-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

39.マーリア・オヴェンステーネ



 ――最近ね、噂になってるのよ。
 ――その女の子が真っ黒な服を着て自分の腕を捜して林の中をふらふらと――。

 マジですか。
 これ、もしかして夢の中の出来事なんじゃなかろうか。目が覚めたらまだ今日の朝で、なんだと安心して再び出かけてでもそこでも同じことが起きてまた目が覚めてこれはもしや無限に続くループの中から抜け出せなくなったなんてオチ――!?
「なんだ」
 あまりの展開に明後日なことを考え始めた俺の隣で、セライムが気が抜けたみたいに笑った。
「噂じゃなくて、本当の話じゃないか」
 突っ込むべきはそこじゃない。
「おーい、そんなところに立ってないで、出てきたらどうだ?」
 立っている人影に向けてセライムは手を振った。
「い、いやいやいや」
 それはイカンだろうよなぁと振り向いても、キルナはスアローグを盾にするように隠れているし、スアローグは白目剥いて泡をふいている。――使い物にならなかった。
 少女のような人影は、セライムの呼びかけにためらったのだろうか? しばらくは静止していたが、不意に揺らめくようにこちらに動いた。
「ふっ」
 どさり、と背後でスアローグが倒れる。精神の許容量を越えたらしい。
 かといって俺も衝撃で動けず、固唾を呑んで人影を凝視し――。
 ほんの微かな葉が揺れる音と共に、人影は白日の下に姿を現した。光にさらされるその体は――。
「え――」
「ちゃんとした人間だな」
 隣でセライムが言うなり走り出したので、なし崩しに俺とキルナも後に続く。人影は、柵の中に入るのは躊躇したのか、入り口で足を止めていた。
「腕も二本あるし、幽霊じゃないじゃないか」
 セライムが憮然とした様子で呟く。俺も――先程とは別の意味で、言葉を失った。
 そこにいたのは、まるで絵本の中から出てきたみたいに整った容姿をした、まだ10歳にも届かぬような少女だった。
 滑らかな陶磁器のような白い肌をけぶらせ、真っ直ぐに膝下まで伸びる淡い亜麻色の髪。形の良い細い眉は、切りそろえられた前髪にかすれて表情をぼやけさせる。長いまつ毛に縁取られた優しい若草色の瞳が、陽の光を散らしてきらめいていた。
 人の立ち入らぬ森の奥深くに眠る姫君。そんな時代錯誤な言葉がぴったり似合う少女だ。
 ただ、ガラス細工を思わせる華奢な体を覆う服が漆黒のドレスであることが、均衡を崩すように印象深く残る。黒い靴がやっと見えるほどの丈があるので、肌を露出しているのは顔と手の部分のみ。まるで喪服だ。表情にも色はなく、どこか空ろな様子だ。
 それがあまりに美しく整った容姿と相まって、この少女をこの世あらざる者として見せているのだろうか。こんな陽光の下にいない限り、まさに亡霊――と呼ばれてもおかしくはない。
 どこか浮世離れした少女は、人形のような面持ちで俺たちを茫洋と眺めている。興味があるのかないのかも分からない。手には白いバスケットを持っていた。
「一人でどうしたんだ、ご両親は一緒じゃないのか?」
 少女の突飛な容貌を通り抜けて、子供が一人でこんな場所にいるという当たり前の不思議を認識しているセライムがしゃがんで顔を覗きこむ。すると少女は一瞬だけくるりと目の色を変え、しかし再び元の様子に戻り小さな口を開いた。
「――失礼致しました。家が、近くですの」
 返答に、今度ばかりはセライムも驚いたようだった。まるで子供の喋り方ではない。鈴を転がすような幼い声と大人びた口調が、更にちぐはぐな印象を形作る。
「この近くって、グラーシアか?」
 俺が問うと、少女は俺の顔を見ずに首を振った。
「都市からは離れた屋敷ですわ。――皆様は」
「わ、私たちはグラーシアから来たんだ」
「――」
 澄んだ瞳がゆったりと瞬く。俺が代わって詳しく説明すると、少女は再び頷いた。
「月見草――で御座いますか」
 そのまま逡巡するように視線をさ迷わせ、ゆるりと俺を見上げる。硝子玉のような、あまりに透き通った色の瞳にぎょっとすると共に、次に耳に飛び込んできたのは、やはり現実離れした台詞だった。
「それでしたら、伯爵にお願いすれば」
「伯爵ぅ?」
 思わず聞き返してしまった。まさに時代錯誤もいいところの単語だ。それこそ150年前の貴族政権時の階級を示すもの。
 だが俺たちの奇異の表情などまるで意に介さない様子で、少女は続けた。
「伯爵は学者でも御座いましてよ。月夜草の栽培もしていらっしゃいます」
「伯爵――伯爵」
 俺の後ろで少女に気圧されながらもぶつぶつと呟いていたキルナが、はっとして眉を潜める。
「もしかして伯爵って――オヴェンステーネ伯爵のこと?」
「左様ですわ」
 機械のように返答する。
「な、なんだ有名人か」
「有名っていうか――」
 キルナはちらっと少女を見やって、やや小声で続けた。
「この辺りでお屋敷持って一人で研究してるって噂の科学者よ。元々貴族の血を引いてるらしいし――いえ、まあそんな理由で通称『伯爵』って呼ばれてるけど」
 濁した部分は少女の前では言いにくいことだったのかもしれない。キルナは間が悪そうにとにかく、と続ける。
「あなた、その伯爵の家族か何かなの?」
 キルナの問いに、少女はふっと目を伏せた。動作の一つ一つが、恐ろしいまでに美しく隙がない。
「はい」
 そのまま長いまつ毛に憂いを乗せるようにして、少女は名乗った。

「マーリア・オヴェンステーネと申します」


 ***


 明るい日差しの差し込む林中を、マーリアは足音も立てずに進んでいった。スアローグは何度もその様子をてっぺんからつま先まで観察して首を捻っている。まだ現実が受け止められないらしい。
 あの後スアローグを叩き起こし、話し合った結果、結局伯爵なる人に月夜草の件を頼んでみることになったのである。スアローグ自身も伯爵の噂は知っていたそうで、どのような人物か興味があったそうだ。
 というわけで、今日は本来の予定を変更して、オヴェンステーネ宅に厄介になることになったのだった。
「でも、お前が栽培したやつじゃなくていいのか?」
「結局はレポートだからね、収穫時のことが分かればいいのさ」
「突然押しかけたら迷惑じゃないのかしら」
「――いえ」
 キルナの心配げな声を否定し、マーリアは振り向くことなくとつとつと語った。
「伯爵はあまり外にお出かけにならない、寂しい方でいらっしゃいます。できれば外の話などをして頂ければと」
 マーリアの語り口から俺は伯爵なる人を思い浮かべた。外にお出かけにならないってのはまあ、研究者にありがちな話である。しかし確かにこんな人里離れた場所で孤独な研究をしていたら、周囲の者としては心配にもなろう。
 来たことのない道を進んでいくと、豪奢な建物をいくつも見ることが出来た。キルナが言っていた富裕層の別荘なのだろう。今は冬も近付いているからか、人の気配はない。明るい道なのに、空っぽの屋敷がぽつぽつと木々の合間に佇む、どこか空虚な場所だった。
 奥へ奥へと分け入ると、やがて分かれ道はなくなり、見えていた別荘の群れも木々の合間に見えなくなる。代わりに進行方向にひときわ大きな建物がぼんやりと姿を現し始めた。
「――ぉお」
 それが近付くと共に、思わず感嘆の声を漏らしてしまう。明るい緑に紛れるようにして、俺の背丈の二倍はありそうな門がそびえていた。美しい曲線を描く金属製の門の上方には、聖母フィアラの彫刻。煉瓦造りの高い塀は美しい装飾に彩られて、しっとりとした重みを持って佇む。中の屋敷はそんなに高さがあるわけではない。けれど、それは圧倒的な存在感と質量感、そして何よりも異端とすら思える不思議な空気を木々に埋もれながらも醸していた。
 建物自体はそんなに古いものでないのに、建築様式が一昔前のものなのだ。そう、まさに貴族政権時代のもの。彫刻の作品にも思えるそれは、まるでここだけ時代が違うのかと錯覚させるほど精巧で、現実離れしていた。あまりに離れすぎて、眩暈がしてくるほどに。
 先程キルナが言葉を濁した理由がやっと分かった。こんな場所にこもっている人物を呼称するのに『伯爵』ほどぴったりな肩書きはない。
「伯爵のお父様が道楽で別荘として建てたのですわ。現在は他の家は全て売り払ってしまわれましたけれど」
 俺たちの心情を察したのか、マーリアが起伏のない口調で説明してくれた。本当に妙な子供だ。伯爵の家族といったが、娘なのだろうか。外見はどうみてもティティルと同じくらいなのに、口を開けば大人と話している気分にさせる。
「素敵な家だな、お伽の国みたいだ」
「本当ね。チノに聞けば建築様式が分かるかしら」
 会話を聞きながらふと見ると、仰々しい門の向こうに動くものがあった。そう思っている内に、人二人分の高さがある門が軋む音と共に開き、中から人影が現れる。俺はどきりとしてその人を捉えた。そう、あの人が――。
「マーリア」
「伯爵」
 呼びかけは、この明るい林の中によく似合う、水気を含んだやわらかな低音だった。それに答えてマーリアが小走りで駆け寄っていく。
 門から出てきたのは、30代くらいの男性だった。体躯は折れてしまいそうな程に細く、薄い肩に濡れたような濃い茶髪が細かく渦を巻いてかかっている。外にでないのか、肌の病的な白さと細い目、やせこけた頬がそのコントラストを引き立て、一層顔立ちを陰鬱に見せた。着ているものもそっけない黒服で、体の細さを際立たせるようだ。
 ――あれが、伯爵。確かに容貌はそう呼ばれてもおかしくないくらいに浮世離れしていて、この古びた空間の住人にふさわしい雰囲気をまとっている。
 ただ、近付くにつれて俺は印象を若干訂正した。一見、重苦しさと薄ら寒さを覚える出で立ちだったが、よくよく見れば細い目と眉は心配げな表情に染まっている。
「マーリア、どこに行っていたんだい」
 人形のような幼い少女を迎えた伯爵は、膝をついて彼女と視線を同じ高さにし、淡い亜麻色の髪に手を差し込んで頬を撫でた。
「野花を摘みにいってましたの。ほら」
 マーリアは持っていた小さなバスケットにかかっていた布を持ち上げる。ここからはよく見えないが、花でも入ってるんだろう。なんとなく二人の間には近寄りがたい空気があって、俺たちはちょっと離れた場所で立ち止まっているのだ。なんだろう、恋人たちを包む空気に似ている気がして非常に入りづらい。
 すると伯爵は困ったように笑った。そうすると純粋な少年みたいな顔になる。ただ、夢心地の空間は何処か異様なものとして俺の目に映った。さわさわと木々が揺れる。まるで神経の末端をくすぐるように。
「綺麗だけど、あまり心配させないでおくれ。君に傷の一つでもついたら大変だ」
 こちらに背を向けたマーリアは、微かに頷いた。俯いたようにも見えた。
「――はい。申し訳ありません、伯爵」
「では、マーリア」
 伯爵は立ち上がって、マーリアを通り越した先で突っ立っている俺たちに不思議そうな目をくれた。
「この方々を紹介してくれるかい」
 俺は伯爵の瞳を見る。緩んだやわらかな鳶色の瞳だ。伯爵は俺たちを見渡して、そして俺をみてふっと表情を僅かに変えたように見えた。
「かしこまりました」
 マーリアは振り返って、目配せをしてくる。俺たちは顔を見合わせて、おずおずと進み出た。その不安が伝わったらしい。真っ直ぐ背筋を正して佇むマーリアの後ろで、伯爵は邪気のない笑みを見せた。
「驚かせてすまないね。久々の客人だ、歓迎させてもらってもいいかな」
 見た目よりもずっと穏やかで気品のある口調だ。生き残った貴族の末裔ってのは伊達ではないのかもしれない。
「私はセシルス・オヴェンステーネ。ようこそ、我が家へ」
 そう微笑む伯爵、そして現実感をそぐ屋敷を背景に、マーリアもまた目礼した。


 ***


「月夜草か。結構だ、中庭に植えてあるから好きなだけ持っていくといい。部屋も用意しよう、泊まっていっておくれ」
 グラーシア学園の生徒と名乗ると、伯爵は一層嬉しそうに笑った。セシルス・オヴェンステーネ。聞けばこの人もグラーシア学園の卒業生なのだそうだ。
「助かります」
 スアローグが天啓を受けたように目を輝かせて礼を言うと、伯爵は穏やかに目を細めた。
「構わないよ。君たちは私の後輩にあたるのだから」
 骨と皮しかないと思えるくらいに細い人だが、話してみると雰囲気は学者然としていて、申し分ない知性と品の良さを感じさせる。それは分かるのだけれど――。
「つまらない家だが、ゆっくりしていって欲しい。マーリア、案内を頼むよ」
「――伯爵はいかがされますか」
「研究室に戻らせてもらうよ。夕食には出るから、用意を頼んでもいいかな」
「かしこまりました」
 なんだろう。会話になんとなく違和感がある。マーリアが、まるで召使みたいだ。
 だがマーリアは口元に微笑すら浮かべていて、内容を抜きにすれば恋人同士みたいに心が通じている感じがする。
「丁度、研究の佳境でね。申し訳ないが、今は失礼するよ」
 伯爵は俺たちにそう言うと、先に屋敷内へと入っていった。体が軽いのか、足音もしない。
 屋敷の外装は塀と同じく古めかしい作りではあるが、手入れはあまりされていないのか、ところどころツタがへばりつき、庭も草が伸び放題だ。この二人以外に使用人などはいないのだろうか。
「伯爵って、何の研究してるんだい?」
 細い影が消えていった方を見たままスアローグが問う。
「美しさの研究ですわ」
 マーリアはぽつりと返した。
 ……。
「美しさ?」
 聞き返したのは俺とセライム、ほぼ同時だ。訊いた本人のスアローグは、逆に納得したように頷いた。
「何をもって美しいとするか、それを科学で解き明かそうって研究だよ。珍しいことではないね、十分な需要もあるし、有効な題材だ」
「――伯爵は、ご自分の研究を外に持ち出すことはございませんが」
 マーリアが静かに付け足す。
 美しさの研究――まあ、確かに美しさを定義化できるとしたら、方々の企業が色めき立つか。美を求める者は、星の数ほどいるだろう。特に、血に濡れた11年より先、大きな動乱もなく表向き平穏が続いている豊かなこの国では。
 科学者っていうと、実験室に引きこもってフラスコを振っているだけの印象があったが、中々どうして現実は違うらしい。
「それでは案内をさせて頂きますわ」
 癖やほつれなどまるで見当たらない髪に陽光を一杯に吸い込ませ、マーリアは屋敷の中に俺たちを促した。
「ここには――ええと、マーリアさん、と伯爵しかいないのか?」
「マーリアでよろしくてよ」
 微かに振り向いて言い添える。
「屋敷内には私と伯爵だけですわ。広い建物ですが、使用しているのはほんの僅か、奥の方の部屋のみです」
「――おわ」
 マーリアの説明を聞きながら屋敷内に入ると、吹き抜けになった巨大なホールが俺たちを出迎えた。
 学園の大講堂と同じ高さはあろう霞むような天井には、びっしりと宗教画のような絵画が刻まれている。床は真紅の絨毯が敷き詰められ、ホールの向こうには二本の階段が対をなすように曲線を描いて奥へと続いている。――まさに、絵本の中か、数百年前の世界だ。100名も人を呼んでダンスパーティーを開いていた貴族たちの生活を思わせる。
 けれど今はホールは無人で、代わりに漆黒の装いをした人形のような少女が、圧倒される俺たちを表情も浮かべずに眺めている。立ち止まっていた俺は、ふとそんなマーリアと目があった。
「――」
 マーリアは何を考えているのか分からない顔で、こちらを若草色の瞳に映す。微かに、その瞳の奥にすがるような色があったのは――気のせいだろうか。
 ふいっと背の低い少女は踵を返して進んでいった。
「とんでもないお屋敷ね」
「伯爵のお父様は貿易商で財を成した方でいらっしゃいました。お父様が亡くなられた後、唯一のご子息であった伯爵は全ての商売の権利を他の方に譲り、遺産を資金にこちらで研究者として暮らす道を選ぶことにしたのですわ。こちらが別荘の中で最もグラーシアに近く、研究を行うのに最適な土地でしたから」
「マーリアは小さいのによく知ってるんだな」
 セライムの感心した物言いに、マーリアは振り返らずに呟く。
「――私は、ずっと伯爵と共にありましたから」
 手すりに金の装飾のついた階段を登ると、そこもちょっとした部屋が入るくらいの広さがあった。そして、その向こうの壁に自然と目がいく。
 奥へ続く二枚の扉に挟まれるように額縁に入って飾られた絵があった。否、絵画――ではない。人一人が入り込んでしまえそうな程の大きさのあるそれは、見る者を突然現代に引き戻す。
 写真だった。それも、とびきりの上等品で撮られたもの。それにしてもこの大きさには驚く。
 いや――更なる驚きが、その内容にあった。
「――?」
 再び俺たちは立ち止まり、写真の中の人物と、マーリアを見比べた。見比べずにはいられなかった。
 写真の中には一人の女性がいた。彼女が写真の主人公だ。幸せそうに、花畑の中で弾けるように笑っている。手には花束を持って。白い飾り気のないドレスをまとって。
 ――真っ直ぐに伸びた淡い亜麻色の髪を軽やかに散らし、それに包まれた整った顔立ちは陶磁器のようになめらかだ。そしてこちらを向いてきらきら光る若草の瞳を縁取る長いまつ毛。
 そこには、目の前の少女をそのまま成長させたような女性が、時を止めて飾られていたのだった。




Back