-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

43.残骸



 とても冷たい場所だ。そこに、今にも泣き出しそうな人がいる。
 ぼろぼろだった。傷ついて、傷ついて、今にも崩れ落ちそうな体を抱えてうずくまっていた。
 ――伯爵。
 抱きしめる腕と、優しい声。
 ――泣かないで下さい、伯爵。
 花びらのように舞う言葉。
 ――私がずっと傍にいます。ずっと、あなたの傍に。
 何もかもを染め上げる思惟と、優しい透き通った歌声。
 ゆるゆると、絶望に沈む心が顔をもたげる。

 そうして、――名を、彼女の名を、呼んだ。


「スアローグは……ああ、月夜草採りに行ってるか」
 俺はベッドの端に座って、そんな明後日なことを呟いた。というか、何か喋らないと場の空気の重さに潰されてしまいそうだった。マーリアは部屋のソファーにふわりと腰掛け、セライムだけが立って真剣そのままの顔でいる。マーリアが俺たちをこの部屋に案内したことで、込み入った話になるのだと察したようだ。
「長い話になりましてよ。どうぞお座りになって下さい」
 ソファーに目配せをされたが、セライムは小さく頷いて俺の隣に腰掛けた。さり気なく俺を気遣うように顔を覗きこんでくる。胸中にはいくつもの疑念が渦巻いているだろうに。
 大丈夫だ、と笑おうとして失敗し、俺は唇の端を歪ませることしか出来なかった。だから、何か言われる前に口を開く。
「その石がなんでここにあるんだ?」
 喋る舌が、どこか苦い。返答の前に、暫くの沈黙が落ちる。
「――私も、詳しいことは分かりません。ある日突然やってきた人物から論文と共に受け取ったのです」
 長いまつ毛を伏せて、ふっとマーリアは一度セライムを見て、そのまま目を閉じた。手の中の水晶のような石が宿す光を閉じ込めるように、指で包み込む。
「論文もあるのか」
「そちらは伯爵の自室に保管されておりますので、持ってくることは出来ませんでしたわ。きっと今晩も解読をなさるでしょうから。私はあの論文とこの石が何であるかは知りません。ただ、その二つが伯爵を狂わせてしまったのは確かです」
「その石には魔力が込められているのか? 何か、――なんだろう、嫌な感じがする」
 セライムが口元に手をやりながら呟いた。一般的に、魔力が宿る物質はごく僅かに限られており、どれも高価なものばかりである。月夜草などはその中でも最も効力の薄いもので、市場にも流通しているが、強い魔力を秘めた物質は存在自体が危険な為、一般の手に渡ることはない。
 だが、と俺は何処かで見た光を眺めながら鈍く考えた。あれに込められた魔力は、強いなどという言葉で表せるものではない。
 もっと――何か、違う次元のもの。
「分かった。じゃあ、その石で伯爵は何をやらかした?」
 質問を変える。あの石の正体は――ちょっと知りたくない。
「それには――あの写真の女性について語らなければいけません」
「お母さんじゃないのか?」
 マーリアの口ぶりにセライムが怪訝そうな顔をする。
「とにかく一から話してほしい。でないと、私にはよく分からない」
 その瞳に浮かぶ純粋な光に、マーリアは小さく分かりました、と返した。


 ***


 あの写真に写る女性、マーリアの物語を致しましょう。そう、写真に写る女性は確かにマーリアという娘でしたわ。
 ええ――わかっています。私もマーリアという名です。でも、今は少し、私の話を聞いて欲しいのです。私という存在は抜きにして考えて下さって結構ですわ。
 マーリアはある町の、いたって普通の家に生まれた娘でした。しかし彼女は、あの写真の通り、生まれつき同姓が見とれるほどの美しい姿をしていました。
 ええ。そうして彼女は己の姿に慢心し、高飛車で、傲慢で、そして計算高く我侭な娘に育ちました。
 その頃の彼女は、全てのものが自分の手に入ると信じていた。実際、美しい彼女に男は殺到し、マーリアはありとあらゆるものを手に入れることが出来たのです。女たちは彼女に嫉妬し、羨望の眼差しを向け、マーリアはそんな女たちを見下していましたの。
 だからでしょう。マーリアは、神の怒りに触れたのかもしれません。
 彼女はある時、一人の若者に惹かれました。そして、勿論絶対に彼は自分のものになると信じていました。彼もまた彼女の想いに答えた。
 けれど、マーリアは彼の心の奥にある暗いものに気付いてはいませんでした。
 彼に誘われるまま機関車で旅行に出た先、彼に連れていかれた美しい林の中に待っていたのは、沢山の男たち。
 ――ええ。
 もう、マーリアには逃げることなど出来ませんでした。
 取り囲まれて、冬の寒い中、誰にも使われない暗い家屋の中で、彼女の無慈悲な日々が始まりました。
 ええ。そうですわ。
 むごいことでした。許されないことでしょう、例えマーリアがどれほど傲慢な娘だったとしても。けれど、これは起こってしまったことなのです。もう、取り返せない過去であり事実なのですわ。
 話を続けてよろしくて?

 そうして、マーリアの心は壊されました。
 暗い屋敷の中では、助けを呼んでも届かない。
 あまりの暴力の前で、彼女は無力でした。いいえ、それ以下だった。彼女の容姿は男たちを退屈させなかったのですから。
 それが何日続いたのか、彼女ですらよく分からなくなった頃、やっと開放が訪れました。男たちは去っていった。
 マーリアは家から這い出して、そして倒れました。
 ええ、そうです。そこに伯爵が通りかかったのです。
 哀れに思ったのか、伯爵はマーリアを屋敷に連れて帰りました。
 美しさにみとれた? そんなはずはありませんわ。その時のマーリアは、以前の容姿から一変してぼろきれのようでしたから。
 ……いいえ。もしかしたらそうかもしれませんわね。伯爵は――。
 話を続けましょう。

 その後のことは――マーリアは自分でも自分がどうなっているのか、よく分かりませんでした。
 記憶がないのです。おぼろげに青い薔薇を見た記憶がありますが、それもいつのことだったか。
 気がつくと、彼女はこの屋敷の一室で暮らしていました。
 伯爵は不思議な人でした。マーリアをぼんやり眺めては、気分は、欲しいものは、と時折訊きましたが、決してそれ以上の接触を求めなかった。
 そう、まるで花を愛でるように。伯爵は、壊されたマーリアを観察するだけでした。
 マーリアは何も考えられず、ただ惰性で屋敷の中で自らの姿を整えました。髪に櫛を通して、化粧をし、香水を振った。体の傷も次第に癒えていきました。
 そんなマーリアを、伯爵は夢でも見ているように遠くから眺めていたのです。
 彼女は少しずつ今までの自分の行いを伯爵に語り始めました。そうしていく内に、なんと自分は浅はかで愚かだったのだろうと彼女は思い知ったのです。
 だからこれは運命だったのだ、慢心した自分の心がこの凶事を引き起こしたのだと、伯爵に告げました。
 すると、それまで笑うことはおろか、驚くこともなかった伯爵が、感情を弾けさせるようにして立ち上がったのです。

 ――そんな運命があっていい筈がない。美しいものが汚されることなど、あってはならない。この世界が林檎であるとしたら、その中に美しいものが種の部分ほどでもあろうか。他は全て腐り落ちてしまう。未来を紡ぐ種ほど、尊いものはないのに。汚されてはいけないのに。
 ――私の心は、とても汚れていますわ。
 ――いいや、君は美しい。美しいんだ、こんなに腐ってしまった世界の中で。

 伯爵は。
 伯爵は、寂しい方でした。
 とても寂しい方でいらっしゃいました。
 己の主観が世界の全て。己が美しく見るものは美しく、汚れたと見るものは汚れている。
 他人という存在を、客観という視点を、伯爵は認められないのです。
 伯爵の世界は閉じているのです。
 伯爵の見るものはあまねく『モノ』であり、美しい『モノ』に執着を見せ、美しくない『モノ』には興味を持たない。そういうお方だったのです。
 伯爵は、マーリアの容姿に惹かれていました。
 他の部分など、伯爵には見えていなかったのですわ。
 伯爵は、とても傷ついていたのです。そう、ぼろぼろでした。元より他人との関係に折り合いがつけられず、心を許せる友人もいない伯爵は、本当は悪意に怯えていただけなのかもしれません。そうして一人になった伯爵は、今度は心の安らぎを得た代わりに、孤独の中でみるみる自分の世界を狭くしていった。
 ――だからマーリアは。


 ***


「伯爵を、救おうとした」
「はじめは惰性に過ぎません。もうマーリアにも外を見る力は残されていなかったのです。何処にも行ける気がしなかったから、ここにいようと思ったのです。けれど、伯爵を理解していく内に、彼に惹かれていきました」
「愛されたから」
「愛していました」
 燦然と、目の前の少女は返してきた。そこにもう幼さはない。喪服のような黒をまとって、この少女は誰を弔おうとしているのか。
「伯爵の傍にいたかった。役に立ちたかったのです。そしていつの日かでいい、伯爵に、人として、一人の人間として見てもらいたかった」
 マーリアの物語を語る少女が、同じ名を名乗り同化していく。他人のものではない、己の意思として言葉を唇に乗せる。
「だから、伯爵の研究の手伝いを始めたんだな」
「――知っているのですか」
 俺に対しての戸惑いに、声が小さくなる。
「全部、見せられた。無理矢理闇に顔を突っ込まされて」
「……あなたは一体」
「お前は誰だ」
 そう言い放つと、マーリアは瞑目した。手の中に秘めた輝きをそっと隠すようにして首を振る。
「話を戻しましょう。マーリアは、確かに伯爵の役に立つ為、あらゆることをしました。慣れない手つきで家事をし、伯爵の研究を学び、力になろうとした。伯爵は、マーリアの美しさを愛していましたから、彼女が傍にいることをとても喜んでいるようでした。幸福な時間でした、例え伯爵がその容姿以外を愛していなかったとしても」
 写真の中の女性、マーリア。
 花束を持って、幸福そうに笑う。
 閉じた世界の中で、いつかやってくる約束の日を心待ちにしながら、彼女は何もかもを伯爵に捧げた。
「楽園、だったんだな」
「ええ。そうでしたわ。けれど」
「悲劇があった」
 言葉を繋ぐ。言葉は落ちていく。どこまでも暗い場所へ。
「そう、マーリアはその罪深さ故に、いつまでも幸福であることを許されなかったのです」
「高い戸棚に手を伸ばした」
「伯爵の為に」
「実験を手伝おうとした。伯爵に言われた薬品をとろうとして、手が滑った」
「そう」
「降ってきたんだ、薬品の瓶が」
「不注意だったのですわ。けれど、取り返しがつかなかった」
「蓋が取れた。濃度の高い薬品が、顔に降り注いだ」
「どうすることもできなかったのです。美しかったマーリアの顔は」

「つぶれた」

「――っ!」
 セライムが、口元を押さえた。幼い少女の顔は、相変わらず美しくそこにある。
「……お前は、誰だ」
 眩暈がする。幼い少女の手の中の輝きが、既に答えを教えていた。それでも問わずにはいられなかった。
「私は、マーリア。マーリア・オヴェンステーネ」
 人形のように美しい顔立ちの少女は、自分を嘲るように笑った。
 ――この少女の名は、マーリア・オヴェンステーネ。
 そう、この少女は、マーリアなのだ。この少女こそ、マーリアなのだ。
「私は、私の残骸ですわ」


 ***


 それはたった一瞬の出来事。しかし惨劇は、雷鳴のように突如として降り注ぎ、猛獣のように女から全てを奪い去った。
 楽園は瞬時に煉獄へと変貌する。女は、己の唯一にして絶対のものを失った。ここにいられるたった一つの意味を、彼女は失ってしまった。
 もう伯爵は自分を愛さない。
 伯爵は、美しいものしか愛さないのだから。
 変わり果てた自らの顔を包帯で覆った女は、部屋に閉じこもった。全てが終わっていた。
 伯爵は悲しみに暮れる。扉を叩いて女の名を呼ぶ。
 けれど、その悲しみの先にあるのは、きっと美しくないものへの無関心。女の心は虚無に満たされ、一層壁を厚くする。
 これからは、その辺の石と同等の扱い。何をしても、何を語っても、伯爵はこちらを見ることはないだろう。
 焼け爛れた顔を抱えた女に、生きる意味はなくなっていた。歪んだ笑みを浮かべ、その人生を呪いながら彼女は閉じこもり続ける。

 本当に恐ろしい物語が、この後に幕を開けることになるなど夢にも思わずに。


 ***


 マーリアは立ち上がって、俺を正面から見た。
「信じて頂けないと思いました。だから、これをお持ちしましたのに」
 無駄でしたね、と薄く笑う。その手には先程も見た、一欠けらの透明な石。内部から、見ているだけで凍りつくような、冷たい光を放っている。
「……マーリア、お前は一体?」
 未だに理解の訪れないセライムに、マーリアはくすりと蠱惑的に笑いかけた。もう人形を演じる気はないらしかった。
「セライムさん」
 石を仕舞って、セライムの手を小さな両手で握る。
「私が人に見えまして?」
 セライムは混乱した風に眉根を寄せる。
「あ、当たり前だ。手も暖かい」
「私は、あなたが生まれる前の世界も知っていましてよ」
 ひくりと、いとも簡単にセライムの四肢がひきつる。そう、この幼い少女は。
「本来なら、私は今年で生まれてより29の年を数えるのです」
「――」
 硬直は、通り過ぎると弛緩になる。呆けた顔で、セライムは止まっていた。そんな様子を面白がるように、マーリアは顔を近づける。
 あまりに整った顔を瞳に映したセライムの唇が、わなないた。
「――そんな、お前が――さっきの、話の」
「言いましたでしょう?」
 自然な凛々しい美しさと、作り物の完成された美しさが、鼻先が触れるほどに近付いて。
「私は、マーリア。彼女の記憶を受け継いだ、人形なのです」
「やめろ、マーリア」
 思う前に、口にだしていた。マーリアのその物言いは――ひどく、俺の琴線を触って揺らした。
 マーリアは素直に体を離して、ふんわりと首を傾げる。
「失礼致しました。けれど、信じて頂けまして?」
「こいつは嘘でも信じるから」
 言いながら、少し強めにセライムの背を叩いた。しっかりしろ、との意味をこめて。
 物理的な衝撃に、はっとセライムの顔が現実に戻る。揺れる瞳を見据えて小さく頷いてやると、セライムも少し落ち着いたようだった。ここで呆けられていては困るのだ。きっと、この先には更に恐ろしいものが待っている筈だから。
「俺たちはどうすればいい?」
「伯爵の研究室にご案内いたしますわ。見て欲しいのです、あの物語の続きを」
「それで?」
「この石を、託します。外に持ち出して、しかるべき場所へ。ここのこと、私のこと、全てを話して下さい」
 その意味する先はあまりに陳腐な崩壊で。俺は顔をしかめた。
「それでいいのか」
「もう、終わりにしたいのです。なにもかも」
「伯爵はきっと望んでない」
「構いませんわ」
 迷いのない返答。感情を殺しているようでもある。
 だからこちらも感情を抑えて頷き立ち上がると、ふと泣きそうな声でマーリアが呟いた。
「ずっと待っていたのです。助けを呼んでいましたの。私の話を聞いてくれる人を、ずっとずっと」
 ――泣きたいのはこっちだ。来てみればとんでもないモノを見せられて、こんなにも心をかき回されて。
「ああ、もう」
 スアローグみたいに俺は髪をかきまわした。
 さっさと終わらせよう、こんなろくでもない物語。
 ポケットから飴玉を取り出して口の中に放る。
「案内してくれ」
 振り返ると、マーリアはこくりと息を呑んで頷いた。


 ――物語は、更なる闇に堕ちていく。




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