-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

41.暗いところ



「スアローグ」
「うん?」
 しゃがみこんで植物を観察していたスアローグが顔をあげると、上から覗き込むキルナと視線がぶつかった。
「セライム見なかった?」
「いや、見てないよ」
 そんな答えに、キルナはため息まじりに髪に手を突っ込む。
「んもう、何処行ったのかしら。ほっとくと風船みたいに飛んでっちゃうんだから」
 青薔薇の庭は通路が複雑に絡んでいる為、見つけるのも一苦労なのだろう。ちらっとキルナを見上げて、スアローグは笑いながら口を開いた。
「珍しいじゃないかい」
 放たれた言葉の意図が分からず見返してくるキルナから視線を外し、そのまま視界を青薔薇の花に戻す。
「いつもセライムが遊びにいく計画を立てると何かと反対するのに、君がこんなに協力的なのは初めて見たよ」
 皮肉気な笑みを浮かべると、キルナも少しの沈黙の後、隣にしゃがみこんだ。
「まあね、らしくないことしてるわ」
 返答は憮然とした調子で返ってくる。彼女の親友が放っておくとどれだけとんでもないことを言い出すのかは、長い付き合いでスアローグも重々知っていることだった。だからいつもキルナが手綱を握って暴走を食い止めていたのだ。
「でもね」
 キルナは指で青薔薇の葉を触った。棘を注意しているのか、人差し指で弾くようにする。ふっと視界を霞ませるように。
「あの子、ただ楽しい思い出を作りたいだけだと思うのよ」
 スアローグはゆるりと目をそばめて、青薔薇をいじる彼女を見た。キルナは構わず続ける。
「もう、こうやって遊んでいられる日も、あの子にとっては残り少ないから」
「……」
 幻惑的な薔薇の庭園の片隅、うずくまるようにしたキルナの隣で、スアローグは自分の金髪をかいて、聞いてしまったことに少し後悔した。こういう話は、少々胸にきつい。
「もう少しの間なんだから、付き合ってあげないと、ってね。――卒業まで、もう一年半ないのよ」
 早いわねぇ、とキルナは自分の膝に額を押し付けた。
「――そうだね」
 出来る限り小さい声で返す。あの金髪の少女の実家は、この国で知らない者がいないほどの大企業を抱えている。その娘がこの歳になって自由でいられることが不思議なくらいなのだ。
 あの少女は、卒業と共にあるべき場所に帰っていくことになるだろう。そして、その後にこんなに簡単に会える機会など、――きっとない。
 明るく自由に振舞う彼女の笑顔は、もしかしたら精一杯の演技なのかもしれない。
「いい保護者を持ったもんだね、セライムも」
 皮肉めかして言うと、キルナはじろりと横目で睨みつけてきた。
「アンタに比べたらマシよ。ホントによくアレについていけるわね」
 アレ。
 そう言われただけで分かる、謎と奇行の塊のような同居人のことだ。ついでに時折事件に巻き込まれてくれる。先日などは大怪我までしてきた。
「あの怪我のこととか、聞いたりしてないの?」
 何気ない問いに含まれているのは多分、彼女の好奇心だろう。本人にそういうことは聞きづらい。本人も、まるで気にした風でもなく、むしろ以前よりも明るくふざけたように振舞っているのだから。
 けれどそれはスアローグにとって、鈍い刃となって胸を刺す質問でもあった。
「聞いてないよ」
 だから、立ち上がった。ずっとしゃがみこんでいたから、淀んでいた血液がどっと流れ出すのを感じる。口元が、笑おうとして苦味に歪む。
「なんでよ」
 気にならないの、と言いたげに見上げてくる目はあまりにも真っ直ぐで、受け止められる気がしなかったから、青薔薇に意識を逃がした。
 青薔薇はくるくると渦を巻くように華やかな花びらで形を成している。誰に教えられたわけでもないのに、機械的に完成する。科学の結晶である作品はどこにも隙がなく、周囲に干渉されず、完結しており、無機質だ。自分もそうなってしまいたいと、いつか願ったことがあった。人の痛みなど、分からなくなってしまえば、と。
 心には、公式もなければ論理も答えもない。問えば全ての答えが何処かにある科学の世界は安定しているのに、心の世界には答えがない。
 ぱん、と景色が変わる。人の生命そのものをむき出しにしたような瞳、弾丸のように降り注ぐ言葉たち。世界がくるりとひっくり返って、人の心の重みを知った。そして無力な自分を知る激痛も。
 だから、今はこんなにも恐れている。人に触れることを、人の心を理解することを。
「スアローグ?」
「――あ」
 不意にスアローグは名を呼ばれて、視界に色が戻るのを感じた。青い薔薇に吸い込まれる内に、意識が内側に向かっていたようだ。
「うん、そうだね」
 薄く笑う。少しだけ、この屋敷の主が羨ましくなった。何もかもの関わりを切って、いっそ孤独になってしまえば。それも一つの答えだ。
 けれど、そんな度胸は彼にはない。他人がいないと生きてはいけない。それは、痛いほどに自分でも分かっていた。矛盾だらけの自らの存在を、彼は正しく認識していた。
「ユラスはユラス、彼の事情があるのさ。友人であることに、彼の全てを知る必要はないだろう?」
 言外に、自分には関係ないという意味を含ませて、スアローグは疲れたように笑った。
 もう、他人の心に触れるなどという恐ろしい真似を二度と繰り返さない為に。


 ***


「伯爵」
 扉を開くと、机に向かう細い男の姿があった。いつまでも変わらない、孤高の科学者セシルス・オヴェンステーネの後姿。今にも割れてしまいそうな、薄い氷のような均衡の上に成り立つ人。
 マーリアの呼びかけに伯爵は振り向いて、疲労の見える顔で笑った。
「どうしたんだい、マーリア」
「そろそろ夕食の時間ですわ」
「ああ――もうそんな時間かい」
 何処か夢見がちな眼差しで、伯爵は壁にかけられた古めかしい時計を見やる。マーリアは淡い亜麻色の髪を揺らして彼の机へと歩み寄ろうとした。
 彼の研究室は、まるで彼を守る堅牢な檻のように、本と実験器具で塗り固められている。時間すらも封じるように空気は淀み、古い香りが堆積していた。そんな処にいるからだろうか、伯爵は既に30代も後半に差し掛かろうというのに、一向に老いの気配がない。
「ああ、あまり近付くと危ないよ。君に傷がついたら大変だ」
 彼はマーリアが研究室の深くに分け入ることを嫌う。それも仕方のないことだった。この部屋で起きた凄惨な出来事は、未だに彼の心を苦しめている。
「すまないね、マーリア。もう少し、もう少しなんだよ」
 制止の声に立ち止まって俯いたマーリアに、酷く傷ついた顔をした伯爵は、悲しげに笑った。
「だから、もう少しだけ待ってくれるかい」
 マーリアはこっくりと頷く。けれどその瞳を彩る苦悩の真の意味を伯爵は知らない。
 世界は移ろう。時は過ぎてゆく。なのに、ここだけがそんな流れから取り残されている。
 伯爵の言うことは、ずっと前から変わらなくなってしまった。そう、気が遠くなるような昔から。
 そのたびにマーリアは頷き続けていた。頷くしか選択肢を持ち合わせていなかった。
 けれど――マーリアは、頷くと共に、口にする。
「伯爵。今日はお客様がいらっしゃっていますわ。何年ぶりのお客様でしょう?」
 そこに含まれた一縷の希望。伯爵は思い出したように視線を遠くする。
「ああ、そうだったね。少し不思議な子がいたな」
「ユラスさんのことですか?」
 まるでマーリアの声を音楽でも聴くようにゆったりと頷きながら受け止めて、伯爵は優しげな表情を彼女に降り注がせた。
「だが、今はそんなことを考えている場合ではないのだよ。マーリア、一刻も早く、君を」
「伯爵」
 マーリアは小さく息を吐いて、顔を歪ませた。伯爵にはいつも通りに見えているだろうが、今の彼女の胸に去来しているものは全く別の感情だった。
『もう』
 人形のように精巧な顔立ちをした少女の頬を、伯爵の指が愛おしそうに撫でる。そう、愛おしい人形に向けてするように。
『もう、届かない』
 ほんの少しだけ残った心の残骸が震えた。もう、後戻りは出来ないのだと。自分たちに出来ることは、こうして朽ちてゆくか、――あるいは。
 何もかも、壊してしまうか。
「さあ、参りましょう」
 マーリアは伯爵を外へと促した。人形として出来る精一杯の笑みを浮かべて、何も見えなくなってしまった伯爵を見上げる。
「伯爵は先にお向かい下さい。私は、お客様を呼んで参りますわ」
「ああ」
 伯爵も笑う。こうやってずっと笑っていられれば良かった。ただそれだけを望んでいた。なのに、今は何もかもが綻んでしまった。
 細い後姿が中庭を越えて屋敷にふらりと入っていくのを見届けて、マーリアは一人で目を細めた。
「――もう、終わりに致しましょう。伯爵」
 今日の来訪者の一人、紫の少年を思い浮かべた。
 彼を迎え入れた瞬間、屋敷の奥に眠るものがざわめき始めたのだ。頼むのなら、彼しかいない。
 薄い胸をそっと押さえる。痛みに剥がれ落ちたそこにはもう、虚無しか残ってはいない。
 マーリアは、伯爵の姿が見えなくなると、くるりと踵を返して無人の研究室への扉を開いた。


 ***


 ――母は。母は、そんな伯爵を救おうとしました。傷ついた伯爵を、自分の世界しか見なくなってしまった伯爵を救おうと。
 ――私を、助けてください。

「……帰りたい」
 夕暮れ、部屋の隅っこで俺は一人座り込んでいた。
「帰りたいでーす」
 膝を抱えて馬鹿の一つ覚えのごとく呟く。
 やはりここは苦手だ。屋敷全体を包み込む空気が、時が進むに従って俺の体をちくちく刺してくる。心の表面、薄皮一枚を少しずつ剥がされていくような、不快感。
 他の奴らが当たり前みたいに普通にしているのが、不思議で仕方ない。
 ――普通の人間から見れば、この屋敷は、ちょっとお洒落な古めかしい外観と、ちょっと人間離れした少女、ちょっと変わった科学者が住むちょっと日常と違う場所でしかないのだろう。
 けれど、普通でない俺のフィルターを通すと――。
 膝を抱える腕に力をこめて、口の中で飴を転がす。甘いものを食べていないと、とても精神が落ち着かない。
「俺ってば、ナイーブ」
 ぺちん、と自分で額を叩いた。どうも不安定になっている。
 不意に物音がして視線だけもたげると、扉が開いて光が差し込んだ。
「ユラス、ここかい――って、うわ!?」
 眩しさに目を細めると、スアローグが扉を開けるポーズのまますごい顔で固まっているのが見えた。この世の終わりをみたような顔だった。
「な、ユラス、――君って奴は」
「んー」
 どうにか状況を飲み込んだスアローグは、口をひんまげてこめかみに手をやる。
「なんでそんなトコで小さくなってるんだい、驚いたじゃないか」
「んん」
 ちょっと、今は人と話すのが億劫だ。スアローグの呆れた声もどこか遠い。
「夕食、準備できたってさ」
「……俺はいいや」
 何かを食べる気になれない。いや、それよりも人に会いたくないのか。
「気分でも悪いのかい?」
「うーん」
 自分でも是か非かわからない答え。スアローグも首を捻っている。しかしすぐに溜息まじりに腰に手をやって声をかけてくれた。
「――分かったよ。そういう風に言っておくから。体調が悪いなら、僕の精神衛生の為にもベッドで寝ていてくれたまえよ」
「……助かる」
 こういう時にスアローグは詮索してこないからいい。ちゃんと俺との距離をとってくれる。
 じゃあね、と返してスアローグは扉を閉めてくれた。また一人になる。世界から切り離されたように、あるいは独立したように、俺は黄昏に汚染された部屋に投げ出される。
 夕暮れの橙が、張り詰めた色で視界を焼くので目を閉じた。そうしてしまえば、全てが暗くなる。
 何も見たくなかった。考えたくもない。
 だから、暗いところばかりを見ていた。暗いところのことばかり考えていた。
 矛盾しているのかもしれないけれど、生きている限りは見ることも考えることも途絶えることが許されないから。
 だから、せめてそうしていた。




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