-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

44.星月夜



「研究室を出たら、スアローグとキルナを連れてここを離れる。灯りは用意出来るか?」
「かしこまりましたわ」
 そっけない俺たちのやりとりに、口を挟んだのはセライムだった。
「な、なぁ。このことを二人にも話さないと」
「必要ない」
 言い捨てる。すまん、セライム。俺もちょっと余裕がないんだ。
「わざわざこんな狂った話、広める必要もないだろ。セライム、分かるか?」
 ふるりと純粋な青の双眸が揺れる。それくらいに今の俺は険しい顔をしてるんだろう。
「これからもっと嫌なモノを見る。お前だってここで待っててもいい」
 というか、俺が待っていたいくらいだ。しかしセライムは反射的に表情を険しくして、こちらに足を踏み出した。
「いや、行く。そんな話、放っておけない」
「――そっか」
 ふっと笑って俺は少し肩をおろした。正直、セライムがいてくれないと、俺も正気でいられそうになかった。
「これから行く場所も、見えていたのですか?」
 手の中の石をいじりながらマーリアが見上げてくる。
「いんや、それは見えてない。でも、大体の予想はつく」
 ――ついてしまうんだ。
 頭のどこかで、結論はでてしまっている。石の存在が、全ての過程を飛ばして理解を与えてくれる。
「あなたは、この石の正体を?」
「知らない。でも良いものじゃないってのは、分かる」
「――」
 こちらの言葉を虚ととったか真ととったか。マーリアはそれ以上の追求はしてこなかった。だから俺も、それについては考えないようにした。これ以上考え事を増やしたくない。
「それよりマーリア。秘密の部屋に不法侵入するわけだが、伯爵にはバレないのか?」
「伯爵は、夜の研究は好みませんの。もう自室で休まれているでしょう」
 確かにさっきはマーリアの写真の前で悦に入っていたし、大丈夫なのか。
 マーリアに先導されて、俺とセライムは廊下を足早に抜けていく。セライムはその中でどうにか現実を最後まで飲み込んだようで、歩きながら問いを重ねた。
「つまり伯爵がしていた美しさの研究というのは――その、お前を生み出す為のものだったのか?」
「――いいえ、違いました。最初は、違いましたの」
「最初は、というと」
「見ていただければお分かりになりますわ」
 角を曲がり、外へ続く扉から階段を下りて夜の中庭へ。そうしてその先に、満月の光も届かぬ暗闇に佇む、木製の扉が俺たちを迎えた。
 マーリアの姿は月夜に薄っすら浮かんで、精霊のように見える。今宵は満月、冴え冴えと秋の星たちが青白く世界を照らしている。
 彼女は扉の前で僅かにためらい、しかし意を決したように扉を開いた。鍵はついていなかった。ここは彼らしか知らない楽園なのだから、そんなものは必要ないのだろう。
「こちらです」
 闇が顔を覗かせている。牢獄を思わせる黒の空間を前に、俺は舌で唇を濡らした。
「行こう」
 躊躇する俺を見かねて、セライムが先に進んでいく。肝が据わっているのか、俺と感じ方が違うのか。
 先頭で入ったマーリアは、暗がりをものともせずに手際よくランプに灯りを入れて手に持った。ぼんやりと点る橙の光に、美しい少女の姿、そして部屋の様子が描き出される。
 息をつめるようにして中に入った俺を迎えたのは、天井の高い知の溜まり場だった。フェレイ先生の書斎と、少し空気が似ている。小さな灯りの為、細部まではよくわからないが、堆積された情報たちが放つ独特の匂い、そして様々な薬品と金属の匂いが混じるそれは紛れもない、研究者の住処の香りだ。
「おかしいですわ、こんなに散らかっていることは少ないのですが」
 マーリアは怪訝そうに漏らした。確かによくよく見れば机の上のものは乱雑に配置されており、あの伯爵の性格と合致しない。
 しかし今はそんなことを気にかけている暇はなかった。マーリアは足を止めることなく奥へと歩んでいき、灯りを床においてそっとかがみこんだ。一番奥の机の影であるそこをしばらくいじっていたかと思うと、カタン、と小気味良い音をたてて床の一部が外れる。
「地下室か」
 そこには更なる闇への入り口がぽっかりと穴を開けていた。よくよく見ると階段になっていて、気分が萎えてくる。こんな場所の奥にあるものが、気持ちのいいものであるはずがない。そんな予感が胸を満たしていた。
「こちらは元々貯蔵庫だったのです。足元にお気をつけて」
 淡々と告げて奥へと進んでいく。続いて中に入ると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
 階段を一つ一つ下りるたびに温度が下がっていくようだ。耐え難い悪寒に、口の中が乾く。ゆらゆら揺れるともし火のように、自分の心が頼りないものになっている。
 そう――俺は、この空気を知っていた。あの石の輝きを。
 それは俺が無くした記憶にあったものなのかもしれない。でも、そんなことはどうでもいいのだ。俺は、もう過去には関わらないと決めていたから。だからむしろ、あの石の正体なんて知りたくもなかった。逃げ出してしまいたかった。この少女の、悲痛な叫びがなかったなら。
 ――私を、助けてください――。
 そう訴えた瞳に、俺の心は確かに動かされていた。
 ふと、階段が終わったのに気付いた。前を見る。
 ぱちんと音がした。電気が通っているのだろう、それをマーリアがつけたのだ。
 そうして仄暗い『道』が俺の目の前に姿を現した。
 真っ直ぐ歩いて20歩ほど先まで続く硬質な道の両脇には、ガラスが天井から床まで伸びている。ガラスだから、無論透明だ。
 ガラスは、見ればその一つ一つが見上げるほどに巨大な試験管の形をしていた。それが間隔をあけず整然と並んでいるから壁のように見えたのだ。
 試験管の大きさは、人が一人入るくらい。
 ――実際に、人が入っていた。
 一つの試験管につき、ひとりずつ。薄青の液体で満たされたそこに、人の形が閉じ込められている。あたかも樹液に封じられた昆虫のように。それだけで十分異様なのに、その中に閉じ込められた人々は。
「――こ、」
 これは例えるなら、王座へと続く道の両脇に兵士が立ち並ぶ様子といえばいいのか。
 その巨大な試験管に閉じ込められた兵士たちは、皆同じ顔をしていた。
 否、顔だけではない。同じ形の四肢、同じ形の髪型。10歳にも満たない少女たち――マーリア・オヴェンステーネ。
 およそ20体にも及ぶ彼女たちが、薄青の道を通るものを監視するように整列しているのだ。
 その、なんだ。まあ、全員一糸まとわぬ姿ではあるのだが、まるで棚に並んだ人形を見ている気分にさせて、むしろ嫌悪の方が勝った。だから、認識が終わったら自分で自分の目を塞いだ。吐き気がする。
「なん――だ、これは。全員マーリアと同じ姿じゃないか」
 セライムが呆然と呟く。この状況で喋れるのは冗談ではなく敬意を表したい。だが流石に俺の横で固まったまま、試験管には近づけないでいた。
「話の続きをさせていただきます」
 通路の中央に立ったマーリアは、同じ姿をした人形たちを周囲に従わせて、顔を歪めるようにして笑った。
「伯爵は、マーリアの美しさが損なわれることに耐え切れなかったのです。そして、マーリアの美しさを取り戻す研究を始めましたの。どれくらい経ったでしょう、マーリアはよく覚えていません。部屋に閉じこもってばかりいたマーリアは、気がつけばこの部屋に寝かされていました」

 顔に包帯を巻いた女はやせ細り、痛々しい醜態に伯爵もまた表情を歪ませる。
 ――元に戻してあげるよ、マーリア。
 ――マーリア、愛している。

「次に起きたとき、マーリアはあの論文の知識とこの石の力で、記憶を移し変えられていました。この、伯爵の手によって作られた美しいマーリアたちの一人に」
 ――石。マーリアは再びそれを取り出した。英知と力の塊は、ぼんやりと光を放っている。
「そんな、じゃあ、お前はマーリアの」
 セライムの言葉を遮って、続きをマーリアが口にした。
「マーリアの全ての記憶を受け継いだ人形、といいましたでしょう」
 マーリアは遠いものを見るように笑う。そして、試験管の一つに手をついて首を振った。――そう、悪夢はここから始まるのだ。
「この少女たちは、伯爵の手によってマーリアに見立てて作られた器。伯爵の力ではここまでの大きさしか作れなかったので、外見は随分と幼くなってしまいましたけれど。マーリアは、この人形の一つに魂を移し変えられて、元の美しさを取り戻しました。その筈だった」
 声が、かすかに震える。物語の終点は、幸福には程遠い。更にそこから行くことも戻ることもできなくなってしまった。
「――なにがあったんだ」
 拳を握り締めてセライムが問う。マーリアは砂のようにさらさら舞う淡い亜麻色の髪をひるがえして、俺たちに顔を向けた。あまりに美しい、整いすぎた顔立ちだった。
「美しい姿に生まれ変わったマーリアを見て、伯爵は言ったのです。――違う、と」
「――」
 言葉は、時に暴力にもなりうる。セライムが触れられてもいないのに、一歩、二歩と後ずさった。俺は、動くことも出来なかった。
 その光景の想像は容易だ。人の手で創られた顔は、オリジナルに近づけようと同化はしない。一から全てを作り直したとしても、出来るのは別物だ。

 今にも泣き出しそうな顔で、伯爵は声を振り絞る。
 ――すまない、すまないマーリア。
 ――これは君の顔ではない。
 ――元に戻す。君の美しさを、必ず元に。

 伯爵は再びマーリアを作り直す。目はもう少し大きくなかったか。鼻はもう少し高くなかったか。飾られたあの写真を元に、美しく、更に美しく。そうして出来上がった体に、マーリアを移し変える。
 けれど、元のマーリアは戻らない。何かが違う。
 伯爵は更にマーリアを作り直す。目はもう少し小さくなかったか。鼻はもう少し低くなかったか。飾られたあの写真を元に、美しく、更に美しく。そうして出来上がった体に、マーリアを移し変える。
 けれど――。
「それで伯爵は壊れていったのか」
 美しさを追い求め続け、完成を目指し続けた先で、得られない夢は次第に朽ちて錆び、歪んでいく。少女は元の姿に戻るのではなく、より美しい姿へと作り変えられていったのだ。
「壊れたのは伯爵だけではありませんでしたわ」
 静謐な地下牢に囚われた少女は、己の黒い衣装の裾をぐっと掴んだ。
「――私はもう、人ではありません」
「――」
 舌が乾いている。言葉は鐘のように、俺の心を鈍く、そして深く叩いた。
「違う」
 かろうじてそう紡ぐ。マーリアは首を傾げる。
「何故? 同情を乞うているのではなくてよ。これは真実。マーリアの記憶だけを植えつけられた私、記憶は何十年と刻み込まれようと、肉体はまだ数えるほどの日しか生きていないのです。そんな私が人間だとでも? こんなにいびつな存在が?」
 そう――俺は理解する。
 セライムの言った通り、こいつは俺と同じなのだと。
 あまりにいびつな体を抱えて、どうすることも出来なくて――。
「私は人といえるでしょうか――人の定義とは何でしょうか?」
 ぽつりと転がった言葉に心臓が跳ねて、俺は目を開いた。マーリアが、幼い顔に見合わぬ苦痛を乗せて、いつか俺が口にしたのと同じ問いを紡いでいた。
「俺の知ってる人は」
 フェレイ先生の顔を思い出す。ぼろぼろだった俺を救ってくれた、あの紅茶の香りと共に。
「例えどんな形をしたものでも、生きていけるって言った」
 自分の言葉で語れないのが歯がゆい。だからだろう。
「詭弁ですわ」
 マーリアは、きっぱりと俺の発言を叩き割った。
「それは答えになっていない、そして綺麗事ですわ。人の姿をした人でないモノでも生きても良いと? いいえ。許しを請うているのではなくてよ。ただ定義から外れた自分はどこにもいなくなるのです。心が欠け、希望を失い、本当に生きているのかも分からなくなる。主観が消失する。壊れていく。私が、私でなくなっていく」
 返す言葉のない自分に気付く。フェレイ先生だったら、この独白に優しい笑みを湛えたまま答えるだろう。
 けれど、俺はいつだって人に頼り、人の言葉で、あるいは自分の先天的な知識の山の中の言葉で語ることしかしていない。マーリアは淡々と言葉を連ねる。
「だってそうではなくて? 記憶と人格を受け継いだ人形は、はたして同一の人間といえるでしょうか。いいえ。私は死んでいるのですわ。死んではその記憶だけを頼りにまた目覚めて、そうしてまた死んでいく。私はもう人ではないのです。生きてはいないのです。――ただの残骸ですわ」
 無言の人形たちに見守られて、言葉はしんと闇に落ちた。
「幾度となく生まれ変わり、そうして壊れた私に残った最後の呟きはただ一つだけ。それをあなたたちに望みます。身勝手な願いです、けれど――お願いします」
 私を、助けて下さい――か。
 頷けばこいつが人でないと認めることになる。その時、それを遮るものがあった。
「人の定義は。生きている、その定義は」
 歯向かう術のない俺の隣で黙って耳をたてるだけだった、少女の声だった。
「迷うこと、考えること」
 俺はセライムを見た。一昔前の剣士のような佇まい。背筋を伸ばし、自らを残骸と称した少女に正面から立ち向かっていた。
「お前は壊れてなんていない」
 マーリアの、光を散らす瞳が引き絞られる。セライムは無機質な光を浴びて尚気高く、己の内側を隠すこともしない。凛と言い切って、続けた。
「本当に壊れてしまうなら、考えることをやめてしまえばよかったんだ。でもお前をそれをしなかった、考えて私たちに助けを求めたんだ」
「違いますわ、私は」
「何が違う」
「――私は」
 金髪の少女の強い語気に、人形の少女は怯む。セライムは顔を歪めて首を振った。
「人は、光を求めずにはいられないから。どんなに傷ついても、悲しいと思っていられる時間は長くない――でもその後、考えることをやめるか、また考え始めるか、違いはそこにある」
 頬を上気させて、拳を握り締め、前を向いて語る少女は、そうしてそっと笑う。近付いていく。
「お前は傷ついているが、壊れてはいないし――それでいいと思う、マーリア。だから、そんなことを言わないで欲しい」
 身を硬くするマーリアを、セライムは膝をついて、そっと抱き寄せた。
「お前は残骸なんかじゃない」
「――っ」
 マーリアの唇が、空気をはむ。こわばった頬が歪んで、人の表情を形作った。
「お前を助ける。私はお前を救う。だから、諦めないで」
 抱きすくめられたその表情は、ゆるりと目を閉じるようにして――。
「人に抱きしめられたのは、一体何年ぶりでしょう」
 そう紡ぎ、微かに笑った。初めて見せた、人間らしい笑みだった。
「体を入れ替えられることを、嫌だって伯爵には言えなかったのか?」
 抱きしめたままセライムが問うと、僅かに身じろぎをする。首を振ったのだ。
「――愛していましてよ」
 言葉は硝子のように脆く響く。くるくる回る、楽園の中。たとえその外見しか愛されていなかったとしても、女は幸福そうに笑った。数多の人の住まう世を捨て去った、たった一人の男に愛されればそれで良いと。いつか、彼が自分の全てを愛してくれる、そんな日を夢見て。
「愛していましてよ、誰よりも。あの方のためなら、あの方が笑ってくれるなら、どうなろうと構わなかった。――あの方が、私を愛して下さるのなら」
 体はほころび、心が壊れていったとしても、それを夢見ていられるのなら。
 俺は、片手で顔を覆った。なんて――愚かで、空しい夢だ。
 そんなにも求めるのか。そんなにも人を求めることが出来るのか。世界は命に溢れ、外の世界は絶えずこちらを刺激してくるというのに、それでも何かを求めるのか。
 ――今の俺には、それが理解できない。
「しかしもう、立ち行かなくなってしまった」
 俺は問いかけた。
「なら、俺たちがその石を持っていったら何が起こる?」
 マーリアは、そっとセライムから身を離して、光る石を握り締めた。
「これがなければ、体を入れ替えることは出来なくなります。伯爵は混乱し、石を探しはじめるでしょう。しかし――もう終わりに致します、何もかも」
「……?」
 言葉の意味が分からないセライムが、怪訝そうに眉を潜める。
 俺は。
「――闇に、帰ります」
 マーリアのその言葉に――。

「こんなところで、何をしているのかな?」

 全ての時間が収束し、限りないゼロに止まっていった。


 ***


 満月が煌々と浮かんで世界を照らしている。古い言い伝えでは、あの月は元は天使だったという。暗い夜にせめて光を灯そうと、天高く飛び上がった天使が燃え尽きた姿なのだと。
 故に、満月の夜は天使の恩恵が全てに降り注ぎ、世界は魔に満ちる。
 ぼんやりと葉に青白い光を灯す月夜草を一つ一つ丁寧にもぎとって、スアローグは目を閉じて精神を集中させた。すると手の中の月夜草の束が更なる光を放つ。こうして収穫してすぐに魔力を注ぎ込まないと、月夜草はたちまち腐ってしまうのだ。
「――ふぅ」
「どう? 出来た?」
 横で見ていたキルナがせかすように尋ねると、スアローグは目をとじたまま頭をかいた。
「ま、成功かな。でも早めに加工しないとね」
 魔術を行使した後は、本を読み終えた後のように頭がぼうっとする。世界を違う角度から捉えるからかもしれない。世界を力の流れとして観測し、扱うのが魔術の基本なのだ。
 出来上がった葉の一枚を見せてやると、キルナはわぁと目を輝かせた。手の平大の葉は満月に照らされて、幻惑的な光を放っている。
「んもー、ユラスもセライムも見にこないなんて損だわ」
「まあ、ユラスは部屋にいるだろうけど。セライムも看病してるんじゃないかな、気にしてたみたいだし」
「ユラスに変なことされてないかしら」
 されてたら半殺しにしなきゃ、とキルナは部屋の方向に目をやった。
 ――その目が、止まる。
「あら? ね、ねえ、スアローグ」
「なんだい」
 空を仰いだまま肩を叩いてくるキルナに、スアローグも同じ方向を見上げて、眉を潜めた。
「――な?」
 今宵は満月。星を無数に散らした空は、世界をぼんやりと浮かび上がらせる。まるで舞台のように、屋敷の屋根はぴんと白い光を跳ね返していた。
 そこに、一つの影。
 人の形をした、影。
「――」
 それはスアローグの脳髄を直撃し、いとも簡単に思考を停止させた。
 あんな場所に、誰が。危ない、命綱もなしに。こちらを見ているのか、何故。
 混乱した頭に、単語と疑問が弾けていく。
「え、え、えっ」
 意味をなさない言葉を放ちながら後ずさったスアローグの視界に、非日常的な要素は更に増えた。影が増えたのだ、もう一つ、屋根の上に。二つの影はまるで対峙するように、いくらかの距離をあけて立っている。
「――っ」
 突然、ぐっと腕をひかれる。血の気のひいた体はぐらりと倒れ掛かり、反射的に足を踏み出していた。遅れて、キルナに引っ張られているのだと認識する。
「こっち!」
 息を潜めるような声。スアローグよりも断然早く冷静さを取り戻したキルナが走り出したのだ。
「泥棒かもしれないわ、伯爵に伝えましょう」
「え、あ、えっと」
「しっかりしなさい!」
 頭が真っ白になったまま、つられて走り出す。現実感がついてこない。だが、彼が自己を完全に取り戻す前に、更にありえないことが起きた。
 背中に言い知れぬ悪寒が走ったと思った瞬間、頭上を気配が通り過ぎたのだ。それは捕食者のようなしなやかさと無表情さで目の前に降り立った。
「――!?」
 キルナが声にならない悲鳴をあげて立ち止まり、スアローグも呆然と立ち尽くした。
 背が高く、線の細い男だった。暗くて元の色が何色かよくわからない。けれど、青白い月に照らされたそのシルエットは、まるでこの世にあるものとは思えなかった。
 更に、超難関とされる浮遊術を行使した上で顔色一つ変えず、無表情にこちらを見下ろしている。おろせば肩に届くほどの髪は高いところでくくってあり、剃刀のように鋭い瞳はまるで無機質。
 スアローグは全てを理解出来ず、ただ停止していた。死ぬのかな、とそれだけが意味のあるものとして体を震わせたが、足が動かない。
 その辺の虫でも見るような無感情さで男はしばらくこちらを眺め、口を開いた。
「今すぐここから出て下さい」
 丁寧な、命令。抑揚のない、何も感じられない声が、逆に背筋を稲妻のように走る。
「これから、この屋敷を破壊します。あなた方は何も見なかった。今すぐ立ち去ることです」
 ――破壊。
 その言葉を飲み込む前に、男の手が翻った。
 ぽっ、と橙の灯りが生まれたと思った次の瞬間、大蛇のような太い炎が一直線に中庭を突き破った。
「――」
 ガラス細工が、一瞬にして粉々に弾けとぶように。
 青薔薇の美しい庭が、炎の渦に飲まれるのも一瞬であった。
 にわかに世界が黄昏の橙に染まり、スアローグの瞳の色をも染めた。
「――な、」
 科学の結晶が焼き尽くされる。その事実が、スアローグの頭に冷水となって降り注ぎ、言葉が口からほとばしった。
「なんてことをっ!」
 しかし男の冷え切った表情と目が合った瞬間、スアローグは言葉を失った。炎に照らされて尚、男の顔は彫像のように凍りついたまま。
 この男は何も感じていない。何をわめいたところで、この男には通じない――理解に心はただ震えるだけだ。
「もう屋敷にも火がついています。入り口が安全な内に、早く」
 それだけ残すと、男はふっと指で印をきった。空気がざわめく。再び飛翔術を行使する気なのだ。
「ま、待って!」
 弾かれたように叫んだのはキルナだった。
「友達がいるの! セライムと、ユラスが――」
 その瞬間、またざわりと空気が震えて、初めて男の顔に感情めいたものが覗いた。息をつめたキルナの前で、それまで何も映していなかった彼の特徴のない顔は、不意に笑みの形に歪む。
「あの方は」
 優しく、それでいて刃をむき出しにしたような笑みを見せて、彼はふわりと浮き上がった。火の手がみるみる勢いを増して周囲を明るく照らしていく。青い薔薇が燃えていく。
 去る直前、男はもうスアローグたちを見ていなかった。
 彼の瞳は、遠く――遠く。
「あの方は、必ず無事にお連れします。――必ず」


 ***


 時間を暫く戻すことになる。
 屋根の上に腰掛けたシェンナは、懐かしい古びた紙束に目を落としていた。
 彼女のいた場所から持ち出され、行方が知れなかったそれ。何故か、この屋敷の主人の私室に保管されていたのだ。
 既に夜、紙面につづられた詳しい情報は見えない。けれど、シェンナはそれに目を落としたまま、見えない文字の奥にあるものに想いを巡らせていた。
 これがここにあるというのなら、あの石もあるはずだ。自分たちに干渉してこようとする波動を放つ、あの石が。
 しかし先程探した限りでは私室にも研究室にも見当たらなかった。他の場所に隠されているのか、誰かが直接所持しているのか。
 ――そして、何よりも研究室の地下で見た、この屋敷の主の研究。この紙束とあの石が持ち出された為に、歪みはこんな場所にまではみ出していたのだ。
「殺すしかないか」
 口の中で言葉を転がし、女は古びた紙束を持つ指に力を込めた。歪みが更に広がる前に、終わらせてしまわなければいけない。
 闇に沈むモノクロームの体が、その身から感情を振り払おうとしたその時、シェンナは近くに気配を感じ、反射的に飛び引いていた。
「――?」
 鋭いナイフを突き立てるように周囲を探ると、難なく気配の主を捉える。
 彼は、彼女の少し離れた場所に、己の姿を隠すこともなく佇んでいたのだ。高いところでまとめた髪が、夜風にさらされて揺れている。
 シェンナは呆然と彼の名を呼んだ。
「ルガ」
 長身であるにも関わらず、どこか存在感の希薄な灰色の男は、つと目を細めた。
「論文と石はここに?」
 もう会うのは何ヶ月ぶりか。だというのにそんな感情を感じさせない機械的な質問に、シェンナは頷いて答える。確かに彼女たちの間に、余計な感情はいらないのかもしれない。もう、何もかもが終わってしまった、その残骸でしかない彼女たちには。
「ならば全て滅しましょう」
 シェンナは胸にどっと異物が流れてきた気がして、色のない目でルガを見上げた。
 彼女と違ってその素顔をさらした彼からは、しかしどんな表情も読み取れない。
「屋敷ごと潰す必要性が?」
「政府も馬鹿ではない」
 切り捨てるような口調。満月の下、幻想的な装いを見せる青薔薇の庭を見下ろして、ルガは続けた。
「血眼であの事件の真相を追っています。この研究室を知れば、彼らは一層真実に近付く」
「今更どうということでも」
「あの方に近付かせるわけには」
 シェンナはフードに隠れた表情を歪ませた。
「……彼を、守ろうとしているの」
 ルガは相変わらず、灰色の顔に硬質な闇を宿している。
「その話は、後ほど。中庭を燃します、住人がいぶり出てきたところを頼みます」
「――」
 シェンナは小さく頷いた。いつだって何を考えているのか分からない男だった。そして数少ない同種のモノだったというのに、崩壊のその時まで決して互いに歩み寄ることはなかった。
 忌まわしい灰色の体を惜しげもなく外にさらして、彼は何を想うのか。
「では」
 それだけ残して、彼は屋根を蹴って飛び出した。ふわりと星月夜に影が躍る。全てを無に戻すために。
 ――紫の少年。彼はどうしているだろうと、シェンナは考えた。何も知らない彼も、石の干渉は受けていることだろう。それも自分たちよりも強く深く。彼は、そういった『モノ』なのだから。
 彼の知らぬところで動く世界を、彼はいつ知ることになるのか。
 あんなにいびつな体を抱えて、じきに滅びるだろう屋敷の中で、――彼は何を見ているのだろうか。




Back