-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち 47.命は大切 朝目覚めてベッドから抜け出すと、スアローグがテーブルに突っ伏して死んだ魚の目をしていた。 「スアローグ、コーヒー飲みたい」 陽が高い場所に昇るまでたっぷり眠って気分爽快の俺は、ゆさゆさとスアローグの肩を揺すった。 今日は試験休みの最終日だ。明日からはまた授業が始まり、次のまとまった休業は春休みまで待たないとならない。 「スアローグー」 「……自分でいれたまえよ」 今にも潰えてしまいそうな返答。ひからびた声って多分こういうのを言うんだろう。なので、とりあえずひとくくりに束ねられた金髪をぐいぐい引っ張ってみる。 「元気を出すんだスアローグ。お前はこんなところでへこたれる奴じゃないだろ」 「だってねぇ!」 ばん、とスアローグは突然俺の手を跳ね除けて勢い良く立ち上がった。 「妙な事件に巻き込まれるし月夜草はパーでレポートかけないし、もうなんなんだい一体!」 おお。炎上した。 「全く今年はどうなっているんだい、僕が何をしたっていうんだ。研究室は解体になるし君の奇行に悩まされるしそれで今回の事件だよ神の試練にしたらちょっときつすぎると思うんだけど!?」 スアローグは足音荒く歩いていってカップをひったくるように取ると砂糖をザバザバ入れて戻り、淹れてあったコーヒーとミルクを注いで飛び散らんばかりに匙でかき混ぜる。 「このままじゃ成績落ちるしそしたら今の研究室にもいられないかもしれない! ああもう在学中に二度も研究室変わるとか何事だっていうんだい!」 「ありがとな」 がん、と叩きつけられるように置かれた俺仕様のコーヒーを受け取る。口にするとまったりとした甘みが広がって、俺は向かい側の席についてほっと息を抜いた。 こいつのすごいところは、怒りの勢いで作ったコーヒーでも味が普段と寸分も変わらない点にある。さすが科学を専攻しているというべきか。 「……もう、なんだったんだいあれは」 一通り思いの丈をぶちまけると、スアローグはくたりとテーブルに突っ伏した。こいつはここ数日、ずっとこんな感じだ。 「んー、俺も分からん」 正直なところをコーヒーを飲む合間に口にする。 先日遭遇したオヴェンステーネ宅の火災事件は、事実だけを言ってしまえば――放火されて屋敷が全焼し、屋敷の主人が亡くなったという、生きていれば10度は耳にしそうなありきたりなものだった。新聞でも大きくは取り上げられなかったし、グラーシアに戻れば笑ってしまえるくらいの平凡な日常が俺たちを待っていた。 まあ、聞いていると妙なことはいくつかある。 ひとつは、屋敷の主人セシルス・オヴェンステーネの死因だ。彼は――俺たちの目の前で射殺された筈が、報道では焼死扱いになっていた。更にスアローグとキルナが犯人らしき人物を見ており、その犯人が庭に火を放ったらしいのに、出火元は本館とされている。その辺りの燃え方が一番激しかったらしい。 ――微妙な齟齬。歪められた事実。まるで、偶然放火に遭って亡くなったと見せかけて、あの男の内側の全てを闇に葬ったような――。 甘みと苦みの両方がする唇を舐めて、コーヒーの水面に目を落とす。彼の研究内容も、そしてあの石と論文のことも、全てが闇から闇だ。 残っているものといえば――。 「不思議な子だったよね。あの子、どうしてるかな」 あの、人形のような少女。 「ん。落ち着いたら会いに来るってさ」 「来たら僕の友人に会って欲しいよ。青薔薇のことを話しても彼ら信じようともしないのさ」 スアローグの物言いに少し笑う。あのマーリアの正体は、――こいつに話しておくべきだろうか。 「……いいや。スアローグだし」 「何か言ったかい?」 「お前のその日常的な人間性は尊重されるべきだと思ったんだ」 「……それは褒めているのかい?」 「けなしてはないぞ」 カップの底に溶けきれずに溜まった砂糖がジャリジャリしてとてもうまい。この感動を語っても、誰も理解してくれないんだけど。 スアローグはあげかかった顔をぺたりとテーブルにつけて、ふと呟いた。 「どうでもいいけどユラス、窓のところにいるの、君の飼ってる鳥じゃないのかい」 「うん?」 砂糖を噛み砕きながら窓の外に目をやると、そこには――。 「――」 ほぼ無意識に腰が浮く。 「セト」 捉えたと同時に名前が口をついてでた。 あの影は間違いない。――セト。絶滅した筈の、紫色の鳥。 そう認識した刹那、脳裏にあの時の光景が弾けた。 炎ですらかき消すようにほとばしる光の奔流の中の、甲高いいななき。そうして起こった、――ありえない一瞬。 スアローグが何か言った気がしたが耳に入らず、俺は駆け寄るようにして窓を開き外に出た。 セトはベランダの縁にとまって、こちらを紫水晶の瞳で見つめている。外の空気は部屋よりも澄んで、ひやりと俺の体を撫でた。 「……」 俺たちは互いに睨みあうようにして対峙する。人間を前にしてぴんと胸を張っているセトのその紫色の目を、翼を、俺はじっくりと観察した。 沈黙、20秒。 「――ただの鳥だ」 そう結論付ける。決して喋るわけでも巨大化するわけでも、クチバシから殺人ビームが出てくるわけでもない。何処からどう見ても、色が珍しいだけのただの鳥だった。 なんだかぼりぼりと頬をかかずにはいられない。あの時のあれは幻だったのだろうか。 「……」 俺は動かないセトをまじまじと見つめて。 「てい」 ぷすっ。 セトの頬にあたる部分を、指で突いてみた。 ……。 ……。 ――ばさばさばさーっ! 「ご、ごめんなさいーっ!?」 すごい勢いで襲われる。たかが鳥といって見くびることなかれ。こいつ翼を広げると視界を覆うくらいの大きさがあるのだ。流石に食われるほどでもないが、クチバシも爪も鋭くて眼光はまさに捕食者。荒れ狂う獅子のごとく猛然とこちらにああやっぱ食われそう!? 「ひーっ!」 敵の猛攻に後退を余儀なくされた俺は迷うことなく逃亡の道を選んだ。命は大切だ。 そう思うが早く、部屋に転がるように飛び込み窓を閉める。ぴしゃっ、と隙間がなくなる小気味良い音が今日ほど安堵を与えてくれた日は、きっとない。 「はぁ、はぁ、」 肩で呼吸しながら窓の外を見ると、どうやら向こうも諦めてくれたらしい。不機嫌そうに翼をばたつかせ、そのままひらりと空に帰っていった。室内、万歳。 「ははは、また会おう友よ」 今度から外出時は空からの特攻に注意せねばなるまい。俺に安寧の日は訪れないのである。 「何やってるんだい」 「異種族間交流だ」 スアローグが全身を使って溜め息をついてくれるのに、ちょっと口を尖らせる。 「というか、なんで襲われてるのに助けてくれない」 「……今のは単に君が悪いんじゃないかい」 ぐうの音もでなかった。 それにしても、と窓の外の青空に思いを馳せる。もうそこに舞う影は見当たらない。 「何者なんだ、あいつ」 うーん、と俺は眉間にしわを寄せた。 そういえば、紫の鳥って絶滅してるとか誰かが言ってたっけ。でもセトはセトとして確かに存在するし。それに、そもそも紫色の鳥はなんで絶滅したんだろう? 少し、調べてみようか――。 *** どさどさどさっ、と大きさもばらばらな本をうず高く机に積んで、俺は思わず腰を押さえた。 「うう、無理しすぎた」 腰の奥がじんわりと痛い。図書館から第二考古学研究室の遠さを、ちょっと見くびりすぎたようだ。 「ユラスさん、なんですかぁそれ」 向かいの席に座るシアが目を丸くする。 「世界鳥類図鑑、世界の猛禽類、渡り鳥の追跡史――?」 説明する前に好奇心旺盛な瞳は本の背表紙にとんだようだ。いくつかのタイトルを口にして、 不思議そうに眼鏡の位置を直しながらこちらを見上げてくる。 「鳥類博士になるつもりですかぁ?」 「調べ物だ」 第二考古学研究室の授業はあってなきものに等しく、特にやらなくてはいけないことなどない。故に俺は今日の午後の時間を調べ物に費やそうと決めていた。 そう。――紫色の鳥についてである。 まずは絶滅されたといわれる紫色の鳥の種類について調べてみようと、俺は持ってきた本の中でも一番重たかった世界鳥類図鑑を取り出した。この書物は丁寧に色のついた図が載っているので、他よりも見つかりやすいと踏んでのことである――が。 「――厚い」 この図鑑、流石世界の鳥類を網羅しているだけあって凶器に使えそうなくらいに分厚く、載っている鳥の種類も半端ない。世の中にはこんなに多種多様の鳥様がいるっていうのか。人類は一種類しかいないのに。 一ページずつ見ていくと、もれなく日が暮れそうだ。 「色別索引とか……ないよなぁ」 早くも棒付き飴の包みをほどきながらごちる。しかも絶滅した年代があまりに古すぎた場合、この図鑑にも載っていないかもしれない。一応、他にも本はあるからそれを参考にしていけばいいんだろうけど――。 「千里の道も一歩から」 遠い目をせずにいられなかったが、俺は飴を咥えると旅立ちの日を迎えた冒険者のような勇ましさで分厚い図鑑の表紙を開き――。 ――がたん、と立ち上がる音に手を止めていた。 音の方を見ると、桃色の髪のヴィエル先輩が眠たげな猫のような足取りで、シアの後ろを通り過ぎるところだった。 「あれ、先輩。どこ行くんですかぁ?」 「タバコ」 にべもなく答え、もうー、と眉尻を下げるシアに振り向きもせずに、ヴィエル先輩は外に出て行った。いつものことだ。 「先輩ったら、またタバコが増えてるんですからぁ」 「もうすぐ卒業だし、思うところあるんじゃないのか?」 「だとしてもタバコは良くないですよぉ」 ペンをぶんぶん振り回すシアに俺は苦笑した。 「そういえばヴィエル先輩って卒業したらどうするんだろうな?」 何気なく問うと、シアは頬に指をあてて首を傾げる。 「それもそうですねぇ、私も全然聞いてないですよ」 グラーシア学園を卒業した生徒たちは、都市内の研究施設に入る者が大半だ。故郷に戻って職を探す者もいるらしいが、元々この学園は学者を生み出す為の学び舎である為、学問の都に残る生徒は非常に多い。 だから順当に考えれば都市に残るんだろうけれど。でもあの先輩、本当に学者になりたいのかも分からないし――。 なんか、卒業と共に旅にでもでそうな感じである。剣を携えマントをひるがえし一人颯爽とグラーシアを去るヴィエル先輩。 「……格好いいな」 今は剣とか持ってると法律でひっかかるけど。 「何ぶつぶつ言ってるんですかぁ?」 「うん、先輩だったら警視院の人でも撃退しそうだし大丈夫か」 「わけわかりませんよぉ」 「ちゃんと時々手紙とか出してもらわないとな」 「ユラスさーん?」 シアにぱたぱたと顔の前で手を振られる。 「もう、ユラスさんからも何か言ってあげて下さいよぉ。先輩ったら、話しかけてもらわないと何も話せない人なんですからぁ」 「……シア、何気に失礼なこと口走ってないかお前」 「だって本当ですもん」 そうシアは頬を膨らませた。ヴィエル先輩はそのまま出かけてしまったのか、その後一日研究室に戻ってくることはなかった。 *** 夕暮れに向けてぽつぽつと明かりの灯り始める猥雑な通りには、多様な店が入り乱れている。細い道は行き交う人々の談笑や喧嘩一歩手前の言い合い、怪しげな品を言葉巧みに売ろうとする露天商の呼び声などに包まれ、まさに混沌の様相を呈していた。 空の青が夕暮れに霞み、ゆるやかに翳って世界を薄青と紺の影絵に見せる時間帯は、白から黒へ、昼から夜へ反転する時の境界線でもある。 夜が深まれば軒先の光は煌々と存在を主張し始める。それと共にますます人の増える様は混迷を極め、色とりどりの光が己の姿すらぼやけさせる。 学びの都、グラーシア。疲れた学者たちに与えられた胡蝶の夢――。 俗に歓楽街と呼ばれる一帯には、今宵も酒場が看板をあげて客を迎え、大小様々な喧騒で溢れ返っていた。 一言に歓楽街といっても、見える表情は場所によって、また見る者によっても鮮やかに変化する。大通りに近い辺りは一般的な市民でも利用するような当たり障りのない店が並ぶ。しかしひとたび奥に足を踏み入れれば、それだけ闇は深くなる。生の脈動は逆になりを潜め、真の暗がりには密やかな攻防が飛び交っている。 学問という名の下にあらゆる不純物を取り除こうとしたこの都市の澱みを一手に引き受けた、光と闇の混沌。 何故英雄ウェリエル・ソルスィードはこのような都市を作り出したのだろうか。彼はこの混沌を生み出し、何を見ようとしたのか。 ふと頭を過ぎったそんな問いを一笑に付して、ヴィエルはざわめきの中を進んでいた。ゆったりとした動作であったが、足取りに隙はない。見る者が見れば、ある程度暗闇に順応した歩き方と評するだろう。そのくらいに桃色の髪の少女はこの場所の空気を体に染み付かせていた。 ただし、決して彼女は犯罪に関わるような行為をする人間ではなかった。その一線だけは、彼女は確実に守っていた。彼女は猥雑な世界の中を、降りかかる火の粉を払いながらぼんやりと歩いている。だがそうしている内に、すっかりその通りでは馴染みになっていた。なんといっても、彼女の桃色の髪はとてもよく目立つ。 更にこの界隈の者に彼女が気に入られた理由がある。それは彼女が聖なる学び舎の生徒の大半が持つ、選ばれた天才としてのプライドを持ち合わせていないところにあった。驕らず謙らず、彼女は平気で制服のまま闇夜をうろつく。 ならば、何故彼女はこの地にやってきたのか。彼女を見る者なら誰もが思うであろう問いに、彼女が答えることは、ない。 表は白で統一された都市の外観も、この暗がりまでは届かない。灰色にくすんだ店の扉を開いて、ヴィエルはいつもの席に向かった。狭い店にはカウンターにしか席がなく、薄暗い照明の下で先客たちがちびちび酒を舐めている。 人相の悪い主人が一人で切り盛りする店には、澱んだ空気が僅かな会話と共に横たわっている。そこまではいつもと変わらなかった。 変化はヴィエルが席につくと同時に主人が声をかけてきたところから始まった。 「よぉヴィエル、客が来てるぜ」 短く髪を刈り込んだ主人は低い声でにやっと笑い、顎で奥をしゃくる。ヴィエルは片眉をあげてちらっとその方を流し見た。 一番奥の席に、暗がりに溶け込むような人影。栗色の髪をぼさぼさに伸ばした、これといって特徴のない中年の男が堆積した埃のように座っていた。彼の席には琥珀色の液体が入ったグラスが置かれているが、手をつけた様子はない。 怪訝そうな顔をするヴィエルの前にもいつもの酒を置くと、主人は面白げに笑って去っていった。 「――」 そうするとぴくりとも動かなかった男が、不意に形を揺らめかせる。ヴィエルは黙って煙草を取り出し、火をつけた。どうも、まともそうな客ではない。 「何の用さね」 地を這いずるようにして隣の席に座った男を、射抜くようにヴィエルは一瞥した。俯きがちな頬には無精髭が浮き、唇に色はない。緑の瞳もどこか空ろに落ち窪んでいる。すると男はぼそぼそと滑舌の悪い言葉を落とした。 彼女にとって、思ってもみない名前だった。 「――ユラス・アティルド」 灰が、煙草の先から零れ落ちる。 ヴィエルは頬が強張るのを悟らせないように灰皿を引き寄せた。男はヴィエルを見ずに続ける。 「彼の正体を知りたいんだろう」 桃色の髪の少女は平素を取り繕うのに意識を集中させながら、油断なく男に顔を向けた。そうして男もまた、きろりと目だけを動かす。 紫煙がゆったりと合間を流れる。 ヴィエルと男の視線が交差した。 「――」 言葉が出てこなかった。魚を思わせる、暗くよどんだ瞳だった。 ――闇が広がっている。そう思った。その境界に自分は立っているのだと知覚できるほどに、目の前に闇が広がっている。 紫煙はゆるゆると広がって、消えていく。 「知りたいんだろう?」 繰り返しながら男は禍々しい笑みを口元に刻んだ。 Back |