-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

49.特別



 海を越えて遥かなる先。
 そこになら、自分の居場所があると思った。
 ここはあまりに寒く、地に空に針はまかれ体を傷つける。
 だから、別の場所に行こうと思った。
 海を越えて遥かなる先。
 穏やかな光。聖なる地。
 力があれば、認められる処。
 そこになら、自分の居場所があるのだと。
 あの時は、確かにそう思った。


 ***


 夜風が熱を奪うように手を広げ、室内に吹き込む。季節の移ろいに合わせ、男もいつものローブに上着を羽織る。
 彼は一人、居間でランプの灯にその姿をぼんやりと浮かび上がらせている。古びた椅子に腰掛け、紅茶を傍らに書物に目を落とすままに。
 時折、窓から吹き込む風に誘われて、思い出したように髪が揺れる。異国の母から受け継いだ透き通る水色のそれが、ふわふわと額をくすぐる。
 男の表情は薄闇の中。熱もなく、ただ文章を追い続ける。世界が滅びたとして、ただ一人残された者が孤独に書物と語り合うように。
 彼の横顔には、温もりもなければ硬質さも、そして変化もない。夜風ですら彼を虚しくすり抜けていく。そう、何もない。世界に溶け込んでいるのだ。一枚の絵画に閉じ込められているのだ。
 人としてあるべきものが、きっとそこにはない。
 その姿は滑稽だ。この上なく滑稽だ。彼は粉々に散らばった心の破片をかき集めて、現在の姿をとっているに過ぎない。ぽっかりと胸に開いた穴は、未だ彼を捕らえ縛り付ける。
 どこにも行くことの出来ない体。どれだけ言葉を詰め込んでも満たされない心。
 己のあり方は悲しいものなのだろうと、男は他人事のように認識している。
 けれど、しかし。その顔は何かが欠けていたとしても濁ることはない。男は考えることをやめはしない。空を見上げることをやめはしない。暗がりに沈み続けはしない。
 彼は立ち向かい続けている。瞳の光は消えることはない。彼が救われる為に。彼の手で彼を救うために。
 彼は、ひとり戦っている。
「良かった、気付いて頂けて」
 男はぽそりと呟いて、庭へと続く開け放たれた窓辺へ顔を向ける。
 ひんやりと落ちる空間に、吹き込む風と共に、影。
 灰色の身を同じ色のフードに隠したシェンナが、音もなくそこに佇んでいた。
「古風な手を使う」
 ぴんと張った糸を爪弾くような声に、男はやわらかく笑った。
「すみません。急いでいたものですから」
 そう僅かに眉尻を下げて机を指で叩く。リズミカルに叩かれるそれは、暗に意味を含んでいる。古い時代に使われた暗号だ。
「知ってはいましたが、使うのは初めてで。思わず最後は声にしてしまいました」
 聞く者を安心させる、流れるように穏やかな口調。
「本当に、四六時中あの子を見張っているのですね」
「何故呼んだ」
 ランプの灯ですら切り裂くような、冷たい響き。けれど男は眉ひとつ動かさず、立ち上がってシェンナを正面から見る。
「お聞きしたいことがあるんです。――まずは紅茶でもいかがですか?」
「用件を」
 被さるように、シェンナは語気を一層鋭くさせた。男は、新たに紅茶を淹れようとした手をつと止めて、ちらりと視線をやる。横顔がランプに照らされて、落ちる言葉が橙色に描き出される。
「あの嵐の日。春を告げる嵐の日。あの地より生き残った者は、彼とあなたたち、――その他にはいませんでしたか?」
 ひくり、と夜風に首筋を冷やされたようにモノクロームの瞳が触れた。だが一拍おいて僅かに開いた口を引き結び、シェンナは探るような目を向ける。
 男は穏やかに笑って、小首を傾げる。
「少し、気になったんです。あの地より出ずる者は、果たしてあなた方だけだったのかと。――あなたもご存知ないですか?」
 その問いが自分ではないものに告げられていると気付いたシェンナは、素早く背後の気配を探った。すると、木の陰よりゆるりと足を踏み出すもう一つの影。
「――ルガ」
 灰色の体を惜しげもなく月夜にさらし、高いところで髪をくくった男の名を、喉の奥で呟く。そうだ、あの時密かに放たれたメッセージに気付いたのは自分だけではなかったのだ。目的は違えど、紫の少年を監視しているのはルガも同じなのだから。
 暗がりに陰鬱な様相を見せる庭の木の下、ルガは冷め切った表情のまま音もなく佇む。部屋の中の男は彼を歓迎するように目を細めた。
「はじめまして。お話は聞いていますよ」
「……可能性は否定しません。確かに時折そのような人物の気配を感じ取ることがある」
 ルガは男の挨拶を無視して、先程の問いへの答えを代わりとした。温かみのある響きと、しんと染みるような返答が交差して消えていく。
 だが男は気分を損ねた風もなく、ゆったりと頷いた。張り詰めた空間の中、彼らはどこか調和するようにそこにいる。
「一人、心当たりが」
 そう紡ぐシェンナに、男はふと表情を改めた。
 闇夜に紛れる灰色の影たちに対峙する一人の男は、ランプの橙にやわらかに照らされ、まるで彼だけが別の世界にいるようだ。
「あの日、私があの地を去るとき、人影を見た。嵐の中で見送ることしか出来なかったけれど、あれは――」
「生き残りでしょうね。名はわかりますか」
 男の問いに、シェンナは僅かに沈黙を置いて、口を開いた。
「――23号」
 突き放すような短い単語に、男も流石に黙った。シェンナはそんな男を挑むように睨んで続けた。
「あの地に住まう者は名乗ることを禁じられていた。機密を守る為、全ての人員が数字で呼ばれた。名があったのは――あの地より生まれた者のみ」
 風に頼りなげに揺れるランプの灯火が、男の影をちらちら揺らす。だが、返ってきた答えは思いも寄らぬものだった。
「ルガ、シェンナ、ドミニク――そしてユラス・アティルド」
 さらりと、羽根で撫でるように流れた男の言葉は、シェンナの、そしてルガの表情までを強張らせた。
「私たちの名も知っていたのですか」
 暫くの沈黙の後、何かを思い巡らすようにルガが呟く。男は寂しげに微笑んで頷いた。ルガはそのまま目を閉じて、灰色の唇を開く。
「あと、一人だけ。あの方にも名がありました」
「――そうですか」
 闇に落ちる男の笑み。まるで心の位置を探るよう、手を胸にやり男は僅かに俯く。けれど、迷いが見えたのはほんの一瞬。次に風が吹き込むときには、ひたと前を向いている。
「その番号で呼ばれた方は、どんな方でしたか」
 そうして男は暫くシェンナの話に耳を傾けていた。情報を咀嚼するように頷き、いくつか確認をとる。全てが終えると、男は灰色に染まる二人を交互に見た。
「お二人にお願いがあります。このことは、私に一任して頂きたいんです」
 ひく、とシェンナの頬が動き、ルガが目を細める。
「手を出すなと?」
 ルガの氷を思わせる鋭さを秘めた問いに、男は動じることなく頷いた。
「ええ。その方に会って話がしてみたいと思うんです」
 たじろがない男の視線は、ルガのそれと正面からぶつかる。ルガは気付いただろうか、優しげに語る彼の瞳に浮かぶ、苛烈な光を。
「決して悪いようにはしません。あなたと私の願いは、多分同じでしょうから」
「……」
 暫くの沈黙の後、ルガはごく僅かに頷いた。直接会うのは初めてだというのに、ルガは男の心を読み取ったように忠告の一つもしなかった。
 彼は、紫の少年に危害が加わるようなことがあれば、全ての理屈を覆して動く。ただ、それだけなのだ。
 そして、男はシェンナにも穏やかな顔を向けた。
「あなたも了承して頂けますね?」
「私は元より監視するだけ。あなたが何をしようと、関わりはしない」
 そっけない返答に男が丁寧に礼を言うと、ルガが珍しく自ら言葉を放った。
「見つけられると思っているのですか」
 かの数字で呼ばれた男が潜伏している可能性があるとはいえ、この都市は広い。会ったことのない相手を果たして探し出せるものだろうか。
 そんな問いに男は苦笑して眉尻を下げた。
「そうですねぇ――困りました」
 まるで冷えた夜の時間に似合わぬ様子で呟き、上方を仰ぐ。だがその瞳に宿る光は、より一層強い。
「けれど、必ず見つけます。早めにお話をしておきたいですし」
 橙色に描き出された男はそう結んで、僅かに口の端を吊り上げた。


 ***


 グロウディッド――グリッド。聖なる学び舎の最高学年に在籍する彼の行動には無駄もなければ、一寸の狂いもない。正門前に吹き抜ける風の中を、淀みない足取りで歩く。
 彼の服装もまた、神経質なまでに整えられている。分厚い眼鏡の奥には、近寄りがたい険を含む表情。引き縛られた口元は綻びを知らないよう。

 彼の親は、一人息子であった彼を厳格な態度で育てた。幼い内から多くの師をつけられた彼は、窓の外の世界で遊ぶ子供たちとの付き合いの代わりに、窓の外で流れてきた歴史や言葉を学んだ。
 君は、特別だ。
 最古の記憶で誰かがそう言う。君は人一倍頭のいい子だ。神は君に天性の才をお与えになった。
 タールのようにそれらの声は耳にこびりついて、彼の幼い心は自尊心で塗り固められることになる。
 母に連れられて歩くとき、彼は眼鏡で補正された世界の向こうで屈託なく笑う同世代の子供たちに侮蔑の眼差しを向けていた。この世界には自分の知らないことが星の数ほどあり、それを知るために努力を欠かしてはいけないのに、馬鹿げた遊びに熱中する連中。自分は違うのだ。自分は特別なのだ。自分だけが成功するのだ。
 彼は何でも知っている大人に憧れて、賢くあることを望んだ。人より優れていることが、孤独な彼のよりどころであった。
 あくる日、師の一人から別の大陸の学び舎への入学を勧められたのが、彼がこの地にやってくるきっかけになった。師は言った。彼の故郷より西の大陸に位置する、選ばれた才子が集う学びの楽園。きっとその地は才能を大きく伸ばしてくれることでしょう、と。
 両親は一人息子を遠い異国にやることに難色を示したが、その時のグリッドはむしろ当然のことだと考えた。
 選ばれた人間が集う場所。そこに自分が呼ばれないわけがない。だから、師と共に両親を説得し、試験を突破して馬鹿げた者たちがたむろする故郷を後にした。

 風の中でも歩幅を測っているのではないかと思わせる規律だった彼のありようは、決して目立つわけではない。ただ、彼が一つだけ周囲と違ったのはその出身を知らしめる容姿にある。
 聖なる学び舎より遠く離れた大陸、キヨツィナ。そこの北方の生まれであることを示す彼の赤毛は、茶髪や金髪の多いこの大陸では一際目立つ。
 だが周囲の奇異の視線を歯牙にもかけず、彼は行く。ざわめきの中をひとり、彼は行く。

 聖なる学び舎に訪れた幼き日のグリッドは、そこで思いも寄らぬものをその目にすることになる。
 彼はこの学び舎で故郷と同じように学び、特別であり続けられるのだと信じ込んでいた。その辺で遊ぶ子供たちを見下しながら、本と向き合い、より賢い大人になる未来を当然のことと思っていた。
 しかし、幼い少年にも打ち寄せる波はその強さを緩めず、分厚い眼鏡ごしに広がる世界には静かな現実が待ち構えていた。
 聖なる学び舎グラーシア。そこに集うは天から与えられた才能を持つ子供たち。それは彼と同等の、また彼以上に特別な子供たちだった。
 幼学院での試験結果は掲示こそされないものの、周囲から聞き漏れる噂の端々に他人の成績がこぼれてくる。そんな中、特別であった筈の彼の成績は決して上位にあがるほどのものではなかった。
 平凡。無論、それは世界に名を知らしめる名門グラーシア学園内でのことだ。しかし人より優れていることを支えに大陸を渡った少年を、その事実は簡単に叩きのめした。むきになって図書館に通い本を読み漁り、日々机に向かったが、彼は集団の内から特別になることはできなかった。
 親もいず、専属の師もいない。誰も自分を見てくれない世界に、彼は投げ出されていた。個は消失し、いつか笑いながら遊んでいた連中に自らが取り込まれていく。
 特別でありたいが故に個であることを望んだ彼には、友と呼べる存在もなく、支えを失った心はよりどころを求めて無意識に彷徨い――。
 そうしてグリッドは、同じ大陸から来た桃色の髪を持つ孤高な少女に出会ったのだ。

 何故彼女がこの学園に来ることになったのか、その経緯をグリッドはよく知らない。
 ちらほら見られる別の大陸からやってきた者たちの中でも、一際目立つ桃色。それは子供たちの社会において、いつだって好奇の視線にさらされた。
 だからだろうか、それとも元より孤高の君だったのか。彼女はいつも一人だった。
 けれど、グリッドのように勉学に励むこともしない。それどころか授業にでない。寮の門限を破る。上級生と揉め事を起こす。
 そんなことが相まって、優等生たちは彼女に近付こうともしなかった。ただ、彼女の目の届かない場所でねっとりとした噂と笑いだけが広がり続けた。
 グリッドもはじめ、それを聞いて汚物のような印象を受けたものだ。彼女の有り様は彼の求めるものと正反対にあった。天才と認められ、誉を受けてこの地に来て、何故そのように振舞うのか、振舞えるのか、彼には理解出来なかった。
 そして、彼と同じ学年で同郷だったのは彼女だけであったから、そのことを不快にも思った。あの女生徒と故郷が同じという目で見られたくなかった。
 そう。あの日までは。


 正門へと乱れなく進むグリッドはふと目を細めた。遠くからでも分かる、よく目立つ桃色。散らばる群集たちの中でも、一際目をひく。
 眉間にしわを寄せながら、グリッドは珍しいものだと考えた。彼女は集団の中にあることを好まない。だからいつも彼女は一人。賑わう時間に姿を現すことはないのに。
 無意識に目が吸い寄せられて、風を切るその横顔をグリッドは見た。
「――」
 ひく、と頬が引きつった。知らずと握り締めた拳に爪が食い込んでいる。冷たい風がからみつく中、彼の脳裏に焼きつく表情。
 いつかの日も彼女はあんな目をしていた。グリッドが最も嫌う目だった。
 足を止めて凝視するグリッドに気付かず、桃色の髪を鮮やかになびかせて彼女は行く。人ごみに紛れて一人で行く。
 気がつけばふらりと足を踏み出そうとしている自分に気付いて、グリッドはぱっと頭に血を登らせた。何をしているんだ、追いかけでもするつもりか。あんな女を。
 そう、あんな女。女の癖にべちゃべちゃせず孤独を選び、誰の言葉もその奥には届かせない。見ていると吐き気すら覚える女。
 息を殊更大きく吸い込みながら、グリッドは眼鏡の位置を直す。あの女などという存在は、自分が気にかけるものではないのだ。
 だから、力を入れて体の向きを変えた。薄い唇を引き縛って彼女とは違う方向へ歩き出した。
 夕暮れが空を染めて、グリッドの影を白亜の道に描き出す。
 影は彼のありようとは対照的に薄ぼんやりと頼りなく、ゆらゆらと心のように揺れていた。


 ***


 いつもの店の前を通り過ぎて、指定された横道の奥へ。そこは表通りよりは静かな、しかし陰に生きる者に愛される酒場である。
 店内には僅かなざわめき。カウンターに席はなく、テーブルはそれぞれ高い敷居で隔てられまるで個室のようだ。更に細々と反響する会話の響きが程よく個々の秘密を隠す。こんなにも込み入った話をするに合う場所もなかった。程よいざわめきの中では、逆に立ち聞きすることも難しいのだ。
 店員に案内されて席に行くと、既に男は凝り固まった埃のようにそこにいた。すぐに酒が出されたが、とても飲む気になれずヴィエルは黙って煙草に火をつける。肺を煙で満たして、唇から細く吐き出す。
 男はちらっとそれに目をやって、ぼそぼそと語り始めた。
「覚悟はできたか」
「アタシに何をさせる気さね」
 落ち着いた照明の元、無精髭を生やした男の口元はもごもごと動く。身なりを整えればそれなりの色男になるのかもしれない。しかし痩せこけて陰鬱な表情を宿した今の彼は、まるで生ける屍のような禍々しさを呈していた。
「頼みがある」
 男はそう笑う。
「いや。この話を聞けば、嫌でもそうしたくなる。そうせずにはいられなくなる」
 ヴィエルは背もたれに身を預けて、緊張を解くそぶりをみせる。ついと煙草の灰を払いながら、落ち着いた照明に浮かぶぼんやりとした世界に目を細める。
 彼はぼそぼそと歯切れの悪い調子で言葉を紡ぎ始めた。ヴィエルは黙って耳を傾ける。自分は何をしているのだろうと、遠くで笑う声がする。闇に踏み込んだ足の冷たさが胸まで響く。
 しかし、そうやって己を観察していられたのはそこまでだった。彼が語る物語は、じわじわと土壌を侵食する毒水のように耳を侵した。ヴィエルはそのおぞましさに取り込まれ、絡めとられた。
 男は語る。長い長い物語を。途切れることなく静かに語る。
「――ありえない」
 眩暈を覚えながら口の中で呟こうとも、些細な抵抗にもならない。男は言葉を止めない。僅かな照明が、黒より濃い影を落とす。
「事実だ」
 語り終える頃にはヴィエルは鈍い頭痛すら覚えて、首飾りに手をやった。何かを掴まないと、何処かに落ちていってしまいそうだった。
 男の望みなど、言われなくても分かった。そんな物語の果てにあるものなど、火を見るよりもたやすく理解できる。なんて陳腐な悲劇なのか。
「分かるだろう? やらなければいけないと思うだろう?」
 男は笑う。禍々しく笑う。

「紫の少年を、殺すんだ」




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