-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち 45.涙の理由 俺たちの背後から階段を下りてきた伯爵は、青白い光を受けて細いシルエットを浮き立たせる。じりじり後退する俺たちを、少年のような純粋な瞳が不思議そうに眺めていた。そう、そこにあるのは激しい感情などを一切含まぬ、ただの疑問だった。それが更にこの場から現実感を奪っていく。 「お、おいマーリア。話が違う」 「――」 小声で横の少女に訴えるが、彼女も全身を凍らせて目を見開いていた。 「マーリア、何をしていたんだい?」 なめらかに響く声。伯爵は笑いながら踏み寄った。――こつり、と一歩。 「駄目じゃないか、論文を持ち出したりしたら。何処にやってしまったんだい?」 「――論文?」 口の中で呟く。マーリアも理解できないようで怪訝そうな顔をしていた。こいつが持ってきたのは光る石であって、論文ではない。 いや、しかし――この状況で、そんなことを聞くのか? まず糾弾するべきは――。 「なんて研究を」 感情に染め上げられた声が耳朶を叩く。 セライムが、その双眸に鮮烈な怒りを込めて、伯爵を睨みつけていた。 「こんな酷いこと!!」 どん、と人形が封じ込められたガラスを叩く。伯爵の眉が揺れる。 「あまり強い力を加えないでおくれ。傷がついたら大変だ」 そう苦笑する。俺たちがここに入ったことでなく、人形たちが傷つくことに反応を見せる。 伯爵は、美しいものしか愛さない。それ以外にはまるで興味もなく。 「――っ!」 剥き出しの感情が牙を剥いてセライムを支配し、今にも飛び掛らんと吼え猛る。 「マーリアはこんなこと望んでなかった!!」 「――セライム、落ち着け」 「そんなのは愛してるだなんて言わない、マーリアはお前の人形じゃないっ!!」 「セライム」 手で制す。セライムは呼気を荒げて言葉を続けようとする。真っ直ぐな奴だから。 「人形だったんだよ」 だから、一番残酷な言葉で止めた。 「マーリアが言っただろ。伯爵の世界は閉じている、この人は人を人として見ない」 「――」 セライムが声を詰まらせ、よろめきながら首を振った。 マーリアは。マーリアの瞳からは、透明な涙が零れていた。 「どうして……」 搾り出すように呟き、セライムは伯爵に目を向ける。伯爵は相変わらず夢でも見ているみたいに、こちらを遠目に眺めている。 「マーリアは、こんなに傷ついているのに」 「傷ついている? よく見なさい、こんなに美しい」 「心が」 セライムは、先程よりは小さな音で、震えるように呟いた。 「心が引き裂かれる。何度も体を入れ替えたりされたら」 「何故?」 伯爵は小首を傾げて、本当に不思議そうに笑った。 「私たちの体だって、日々替わっているよ。細胞は絶えず死に、生まれ来る。消化器などは数日で別物になり、腕ですら10年程で入れ替わる。そんな持続的な変化の流れこそが、命なのだよ。一度に変化を起こしたことでたいしたことではないし、傷つくこともない」 セライムの肩が震えて、波打つ金髪の一房が落ちる。伯爵は流れるように続ける。 「大切なのは美しくあることなのだよ。美しさは損なわれてはいけない。マーリア、すまないね。君の美しさは私が必ず取り戻す、だから泣かないでおくれ」 「――伯爵」 マーリアの涙の理由は、伯爵には届かない。届かないことに彼女は泣いているのに。 「さあ、それにはあの論文がいるのだよ。君たちが持ち出したのかい?」 確かに上の研究室が妙だとマーリアが言っていた。では俺たちでない誰かがその論文とやら持ち出したのか? スアローグやキルナであるはずがない。では、誰が。 「返してもらえるかな?」 伯爵はまるでお茶をしているときに砂糖を欲するような仕草で笑って。 ――懐から、拳銃を取り出した。 世界が、ぐるりと回転した。 「さあ」 呼びかけが地下に響く。時が凍っていた。 黒い金属の塊。こちらに向く――ぽっかりと開いた、黒い穴。 金持ちの家であるならあってもおかしくはない、古めかしい形のそれ。それでいてあまりに現実味を欠いた光景に、セライムが声にならない声をあげてよろめき、マーリアが何かを言いかけて。 伯爵は平素と変わらない。彼にとって、俺たちは生きても死んでいても同じこと。 俺は。 俺は、何故か――。 景色がぶれるのを感じながら、意識が混濁を始めるのを認知しながら、その片隅で――。 ひどく、こちらを向いた黒い穴を懐かしく思っていた。 前にもいつだったか、こんなことが――。 だから、むしろ思考は回った。体は動いた。かちりとスイッチが入ったように。 「伯爵」 突きつけられた圧倒的な武器の前に、俺は一歩を踏み出していた。 「論文を」 伯爵は薄く笑いながら要求を突きつける。その目は、もうこの世界を見ていない。 この感覚。知っている、俺は知っている。 自分が生きているのか死んでいるのか分からなくなる眩暈の中、俺は――。 あの日とは違って、自ら口を開いた。 「あの石と論文ってやつは何処で手に入れたんですか」 伯爵が引き金を引いたらそれは俺の最後になるだろう。でも何も感じなかった。全てが夢の中にあるようで、その感覚を助長するかのように伯爵もごく普通に答えてきた。 「あれはもう随分前になるかな。ある日、一人の男が屋敷の前にいてね。血まみれで、随分と衰弱していた」 「――男」 俺が繰り返すと、笑って頷く。 「そう。彼は持っていた包みを差し出して、これを持っていて欲しいと言った。そして誰にも渡すな、と。必ず取りに戻ると言い残して、彼は去っていった」 「中を見てしまったんですか」 「素晴らしい論文だった。そしてあの石の輝き。あの論文は」 「あなたは!」 声を掻き消す。続きは聞きたくない――絶対に。 そこに何が綴られていたかなど。そんなこと――! 「それを元にこの実験を成しえたんだ」 「そう、あの理論、そしてあの石なくては出来なかった」 ああ――。 手で目を覆う。物語は終わらない。物語は、人を歪ませる。誰もが幸福に終わる結末もなければ、たどり着くべき終点すらない。転がり始めた運命は、いびつなものを生み出しながら何処までも堕ちてゆく。 そうして、あの石は恐ろしい歪みを生み出してしまった。セライムの言った通り、人として壊れたのはマーリアではない、伯爵の方だ。考えることをやめた、迷うことをやめてしまった。やめることが、出来てしまった。あの石があった為に。 ――全てを無理に終わらせるとすれば。 どうすればいい? ああ、そうか。 消してしまえば。 答えは簡単だ。 何もかもなくなってしまえば、それは、なんて、なんて――単純で、綺麗な世界か。 それは、とてもいい考えかもしれない。 思考が汚染される。 意思が保てない。口元が歪む。 笑っているのだ、俺は。 だって、笑わずにいられるだろうか。 ――眠れる屋敷の哀れな伯爵。なんと無駄なことに力を使ったか。 ――あれの使い道はそんな生易しいものではない。美しさなど、反吐がでる。 ――見せてやろうか。どんなに恐ろしいものを手に入れてしまったのか。この哀れな男に思い知らせて――! 「伯爵」 ふっと。 心が冷える。 鈴を鳴らしたような、透明な声だった。 「伯爵」 それは心に波紋を呼んで、ゆるゆると自分が戻ってくる。 体が急速に冷やされていく感覚。待て、今、俺は何を――? 「どうしたんだい、マーリア」 俺を通り越した先に視線をやった伯爵の頬が緩む。今の伯爵が唯一の執着を見せるものだったから。 「この方々は何も持ち出してはいませんわ。持ち出したのは全て私。だから、この方々を帰してあげて下さい」 「マーリア」 胸が痺れたような息苦しさの中で俺は振り向いた。嘘だ。こいつは石しか持っていなかった。 マーリアはまるで今の状況に見合わぬ笑みを浮かべて続ける。 「伯爵、愛しています。だから、どうか。この方々を疑わないで下さい」 何故だ。 なんでこいつは、こんなことになっても、そんな台詞が吐けるのか。 「嘘だろ」 こんな壊れた男に、どうしてそんな言葉をかけられるのか。 「お前はもう、こんな男を愛しちゃいないだろ」 「いいえ!」 歪んだ俺の言葉は、鋭利な刃で引き裂かれた。 「愛していましてよ」 美しさに取り付かれ狂ってしまった男を前に、少女は泣いているような笑っているような、そんな凄惨な表情を浮かべて言い切る。 「愛していましてよ、伯爵。だから、あなたの為ならどうなろうと構わない。こんな体で良ければ喜んで捧げましょう。心が傷つく、結構ですわ。そんなことは怖くても悲しくても耐えられる!」 この少女は何故、こんなにも求めるのか。与えるのか。 「けれど伯爵。あなたが壊れてしまうのは耐えられない。あなたが一人で何処かに行ってしまうのは耐えられない。あなたが人殺しになってしまうのが、一番耐えられないっ!」 伯爵の体が揺れた。少女の矢のような鋭い声に気圧されたか。 「ユラスさん、セライムさん。行って下さい。もう十分ですわ、あとは私が」 涙を払って、マーリアは口早に告げた。――ここから逃げろと。 「……マーリア」 「ここまでしてくれた恩、忘れませんわ。早く」 セライムは唇を噛み締めてマーリアを見た。 「――もう、終わりにしますから」 その一言に込められた意味を察して、俺は――。 刹那の出来事だった。 天を叩き割るような轟音が、硬質な世界を叩き割る。 「な!?」 振動は地下をも貫き、衝撃に大きく揺れる足元に全員が足をもつれさせた瞬間、セライムの体が風のようにしなった。 「――っ!?」 涼やかな青の双眸が強く瞬いたと思う前に、ぐんっと強い力で体を捕らえられ、世界がひっくり返る。次の瞬間には鋭い風が頬を叩き、すさまじい速さで移動していることを知った。それがセライムの肩に担がれているのだと知った瞬間、強い声が耳朶を叩く。 「どけッ!!」 進行方向と反対向きに担がれているからセライムの顔はおろか前方ですら見えない。だが音からして、セライムは――あろうことか俺を担いだまま伯爵を蹴り飛ばし、稲妻のように猛然と階段を登り始めたようだった。俺の視界には遠ざかる無機質な薄青の回廊と、尻餅をついている伯爵が映る。 「せ、セラィ――っ!」 喋りかけて舌を噛む。がっちりと胴体を掴まれているから、動くこともできず反対側を見ると、ぎょっとしたことにマーリアももう片側の脇に抱えられていた。様子は俺とどっこいどっこいだろう、顔は進行方向側にあるので伺えない。 だが、一人後ろを見られる位置にいる俺は息を呑んだ。伯爵も起き上がると階段を登り始めたのだ。手には黒い拳銃を持ったまま。 いくら馬鹿力なセライムだって人を二人担いでいたら走る速さは落ちる。外に出てどうするつもりだ。いや、それにしてもこの轟音は――。 そう考えた瞬間、研究室の古びた扉が蹴破られ、外からの空気が吹き込んだ。だがそれは涼しげな秋の夜風ではなく――。 「――っな」 セライムとマーリアの、驚愕の声がした。吹き込んでくるのは焼け付くような熱風。ぱちぱちと、何かがはぜる音。 その意味するものは。 「――っ!」 セライムが駆け出す。一歩遅く、俺の目にも外の世界が映る。 燃えていた。 古びた屋敷、完成されていた青薔薇たち。 ある意味で華々しく、それでいて何よりも残酷に、火炎の蛇によって全てが焼き払われようとしていた。 「――んだ、これ」 何があったんだ……何が。 「キルナ! スアローグ!」 悲鳴のような呼び声をあげながらセライムが駆け出す。炎の庭園へと一直線に。 「――っ」 後ろ向きにかつがれたままの俺は、ぐんぐん離れていく開け放たれた扉と、そこから駆け出してくる伯爵を見た。 あれは。 「ま、待てセライムっ!!」 「わっ!?」 体重を傾けて思い切り足を動かすと、流石のセライムも驚いて俺を取り落とした。視界が再びひっくり返る。どん、と背中に衝撃が走ると共に鈍い痛みが広がる。 だがそんなことに気をやる余裕もなく、転がりながら立ち上がった。 「ユラスっ」 背中に降りかかる声を無視して、体中からどっと汗が噴出すのを感じながら、火炎に呑まれる薔薇たちを前に立ち尽くす伯爵を――見た。 「――ぁああ」 うめき声とも悲鳴ともとれない不思議な音が、目を見開いたままの伯爵から漏れ出していた。全身が弛緩しているのか、拳銃を持つ右手はだらりと垂れ下がり、色の消し飛んだ顔も人形のよう。 「――伯爵」 こちらもセライムの手を振りほどいたらしいマーリアが駆け出そうとする。 俺もそうしようとして――。 ざわりと、全身を包む気配に、時が止まった。 閃光のように脳裏で瞬いた何かが、俺を弾くように動かした。 屋根の上。 ゆらめく炎の中の気配。 人の影。 こちらに向いている。 あれは――! 体が、他人のものと入れ替わる。熱風が全身を叩く中、目を見開いたまま足は鋭く地を蹴った。 喉の奥が熱い。頭が熱い。そう、この感覚は。 あのときと同じ。 灰色の子供に攻撃された、あのときと。 叫ぶ暇もない。細い伯爵の体が迫り、もろとも倒れこむまで時は極限まで引き伸ばされていた。 時の始まりを告げるのは、刹那の後に放たれた銃声。伯爵がいた場所に、煙と共に黒い穴が開く。 ……。 ちょっと、待て。 今は、いつだ。 ミラース暦1588年、フローリエム大陸。 民主政権が始まってより150年、そんなご時勢。 なのに、なんで。なんで、こんなにお手軽に銃声がするんだ! 全身の血液が逆流する。指先の感覚が消え、視界が真っ赤に染まった。 降り注ぐ殺意に精神が焼ききれる。冗談ではない、――誰だ、こんなふざけた真似をするのは! 「――っ」 弾丸の飛んできた方向を仰ぐ。炎の中、煙にまかれるその向こう。 「誰だッ!!」 全身で叫ぶ。思考が別のものを吸収し支配されていく。 また、先程と同じ感覚。 そう。噴水のように心の奥底から沸き起こる。背筋がこんなにも冷え切っているのに、頭の中はこんなにも熱い――! 次の攻撃が返事の代わりにやってきた。狙いは伯爵。この人物の罪を裁こうというのか。こんなに簡単に刈り取ってしまうのか。 「――っざけるな」 頭がぼうっとする。 ああ。もう壊してしまいたい。そんなもの全て。 受け入れるから、理解しようとするから思い悩む。それに比べて、受け入れずこの興奮に身を任せてしまうことはなんて楽で、心地よいことか。 嫌なものは全てなくなってしまえばいいんだ。 ここに、『なくす力』はあるのだから。 「――金の槍、銀の槍、永久に失われぬ輝きを持ち――裂かれし闇は永久に黄昏をさ迷う――闇の悲哀を語り部は謳い――言霊となりて闇へと還る――我が手の内へ」 指先に世界が収束していく。言葉は勝手に喉から溢れた。 「精霊の御名において」 背筋がぞくぞくする。歓喜するように。目を開いて、指を前に。白い光、外界など簡単に消し去ってしまう。頭の中には何もない。透明度があがっている。とても単純で、心地よい。 どん、と今度は魔力による干渉。相手からの攻撃。口の端が吊りあがる。 ――魔力で勝てるとでも思っているのか。 ほとばしるままに詠唱を続ける。光が幾重にも重なって散る。相手の勢いがそがれた。大量のエネルギーは波動となり、心を直接ちりちりと刺激する。その痛みはむしろ全身の活動を喚起させ、更に感覚が研ぎ澄まされる。 さあ、貫け――。 「ユラスっ!!」 「――っ」 網膜に焼き付けられた景色が動き出す。振動が鼓膜を揺らし音波となって脳を刺激する。 「ああぁっ!!」 次に全てを認識した瞬間、舞い踊る力の奔流の中に、俺はいた。 頭の奥が心臓と同じリズムで痛む。その更に奥、俺でない俺がいる。何もかもを消し去ってしまえと願う、そんな化け物が――。 「やめろ、やめろぉッ!!」 手足の自由がきかない。俺の指に指揮された力たちは、絶叫を無視して鞭のようにしなり、一方向へと刃となって噴き出した。 地が割れるような、瓦礫が弾け飛ぶ音。粉塵と煙が舞い上がり、現実感をもを覆い尽くす。 糸が切れたように体は地に崩れ落ち、頭を両手で抱えた。周囲は燃え盛る炎。焼かれてしまえばいいと思った、こんな体など。こんな意識など。 「――うぅ」 「ユラスっ」 落ちてくる音。途切れ途切れになる意識の中で、俺を呼ぶ声が聞こえてくる。 「し、しっかりしろっ、ユラス」 黄昏の色を反射するとろけた黄金の髪。強い意志を持った瞳が、ふるふると揺れてこちらに向けられていた。 「――逃げろ」 だから、それだけ紡いだ。 「――逃げてくれ、ここから」 そして、俺から。 何をしてしまうか分からない、今の俺から。 きりきりと体が締め付けられる。今すぐにでもあの赤い意識に乗っ取られてしまいそうだ。だから、その前に言った。先程の魔術のお陰で、口を開くことでさえ鉛のように重たいことだったけれども。 「ユラス、お前……」 呼吸が自分のものでなくなったように荒い。セライムの声が、とても遠くなる。 ふと、胸の中に言葉が落ちた。 ――そんな場所でうずくまっていていいのか。 ――襲撃者は? 本当に追い払ったか? 安全は確保されたか? ――だって、彼らの狙いはお前ではなくて――。 「っ!?」 それは脳内にまで一直線に突き抜け、俺は反射的に振り向いた。 薔薇の庭を包む炎が照明となって、これ以上なく光景は鮮明なものとして映る。 淡い亜麻色の髪の少女、黒い服の裾を汚して伯爵に寄り添う。伯爵の名を呼ぶ。そうして、細い体が立ち上がろうと。 ぱん、と弾ける音。 ――。 目を閉じてしまえば良かった。 なのに瞬くことさえ出来なかった。 五感は諾々と様相を認識し、取り込み続けていた。 手が届きそうなくらいの舞台は、どこまでも遠い。 細い体が引きつったように固まった。理解の訪れない瞳はただ見開かれて、燃え盛る炎を映すばかり。そして寄り添う少女の瞳もまた同じこと。 酷く滑稽な、出来の悪い芝居の役者のような単純な動作で、彼は倒れた。 黒い服を着ているのに、それが一点からじわじわ濡れて更なる闇を広げていく。 「――ゃく」 幼い少女は擦れた声で一度名を呼び、嗚咽のような悲鳴のような、言葉にならない呻き声をあげて縋りついた。 顔が勝手に空を仰ぐ。背を向けていた方の屋根に、もう一人の人が立っていた。遠くてよくわからなけれど、それが引き金を引いたことなど、説明されるまでもなく理解できた。人の姿は屋敷から立ち上り始めた煙に、あっという間に消されていく。 「伯爵、――伯爵、伯爵!」 言葉は次第に色を帯びて少女の嘆きへと。血溜まりの中に倒れ、ぴくりとも動かない男を抱き起こす。呼びかける。零れ行く命の欠片を集めようとするように。そうして淡い亜麻色の髪を振り乱すようにして、初めて彼を撃ち抜いたモノを糾弾すべく背後を振り返るが、既に視界は煙と炎に包まれている。 「――ぁ」 セライムが、青の涼やかな双眸を凍りつかせていた。たった一瞬の出来事に、あまりに理不尽な一瞬に、暫くの沈黙を経た後、セライムは表情を崩した。笑みのようでも、怒りのようでもあった。 そうして俺を先程まで占領していた意識も、まるで萎縮したように、なりを潜めていた。俺は馬鹿みたいに冷静に、そんな自分とその外側を把握していた。 目の前の男は、ぐったりと倒れたまま動かない。これが彼に与えられた罰なのか。人としての理性を捨て、禁忌を犯した人間への報いなのか。 分からない。何が正しいのか。執行者たちを追うべきなのか。それとも――この事実を、判決を受け入れるべきなのか。 否――違う、と脳の隅がわめいた。こんな悲しい終わり方が、あっていい筈がない。誰がこの結末に救われるっていうんだ。だってマーリアは言った、助けて下さいと。なのに、この様子はどうだ。 歪んだものたちに、光は許されないのか。風は吹かないのか。 そんなのは――。 立ち上がった。体のあちこちがずきずき痛い。それでも急ぎ足で、伯爵の名を呼び続けるマーリアの横にかがみこむ。 胸に穴の開いた伯爵。既に意識はなく、元より血の気がないからか、顔はただ眠っているだけのように見えた。しかし上着の胸部分の全てを濡らす液体が、彼の命の火が尽きかかっていることをひやりと伝えてくる。 「ユラスさん」 「――セライム」 縋るような目でこちらを見るマーリアを無視して、呼びかけながら穴のあいた胸に手をかざした。 「これから俺のすること、見なかったことにしてくれ」 「――?」 反応なんて気にしていられない。呼吸を落ち着ける。頭に詰め込まれた知識の奥底を探る。 法治国家であるこの国で、医師免許のない人間の魔術による治癒は違法とされる。そもそも治癒術が難関な魔術である為、一般人は使えないし俺も使った『記憶』はない。 けれど、出来るはずだ。記憶ではない。知識を引き出すのだ。やり方はわかっている筈。 「――精霊よ、母なる精霊たちよ」 詠唱が口をついてでてくる。指先に力を込める。すると無から有が生まれるかのごとく、乳白色の光の粒が手の平から降り注ぎ始めた。治癒術は必要な魔力も高いが、何よりも扱いが難しい。ただ魔力ばかりを込めただけでは、逆に肉体を傷つけることになる。それに魔術治癒にも限界があった。もうこのタイミングでは間に合わないかもしれない。 癒して、どうするのか。そんな問いが頭を過ぎった。元より破綻していた人間だ、このまま逝かせてやった方がいいのではないのか。 「違う」 言葉にだして否定する。この男に与えられるべきは、死ではなく断罪。こんな場所で屋敷と共に、全ての秘密が闇に戻っていくことなど、あっていいわけがない。 「だから、死ぬなんて許さない」 俺にはこの人物の言うことなどこれっぽっちも理解出来ないし、マーリアの自ら全てを捧げた愛情だって全く理解出来ない。 けれど、いびつであるが故に、許されないことを犯したが為に、この世にあることを許されないなんて、そんなことを認めたら――。 祈りを込めて光を降り注がせる俺の腕を、ふと掴む手があった。 魔術行使中の体への干渉は、集中力を殺ぐという点で良いことではない。ぶれそうになった力の渦を眉を潜めながら安定させ、俺は掴んできた手の先――マーリアを見た。次の言葉など、予想もつかなかった。 「やめて下さい」 ……。 今度こそ、俺の頭の中が真っ白になった。 自然と手の平から零れる魔力が霧散し、効力を失っていく。 マーリアはそっと指で涙を払うと、全てを拒絶するように項垂れてぽそりと呟いた。 「セライムさんと共に行って下さい。私はここで伯爵といます」 「マーリア?」 熱風が頬を叩く。火の手はいよいよ広がり、もう脱出ですら困難かもしれない。 だから急がなければいけないのに。こいつは何を言っているんだ。 「これで良かったのです。少し、予定が早くなっただけですわ」 俯いたままのマーリアの表情は伺えない。 「何もかも終わらせると言ったでしょう。あなた方がこの屋敷を出たら、こうするつもりでした」 こうするつもり? ――どうするつもりだと? 「伯爵も、私も。何もない場所に帰りますわ」 マーリアはみるみる生気を失っていく伯爵の痩せた頬を、いとおしげに撫でた。 「――な」 何を言っている、と言い掛けてそのまま途切れる。 そうだ。こいつは最初から石を渡す気で俺たちを屋敷に招いた。しかしその後のことは――言葉を濁したまま語ることはなかったが、こいつは俺たちが去った後、伯爵と自らを屠るつもりだったのだ。 「元よりいびつな体と心、ここより外界では生きてはいけませんわ。さあ、早くしないと火の手が回ってしまいましてよ」 心臓が鳴る。意識がぶれる。 「巻き込んでしまったこと、申し訳なく思います。私たちのことは忘れて下さい、――私たちを助けようとしてくれたこと、守ろうとしてくれたこと、とても嬉しかった」 「――待て、おい」 「誰がこうしたのかわかりませんが、きっと罰でしょうね。そう、こうなるべきだったのですわ」 「おいっ!!」 肩を掴んでこちらを向かせる。息を詰めるほどに整った顔が露になる。涙に濡れていた瞳は今は乾いて、何も捉えることがない。 「だって、他にどうすることができまして?」 息を呑む。幼い顔立ちには、完成された美しさと歪んだ感情。 「私は、もういいのです。伯爵と共にいられれば。永遠に、この方といられれば」 「――んだよ、それ」 胸が冷える。逆に頭は殴られたように熱く――。 理解出来ない。そんな愛情。そこまでして求めるもの。 得体の知れない感情は笑いとなって、薄く開いた唇から漏れた。 「なんなんだ」 頼りない肩を掴む指に力が入る。 「なんなんだ、本当に! 全部自分で招いたことだろ、伯爵と出会ったのも、伯爵の暴走を止めなかったのも、全部! 馬鹿じゃないのか、伯爵はお前のせいで――!」 後ろから襟を掴まれた。ぐっと引かれて、体ごと持っていかれた次の瞬間、黄金の波が翻る。 そう思ったときには握られた拳が目前に迫り、横面を殴り飛ばされていた。ぱっと視界が白み、地面に叩きつけられる。 「なんてことを言うんだ――ユラス」 痛みよりむしろ熱さが勝る頬を押さえて見上げると、炎に照らされた青の双眸が焼け付くような怒りを秘めてこちらを見下ろしていた。 「例えお前でも、許せない」 「なん、だよ」 口の中で血の味。ふらつきながら立ち上がる。 「だってそうだろ、なんだよ、愛してるとか言って、実際何もしないでこいつは」 「お前は分かってない!」 鋭い反論と共に距離を詰められる。 「お前はマーリアのことを分かろうともしてない」 いつだって曲がることのないセライムの直線的な眼差しに、今は苛立った。あまりにそれが手が届かない高みにある気がして。自分が絶対にそこには辿りつけないのだと、嘲笑われたようで。 「分かるか、そんなの――!」 「分かる努力すらしてないと私は言ったんだ! ずっと見てたがな、お前はただ話を聞くだけで自分の為にしか動いてないだろう! そんな奴に糾弾する資格なんてない!」 「――っ」 ずぶり、と心に食い込む刃の痛みは、弾けて喉の奥から声になってほとばしった。 「悪かったな、お前みたいに人の心にずかずか踏み込んでくる、そんな無遠慮な真似が出来なくて!」 怒りのままに言葉を叩き返すと、セライムの頬がぱっと赤くなり、息を詰まらせる。 「な、お前――!」 「うるさいっ、人のこと分かったような顔して! 大体な、そういうお前はどうなんだよ!? マーリアの気持ちが分かるのか? 誰が悪いのか分かるのか!? 正論振りかざして正義ぶられる他人の気持ちになってみたことあるのか! 何でもかんでも首突っ込んで、いつもいつもいつも!」 むきになって口調を荒げると、向こうは最初はぽかんと口を開けたまま黙っていた。けれど挑発に乗ったのか、みるみる目を吊り上げて唾を飛ばす勢いで反論してくる。 「なんだ、そんなに嫌だったのか? ならそう言えば良かっただろう! お前こそいつもそうだ、まわりのものを受け入れるだけで自分の意思を示さない、何を考えているか言わない! 嫌なら嫌ってなんで言わない!」 「は、だから今言ったろ! っていうか、なんでわざわざ言わなきゃいけないんだっ! そんな法律あってたまるか。お前こそなんでそこまで俺につっかかるんだよ、俺がそうして欲しいって頼んだか!? まあ元々記憶ないからどっかで言ったのかもしれないけどな!」 「いやお前は何も言ってない、そう何一つとしてな! そのくせ一人で抱え込んでるみたいな態度とったりして。気にならないわけがないだろう!?」 「ああ分かった。なら言うさ、俺は記憶喪失で薄幸の少年、右も左も分からず学園に入って見えない過去に辛い思いしてます、これで満足か! こんなこと言う人間、俺だったらお近付きになりたくないけどな!」 「言え! そう思われても言え! そうやってお前は理解されようとしない。自分のことしか考えてない!」 「ああ!? 何お前、俺に友人なくせっていってんのか。一般論で考えてみてくれよ頼むから。さっき見ただろ、俺がやった魔術。あんなこと出来る人間が普通の奴に理解されるか、明るく楽しく学生やってるお前たちにっ! 冗談じゃないっ、気ぃ遣ってるんだこれでも!」 「そんなの気遣いなんて言わない! ただの自己満足だろうが。大体お前、どれだけ皆がお前に気を遣ってるのか知らないだろうっ! ああそうだ、自分の殻に篭って他人と距離置いて、自分は特別とか考えて心も開かずに他人に気を遣ってる気分になってるのは大層幸せなことだろうな。でもそんなお前に他人を否定する権利なんてないと言ってるんだ私は!」 気付けば互いに胸ぐらを掴みあって怒鳴りあっていた。目を逸らしたら負けといわんばかりに睨みあったまま。 息が切れて肩で呼吸している自分に気付く。喉がひりひりと痛い。頭がくらくらする。 セライムの若干乱れた金色の髪が上気した頬に張り付き、それを見ているとなんだか馬鹿らしくなってきた。――なんで、こんな言い合いをしているんだっけ。 「ユラス」 俺と同じくらい呼気を荒げたセライムが、ふと語りかけるように呟いた。 「お前にとって、友人はあくまで他人なのか」 瞳には先程の激情が薄れ、静かにこちらを射抜く光がある。 「お前は自分が普通じゃないと言って距離を置いてるみたいだがな。お前が思ってるほど世界は明るくないし、私たちも触れてはいけないほど輝いてもないぞ」 一瞬、反論を忘れた。喘ぐように息を吸う。 「自分が特別だなんて思うな、人と対等に話せ。分からないからって否定するな。分かった上でさっきみたいなことを言ったなら、私はもう怒らない」 焼け付くような視線を残して、セライムは手を離した。 「……なんなんだよ、全く」 押し出すように言い返せたそれは多分、ただの意地だ。図星をさされたのだと分かっているからこそ、子供じみた反発を止められなかった。 分かっている――そう、分かっている。俺はいつだって周囲に流されるまま、それらを享受するだけだった。世界はどこか遠いもので、自分がその中にいるのだという認識もなく、ただ目の前の景色の上辺だけを眺めていた。自分の世界に篭り続けて。外界と深く関わることもなく。その奥にあるものを知ろうともせず。 そうして、受け入れられないものは全て消えてしまえばいいと思った。 ああ。本当に、ただの子供だ。 自分のことしか考えていない、そんな俺の内側をこいつは見抜いていたのか。 セライムは俺の空しい反論には目もくれず、突然大喧嘩を始めた俺たちを呆然と見つめていたマーリアの目の前まで行って屈みこんだ。 もう動かない細い男の姿に顔を歪め、そうしてマーリアの顔を覗きこむ。 「マーリア。行こう」 「――」 マーリアは返事をしない。 「お前までいなくなったら、誰が――伯爵の命を奪った人間を探すんだ」 マーリアの首が、ゆったりと横に揺れた。けれどセライムは続ける。 「こんなこと、許されるはずがない! こんなに簡単に人の命が奪われるなんて――」 「けれど元より私はそれを望んで」 「嘘だ」 鋭く弾き返されて、人形のような長いまつ毛に縁取られた瞳が揺れた。 「本当に望んでいたか、こんな結末」 「あ、あなたに何が分かるというのですか」 「望んでいたかときいている」 「――私は」 俯いた黒衣の少女は小さな手で顔を覆う。肩が頼りなく揺れた。 背後で庭がはぜて燃えていく。楽園が消えていく。何もかもが、無に帰していく。 あまりに多くを抱え込んだ幼い体から紡がれる声は、掠れて弱く。 「ただ、愛されたかった。変わらないでいて欲しかった。変わらない伯爵の傍で、変わらずにありたかった」 頬を真珠のような涙が伝う。呟きは慟哭へ変わろうと炎に掻き消されていく。 「それだけで良かった。――伯爵」 嗚咽が漏れて、身を声にするようにして男を――呼ぶ。 「伯爵――!」 風が、翻った。 大気を切り刻む音がした。 炎の照明をも塗りつぶすような、無から生まれた光。マーリアの懐から、溢れ出す。 はじめそれは優しく霧散し、しかし次の瞬間には暴力的なまでの輝きを持ってして、四方に突き抜けた。竜巻のように溢れた光は掻き回され、柱となって空へと昇る。 不意に降り注いだ圧倒的な気配に空を仰ぐと、何かがこちらに矢のように鋭く降ってくるのが見えた。煙の中をものともせず飛翔するあれは――鳥。紫色の鳥。 「――?」 マーリアが恐怖にすくみながら、懐から光の根源を取り出す。水晶にも似た光を放つ石。それが今は、視界を焼き尽くすような閃光を惜しげもなく振りまいていた。セライムがあまりの眩さに顔を腕で庇う。マーリアも固く目を閉じる。 けれど俺は目を見開いたまま、それを凝視していた。 放射状に飛び交う光に導かれるようにして、紫の鳥は一直線に飛び込んできた。 極限まで開かれた嘴から甲高い鳴き声がほとばしる。まるで喚起するように、光は呼応した。長らく離れていた仲間と再開したかのように、それらは飛びこんできた紫の鳥に殺到した。 マーリアの手の上で石が砕け散り、光の嵐の中で紫の鳥は更にいななく。びりびりと全身を叩くように何度も何度も。それを取り囲むように、光は球となり線となり跳ね回り飛び交う。 それはあらゆるものを白に染めて――。 「――マーリア?」 光に包まれながら、倒れたままの男が呟いた。 開かない筈の目が、とろけるような鳶色を宿していた。 時が止まったかのように、何もかもが停止している。けれど、そんな光の中で倒れた男は目を開き、そうしてその傍らに――。 ふわふわ光が揺れる。風もないのにくるくると。 彼が見つめる先には――傍らに座る一人の女性。 淡い亜麻色の髪が、空気を孕んで真っ直ぐに落ちる。長いまつ毛に縁取られた、光を散らす若草色の瞳。なめらかな白磁のような肌に浮かぶ、薄桃のこぶりな唇。 女性としての丸みを帯びたしなやかな肢体。光の中で、とめどなく輝く。 そこに座っていたのは、細い四肢を持つ、聖母を思わせるような妙齢の女性だった。 その顔は、その表情は、もう人形のそれではなく。 慈愛に満ちた瞳で、いとおしげに横たわる男を映し出す。 「ああ、マーリア」 夢を見るように男が笑う。 「随分探したよ。一体何処に行っていたんだい」 ゆったりと持ち上げられた手を、なめらかな白い指先が包み込む。女は首を傾げた。大きな瞳に一杯の涙を湛えて、鈴が鳴るような言葉を紡ぐ。 「何を言っているのですか、伯爵」 震える声は、それでも零れ落ちるような笑みにとって変わり――。 「私は、ずっとあなたの傍にいましてよ。ずっと、あなたの傍に」 「――そうだったかな」 男の頬が緩む。女は優しくもたげられた手を握りこむ。 「マーリア」 男は、少年のように笑った。 「愛しているよ」 光が、弾けた――。 現実がゆるやかに戻ってくる。男は目を開かずに横たわり、その傍らで十にも満たないような少女が、動かない男の手を握り締めていた。大きな瞳から、宝石のような涙を冴え冴えと流すまま。 もう、大空を舞う鳥の姿はなく――。 「伯爵」 幸せそうに笑いながら、マーリアは物言わぬ男の名を呼んだ。 「伯爵――伯爵」 幾度も呼ぶ。そのたびに、表情の色が消えていく。 「――伯爵。伯爵、伯爵――っ」 言葉は歪み、次第に突き上げるような響きを得て少女の叫びに変わった。 「――っぅ」 やせこけた手に顔をつけるようにして、残された人形は。 マーリアは、一人泣いた。 Back |