-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち 46.いびつな楽園 「また君か」 整えられた髪をがしがしと掻き毟って渋面を作る若いお兄さんを前に、俺は苦笑いすることしか出来なかった。 「こうも立て続けに事件に巻き込まれるとは」 「なんか、そういう星の元にでも生まれたんですかね」 俺の自虐的な発言に、お兄さんは盛大な溜め息をつく。学術都市グラーシア、警視院。机を挟んで今にも頭を抱えてしまいそうな顔をしているお兄さんは、つい先日の事件のときに俺に事情聴取に来た人だった。 あの屋敷の件から丸二日。それしか経っていないというのに、なんだかあの夜の出来事はとても昔のことに思える。様々なことを思い、動いた筈の記憶は、今はどこかぼんやりと霞がかっていて、頼りない。 全てが夢だったのだといわれれば、信じてしまえそうになるくらいに――。 けれど、起きたことは何もかも真実だった。俺たちはあの燃え盛る中庭を走り、煙にまかれて倒れていたスアローグやキルナを連れて屋敷の外に死ぬ物狂いで避難したのだ。幸い、全員大した怪我もなかった。 スアローグやキルナは、何がどうなっているのか分からなかったろう。けれど俺とセライムだって、実際同じようなものだった。結局あの屋敷に火をつけ、主を殺害した人物は誰だったのかは分からなかった。炎に包まれた屋敷は完全に燃え落ち、たった一晩で真実も何もかも灰になってしまったのだから。 そう考えると、余計なお世話ながらもなんだか目の前の警視院の若いお兄さんが哀れに思えてきた。報告書書くの大変だろうな。 事情聴取は俺たち全員に行われ、他がどうしたかは知らないが、俺は全てをありのままに答えた。ただし、一点を除いて。 マーリアのことだ。 あいつの正体に関しては、どうしても口にする気になれなかった。もうあの石は砕けてしまったし、証拠も全て焼けてしまった。そんな中、先の灰色の子供の事件もあった手前、真面目な顔で話しても、変人の妄言にしかとってもらえない気がした。 それに――、ここは学術都市グラーシアだ。もしあいつが他の人間から記憶を受け継いだ人間であるという話が漏れたら、その事実を貪欲な科学者たちは放っておくまい。もう石も論文もなくなってしまったが、また同じような悲劇が起きないという保障にはならない。これは一度起こりえた現実なのだから。 だからその辺りに関しては言葉をぼやかして、俺は諾々と話をした。警視院の固い椅子は何処か居心地が悪く、早く帰りたい気持ちもあった。 「分かった。もう帰っていいよ」 質問されるままに全てを語ると、溜め息まじりにそう言われた。俺は軽く会釈して立ち上がり、小さく口を開いた。 「犯人って見つかりますか?」 「見つけるのが私たちの仕事だ」 うんざりとした返答に、少し笑う。若い人だけど、苦労しているようだ。 でも、見つけて欲しいと思う。あれは――きっと許されることではないから。 部屋を辞した後は、ロビーのソファーに腰掛けてしばらくぼんやりとしていた。なんだか意識も少しだけ曖昧だ。色んなことを考えなくてはいけないのに。 「ユラス」 名を呼ばれて、目を閉じていたことに気付いた。うん、と思って顔をあげると、目の前に金髪の少女。大きな窓から明るい光が差し込んで、それが眩しい。 「ああ」 「寝ていたのか?」 「……いや」 僅かに笑うと、セライムも笑って隣に腰掛けた。昼下がりの警視院のロビーは人々の相談の窓口にもなっている為、それなりに騒々しい。 少しの間、俺たちはそんな雑音の中を無言のまま過ごした。時は不思議なほどに穏やかに流れ、喧騒も何故だか優しい響きで耳に届いている気がしていた。 「俺さ」 「うん」 ふらりと話し始めると、セライムは身じろぎもせずに答えてくれる。あの夜、あれだけ激論を飛ばしあったというのに、今となって心は朝の泉のように穏やかで、それが少し可笑しかった。 「やっぱり分からない。分からないんだ。相手の為に何もかも投げ打てる愛情も、そうまでして相手を求める気持ちも」 軽く目蓋を閉じれば思い浮かぶ。人気のない林の奥。そこにはいびつな楽園があった。同じところをくるくると回り続けるように見せかけて錆びて朽ち、そうして壊れてしまった楽園が。 男は女の容姿を愛し、女は全てを愛して欲しいが為に男を愛して全てを捧げて。けれど女が愛したのは壊れてしまう前の男で。目の前で崩壊していく男の姿に耐え切れず、ついには終焉を願った。 目を開いてそう高くない天井を見上げる。体が他人のもののように重たく、吐き出した音色もまた自分でも驚くほどに低かった。 「記憶がないから――なのかもしれない。もしかしたら、記憶と一緒に色んなものを忘れてきたのかもしれないな、俺」 「――うん」 セライムは一度何かを言いかけて、しかし相槌を打つに留める。だから、頬を歪めて苦い舌で呟いた。 「今までさ、人が何してようと正直どうでも良かった。こうして欲しいとか、こうあって欲しいとか、そういうの考えたことなくて。ただそういうものだって、俺はただ遠くから見てるだけで――でも今回は違って」 語りながら、春の目覚めを思い出す。世界は俺の前で目まぐるしく動いており、それを追うのに必死だった。認識するだけで精一杯で、疑問も覚えず、ただ受け入れるだけだった。そうだ――俺は、何も考えてはいなかったのだ。ただ、全てを眩しがるだけで。 きっと、自分にしか興味がなかったのだろう。 そう気付いた。 自分が世界を受け入れる為。自分が自分を守る為。自分が自分を知る為。それが俺の全てだったんだと思う。人の思い、ましてや愛とか呼ばれるものなど分からなくて当然だった。セライムに言われた通りだ、悔しいけれど。 「あー、俺、なんだか最悪だ」 考えれば考えるほどに頭を抱えたくなってきて、半笑いの顔を片手で覆った。目覚めてから半年以上も経つのに、今だ一歩も動きだせていない真実が鼻先にぶらさがっている。しょうもなさすぎた。 勝手に喋り始めて勝手に自己嫌悪に陥り始めた俺の隣で、くすりと苦笑する声が転がった。見ると、とろけて流れる黄金のような長い髪が、肩の動きに合わせて揺れている。 「――そうだな」 何に対してのことか分からない返事をして、セライムはすくった髪を耳にかけながら青の双眸をこちらに向けた。凛々しく、そして優しい顔立ちがそこにあった。 「じゃあお前、なんで今回は違ったのか、分かるか?」 「――え?」 不意にそう投げかけられて返答に詰まる。それはなんだろう、あの屋敷の空気にあてられたのもあるし、あの石が変なもの見せてきたのもあるし、そういうのが折り重なって――。 セライムは立ち上がった。腰まである金髪は波を描いて流れる。逆光になったそれは神々しくもあり、俺は一瞬思考を止めて見入った。笑っているというよりは、何かを諭すような顔でセライムは俺を見下ろし、息を抜いた。 「確かにお前は記憶と一緒に、別のものも忘れてしまったみたいだな」 手がもたげられて、何が起こるのかと考える前にそれは俺の頭に乗せられる。外部からの刺激に、反射的に肩が跳ねた。そんなこともお構いなしに、くしゃりと撫でられる。 ――知らない感覚だった。 「悲しいって、思ったんじゃないのか?」 「――」 掠れて返事がでない。でてもろくなものじゃなかったろうけど。けれど、それ以上に――。 悲しい。 その言葉が、知っている筈のその言葉が、まるで朝露が落ちたみたいに胸に染みて広がった。 悲しい。 波紋を呼んで、心がさざめく。 「だからマーリアを助けようと思った。違うか?」 乾いた砂がみるみる水を吸い込むよう、枯れた杯が満ち満ちたよう、体は反応した。 ――悲しい。 これが――悲しい。 顔に被せたままの指に力を込めて目に押し付けた。そうでもしないと、本気で泣いてしまいそうだった。 熱い喉から、息を小さく吐き出す。 「……仰る通りなのかもしれないです」 弱気な意思が妙な曖昧さと丁寧さを持ってして口からでた。情けない返答だと自分でも思った。 セライムは――きっとそういう俺の内心も全部お見通しなんだろう。そう考えると恨み言の一つでも言ってやりたくなって、続ける。 「なのかもしれないですけれど、俺も一杯一杯なわけで、決してそれを完全に認めたわけではなく故にお前の実直かつ自分の意思を猛烈全開かつそれを拳銃でてきても世界が燃えても曲げないその態度は一部評価するがやはりいくつかの疑念もだな」 「何を言ってるんだ、お前?」 俺は学んだ。本当に一杯一杯な時に、下手に恨み言を言うものではない。 自分でも何を語っているのかよく分からなくなってきた。 虚しくなってきたので、適当に打ち切って先程より更に強く顔を押さえる。すると頭から手の感触が離れていき、それにしても、とセライムは呟いた。 「その、ユラス。あの時、――伯爵が、銃を――持ち出したとき」 言いにくそうにつっかえながら、小さな声でぼそぼそと紡ぐ。脳裏には、ぽっかりと開いた黒い穴だけが思い浮かんだ。 「私は――本当に怖かった。動くどころか、声もでなくて。座り込んでしまいそうだった。――お前が動いてくれなかったら、多分何も出来なかった」 「――ああ」 思い出す。確かに俺はあの時――。 ……。 あの時、何を思ったんだっけ? 頭の中にもやがかかっている。よく、思い出せない――。 何故俺は銃を突きつけられて一歩踏み出すことが出来たのか。 「なんか、大丈夫だった」 「ユラス?」 手で顔を覆ったままだったから、視界はまだ暗い。 「うん、よく分からないけど、大丈夫だったんだ」 「……」 セライムは思案するように暫く黙って、突然話題を変えた。 「それにお前、詠唱なんて出来たんだな」 「んん」 指を少しずらす。暗い世界に光が差し込む。 「俺もビックリだった」 「それも忘れてたのか」 「多分」 そう。俺は、あの晩あの庭でほぼ無意識に魔術行使を行っていた。それも前時代的な手法――詠唱を用いた魔術を。効率的とされる印を切って発動させる魔術が台頭する昨今、物好きでもなければ詠唱が使われることはない。 それを、さも自然に使いこなした。つまり、記憶を失う以前、俺は詠唱による魔術を行使していたということが予想される。 「……百年の時を眠り続けた世紀の魔術師」 どこの小説の主人公だ。 自分で自分の思いつきに突っ込んでみる。 「どうとってもろくでもない過去しか考えられない……」 「でも手がかりじゃないか。あの石のことだって」 「うーん」 そうセライムの前で、口の端を曲げる。 「でもさ、別に俺、記憶を取り戻したいって思ってるわけじゃないから」 言いながら苦笑した。実際は取り戻したいと思ってないというより、今のことで精一杯で、取り戻そうと思う余裕がないってだけなんだけど。 「……そうか」 セライムは胸に手をやって、思案にふけるように目を逸らした。まあ、そりゃそうだろうな。あの時俺が使った魔術は――多分、人の出せる限界値を超えていた。それをパニック状態だったとはいえ、こいつは目の前で見たのだから。 それについて言うべきかと思った俺はしかし、視界の奥に見えた人影に思わず声をあげて立ち上がっていた。 「マーリア」 「えっ?」 セライムが驚いて後ろによろけ、振り返る。 警視院の広いロビーの片隅、階段を下りてきたのは――背の高い警視院の職員に付き添われた、年端もいかぬ少女、マーリア・オヴェンステーネだった。 喧騒の中のマーリアは、どこか居場所がなさそうに両手を前で重ね、俯きがちに歩いている。 だが、俺たちには気付いたようだった。遠くからでも大きな若草色の瞳が瞬くのが見てとれた。 するとマーリアはぼそぼそと何かを付き添いの人を見上げて告げ、いくつかやりとりをしたように見えた。そうしてふわりと会釈し、こちらに歩いてくる。 「――マーリア」 セライムが待ちきれずに駆け出していった。グラーシアに戻ってから会うのは初めてだ。マーリアはもう黒い服ではなく、警視院で与えられたものであろう普通の服を着ていて、逆に不思議な印象をくれた。 マーリアは。 マーリアは、あの夜、セライムに連れられて屋敷を出た。何度も何度も振り返ったが、立ち止まることをセライムは許さなかった。その後のことは――俺も、よく覚えていない。 けれど、マーリアは気がつくと意識を手放していた。それがまるで屋敷の命と連動しているように思えて起こそうとしたが、ゆすっても叩いてもマーリアは目覚めなかった。 そのまま警視院の人に引き渡して――そして今。マーリアは俺たちに歩み寄ってきていた。 「マーリア……!」 体を崩すようにして膝をついたセライムが、そのまま飛びつくといっていい程の勢いでマーリアを抱きしめる。 「……セライムさん」 ぽそっとマーリアは呟いた。どこかぼんやりした顔だったが、セライムに抱きしめられたまま目線は俺に動いて、マーリアは目を細めた。 だから俺も無言で頷いた。セライムは一度体を離して、マーリアの顔を覗きこんだ。大きな窓から惜しみなく降り注ぐ白い光を浴びて、ほつれのない淡い亜麻色の髪は宝石のように輝いていた。 だが、その表情はすっかり憔悴して青白い。無理もないだろう。マーリアは、俺とセライムを交互に見て、ふるりと長いまつ毛を伏せて頭を下げた。 「この度は、大変ご迷惑をおかけしました」 抑揚のないなめらかな響きは、どこか空虚で体温がない。既に青薔薇の庭も伯爵もなく、今のこいつを守るものは何もない。 「これからどうするんだ」 セライムが問うと、マーリアは苦しげにゆるゆると首を振った。 「これから――考えますわ」 今のところマーリアの身柄は被害者として警視院の預かるところとなっている。警視院は国の機関だから、この後もちゃんとした受け入れ先を探してくれるだろうけども――。 どう言葉をかけるべきかとセライムはもどかしそうに表情を歪めた。するとマーリアは、俯いたまま悲しげに笑う。 「考えます。どうやって生きていくのか、考えますわ。時間はありますから」 何もかもを失った少女はそう紡いで、顔をあげた。あまりに歳に見合わぬ悲壮な表情は、けれどマーリアにはよく似合った。 「そうして、何かの答えを掴んだら――そのときは、またご挨拶に参ります」 「答えなんてなくていい、いつでも会いにきてくれ。歓迎するから」 マーリアは寂しそうに笑って、はい、と返事をした。 「――それでは」 腕を組んで待っている警視院の職員を気にかけるように少し振り返って、マーリアはもう一度頭を下げる。 「本当にありがとうございました」 セライムがまたいくつか言葉をかける。俺は一歩下がって、それを眺めて。 「マーリア」 名を呼んでから、自分が口を開いたことに気付く。 既に歩き出しかけていたマーリアは、こちらに振り向いた。人形めいた美しい顔は、どうみても作り物のそれだ。けれど、それが生み出す表情こそが人の心を表して、俺とマーリアの視線は確かに交差した。 「――またな」 俺は、どうにか笑みを押し出してそう告げた。セライムみたいに気遣う一言でも言えれば良かった。けれど、今の俺にはそうすることが精一杯で。 マーリアはそんな俺の短い挨拶に、小さく会釈して返した。 愛したものを自ら望んで壊し、全てを失ってこれから一人で生きていかねばならなくなった少女。否、――ひとりの、女性。 マーリア・オヴェンステーネ。 その後姿が不意にあの屋敷に飾られた写真で笑う女性に被ってぶれて、でももう奇跡は起こらず。一瞬そう見えたその理由を、俺は窓から降り注ぐ白い光のせいにした。 *** 秋の涼しげな風が、さわさわと木々を揺らす。誘われるように枝は葉を落とし、季節は冬へと繋がっていく。 折り重なり移ろい行く景色に埋もれるよう、シェンナは木の幹に背をつけ、古びた紙束に目を通していた。 膨大な文字の群れ、複雑な数式の羅列、余白を彩る注釈。およそ百を数える枚数で綴られたそれを、よくあの男は解読したものだと思った。何かに取り憑かれたものだからこそ、理解できたのか。 この論文にさえ出会わなければ、彼の命が奪われる結末にはならなかったろう。哀れな男だ、この内容の価値を知ってしまったが為に、彼は我が身を破滅へと導いたのだ。 そう考えると胸がちくりと痛む。あの時、自分が持ち去られたものを見失ってしまったから、この悲劇は引き起こされたのだ。自分の失態がこの件を招いたといっていい。 だから、もう過ちは繰り返すまいとシェンナは一人目を伏せ、論文の一枚をそっと指でつまんだ。 体が重く気だるさが四肢を苛んでいる。昨晩の争いで、紫の少年の魔術を相殺する為に強力な魔術を行使した為だろう。怪我こそしなかったが、微熱のような不快感が未だ全身にこびりついていた。 それでも簡単な魔術なら使えないこともない。少し意識を集中させると、つまんだ紙にぽっと火がついた。指を離すとみるみる炎に包まれたまま流れ、地に落ちたときには黒い灰と化している。 それを一枚一枚、丁寧に続けた。二度とこんなものが人の目に触れないように、確実に彼女は論文を燃していった。 しばらくしてから気配が降ってきても、彼女は微動だにしない。 かさり、かさり、と落ち葉で埋め尽くされた大地を踏みしだきながら、ルガが背後から姿を現した。シェンナが燃していく紙束にちらっと興味なさげに視線を投げ、そのまま目を閉じる。 「警視院が動いている。政府はまだ気付いていないようですが」 彼は事実を抑揚なく述べた。きっと今頃蟻が砂糖に群がるように人にたかられているであろう現場を見てきたのだろう。 シェンナは手だけは止めずに、灰色の男を見た。彼は灰色の髪、灰色の瞳、そして灰色の体を平気でさらしてそこにいる。フードのついたローブに全身を包む自分とは正反対に。 そうしていると、忌まわしい体を隠そうとする自分がひどく滑稽なものに見えてきて、シェンナは顔を歪めて目を逸らした。苛立ちは、口調に混ざって具現化された。 「何故彼を守るの」 「私の生きる理由です」 さらりと砂のように声は流れ、その硬質さに鼻白む。 「何故」 「――あの嵐の日、私はあの方と共にいました」 はっとして、シェンナはルガの剃刀のように冷徹な顔を見た。彼はいつだってこんな色のない顔を張り付かせ、機械のように諾々と動く男だった。今だって、それは変わらない。彼は淡々と言葉だけを連ねる。 「あの方のオーダーです。元いた場所が崩れ落ち、私は野に解き放たれた。そうして、生きる理由が欲しいと言った私に、――あの方は」 ふと声が不可思議な震えを見せて、そうしてシェンナは彼の表情にぞっと背筋を凍らせた。 彼は次の言葉を紡ぎながら、零れるように笑みを漏らす。恍惚とした、優しく――薄ら寒さすら覚える笑みを。 「あの方は願いを叶えてくれました。私に与えられた命は、彼の命の保安、彼の社会的な生活の保守――彼が『人』として生きていくことに障害となるあらゆるものから例外なく彼を守ること」 「……」 シェンナは彼が語る人物を脳裏に描き出した。これといって特徴のない、穏やかで苛烈な人間。物静かでいつも悲しげでそれでいて、狂気に犯されていた。 ルガに下した命令も、なんとあの人物らしいものか。しかし、疑問は生まれた。 「あなたはそれを受け入れたの」 一枚、また紙が燃えて潰えていく。 答えないルガに、シェンナは言葉を重ねる。 「あなたは彼を憎んでいたのではなかったの」 「憎い」 針のような返答に、つとシェンナの手が止まった。ルガは表情を無に戻し、灰色の目で前だけを見ている。 「殺そうと、何度も思いました」 風が吹き抜ける。時は張り詰めることなく、ただ流れ続ける。ルガの手には一振りの拳銃が握られていた。魔術が使えない人間にも扱える武器として発明されたこの存在は、剣術の世に終焉を告げた。剣と違い、拳銃は人に触れずに人を屠ることを可能とした。 ――そして人と人の接触は、希薄になったけれど。 「あの地にいた頃、幾度となく彼にこれを突きつけました。持つものと持たざるもの。あのときの彼と私。私は何かを得たかった、彼さえいなければ何かが得られると思っていた」 色のない唇から、機械的に言葉が紡がれる。忌わしい体に生まれついてより決して覗くことのなかった彼の胸の内はまるで空洞で、どれほどあの場所が空虚だったのかとシェンナは考えた。 ルガはまるで他人の記憶を語るような無感動さで、静かに吐露を続ける。 「しかし結局、私には撃てなかった」 あの紫の少年がいた部屋を思い出す。明るく、そして暗い部屋。シェンナとしても嫉妬がなかったといえば嘘になる。そう、まさに彼は持つもので自分たちは持たざるものであった。彼は自分たちの希望であり絶望であった。紫の少年を眺めながら、暗い感情に耽ることは多かったと思う。彼がいるからこそ自分たちは苦しみ続け、そして彼なしにはその苦しみから抜け出すことは出来ない。 あの時は、そう信じていた。 「では何故」 ルガが彼を憎む想いは、彼女には否定出来ない。ドミニクが同じ想いを抱いているように。ただ、それなら尚更。何故、ルガは紫の少年を守ろうとするのか。 次の言葉はふと思い出したように吹く風に似て、あらぬ方向へと転がった。 「今の彼をどう見ますか」 色の宿らぬ瞳は、彼が一切の感情を剥ぎ取っていることを物語る。彼が口をきくときは、いつもこんな目をしていて――だからいつだってこちらも感情なく受け答えするだけだった。 無機質な質問には無機質な答えを。シェンナは情を切り捨てて会話する術なら心得ていた。そうすることを、幼くから望まれてきたのだから。 シェンナはしばらくの沈黙の後に、そっと口をもたげた。 「彼のデータは極端に不足していて未知数な点が多いけれど――私は正直なところ、あの事件から目覚めて肉体的に一ヶ月ももたないと踏んでいた」 そう。それがシェンナの正直なところだ。外の世界で彼が生きていけるなど、思いもしなかった。今の彼に何が起きているとしても――まずその生こそが奇跡だ。 「けれど、実際その後彼の体が変質することはなかった。推測されるのは糖分の多量摂取による安定ね。私たちが飲む薬も結局は糖質とエネルギーの塊といえるし、この説が最も腑に落ちる。始めの頃はよく意識混濁が起きていたようだけれど、糖質を多く摂取しだしてからはそれも落ち着いた。 肉体的に今の彼は均衡し、非常に安定しているように見える。魔術行使にも十分耐えているし、一般的な生活を送るのに最低限必要な体力も保持されている」 灰色の瞳をそばめるルガの前で、しかし、とシェンナは表情を曇らせた。 「問題は精神面にある。目覚めてからの彼は妙な安定状態にあったように見えた。それは恐らく――いくつかの感情の欠乏によるものと推測出来る。強い感情の欠落。春から夏にかけて、彼は疑問も持たず、あらゆるものを受け入れ吸収する傾向にあった。正負問わず、激情と呼べるものを持たなかった。 ただ、次第に無かった感情が生まれつつある。夏からの彼には感情の大きな揺れ動きが見られる。疑問し、欲求し、ついには先日のドミニクの件で、怒りの感情までもが発露した」 「より人間らしい振る舞い」 不意に合いの手を入れられて、シェンナは次の言葉を飲み込んだ。 「そう。彼は時を経るに従って、人として生きる術、そして人である術を身に付けだしている」 「しかし不安定であることに変わりはない。特に憤怒や憎悪などの感情は未だ持て余している様子が見られる」 「むしろそれらを自分ではないモノ、として認識しているのかもしれません。それが自分の感情なのだと理解出来ていない」 「そうもなる――精神が変化についていけない。ルガ。彼にとって、あの地に生きることは不幸しか招かないとは思わない?」 そこまで唇に乗せて、シェンナは脳髄が焼かれたように瞳を見開いた。 ルガはごく自然に、それでいてこの上なく不自然にあるがまま、そこにいるだけだ。 「彼はこれから苦しむでしょう」 断言は、虚ろな空間に妙な余韻を残して散っていく。 「己のありように苦しみ、外界のありように苦しみ、絶望に打ちひしがれることもあるでしょう」 韻は重なり、音は調和し、満ちては引いていく潮騒のような言葉たちに、眩暈すら覚えた。 「――あなたは」 微かな抵抗のような、今にも潰えてしまえそうな呟き。それを受けて灰色の男は静かに頷き、再び笑った。 「彼が生きること。苦しみ悶え、傷つきながらそれでも人として生きていくこと」 まるで愉しげな、虚しい笑みで。 「それが私の願いであり憎悪です」 暫くシェンナは論文を燃すどころか、指先一つ動かせないまま、沈黙に支配されていた。 人は、生きている内に、どれほどの重さの想いを胸に抱くのだろう。 諾々と生きている男だと思っていた。何も考えずに、ただ自らに与えられたことだけを執行する男だと思っていた。 しかしそれはただの幻想で。色のない体に包まれた心は、底の無い暗闇のような昏いものを抱え込んでいた。 「気をつけた方がいいでしょう。そろそろあなた方が住んでいる辺りに警視院の手が入るそうです――いいえ。もっと上の人間の思惑が」 まるで独り言のように言い添える。 「既に『用命者』はこの世にありません」 含まれる単語に、シェンナは反応して唇を震わせた。 「――死んだの?」 「夏に、私が消しました」 彼に余計なことをされると困るので――、そう付け足す。 「……よく、本人が特定できたものね」 「あの方より最後に聞かされました。『用命者』は彼の顔を知らなかったようですが、彼の選んだ学問の分野に広い顔を持っていた」 「だからあの時論文を盗んだの」 「彼の出席した学会に『用命者』も招かれていた。あそこで彼が目立つ事態は避けたかった」 それで『用命者』について調べあげた末、彼にとって危険とみて消したのだろう。 多くの真実を抱えたまま消えていった、本名も顔も知らない人物。だからだろうか、悲しいとも思えなかった。ただ、胸の中は灰色のもやがわだかまるばかりだった。 「これで政府内に事の真相は無論、事の内容すら知るものはほぼ消えました。まだ追跡者はいるようですが」 その追跡者すら、この男は恐らく全て必要があれば消していくのだろう。彼が何も知らずに生きていく、その為に。 何故、そこまで出来るのかと思う。自らの信念と感情に、そこまで素直になることが出来るというのか。誰を憎めばいいのか分からず、何と決着をつければいいのか分からない自分のありようは、やはり否定されるべきなのか。 「……時間がない」 彼はぽそりと、掠れたようなか細い声で独り言を呟いた。その意味が分からず彼を視界に納めたが、追求できる気力が残っていなかった。俯いた彼の顔は、一気に老け込んだように覇気がない。自分も同じことだろうが。 元よりいびつな体だ。その生を祝福されず、暗い場所で生きる為だけに生きていた。喜びも友愛も知らず、ただ己を保つ為にその心を堅牢な檻で囲むしかなかった自分たち。 外の世界は、こんなにも光で溢れているのに――。 季節は冬に移ろう。木枯らしの風が優しく生を剥ぎ取り、枯れ葉を土に還していく。そうやって世界は流転していくのだ。思いも記憶も塗りつぶされることはなく、けれど風化していく。 だから、自分たちもそうやって、ゆるやかに身が朽ちていくのを待っていることしか出来ないのだろうか。 論文を持つ指に力が入った。紙が擦れる音。ただ虚しかった。彼のように答えを見つけられず、それでいてドミニクのように感情に染まってしまえるほど、もう純粋にもなれなくて。 灰色の女は、一人。ただ、――途方に暮れる。 Back |