-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

48.これも仕事の内



 普段から開け放たれている学園長室の扉を目前にして、ライラック理事長はふと足を止めた。学園長室から、その主の声がささやかに漏れていたのだ。
 先客か、と一瞬思ったが、すぐに予想は打ち消された。何故なら声は一人分しか聞こえなかったからである。
「――ええ、はい。よろしくお願いします」
 聞きなれたなめらかな声。
「はい、いつもありがとうございます――では」
 苦笑を滲ませて言葉は途切れ、ちん、と小気味良い音が鳴った。ライラック理事長は会話が終わったのを察知して室内に進む。
 思った通り、そこには執務机で受話器を置く学園長の姿があった。学園長室には直通の電話機が設置してあるのだ。
「ああ、理事長」
 窓から降り注ぐ陽光を浴びてにこりと笑う彼は、歳相応の落ち着きを持ちえている筈なのに、顔立ちは時を止めたかのように若々しい。一見田舎の牧師と言った容姿をしているがしかし、その正体はこの聖なる学び舎の学園長である。何度客人に理事長の方が学園長だと間違えられたことか、理事長はもう考えないことにしている。
「もう打ち合わせの時間でしたか」
 早いですねぇ、と学園長は思い出したように時計を見やる。
「まだ少し早い時間ですが。どなたとお電話を?」
「ああ、はい。オーベル先生に――いつものお説教です」
 いささか肩をおとす学園長に、ライラック理事長は苦笑した。オーベル老はグラーシア学園の先代の学園長だ。今は一線から退いて首都アルジェリアンに住んでいるが、時折ひょっこり都市に出没しては何かとやらかしてくれる困った老人である。
 だだ、高名な学者でもある彼の発言力は未だに大きい。今の学園長がその地位についているのも、オーベル老がいてこそのものである。グラーシア学園で教師として努めていた当時の学園長の才能を見出したのは、他ならぬオーベル老だったのだ。
「お疲れ様です」
 よく世話を焼いてくれる、言い換えれば何かと口うるさい老人の顔を思い浮かべて、ライラック理事長は思わずねぎらいの言葉をかけた。
「まあ、これも仕事の内でしょうからねぇ、たぶん」
 そう笑いながら学園長は机に広がる書類を整理し、応接用の椅子に移動する。学園祭も終わり、身辺もそこそこ落ち着いた筈だが何かと多忙そうだ。そんな様子を見て、ライラック理事長は学園長に向き合って座り、息抜きがてらにとさり気なく世間話を口にした。
「そういえば、学園長がご知人から預かっているあの生徒ですが」
「ユラス君のことですか?」
 紅茶を淹れ直しながら学園長が聞き返してくる。ええ、と笑ってライラック理事長は膝の上で手を組んだ。
「教員たちが舌を巻いていましたよ。この前の中間考査も上位だったそうですし」
 それが一般の生徒のことであったら、ライラック理事長もそう気に留めたりはしない。学園には何年かに一度、必ずこういった天才的な生徒が現れるものだ。しかし驚いたのは、彼が幼学院からグラーシアで学んだ生徒ではなく、高等院からの編入でそれだけの成績をあげていることにある。
 グラーシア学園は天才を育てあげる為にある学術機関だが、この事実を見ると本物の天才はいるものだ、と思わざるを得ない。
「ここに来る前に、何か特別な教育でも受けていたんですか?」
 問うと、学園長はふっと目を細めて、淹れたての紅茶を二つ、机に置いた。
「ええ。彼の故郷で彼は多くを学んだそうです」
「よくそんな才能を掘り出してきましたね」
「いえ、知人の頼みで預かったんです。学園に入ってもらったのは成り行きに過ぎませんよ」
 そう苦笑する学園長にライラック理事長も笑った。良くも悪くも、自慢を知らない人なのだ。
 話している内に、そういえばとライラック理事長はある話を思い出して口を開いた。
「そうそう、聞きましたか、ヘイルマン先生の話」
「はい?」
「この前酒場に行った時、あの生徒は危険だ、人間ではないとか言う男がいたそうで」
「――」
 そのとき、学園長の指が僅かに動いたことに、ライラック理事長は気付いたろうか。
「それは」
 珍しく返答の遅れる学園長に、ライラック理事長は眉根を寄せて嘆息した。
「酔っ払いの妄言でしょう、ヘイルマン先生も取り合わなかったようですし。しかし少し行き過ぎた物言いでしょう? 噂ほど怖いものはありませんから、念のため担任の耳に入れてよく見ておいて貰ったほうがいいかもしれません」
 じっと耳を傾ける学園長の顔は静まり返ったままだ。
「――ええ」
 学園長は、僅かに顔をしかめて考え込むように紅茶に口をつけた。自分が預かっている生徒のことだ、心配なのだろう。
「確かに、心配ですね」
 表情を変えず、ぽつりと独り言のように漏らす。妙に深刻そうな様子に、ライラック理事長は首を傾げた。
「学園長?」
「……いえ」
 ――へにゃっと、学園長の眉尻が不意に下がった。
「実はユラス君の担任、レイン先生なんですよね」
「……」
 互いの間に、重苦しい沈黙が落ちる。
「――そ、それは」
 よりにもよって。そんな言葉を思い浮かべながら、冬も近いというのにライラック理事長は思わずハンカチを額にあてた。
「理事長、代わりに伝えてくれませんか?」
「……ご自分でどうぞ」
 保身発言を口走ると、学園長はますます情けない表情で肩を落とす。きっと用件を伝えることはたやすいであろうが、その後長い長いお小言の幕が開けることになるだろう。
「困りました」
 学園長はいつもの口癖を呟いて、考え込むように目を閉じた。


 ***


「もうやだー」
 俺は一人、机に泣き伏した。
 おいおい泣いていると、向かいの席で書き物をしていたシアがペンの先で頭をつんつくしてくれる。
「ユラスさーん、調べ始めてまだ二日目ですよぅ」
「俺はもう駄目だ。世間の荒波にもまれて風前の灯だ。世を儚んで自殺したら墓には毎日プリンパフェを供えてくれ」
「わけわかりませんよぅ」
 恨めしげに顔をあげれば、もう見たくもない鳥類についての書籍の山。
 紫の鳥が滅びた理由を探し始めて早二日。
 俺はつまり、飽きていた。
「うん。飽きた。飽きたぞ俺は」
「最悪ですぅ」
「だって滅んだ理由知ったところでセトは実在するし」
「じゃあなんで調べようと思ったんですかぁ」
「興味本位」
「で、飽きたと」
「そう」
「……最悪ですぅ」
 吐き出される盛大な溜息にちょっぴり憮然として頬をかく。いやまあ、セトが引き起こしたあの不思議な出来事が気になったってのもあるんだけど。でも、今まで見てる限り鳥が魔術に関わったなんて話はないし――。
「そういや、お前こそ何書いてるんだ?」
 俺は身を乗り出してシアの机を覗き込む。
 ちなみに狭い研究室にヴィエル先輩の姿はない。遊びにでも行ってるんだろう。
「ああ、これですかぁ?」
 シアはにこっと笑って茶髪を揺らした。
「来年の奨学金申請書ですよぅ」
 せっせと欄を埋めている書類には、確かにそのように書いてある。だが俺は思わず聞き返していた。
「――奨学金?」
 グラーシアの運営費はその多くが国の税金で賄われている。そのため、俺たちが払う学費は他の学び舎に比べて断然低く、一般的な家庭だったら普通に払える額の筈である。だから実際に奨学金を申請する生徒は多くないと聞いていた。奨学金はある程度の成績があれば貰えるが、卒業後に利息付で返済しなければいけないのだ。
「私の実家、とても貧乏なんです。お父さんが事業に失敗して借金まみれで、家計は火の車なんですよぅ」
 えへへ、とシアは肩をすくめた。
 ……。
 待て。
「――笑顔で言えることなのか、それは」
「だって事実ですし」
 シアは当たり前のようにさらりと言ってのけて、ペンを握りなおした。
「だから私、立派な学者になってお家の借金を返さなきゃいけないんですぅ」
 相変わらずすごいことを顔色一つ変えずに言う奴である。
「でも、だったら第一考古学研に行った方が良かったんじゃないのか?」
 少なくともここにいるよりはまともな学者になれそうである。
「あ、それは――」
 シアは痛いところをつかれたといわんばかりに表情を崩した。
「ヴィエル先輩がこっちでしたし。それにあっちにはあのムカつく人がいるじゃないですかぁ」
 シアのいうところの『ムカつく人』の顔が脳裏を過ぎって、まあそうか、と腕を組む。
「ヴィエル先輩とはなんで知り合ったんだ?」
「はい、幼学院の頃からの仲なんですよぉ」
 嬉しそうな返答。シアはペンを置いて組んだ指に顎を乗せ、懐古を宿した瞳を閉じた。
「先輩は、私の恩人なんですぅ」
「へぇ」
 頬杖をついて飴を口に放りながら相槌を打つと、シアはふんわり視線を遠くにやって語り始める。
「私の実家、貧乏ですから、本当は私も学園に来てるどころじゃなかったんですよぉ。両親が勧めてくれなかったら入学したかも怪しいですし」
「親御さんが」
「そうなんです。ビッグになって帰ってこいと言われました」
「……ある意味大物になったよな」
「はい?」
「いや、なんでもない」
 にこやかに先を促す。
「――はい。しかし立派な学者になるという壮大な夢を持ちここにやってきた私にはイバラの道のように険しい未来が待っていたのですぅ!」
 シアは一人で盛り上がる。俺はボリボリと飴を噛み砕き、次の飴を取り出した。
「時に襲い来る困難と立ち向かい、時に辛酸を舐め、幾度となく地に膝をつきかけて、ああしかし私に立ち止まることは許されなかったのですぅ!」
「……シア、もうちょっと具体的な話をしてくれないか」
「借金取りがこっちにも来ました」
「ぶっ」
 俺は飴を噴出しそうになって、すんでのところでこらえる。
 借金取り。
 頭髪を刈り込んだムキムキのいかついお兄さん。色黒の目つきの悪いおいちゃん。下卑げた笑いを浮かべる下っ端たち。
 ずらーっとそんな関わり合いになりたくない方々が脳裏に浮かんで、青ざめる。
「……あれか。こんな場所にいないでお兄さんと一緒にがっぽり稼げるところに行ってご両親を助けてやろうじゃないかヘッヘッヘ……みたいな?」
「よく分かりますねぇ、まんまのこと言われましたよ。まだ幼学院のときでしたけど」
「で、どうしたんだ」
「あなたたちのような心醜い下賎な生き物に従うつもりは毛頭ございませんのでおとといきやがれ、と唾棄してやりました」
「ごほっ!」
 今度は飴が喉に詰まる。げほげほとその場で潰された虫のごとく悶えた。
「わ、大丈夫ですかぁ?」
「――こっちのセリフだ」
 何故当事者はこうもケロッとしているのか。机にしがみつく俺の方が息も絶え絶えだ。
「お前、よく無事だったな」
「いいえ、逆上されて大変なことになりました」
 あの時はちょっとやばかったですねぇ、と他人事のように人差し指を顎にちょんと乗せる。やばいなんて事態ではない気がするのだが。
 いや、だって幼学院の生徒が怖いお兄さんたちを怒らせたのだ。俺がその場にいたら他人事だったとしても号泣は間違いない。
「はい、それで逃げようと思ったんですけど、そう、その時のことですよぅ!」
 シアはばん、と机に手を突いて興奮気味に目を輝かせた。


「――何やってるのさね」
 人通りの少ない都市の裏路地に、声量は小さいのによく通る幼い響きが落ちた。
 振り向く悪党ども。しかしその声の主を目にした途端、誰もが言葉を失った。
 深緑を基調とした服に白いケープをまとう少女。その服は大陸にその名を知らしめる聖なる学び舎の生徒であることを雄弁に物語る。
 だがそれよりも、少女の髪の色に、その場にいた者たち全ての視線が釘付けになっていた。
 この大陸ではあまりに珍しい、桃色の髪。見る者に鮮烈な印象を残す色彩。そして真っ直ぐに落ちるそれに挟まれた眠たげな目が、男たちを見下すように眺めている。
「――な、なんだガキが」
 得体の知れない新手が、容姿はともかく年端もいかぬ幼い少女であることに気を大きくして、男たちはすごんでみせた。
 しかし、桃色の少女は怖じる様子も見せず、薄く笑ってひらりと小さな手の平を開く。
 彼女の手にあるものを見て、男の一人が喉を引きつらせた。
「ご、護符!?」
 少女が持っているそれは複雑な文様が描かれた羊皮紙。これを破けば、一時的に都市内の封印が解除され魔術を行使することが出来る。
 男たちはそれぞれ数歩後ずさった。魔術は都市内での行使を厳しく制限されるほどに強力な術である。更に少女のまとうは聖なる学び舎――選ばれた天才たちの集うグラーシア学園の制服。もし、彼女が幼くして凄腕の使い手であったら、大の大人といえど勝つことは難しいだろう。今、こうして護符を手にしている少女は、拳銃を男たちにつきつけているに等しい。
 そう考えた男たちは慌てたように笑みを取り繕った。
「い、いや違うんだよお嬢ちゃん。オレたちはさ、この女の子と仲良くなりたかっただけで――」
 言葉は途中で掻き消える。今まで氷のように静まり返っていた少女が、突然獣が唸るように牙を剥いた表情で彼らを睨み返したからだ。
「――やるのかやらないのか、どっちなのさね」
 鋭い刃のような低音に、男たちはそれぞれ声を詰まらせて散っていった。残されるのは、きょとんと固まっている茶髪の少女――シア。
 桃色の髪の少女は鼻から息を抜いて皮肉げに笑った。
「バカな奴ら」
 ちなみに補足しておくと、例え名門グラーシアの生徒といえど幼い内から魔術を思いのままに操れるような者はほとんどいない。学園自体が幼少時からの魔術行使を良しとしないからだ。桃色の髪の少女もその例に漏れず、決して強力な魔術を行使できるわけではなく――つまり、彼女のしたことは全てはったりであった。
「あ――」
 眼鏡の向こうで大きな目を瞬かせ、ふらふらと歩いてくるシアを、桃色の髪を払う少女は腰に片手をやって迎えた。
「何やってるのさね」
 先程と同じ台詞。けれど、若干の呆れが込められている。しかしそんなことに目もくれず、シアの意識は桃色の髪の少女が持つ羊皮紙に落ちていた。
「あの、それ」
 魔術規制を解除できる護符は犯罪防止の為厳重に管理されており、子供の持てるような代物ではない。シアの指摘に薄く笑って彼女はそれをポケットにねじ込む。
「偽物さね」
「へぇ、すごいですねぇ」
「アンタ、しばらく一人で出歩くんじゃないよ」
「はい。そうみたいですねぇ――ええと、助けて頂いちゃったみたいで、ありがとうございますぅ」
 桃色の髪の少女はシアの口ぶりに鼻白んだ。大男たちに取り囲まれて、怖い思いをしただろうに。シアは泣くどころかにこりと笑って眼鏡を両手で直した。
「私、1年生のシア・ルーンです。ええと、2年生のひとですよねぇ」
 胸に下げた学年章の色でシアは少女の学年を読み取り、大の大人が気圧されたはずの彼女の顔をまじまじと見つめる。対する少女はそういったことに慣れていないのか、桃色の髪を払って横を向いた。
「――ヴリュイエール・テラスア」
「ブリュ?」
 シアは首を傾げて、この地方にはない難しい名を認識しようとする。そんなシアの様子に居心地が悪くなったように、ブリュイエールと名乗った少女は背を向けて歩き出した。
「あ、待って下さい! ええと、クリームブリュレ先輩!」
「……」
 ぴたり、と足が止まる。
「――ヴィエル」
 若干低くなった声で、少女は振り向いた。
「ヴィエルでいい」
「あ、はいっ。ヴィエル先輩」
 そんな桃色の髪の少女の表情など意にも介さず、ぱっと目に光を宿してシアは隣に並んだ。元より一匹狼を体現したような桃色の髪の少女は、きっと驚いたことだろう。何のためらいもなく、横で笑う眼鏡の少女に。
「――なんでついてくるのさね」
「お礼させてくださいよぉ」
 決して特別なものを持つわけでもない小柄な少女シアは、そうやって桃色の髪の少女につきまとうようになり。


「先輩とはそのときからのご縁です」
 シアは一通り語り終えると、しみじみしたように脇にあったお茶をすすった。ちなみに俺の脇にはちょっとした飴の包み紙の山が出来ている。シアの多大なる誇張入りの語りは中々先に進まず、全てを語るのには時計の針が一週半するくらいもかかったのだ。
 それにしても。
「うん、お前が先輩に恩義を感じていることは分かったけど、なんで研究室までおっかけてきたんだ」
「だって、そうでないと先輩が一人になっちゃうじゃないですかぁ」
 当たり前のようにシアは口を尖らせてくる。でもそこまでするものか。ヴィエル先輩って、腰に剣でもさして一人旅立ってしまいそうな感じの人なのだ。個が確立しているのである。人に関心がないともいうのか。
「先輩は人とどう付き合ったらいいのか、よく分かってないだけですよぅ」
 シアはまるで俺の心の内を呼んだような口ぶりで言って、ペンをとると再び書類に向かった。
「頼れる仲間がいなくて、いつも一人で考えて。それで一人で突っ走っちゃうんですから、私が少しでも長い時間見てあげないと」
 さらさらと文字を綴りながらふと笑う。
「――もう、あとちょっとの間しか一緒にいられないかもしれませんけどねぇ」
 しんと温度を落とした空間に染みる呟き。
 もう冬も近い。冬がくれば、春もすぐにやってくる。別れの季節でもある、強い風の中にある春が。
 けれど、ヴィエル先輩が卒業していなくなるなんて、現実のものとして考えるとなんだか雲を掴むみたいに実感が伴わなかった。
「えへへ、しみじみしちゃいますねぇ」
 わざと作ったような明るい声。
 俺は口の中で飴を転がしながら、そんなシアをぼんやりと眺めていた。


 ***


 ばったりとフェレイ先生に出くわしたのは、研究室を出て鷹目堂に向かう途中のことだ。
「おや、これから鷹目堂に行くのですか?」
 丁度中央棟から出てきたフェレイ先生は、冬が近いからか厚手のローブを着て、手には書類を抱えていた。
「はい。先生も忙しそうですね」
「そんなことはありませんよ」
 頬を緩めてフェレイ先生は抱えた書類を指で叩く。
「何か変わったことはありませんか?」
 とん、ととん――と指で書類を叩く仕草はそのままに、フェレイ先生は気遣うように首を傾げた。最近、妙なことに巻き込まれることが続いていたから、心配してくれているんだろう。本当に先生には心配をかけてばかりだ。だから、返した笑みも少し苦いものになった。
「不思議なくらい元気です」
 フェレイ先生は陽だまりみたいに笑って、良かった、と言うと、思い出したように口を開いた。
「そうだ、ユラス君。鷹目堂に行くのなら、ハーヴェイに伝えてもらえませんか?」
 丁度授業の終わる時刻、グラーシアの正門広場には校舎から吐き出された生徒たちがたむろする。そんな片隅、木枯らしの風にさそわれて木々がかさかさと葉を手放す。
 フェレイ先生は風の中で頷く俺にも聞こえるよう、少し大きめの声で続けた。
「ルネイプ作の『夜の庭』。それがあったら取り置いて貰いたいんです」
 風が――唸る。少し伸びた髪が弄ばれて、揺れる前髪が視界を狭くする。俺は指でそれを押さえながら頷いた。
「はい、分かりました。伝えておきます」
「あと、日々に寒くなりますから。ユラス君も風邪には気をつけて下さいね」
「――はい」
 優しい笑顔を見て、俺も笑った。フェレイ先生は記憶を無くして頼るあてのなかった俺を、損得を考えずに助けてくれた。感謝しなければいけないし、心配をかけてはいけない。
 こうやって気遣ってくれる先生を前にすると、改めてそんな想いが沸いてくる。
 いや、実際もう心配かけまくりなわけなのですけれど。
 そう思うと、ちょっとフェレイ先生を正面から見れなくなったので、視線を明後日の方にやった。
「どうしました?」
「あ、いえ」
 そうだ。だから、これ以上は心配かけないようにしないと。
「今後はおとなしくしてます」
 するとフェレイ先生は目を瞬かせた。
「そんな風にする必要はないですよ。やりたいようにやるのが一番です」
 見上げる俺にころころと笑う。
「私も昔からやりたいことばかりしていますし、今だってそうですよ」
「……それで先生みたいに立派になれればいいんですけど」
「私が立派かは分かりませんが、きっとユラス君ならなれますよ」
 そうはっきり言われると若干面映く思えて、ぽりぽりと頬をかいた。ありきたりな言葉のはずがが、フェレイ先生に言われると本当にそうなれるのかもしれないと思えるのが、なんだか不思議だった。
 風が、どこまでも吹き抜けていく。フェレイ先生の瞳はいつもと同じ光を宿していて、少し子供っぽい仕草もいつもと同じで。だから、俺は気付かない。俺は、気付かない。
 ――俺の知らないところで動いていく世界の存在を、今の俺は気付かない。




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