-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

42.孤高な科学者



 夕食に姿を見せなかった紫の少年のことを考えながら、セライムは長い廊下を歩いていた。
 この屋敷には必要最低限の場所にしか電気が通っていないようだ。廊下にはマーリアがつけたのだろう、生々しいランプの灯が景色を浮かび上がらせている。
 スアローグが言うには、彼はあまり体調が良くないらしい。確かに、今日の朝は元気そうにしていたが、この屋敷に来てからはどこか顔色も悪かったように思う。
「――病み上がりだったしな。無理をさせてしまったか」
 すっかりいつもと同じ様子だったから気にしなかったが、彼はつい先日命にかかわる大怪我をしていたのだ。まだ本調子ではなかったのだろうか。誘ったのは迷惑だったかもしれない。
 そう思うとじわりと後悔が染みて、セライムは胸に手をやった。
 この屋敷は不思議に溢れており、今日一日はとても楽しかった。夕食で伯爵から聞いた様々な話も面白かったし、何よりも友人たちと屋敷を見てまわったりするのがとても幸せだった。
 けれど――。
「一人よがりなのかもしれない」
 否、実際そうなのだろう。楽しんでいるのは自分だけなのかもしれない。ただ自分にとって幸福な時間を過ごしたいために、周囲を巻き込んでいるだけなのだ。
 耳元で結ってあった髪は、今はおろしていた。薔薇園を散策する内に、ひっかけてほどけてしまったのだ。直そうとしたが、不器用なセライムに自分で元に戻すことなど出来るわけがなかった。
 甘えているのだ、周囲に。いつか分かたれることを知っているが故に、せめてそれまでと思って。
 いつか問われたことを思い出した。
 ――お前みたいに過去に恐れることなく立ち向かうには、どうしたらいい?
 立ち向かえてなどいない。強くならなくてはいけないのに、なのに自分は立ち止まってばかりだ。
「――はぁ」
 そんなことを自覚すると更に空しくなった。
「うん?」
 ふと、立ち止まる。
 考え事をしている間に随分と歩いてきてしまっていたらしい。気がつけば、屋敷の入り口に続くホールの扉を開けていた。無意識に立ち止まったのは、灯りの違いからだろう。
 来たときとは逆に、廊下からホールに入ると二階から一階の広間を見下ろす形になる。
 こちら側にしか照明のないホールは、まるで暗い海が広がっているようだった。かろうじて二階部分は陸のように赤い絨毯が照らされているが、一階の方は完全な闇に閉ざされている。
 流石にセライムもこくりと息を呑んで、その場を立ち去ろうとした。
 だが、踵を返した瞬間――足が、止まる。
「――」
 視覚が、意識を離れて吸い寄せられた。
 舞台に立つように、暗黒の海に光を浴びて浮かび上がる、美しい女性の写真。
 昼間に一度見たはずのそれは灯りに煌々と照らされて、はっとするほど鮮烈な印象を刻み付ける。
 綺麗な人だった。癖のない軽やかな髪も、光を散らす瞳も、長い四肢も、目を奪われずにはいられない。そして何よりも彼女の表情に湛えられた知性とぬくもり、幸福そうな笑みが女性の魅力をこれ以上なく引き立てていた。まるで俗的なものは感じられない、この世のものではないような人だ。
 不思議な人だとセライムは考えた。マーリアと全く同じ顔立ちをしている。それこそ年齢さえ考慮に入れなければ寸分違わぬといっていい。
 なのに、印象はこんなにも違う。マーリアはどこかぼんやりとしていて、輪郭が曖昧だ。
 彼女は伯爵を寂しい人だと評した。しかし、そう紡ぐ彼女の方が、よっぽど寂しそうに見えた。どうしてあんなに悲しそうにしているのだろうか。こんなに優しい伯爵と共に暮らしているのに。
「いい写真だろう」
「わっ!?」
 突然背筋を撫でるような声を受けて、セライムは心臓が口から飛び出そうになった。
 思わず悲鳴に近い声をあげてしまってから振り向くと、そこには闇に紛れるようにしてオヴェンステーネ伯爵の姿が浮かんでいた。
「……」
 ぱくぱくと口を開け閉めしながら、手を胸の前で硬く握り締めるセライムに、伯爵はふんわり苦笑する。
「ああ、すまないね。驚かせてしまって」
 細い鳶色の目を更に細めて、歩き出す。一歩、二歩。少ない照明の中、折れてしまいそうな程薄い体は、この世界にぴたりと順応している。
「あ、いえ、すみません……私こそ、勝手に歩き回ったりして」
「構わないよ」
 どもるようにして髪を耳にかけるセライムは、さして伯爵に感情の起伏がないことを知って、とりあえず胸を撫で下ろした。物静かな人なのだ。先程の夕食時もあまり自分から話しかけることはなかった。少し、紫の少年のことを気にかけていたくらいで。
 そして、暗い場所が似合う人だった。昼間に見た時は陽光で倒れてしまいそうだと思った細く青白い顔は、こんな夜の中にこそ本来の姿を取り戻して夢見がちに微笑む。
「綺麗な人だと、思います」
 素直に感想を口にすると、伯爵は片手を背に、もう片手を伸ばして写真を撫でた。ふっと瞳が溶けるように緩み、口元に笑みが宿る。
「そう、この写真が一番よくとれているんだよ。本当に――美しい人だった」
 故人を懐かしむ響き。その想いは、セライムにもよくわかる筈だった。彼女もまた、大切な人を失う痛みを、心がごっそりと抜け落ちる痛みを知っていたから。
 なのに、不思議とそんな思惟には感化されなかった。それは、伯爵の声には懐かしさと痛みがあっても、絶望が微塵も含まれていなかったからだ。むしろ、恍惚の表情すらさしている。
 まさに、夢を見ているような。
「この美しさは損なわれてはいけない」
「え?」
 話の向きがそれる。伯爵の顔が、こちらに向いていた。
 やせ細った顔で、なのに目には冴え冴えとした光を秘めて。
 歌うように語る声は耳元で反響するように震え、まるでこの世のものとも思えず――。
「美しさは大切にしなければいけない。損なわれた美しさを取り戻すには、千の時と万の知が必要なのだから」
「……」
 言葉が、出てこない。何故だろう、薄暗いからだろうか、体が震えるのは。
 伯爵から、全身を使って視線を引き剥がす。女性は写真の中で笑っている。幸せそうに。
 急に空気が冷えた気がした。寒気を覚えて、腕を抱える。
 さ迷う視線は、ふと写真の片隅の小さな文章に止まった。まるでサインのようなそれ。逃げ場を探していた意識は簡単に吸い込まれ、意味のあるものとして文字が頭に飛び込んでくる。
 それを認識した瞬間、セライムの澄み切った青の双眸が跳ねて――停止した。
 名を呼ばれたのは、その時だった。


 ***


 それはとても冷たいところ。暗い暗い闇の果てへ、誘われるようにゆったりと落ちていく。
 体の感覚が薄れて黒に蕩け、希釈され、どこまでが自分なのだか分からなくなってきた頃――深い空間の先に一人の男が見えた。
 細いシルエットに、人を遠ざける瞳を持つ若い男。
 セシルス・オヴェンステーネ。
 優秀な科学者。
 優秀すぎる科学者。
 彼は人に伯爵と呼ばれていた。
 貴く尊い血を継ぐ者である為、またそれを揶揄する為に。
 彼は、いつだって孤独であった。
 科学者となった伯爵は、地道な実験の繰り返しを淡々と続けた。数値を刻み、情報を書き連ねていく作業を禁欲的なまでに続けた。
 けれど周囲はそれを許さなかった。
 そもそも彼に流れる古い血への物珍しさが、周囲の関心を彼に誘ったのだ。そして彼の持つ抜きん出た才能にも。だが無口で温順な伯爵の興味は人より数字にあった。彼は人を拒みはせねども、深く関わることをしなかった。同時に人に合わせることもしなかった。周囲が彼を理解しないように、彼も周囲を理解しなかった。
 無口で利己的な彼は、いつの間にか周囲から忌まれる存在になっていた。
 彼が培った資料は彼の知らぬところへ持ち出され、彼のいた部屋の別の人間の名で論文となり提出された。論文は学会を驚かせ、名誉は彼の知らないところに降り注いだ。
 それを伯爵が知ったのは、全てが終わってしまってから。けれど彼は何も言わない。彼にとって、そんなことはどうでも良かったのだ。実験を繰り返す。情報を一粒ずつ積み重ねていく。
 その様子が、逆に慢心した人間の心を逆撫でした。彼は研究室に入ったばかりの者がするようなたわいもない雑用を、悪意と共に押し付けられた。
 彼の意にそぐわない実験も、いくらでも命じられた。
 彼の研究は否定された。意味のないものとされた。
 けれど彼は何も言わない。人との交わりよりも、完成された数式、古い偉人の理論、そんな美しいものたちを彼は愛した。評価、名誉、地位。それらは腐ったものにたかる蝿と同等であり、彼の愛するものに含まれなかった。
 周囲の者たちは、薄く笑う。あるいは嫌悪し、憐憫の眼差しを向ける。
 彼の居場所は減っていく。減っていく。
 彼は、いつでも一人。
 伯爵。今は亡き呼称。亡霊の名で呼ばれた彼は、父の死を契機に学術都市を去った。暗い笑みに彩られたそこから、そっと抜け出すように。莫大な財産が入った彼に取り入ろうとする、数多の悪意から逃げる為に。
 ある別荘を除いて全ての権利と財産をごく機械的に処理し、有り余った資金を手に彼は再び研究を始めた。
 既に、彼の手の中では水色の薔薇が完成していた。

 時は流れる。孤高な科学者の実験は続く。
 薔薇の色はいよいよ濃く染まり、真っ青の薔薇を鮮やかに開かせることに成功した、その日のことだった。
 必要なものを買いに都市に出かけた帰り道だった。
 道端に、女が倒れていた。
 髪は土で汚れ、服は破れて裸も同然。
 むき出しの白い肌に、赤や青の生々しい傷跡が花開く。
 周囲は明るい林中に富める者たちの家屋が点在する。けれど、冬の時期はどれも無人。
 女性を監禁し暴行するには最適の地。
 事務的にそう考えた彼は、女の顔を見た瞬間、全てを忘れてその美しさに見入った。
 まるで人形のように端麗な面立ちをした女性だった。
 土で汚れ、擦り傷のある彼女の顔はしかし作り物のように精巧にして崇高。
 伯爵は、迷わず女を連れ帰った。
 ただその後、どうすれば良いか分からなかったので、ベッドに寝かせておいた。
 暫くして女は目を覚ます。取り乱す。
 伯爵は、どうしていいか分からない。
 女は何を思ったか、よく分からない言葉を放って屋敷を飛び出した。
 彼は追いかけた。すぐに見失ってしまったけれど。
 一人で帰ってきた彼は、青い薔薇を一輪、そっと枝から解き放った。
 久しぶりに、悲しい、と感じていた。あんなに美しい娘が、誰かに蹂躙されて傷だらけになってしまった。
 美しさは、損なわれてはいけないものだ。
 この世界で美しいものなど、ほんの一握りも存在しないのだから。
 彼は次の日、もう一度外に出た。
 冬の林は冴え冴えと澄み渡り、息は白く染まった。
 女を見つけた。
 ひどく弱って、林の中にうずくまっていた。震えていた。
 絶望に支配されていた。
 近寄っても、反応はなかった。
 女の顔を覗きこむ。瞳は硝子のように空洞。涙の跡。
 だから、持っていた青薔薇を差し出した。
 見たことのないものを差し出されたからだろうか、彼女の瞳がふらりと揺れた。
 ――なぁに、これ。
 絶望は彼女の年齢まで塗りつぶしたか。ひどく舌足らずな声で、彼女は首を傾げた。
 ――これを、君に。
 伯爵は、そこに本物の美しさを見た気がしていた。
 壊された人形に手向けられた、秘密の花。とてもよく似合う。
 ――君の名は。
 この花に薔薇という名称があるのと同時に、また彼女にも。
 淡い亜麻色の髪。若草の瞳を縁取る長いまつ毛。桜色の小ぶりな唇。
 散った花もまた美しいように、例え残骸であろうと、とても綺麗だった。
 ――君の名は。
 女は青いくるくると巻いた薔薇をぼんやりと瞳に映して、呆然と名乗った。


 私は。


 世界が回る。回る。
 青い薔薇。古めかしい屋敷。堆積された古いインクの香り、口元に刻まれた微笑みと。
 らせんの階段を下りていくように、同じ場所をくるくるまわるようにみせかけて堕ちていく。物語は磨耗し本質を見失い、残滓たちは最も深い場所へ。
 閉鎖された楽園はある時煉獄となり、また楽園に舞い戻る。女はいつしか、いつしか――。


「――っぁ!」
 ばちん、と意識が弾けた。無理矢理体に心を詰め込まれる。心臓が鼓動を始め、じわじわと体中の臓腑が動き始める。
「――!」
 反射的に顔に手をこすりつけ、自分が何者であるのかを確かめる。
 ――俺は。
「……?」
 俺は今、何を見ていた?
 否。『見せられていた?』
「――ぅ」
 うずくまったまま意識を落としていたからか、とてつもない不快感が胸をせりあがる。
 いつもの夢ではない。今の夢は――何を見せられたか、はっきりと覚えている。否。それは夢とすらいえないかもしれない。
 何を見たのか、何を聞いたのか。
 甘やかな声、淡い亜麻色の髪の娘。
 そして、あの時。伯爵は、その女性を――。
 頭から血が散っていく。四肢に動けと指令を下す。
 まさか、まさか、まさか。
 部屋には誰もいない。かすかな黴臭さが鼻をつく。空気がひんやりと冷たい。
 感覚が研ぎ澄まされている。暗がりに落ちた闇の中なのに、窓からの月明かりで全てが捉えられる。
 廊下に出て、迷わず走り出した。確かめなくてはいけない。今、俺が見たものが正しければ――あの、写真の女性は。
 ゆらゆらと生の火が揺れて、足元を煌々と照らす。故に窓の外は闇となり、観測の出来ない無の空間となる。そう、光のない世界は、たとえそこに何があったとしても捉えられることはない。そこにあるのが喜劇だろうが悲劇だろうが、関係なく。楽園は闇の中、くるくると楽しげにその形を歪ませて、眠り続けるのだ。
 がたん、と音をさせて俺は扉を開いた。
 名を呼ぶ。
「セライム」
 長い金髪が揺れる。肩を跳ね上げて、こちらに振り向く。
 ホールの明かりは写真の為だけにあるようなものだ。他の全ては闇に沈み込んでいるのに、ここだけがぼんやりと明るい。
 舞台には二つの影。セライムと――対峙する、セシルス・オヴェンステーネ。暗がりに紛れるようにして、目を光らせている。
「――っ」
 口元が引きつるのを感じながら、俺は舞台に進み出た。まるで、寸劇の役者のように。
「ゆ、ユラス?」
 不安と怪訝さが同居したセライムの視線を流して、セライムの前に立ち、ちらっと写真の隅を見た。
 走り書きは小さなものだったが、写真が照らされているのでしかと読める。

 我が愛する伴侶
 マーリア・オヴェンステーネ

「――」
 混乱はしない。
 むしろ、一つに繋がった。
 ああ、もう。
 この人は、なんてことを。
 だから、挑むように伯爵を見据える。
 ――この人は。
「ユラス・アティルド君、だったね」
 水気を含んだ、ゆったりとした声。この世のものではないような。
 そう、この人はもうこの世界を見てはいない。
「不思議な目をしている」
 伯爵は目を細める。
「この大陸の人間には、ない色ですから」
 告げると、ゆるゆると伯爵は首を振った。
「いや、そういった意味ではないのだよ。君の瞳はまるで――そう、磨き上げられた鏡だ。全てをそのままに映しこむ」
「それは光があってこそ。闇の中を見ることは出来ない。けれど、――見えてしまった」
「ユラス?」
 後ろから、声。
 振り返ることは出来なかった。この顔を見せたくなかった。こんなにも憎悪に満ちた顔を。
「この写真の女性は、マーリア・オヴェンステーネですね」
 伯爵は、ふんわりと笑う。
「そうだよ。美しい人だろう」
「マーリアは、この写真の女性は死んだといいましたよ」
 初めて、鳶色の緩んだ目に波が生まれた。透明な水にどす黒いインクが垂れたように、じわじわと衝撃は伯爵の体中を犯していく。
「――嘘だ」
 弱々しい声。
「そう、それは嘘だ」
 だから、吐き捨てるように言った。
 この屋敷は、壊れている。
 はじめは些細なほころびだったのかもしれない。けれど、決定打は確かに存在した。
「あなたが何をしたのかは知りませんけれど」
 この屋敷の奥底で、何かがうごめいている。
「あなたは、――何を拾ってしまったんだ!」
 響いた声は、自分の耳朶をも叩く。俺は、こんな声をしていたんだろうか。わからない。わかるのは、この屋敷にうごめく何かによって見せられた光景たち。杭で打ちつけられたかのように脳裏に焼きついている。まるで俺を嗤うように。
 伯爵は呆けたようにこちらを見下ろしていた。その瞳の奥を覗くだけで、答えは容易に見つけられた。否――もう答えなど、見せられていたのだ。
「帰ります。こんな狂った場所にはいられない」
 頭の中でじんじんと熱が放たれている。踵を返し、セライムの腕を掴んでほぼ無理矢理連れて行った。
「あ、おい、ユラス」
 扉を音をさせて閉め、廊下を進む。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。何が一体どうなってるんだ」
「……」
「なぁ、マーリアって、どうしてあの写真の人と名前が――わっ!?」
 立ち止まると、セライムは思い切り俺の背中にぶつかった。
「知りたいか」
 問う。
 呼吸が荒くなっている。
 セライムは、はっと身をすくませた。答えがない。
「……俺は、知りたくない」
 続けた声が震える。理解してしまった自分に、恐怖しているのかもしれない。
 ぞわぞわと足元から犯されていく。見えない何かが、恐ろしい物語を語りかけてくる。
「ユラス」
 目を瞬くと、セライムの顔がすぐ傍にあった。強い青、澄んだ色。両手で俺の頬を押さえるようにしている。
「落ち着け、ユラス。どうしたんだ」
「――ぁ」
 問われて気付く。泣いていた。見開いたままの自分の瞳から、涙が溢れていた。
 首を振ろうにも、押さえられていてどうしようもない。
「何があった。ゆっくりでいいから話すんだ」
 指に涙が触れようと、青の双眸は構わずこちらの奥を覗きこんでくる。まるで言葉を直接脳に注ぎ込むように。
「――」
 言わなければいけなかった。ここにはいたくない。ここにいると、嫌なものが語りかけてくる。襲い掛かってくる。
 こうやって。足元から、蛇のように絡み付いて、喉に牙を立てられて。
「――ユラスさん」
 ほら。
 鈴が鳴る。
 セライムが、こちらから意識を外す。声が自然と漏れる。
「マーリア」
 俺もまた、振り向いた。
 光景を睨めつける。
 廊下の先に人形が立っていた。
 技巧を凝らして作られた天使の彫像を思わせる、小さな人形。今にも何処かに飛び立ってしまいそうなのに、喪服のような衣の黒が彼女を大地に縛り付ける。
 そんな少女は、俺の顔を見て僅かにたじろいだ。感情がむき出しになっていたからだろう。けれど、瞬いた瞳はすぐに静けさと空ろな闇を取り戻す。
 傾ぐ意識を保つ為、手を髪に差し込んで指に力を込めながら、体ごと向き直った。
「マーリア・オヴェンステーネ」
「はい」
 呼びかけに、マーリアは服従するように軽く頭を下げて目を閉じる。
「なんで、俺たちをここに連れてきた」
 喘ぐように問うと、マーリアは少しの沈黙を経て顔をあげた。写真の女性と同じ顔をした少女は、何処までも深い闇と静謐な光を同時にガラスの目に宿して、こちらに向き合っている。
 そうして、昼間と同じことを口にした。
「私を助けて下さい」
「何をしろっていうんだ」
 気が遠くなるような耳鳴りの中、マーリアはこちらを真っ直ぐに見上げ、前で揃えていた手を、そっと胸の前で開いた。
「歪みは、闇へ」
 光る。白い手の中で、その白さすらかき消すように。それでいてぼんやりと、幻惑的な光を放つものがある。
 ――ああ。
 ――なんて懐かしい。
「あなたは、やはりこれを知っているのですね」
 淡い亜麻色の髪がさらりと揺れる。
「このところ、これがざわめき続けていたのです。あなた方が来てからは、より一層」
 ――そう、それでいて。
 ――なんて忌々しい。
 光るそれをそっと両手で包み込んで、マーリアは薄く笑った。
 ――呼んでいたのか、俺のことを。
 ――俺は、俺は。
「お話させて下さい。私のことを、マーリアのことを」
 かつん、と頭の中で何かが鳴る。
 それは氷の粒となって血液を巡り体中を冷やし、心すらも凍らせた。
「マーリア、それはどういう……い、いや。あの写真の人は、その」
 慌てるセライムの声は、マーリアの寂しげな目を前に途絶えていく。だが、くっと唾を飲み込んだセライムは、そこで引き下がることをしなかった。
「――何か困っているのか?」
 あまりに率直な物言いに、マーリアは少しだけ笑った。とてもその歳の人間がするものでない、感情の折り重なった笑みだった。
 それに何か感じるところがあったのか、セライムは進み出てマーリアの傍で膝をつく。
「もしそうだったら、私に何か出来ることがあるだろうか」
「セライムさん」
「今日始めて会った人間を信用しろとは言えないが、何か困っているのなら助けになりたい」
 マーリアは同じ高さになったセライムの顔をまじまじと見つめた。唇が小さく動く。
「私が、何に見えまして?」
「え?」
「――いいえ」
 問いを自ら首を振って打ち消す。
「ありがとうございます――セライムさん」
 そっと頭を下げて、そうして宝玉のような煌きを宿す若草色の瞳がこちらに向けられた。
 声がでない。あの光が、手の中の光が、目に焼きついて離れない。同じ輝きを何処かで見た。それは――覚えている?
 覚えているのか? 失った記憶の欠片なのか。でも何処で見たのか思い出せない。この光は、確かに知っているのに――。
「ユラス」
「――ああ」
 セライムの聞きなれた声が、唯一俺をここに繋ぎとめてくれている。片手で顔を覆いながら掠れた声で答える。
「大丈夫か? お前は休んでいるか」
 頷いてしまいたくなる。もう、これ以上頭の中をかき乱す真似をしたくないと、心の底がわめいている。
 しかし、マーリアの眼差しに絡め取られたように、首は縦に動いてはくれなかった。縋るような、悲しげな色。胸をざわめかせる。
 写真の中で笑う女性と、重なって、ぶれて――。
「ん」
 あらゆる言葉を嚥下して、俺はかぶりを降った。
「話をきかせてくれ」
 ぎりぎりのところで言い切る。
 だがもしも、その話が俺の予想通りだったら。先程見させられた物語と合致するのだったら、悪夢のような物語になることを、俺は知っていて。
「ただ、助けられるかどうかは保障しない」
「はい。構いません」
 マーリアの手に包まれた光の忌々しさに舌打ちしたい気分になりながら、俺は闇に一歩、足を踏み入れた。




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