-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

38.出るらしいのよ



 それはとても冷たいところ。
 暗がりを恐れる者は、光を知っているからこそ。
 光を忘れた者にとって、暗がりは絶望でも終焉でもありえない。
 目の前に広がるものはひたすらに続く、身が心が朽ちて果てるまで続く回廊だ。
 だから、悲しくなかった。苦しくもなかった。
 そのはずだった。

 けれど全てはゆるやかに狂っていった。
 身が心が朽ちて果てる筈が、そうではなかった。
 同じではいられなかった。
 望んだのは、永遠に変わらぬ楽園で。けれど同じ場所を歩いている筈なのに、壊れていく、壊れていく。
 壊れてしまった何かの残骸を拾い上げて、花びらを散らす。
 暗がりの中では、何も見えない。
 助けて、と叫んでも、きっとそれは闇に吸い込まれてしまう。

 世界を犯して入り込んだ黒い液体に、糸は染まってちぎれて落ちて。
 目を開けていても、閉じていても同じこと。
「愛している」
 冴え冴えとふりかかる、あれは声。
 壊れた残骸。散った花びら。また一つ、錆びていく。
 ああ。眠たくなってきた。
「――愛している」
 誰にも届くことなく全ては予定調和に帰着する。
 幾度とない繰り返し。

「愛しているよ。マーリア」
 そうして私はまた、眠りにつくのだ。

 ――私はまた、死んでいくのだ。


 ***


 俺は泣いていた。
 ぼろぼろ涙を零していた。
 オイルでも漏れたかってくらいの落涙だった。
「――俺、これから一ヶ月おきに襲われることにする」
「バカ言うんじゃないわよ」
 聖なる学び舎グラーシア学園、食堂――。
 俺が退院した日は丁度試験休みに突入する前日。午後になって食堂に呼ばれた俺を出迎えてくれたのは、スペシャルデラックス特盛りプリンパフェ(要予約)であった。セライムにキルナにチノ、そしてスアローグといういつもの面子が俺の退院祝いに用意してくれていたのだ。
 というわけで、バケツサイズのプリンを核としてそびえ立つパフェを前に、俺はスプーンを握り締め感動に打ち震えていた次第である。これ、食べたかったのだけれどちょっとお高くて手が出せなかったのだ。
「……病み上がりでそんなもの食べて大丈夫かい? 気分を悪くしても面倒は見ないよ」
「それはない」
 隣に座るスアローグに断言し、攻略を開始する。とにかく病院では医者の目があってあまり甘味を食べられなかったので、もう禁断症状が出かけなのである。
 味は最高だった。友情、万歳。生きてて良かった。
 スアローグはそんな俺を呆れた目で見やって、鞄から何冊かノートを出した。
「あとこれ。休んでたときの授業ノート」
「愛してるぜ友よーっ!」
「きっ気色悪いこと言うのはよしたまえ!」
 巨大パフェを食らってテンション最高潮の俺に、スアローグが椅子ごと五歩くらい離れてくれる。
「あははっ、すっかり元気だねぇ」
「いや、まだ栄養足りてないんだ。というわけでお前のイチゴパフェもくれ」
「やーだ」
 通常サイズのイチゴパフェをぱくついているチノはべーっと舌をだして、逆に斜め前の席からさっとスプーンを突き出しプリンの欠片を奪っていく――ってクリームの多いところを!
「俺のパフェー!?」
「一口くらいいーでしょー!」
「目には目をパフェにはパフェを要求する!」
「やーだ!」
 仕返しにこっちも手を伸ばすがさっとよけられる。がるるるる、と俺たちは睨みあい、
「食事中に暴れないの!」
「――すいません」
 キルナの目がマジだったので、すごすごと引き下がった。チノは得意げにプリンを味わっている――うう、悔しい。
「もう、あんたたちは何歳なのよ……」
 こめかみを押さえながら紅茶を呑むキルナの横で、セライムもくすくす笑っている。
 ――日常だ。
 陽だまりの中にある幸福な日常に、俺は帰ってきたんだ。こうしていると、じんわりとそんな実感が染みてくる。
 ちなみに誰も俺が遭った事件については聞いてこない。聞けないのだろう、場の雰囲気が明るければ明るいほどに。深みまで足を踏み入れることは、この空間を壊すことにも値するのだから。
 誰もが――俺ですらが願うのは、楽しく変わらない日常で。それを壊す勇気など、持ち得ない。
 だから、今回のことはそっと心の隅に隠しておくべきなのだろうな、とちらっと考えた。
 違うのは、セライムくらいか。こいつは壊してまで踏み込んでくる。ちょっぴり勇気と無謀の差について考えて頂きたいくらいに。
「そうだ、ユラス」
「うん?」
 祝いの席もたけなわ。プリンパフェを無事完食し、シメの紅茶(砂糖は八個だ、勿論)をすする俺にスアローグが心なしか音量を控えるように声をかけてきた。
「今度の満月の晩に月夜草を採りにいかないかい?」
「月夜草?」
 薬草の一種であり、魔術用品にも多く用いられる月夜草は、その名の通り満月の晩に収穫しないと質が落ちてしまう植物だ。それは分かるんだけど。
「なんでまた」
「新しく入った研究室で課題がでてね。その一環で、月夜草の栽培をしたんだけど」
「え、何、どうしたのー?」
 チノが耳ざとく聞きつけて割り込んでくる。スアローグは一瞬嫌そうな顔をしたが、渋々説明する。と、キルナが顔を明るくさせた。
「満月の月夜草ってとても綺麗なのよね! 葉っぱがキラキラ光るのよ」
「ああ」
 俺も頷く。確か葉が魔力を宿してぼんやり発光するんだっけ。実物を見に行くのはおもしろいかもしれない。
「しかも花弁の方は干せば香水の原料になるし――でもスアローグ、何処に植えたのよ」
 問われてスアローグは一度、詰まった。そうして非常に言いにくそうに、視線をあちこちに投げながら口をもたげる。
「南の林中、学園管轄の薬草畑だよ」
 都市の外だが、そう遠くないところである。キルナとチノはそれを聞くと同時にニヤリと笑って顔を見合わせた。
「ふーん、だからユラス連れてくのね」
「うっ」
 顔を引きつらせて身を引くスアローグ。どういうことだろう。意味の分からない俺とセライムが首を傾げると、キルナは突然声のトーンを落として語り始めた。
「最近ね、噂になってるのよ」
「う、噂?」
 話の続きはチノが同じ声で引き継いだ。
「むかーしむかし。血に濡れた11年の時代、革命の嵐で貴族たちが処刑される中、ある貴族の一家がこの辺りに逃げてきたんだけどね。結局見つかって、一家ごと殺されちゃったの」
「でもそこには幼い娘がいてね、その子だけが最後まで逃げたのよ。でも逃げる途中、腕を無くして血まみれになって、最後は川に落ちてしまいました」
 隣にいるスアローグの顔色がおもしろいくらいに青くなっていく。
「可哀想な話だな。その子は助かったんだろうか」
「出るらしいのよ」
「ん?」
 きょとんとするセライムに、キルナは顎を引いて禍々しく目を輝かせた。
「薬学専攻の子たちの噂でねぇ、真っ黒な服を着たその女の子が、自分の腕を捜して林の中をふらふらと――」
「や、やめたまえーっ!」
 ばん、と机を叩いてスアローグが立ち上がった。若干白目だ。
「ああ。つまり幽霊が出ると」
「いない! その論理は飛躍している、矛盾だらけだ! 今をいつだと思っているんだいミラース暦1588年だこのご時世にそんな」
「ゴブゴブ」
 隣にいるからって首を絞めないで頂きたい。
 スアローグは我に返ったのか俺を解放してはくれたが、そのままがくりと椅子にもたれかかった。つまり、満月の晩一人で林の中に行くのは怖いから、一緒に来てくれってことか。
 確かに何もでないとしても、深夜一人で暗い林道の中にある畑に薬草を摘みにいくなんて、ちょっとやりたくないよな。それに、幻想的な光を灯す収穫直前の月夜草というのも興味があるし――。
「分かった」
 俺の台詞ではなかった。俺が何かを言う前に、キルナの隣にいたセライムが口を開いたのだ。
 突然の発言に全員の注目を集めたセライムは、これぞ名案とばかりに目を輝かせて――続けた。

「皆で行けばいいじゃないか!」


 ***


 こいつ大物だよなあ、と感慨深いものを胸に、俺は波打つ金髪の後姿を追っていた。学術都市グラーシアの南に広がる林中である。吹き抜けるすがすがしい風は、温度のない林の中で更に冷えるのだろうか。首筋をくすぐる冷気に、俺は上着の襟元を閉めた。すっかり秋の陽気だ。
 グラーシア学園の秋の試験休み中、特に高等院の生徒は保護者の認印と共に学園に届けをだせば都市外への宿泊を含めた外出も認められる。その機会に友人同士で旅行を企画する生徒も少なくない。そんな中、こいつ――セライムは、月夜草狩りを目的としたピクニック計画を立てたのだ。
 何故かキルナが協力的だったことも手伝って、計画はとんとん拍子で実行に移された。といっても俺とスアローグは脇でおろおろしていただけなのだが。
 行くことになったのは俺とセライム、スアローグにキルナだ。チノは休み期間も研究室でやることがあるらしく、ぶつくさ言いながら結局留守番になった。
 そんなわけで、日中の明るい時間から四人で林の中を歩いている次第である。
「この辺も開発されてるもんだよねぇ」
 スアローグがしみじみ言う通り、この辺りの道はしっかりと人の足で踏み固められ、道を外れないように脇にロープが張ってある。
「この辺は富裕層の別荘とかもあるし、整備が行き届いてるんでしょ」
「そうなのか?」
 楽しげに先陣をきっていたセライムが振り返る。腰まである長い髪は、左耳の後ろに赤いバレッタで一つに留められ、鮮やかな渦を巻いていた。キルナに結ってもらったんだろう。当のキルナは得意げにぴんと指を立てた。
「グラーシアは静かな都市でしょう? しかも機関車が通ってて来やすいし、この辺りは別荘地として人気なのよ。ちょっと奥に行くと立派な家がごろごろ建ってるわよ」
「魔物もいないしなぁ」
「ユラス、君ね。魔物なんていつの時代の話だい」
 斜め後ろからスアローグのため息が聞こえた。
 魔物。それは100年以上前にこの大陸に溢れていた巨大生物である。種類も多数あり、一般の動物とは人を襲うか襲わないかで区別された。
 そんなものがいた頃は、魔物討伐を生業にする剣士や魔法使いというカッコいい職もあり、貴族政権時代のギルドでは数多の魔物たちに賞金がかけられていたらしい。
 ――が、今はそんな職はない。魔物の数は血に濡れた11年以降、つまり貴族政権の失墜より後、減少の一途を辿ったのだ。
 何故か。
 繁殖も追いつかないくらいの勢いで狩られたのである――学者たちによって。
 まずウッドカーツ家滅亡により、元より人口を必要以上に増やさない為、また貴族に守られているという意識を民に持たせる為、魔物の数をコントロールし必要分だけギルドに処分させていた貴族が消え、事実上魔物狩りへの規制が消滅した。そのことに最も色めきたったのは、それまで貴族により監視され虐げられていた知識層、特に学者だった。
 魔物は強い免疫力と強靭な体力を持つ為、特に生物実験などの研究には欠かせなかったのだ。
 自由になった学者たちは、ある者は人を雇い、またある者は自ら屈強の戦士も真っ青な感じで森に殺到した。
『やめてください教授! 危険です!』
『うるさいっ、魔物が怖くて研究が出来るかー!!』
 みたいな感じで、特にフローリエム大陸のほぼ全ての魔物は狩り尽くされた。ちなみにこうやって魔物捕獲をやり続けていたら気がつけば学者でなく戦士として大陸に名を馳せてしまったなんていう、本人にとっては大変不本意であろう著名人もいる。
 そんなわけで今では『絶滅寸前の魔物の生息区域を守る』なんて集会まで開催されてるくらいだ。魔物も絶滅の危機の中で種の保存の為か、人を襲うこともなくなり森の深くにひっそりと住むようになった。今の時代、魔物に襲われましたなんてことがあったら大陸中の新聞一面掲載ってくらいの大事件だ。
「時代の流れだよなぁ」
 なんだかしみじみしてしまうのは俺だけだろうか。
「何老人みたいなこと言ってるのよ」
 キルナから冷たい一瞥をくらって、ちょっぴりいじけた。

 本来月夜草は夜に収穫するのだからこんな昼間から行く必要はないのだが、セライムの計画によると一度畑に行ってから荷物を降ろして周辺を散策し、畑で一晩を明かすことになっているそうだ。元より学園管轄の畑であるので、程なくして俺たちは到着することが出来た。
「へぇ」
 そこは林の中で少し開けた場所になっていて、網状の柵に囲まれており、グラーシアの青い花の紋章と古びた札がかかっている。スアローグの口ぶりからこじんまりしたものを予想していたのだが、実際は豪邸が一つ建ちそうなくらいの広さがあった。今はあまり使われていないのか、土がむき出しになっていたり雑草が生えている箇所が目立つが、ところどころに見たこともないような植物が生えている。
「本当は学園にも畑や温室があって、有名な研究室はそういうとこ使ってるんだけどさ、学生個人の研究だとこんな場所しか借りられなくてね」
 面倒くさい、と苦虫を噛み潰したような顔でスアローグがぼやくと、キルナも腕を組んで頷いた。
「そうね、ここだったら本当に夜、何かでそうだし」
「非科学的なことを言わないでくれたまえよ」
 一瞬たりともキルナと目を合わせずにスアローグは歩き出す。考えないようにしたいらしい。
 しかし――本当に何か出そうな感じではある。古い農園なのか、金属製の柵も錆びて雰囲気ばっちりだし、周囲は高い背の木々に囲まれているし――。
「スアローグ、どうかしたのか?」
 セライムがそう言うのに、俺も顔をあげた。スアローグは――畑のあるところで、こちらに背を向け動かない。
「どうした、本当に幽霊でもでたか」
 笑いながら近付いていっても、微動だにしない。
 ――不意に、がくりとスアローグの頭が前に垂れた。
「なんてこったい」
 うめくように片手で顔を覆う。
 何かおかしいな、と思った時には、次の言葉は空しく広い畑に落ちていた。
「――枯れてる」
 ……。
「――え」
 三人の声が、見事にハモる。流石に嫌な汗が噴出すのを感じながらスアローグの隣に立つと、目の前で腰の辺りまであるしなびた茶色い植物が無残な姿を晒していた。
「おお、マジだ」
 葉も全部しおれて乾いているし、これはちょっと再起不能っぽい。
「って、なんでよ!?」
 キルナの非難を含んだ物言いに、スアローグはますますうなだれた。
「うん、……ちょっと水が足らなかったかも」
「なぁ、スアローグ」
「なんだい」
「もしかしてお前、幽霊が怖くて水やりに来なかったのか?」
 ……。
 気まずい沈黙。
 スアローグのこめかみを、汗がだらりと流れる。
「……」
「……」
「……」
 俺とキルナ、セライムの三人三様の視線を受け、スアローグの足が一歩下がった。
「だ、だってちょっとくらい大丈夫かなって思――」
 弁解の舌が、途中で止まる。別にキルナが殴りかかったわけではない。なのにスアローグは、まるで全ての動きを氷結させたかのごとく停止し――。
「どうしたのよ」
「――ぁ、ぅ」
 言語器官が焼き切れてるのか、ひどく途切れ途切れの音をだしながら、俺たちを指差した。いや、違う。俺たちの、後ろ――?
 俺は、背後を振り向いた。人の背ほどある柵までは開けていて、向こうには相変わらず林が広がっている。
 相変わらず――林が――。
「……」
 俺の言語器官も、見事に焼き切れた。
「ひっ」
 背後で、キルナの息を呑む音。
 セライムがどうしているか分からないが――気の遠くなるような一瞬の間、俺たちは動けなかった。
 林の中に、小さな人影。
 縫いとめられたように動けない俺たちを眺める二つの目。
 そちらに引き寄せられた視界が、人影の容姿を映し出す。
 そこにはぼんやりと、輪郭を曖昧にさせた年端もいかぬ黒服の少女が、こちらを見つめていたのであった。




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