込める嫌なものを感じながら、わだかまる空気から逃げ出すようにグリッドは研究室を後にした。


 ***


 幼い子供たちのざわめき。そこここでの耳に残る音。
 騒々しい教室。広がる子供たちの噂話。
 年齢に見合わぬ不機嫌な表情を張り付かせたまま、当時のグリッドは席についていた。騒いでいる連中が、何故自分よりも優秀なのだろうと考えていた。
 苦悩に濁る瞳を眼鏡の奥に押し込めた彼の耳には、方々から噂の端々が彼の意思とは無関係に届いてくる。それが気に入らない。集中力が乱される。
 ただ、その日はどこか張り詰めた空気の中でひそやかに――しかし、普段よりも一際盛んに会話はされていた。
 ほどなくして幼学院の始業時刻となり、担任が表情を固くして現れる。その理由を知っている大多数の生徒たちはおのずと口を閉ざし、おとなしく席についた。空気は、どんよりと濁っていた。
「今日、花壇の花が毟り取られていました」
 奇妙な程に静まり返った教室に、担任の声がずんと響く。
 グリッドも登校したときにその目で見ていたから、事実は知っていた。少し前、授業の一環で花の栽培が行われたのだ。しかし今日の朝、花壇は荒らされて無残な姿をさらしていた。
 すっかり手折られてしおれた花と、周囲に飛び散った黒い土。子供心に衝撃を受けたのだろう、花の世話を楽しみにしていた女生徒などは、涙ぐんでうつむいてしまっている。
 誰がやったのか。クラス中がそうちらちらと互いに目配せし、――最後は決まってひとつの方向にやられる。
 そこには、集まる視線など関心がないように頬杖をついて窓の外を眺めている桃色の髪の少女がいた。
 元より素行が良いとはいえない彼女に、子供たちの興味と疑いは簡単に吸い寄せられた。
 グリッドは。
 彼は、そんな様子を黙って眺めていた。

 彼は終業後、図書館に向かう途中で足を止めることになる。
「なんとか言いなさいよ」
 舌足らずの、しかし苛立ちを含む耳障りな声。顔を向けると、建物の影で一人の生徒を数人の女生徒たちが取り囲んでいるのが見える。
 立ち止まって伺うと、すぐに中心にいるのが桃色の髪の少女だということが分かった。彼女は複数人に囲まれているにも関わらず、奇妙な落ち着きを持って立っていた。
「あなたがやったんでしょ? 可哀想に、ナンナが泣いてたわ。謝りなさいよ」
 女子の一人がキイキイと癇に障る音で言い募る。
「先生に言いつけるよ。そしたらあなた、ここにいられなくなるんだから」
「物に当たるなんて最低よね」
 加勢するように悪意が重ねられる。――否、彼女らはそれが正しいと思っているのかもしれない。正義を振りかざした悪意は、時に思いも寄らぬ残酷な刃ともなる。
 しかしグリッドは動けなかった。どちらが正しいのか、正直分からなかったからだ。桃色の髪の少女は確かに度々問題を起こす生徒だった。
 その時、戸惑う彼に桃色の少女は気付いた。まとわりつく女生徒たちは誰も気付かなかったが、彼女だけが離れに佇む彼を見た。
 グリッドは射すくめられたように呼吸を忘れ、全身を固くして暫し少女と見つめあった。唯一の同郷である彼女の目は俯くわけでもなく、しかし立ち向かう風でもなく、ただ石造のように世界を映しこんでいた。
 理解出来ないと思った。そんな顔をする理由が。そんな態度をとる理由が。悪意を向けられて尚、真っ直ぐにある佇まいが。
 自分は、特別でないことをこんなにも恐れて、どうすることも出来ずに迷うばかりなのに。
 だが、彼の逡巡は不意に鋭利な刃物で引き裂かれた。言葉という、心までもを引き裂く刃を使って。
「気持ち悪い髪」
 ぱっと、視界が眩んだ。きっと彼女たちは怖じる気配のない少女に苛立っていたのだろう。一人がそう言うと、むっと香るほどの悪意は瞬時に膨れ上がり、彼女たちは口々に言った。
「呪われてんでしょ、私聞いたことあるよ」
「私も知ってる。生まれたら殺さなきゃいけないんだって」
「やだ、近付いたらうつるんじゃないの」
 その時、桃色の髪の少女がどんな顔をしたかは分からない。
 ペンキをぶちまけたように、グリッドの視界は白に染まっていたからだ。
 彼は、数多ある学問の中でも特に史学が好きだった。教鞭をとった彼の師は、古くに行われていた因習についてこう語ったものだ。
『今では表立って桃色の髪を持つ人間が差別されることはない。けれど、人の心に一度染み付いたものは中々消えないんだ』
『グリッド。よく覚えておきなさい。自分と違うもの、理解できぬものなどいなくなればいいと思う、それが悲しい歴史の第一歩となり、閉じない悲劇を織り成す元になる。あまねく人は君と同じように呼吸をして生きているのだよ。見かけという大きなくくりで下した判断は、憎しみしか生まない』
『我ら学者たちは尚のこと、全てを等しく曇りない眼差しで見据えなければならない』
 尊敬していた師の言葉を、彼はしっかりと胸に刻んでいた。古い因習や見かけなどに囚われない、それが学者として正しい振る舞いなのだと認識していた。そして、ここは選ばれた学者の卵が集う聖なる学び舎だというのに――。
 なのに――どうだ。
 己を取り巻く世界が粉々に砕かれた気分で、グリッドは声もなく喘いだ。視界はじわじわと黒くにじみ、気がつけば彼は一歩を踏み出していた。
「おい」
 ひきつるようなかすれた声。少女たちがめいめいびくりと振り向いた。こちらを見て、怯えたような顔をする。担任に告げ口されることを恐れているのだろう。
 けれどグリッドはそんな連中の更に奥にいる少女を見て、はっと息を呑んでいた。彼は彼女が嫌いだった。ただ、心のどこかで同郷である、しかも特別な容姿をした少女が気になっていたのも事実だった。何故、彼女はあのように振舞うのか――と。
 答えは簡単だった。
 己の姿をせせら笑われた少女は、泣いてはいなかった。少女の瞳は何もかもを吸い込む闇の深淵。一度覗き込めば、二度と這い上がることも叶わぬ冷たさ。その顔は、何かを問いかけるようでもあった。絶望の最中に漏れる、純粋な疑問。
 何故――、と。
 そうして彼女はふっと顔をそむけて踵を返し、固まる少女たちの合間をすり抜けて去ろうとする。グリッドはそれを呆然と見送って、我に返った瞬間火がついたように走り出した。
「おい!」
 生垣を越えて、舞台は正門前の広場に。抜けるような空には風が吹き、少女の惜しげなくさらされた桃色の髪は制服の裾と共に遊ばれていた。
「待て……っ」
 どれだけ喉を振り絞っても少女には届かないのではないかと不安に震える台詞はしかし、彼女の足を止める。ぴたりと立ち止まった少女は、横顔だけをこちらに見せた。
「何さね」
 それが、彼女との始めての会話だった。だがグリッドは息を飲み込んで立ち尽くす。何を言えばいいのか、どうして追いかけてきてしまったのかさえ、混乱の中でよく分からなかった。
 不意に泣き出したい気持ちにかられながら、彼は口を開いた。
「なんで言い返さない」
「――」
 彼女の瞳は、ただ瞬いた。
「なんで」
 グリッドは言葉を途切れさせて、唾を呑んだ。息が切れて、頭がくらくらしていた。
 目の前の少女は、何故だか今にも消え入りそうで、とても見ていられなかった。
 風が吹いている。自分が俯いていようと、前を向いていようと、笑っていようと苦しんでいようと。何もかもをすり抜けて、風は吹き抜けていく。
「――海を越えれば、居場所があると思った」
 歯噛みをしたまま俯いていたグリッドは、ふと耳朶を叩かれ顔をあげた。
「あそこでは辛いことしかなかったから」
 少女の――言葉だった。
 後姿の少女の肩が揺れる。笑っているようにも、泣いているようにも見えた。僅かに振り向いた横顔は、逆光を浴びてよく表情が分からない。
「馬鹿げた考え――さね」
 胸を熱いもので叩かれた気がして、グリッドは世界が傾ぐのを見た。
 それは、その言葉は、聖なる地を目指した彼の心をも引き裂く力を持っていた。
 だって、この地は選ばれた者の集う聖なる学びの都の筈だった。自分を認めてくれる場所の筈だった。
 なのに、選ばれた筈の生徒たちは、彼女の容姿を呪われていると嗤う。世界は、彼を置き去りにして勝手に進んでいく。
「――違う」
 心が、勝手にそう呟いた。そうでもしなければ、彼の全ては壊されてしまう。己を保つ為に、必死に彼は抵抗した。
「ここは学びの都だ。頭が良ければ認められるんだ。そうしたら絶対居場所は出来る。ここは誇り高い学者の町だ!」
 脳裏に浮かぶ先程の光景を塗りつぶして叫ぶ。あのようなことは、あってはならないのだ。ここは聖地だ。そこで自分は特別になるのだ。そうでなければ――自分に生きている意味があろうか。
 けれど、そんな彼を前にして、少女は小さく嗤った。
 それは諦めた者の嗤い方だった。


 ***


 グラーシアの大通りは人が多いものの、誰もが急いているような印象を受ける。白で統一された町並みは無機質で無表情。学びの都にふさわしい、余計なもののない世界。
 グリッドは人通りに乗って脇見もせず歩いていた。
 別段、行くあてなどない。ただ、胃の辺りにわだかまるもののぶつける先を、彼は知らなかった。だから、苛立ちを抱えるままに歩くしかないのである。
 グラーシアの冬の寒さは彼の故郷ほど厳しくはなく、雪も降らない。しかし不意に冷たく乾いた風が上着の隙間から入り込んできて、グリッドは更に顔をしかめた。
 足早に中央広場を抜けて南地区に入る。都市に入ってくる汽車の汽笛、周囲のざわめき、それら全てが耳障りに感じられた。
 すれ違う人々はどこに行くのだろう。彼らに安心できる居場所はあるのだろうか。虚しくはならないのか。
 いびつな聖なる都市を受け入れるために、彼はこれまでいくつもの目を閉じなければならなかった。諦めなくてはいけなかった。求めるものは手に入らないことを、知らなければならなかった。いつまでも子供ではいられなかった。
 ただ天才的な頭脳を持っているだけではどうにもならないこと、また己にはそこまでの才能がないということ。それらを頭では理解しているつもりだった。
 なのに、時折胸の奥底が茨で締め付けられるのだ。光を求めてこの地を訪れ、そして出会った挫折に、自分の価値が無に等しいように思えて――。
 今思えば、あのときのあの女の方が自分よりずっと大人だったのかもしれない。受け入れられず反発するしかなかった自分に対して、彼女はこの地が決して聖地でないことを知って、そしてそれを受け入れていた。
 誰の手を借りることもなく、ただ一人で。消え入りそうになりながら。
 グリッドは無意識に眼鏡をいじる。あの女のことを考えるたびに胸が濁る、その意味が分からなかった。
 気に入らない横顔。眠たげな瞳。まるで個が完成しているとでもいいたげな佇まい。
 ――気持ち悪い髪。
 そう言われてただ瞬いた、あの夕暮れの姿がぶれて、重なって。
 大嫌いだった。思い通りにならない世界も。理想の欠片すら見当たらぬ現実も。そして――そして、あの日、この地と自らを嗤った彼女に何も言えなかった自分自身も。
 結局、犯人は彼女ではなかった。あの後、クラスの別の生徒が名乗り出たのだ。理由など他愛もない。ただ癇癪を起こしてやったというそれだけのことだった。しかし彼女は何も言わず、また彼女を糾弾した者たちも口を閉ざしたままだった。
 あのとき、彼女を前に別の何かを口にできていたのなら、自分は変われていたのだろうか。
 険を含んだ目が、ふとけぶる。引き縛られた唇が、微かに開かれる。
 いつの間に来たのだろう、猥雑な通りとの境目に彼は立っていた。もう、まもなく陽は完全に落ちるだろう。薄暗い景色に突然現実感が消失してしまったような気がして、グリッドは眉間にしわを寄せた。
 賑やかになる時間帯、すでにあちこちでぎらぎらと必要以上の灯火が存在を主張し始めている。その光はむしろ影を一層暗くするように、たむろする者たちを黒い影法師に染めていた。がやがやと耳障りな会話、ゆらゆらうごめく人の影。
 そんな様子におぞましさを覚えて、グリッドは踵を返しかけた。しかし、彼は闇の影法師たちの中に一際目立つ人影を捉えて息を呑んだ。
 長い桃色の髪をした少女。見間違えようもない。彼女は道の向こうをゆったりと、獣のように歩いていく。陽が落ちていく。黄昏が闇に転じるのは瞬きをする一瞬。みるみる世界は暗くなる、暗くなる。
 ――あの女。今日もこんなところで遊んでいるのか。
 グリッドはそう思って後姿を睨んだ。なんだって一人で出来るような顔をして、周囲の助けなどいらないとばかりに行ってしまう。
 一人で生きるなど、ただ辛いだけだろうに。
 彼女はこの学園を卒業したらどうするつもりだろうか。生まれた故郷に戻るのだろうか。それともこの地に残るのか。
 だがそんなこと、考えていないに違いないとグリッドは断じた。だからきっとこんなところでふらふらしているのだ。
 一言、小言でも言ってやろうか。どうせ聞きはしないのかもしれないけれど。
 今年の春、彼女は所持していることですら違法となる護符を持って、得体の知れないものと悶着を起こしている風だった。こんなところで遊んでいるから、そういったものと係わり合いになるのだろうし、違法品も手に入れてくるのだろう。そうやって彼女は一人で勝手に闇に分け入り、また一人で全てを処理してしまうのだ。
 その様子は、まるで彼を蚊帳の外の存在と嗤うようで――。
 けれど、グリッドはその場で動けぬまま、僅かに片眉を跳ね上げた。彼女は遠いところで一人、ふと歩みを止めたのだ。猥雑な通りの中、人ごみに紛れるようにして壁に背をつけ、ぼんやりと煙草をくわえる。
 彼女は眠たげに瞳を伏せたまま、垂れる長い髪を鬱陶しげにかきあげた。そのまま、細い指で顔を覆い、表情を隠すようにする。
「……?」
 グリッドはそこに妙なものを垣間見た気がして、視線を剥がすことなくそちらを伺った。考えてみれば昨日もどこか様子がおかしかったように思う。
 また何か厄介ごとにでも巻き込まれたのだろうか。
 本来なら、そこで立ち去ってしまうべきだった。彼女が何をするにも、自業自得と笑ってその場から背を向けてしまえば。そうすれば彼女は今までと同じように、一人で全てをやってのけるのだろう。
 しかし頭でそう考えるのに、足は蔦でも絡まっているかのように動かなかった。冷たい風が服の隙間から入り込んでくる。
 憔悴した顔をした彼女は、ふらりと壁から離れて歩き出した。一瞬、このまま遠いどこかに行ってしまうのではないかと錯覚して息を呑む。
 行くなら勝手に行けばいいのだ。己で選んだ道なのだから。自分には関係のないことだ。
 胸の中でせめぎあうものに名前をつけられないまま、動けないグリッドは途方に暮れて拳を握りこんだ。
 自分にないものを持っている少女。孤高に生きる少女。目の前に広がるものが茨の道だろうが、たった一人で行ってしまう。
 そうやって、目を閉じたままの自分はどこに行くことも出来ずに――。
 は、と口元から笑いが零れた。自嘲の笑いだった。足は勝手に動いた。ただ前へ、影法師たちの海へと踏み出していた。
 桃色が消えた方向に向かって、進んでいく。いつもの規律だった足取りではない。それではこの人でごった返す道を歩くことは出来ない。
 こんな人ごみを歩いたことのない彼は、何度も人とぶつかりそうになって、真っ直ぐ進むのではなく人の波を縫うように歩かなければいけないことを悟る。制服のままこんな場所にいたことが人に知られたら、どんな目で見られるだろうか。
 頭が冷たく凍るのを感じながら、けれど大人たちをかき分けて彼は彼女を追った。半ば自棄を起こしているに近かったかもしれない。ただ彼女が何を見ているのか、それが知りたかった。
 見知らぬ通りは妙な匂いが漂っていて、ぎらぎらと光が至るところで網膜を焼く。人の匂い。眩暈がするほどに息遣いが感じられる。
 美しく整った聖なる学び舎の裏の顔。所詮そこにいるのは醜く汚い人なのだ。光など、幻想でしかなかった。
 そう分かっていて、しかし認めるわけにもいかなくて、ただ目を逸らすしかなかった。
 彼女はみるみる奥底に吸い込まれていく。逡巡するようにゆったりと歩いてくれたのが幸いだった。いつものように彼女が歩いていれば、彼は瞬く間にその後姿を見失ってしまったろう。
 ひたすらに追い続けている内に、いつの間にか人通りはまばらになり、やがて辺りは静まり空虚になった。ぽつぽつと掲げられた古びた看板を、安っぽい灯りが無粋に照らしている。紙くずや煙草の吸殻の落ちた細い道に点在する建物の入り口は、どれもぽっかりと黒い。風だけが時折、遠いざわめきを運んでくる。
 人が少ないというのに息苦しさと不安を覚えて、グリッドは引き返そうかと考えた。暗く沈む周囲の建物は、まるでこちらを闇に引きずりこもうとしているかのようだ。背中に冷たい手で触れられた気がして、無意識にごくりと唾を呑んでいた。一体彼女はどこまで行くつもりだろう。
 道は入り組んでいて、必死で辿ってきた順番を覚えてきたつもりだが、それも限界だ。方向感覚が失せそうになる。彼女が曲がった角を、また曲がる。
 刹那のことだった。そう、彼がその道に足を踏み入れた瞬間だった。
 ふっ、と背後に何かの気配を感じた。だが、彼がそれに気付くのは明らかに遅すぎた。更に気付いた瞬間までも、ただの学生でしかない彼はその意味がわからず動けなかったのだ。
 うめき声ひとつもあげられぬまま、後ろから口を塞がれる。そのまま強い力で引かれて、体の自由すら奪われる。頭が真っ白になり、何が起こったかわからなかった。抵抗するにも、体は他人のものになったように力が入らない。
「――!」
 そのまま、彼の視界は闇に呑まれた。




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