-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

37.計算違い



 暖かい。冷たい。
 世界を行き来する。
 光。闇。
 浮き沈みする。
 幾度となく不安定な場所をさまよって、もしかするとこのまま永遠に抜け出せないのかと考えた。

 思考が生まれたのはいつのことだろう。
 人は考える。生きる為に何をするのか。
 いや、それはその辺の動物と同じことだ。食らい、眠り、子孫を残すという。
 人が違うのは、時に思考が純粋な生への欲望以外に用いられることだ。
 何故生きるのか。
 何故生きているのか。
 何故生きねばならないのか。
 漠然とした問いだ。
 そして、生きていくには必要のない問い。
 そんなもので、世界は溢れている。
 言葉の存在がそれの増殖に拍車をかけ、数多の論理で一つの問いが埋め尽くされる。
 複雑化した多岐に渡る言葉たち。全て、考える力なしには成り立たなかったものたち。
 では、思考がなかったのなら。
 もしもそうだったら、誰もが、どんな存在もが、幸福に生きていけたんだろうか――。

 無駄なことだ。
 心臓の音がする。
 残念ながら、この音が止まない限り、思考は勝手に回る。ぐるぐる回る。
 泣いても吐いても絶望しても。
 しかし、生きている限り考え続けなければならないなら。
 死ぬその瞬間まで、思考を止めることが許されないのなら。
 思考の終点となる答えなんか、どこにもないんじゃないかと、たゆたいながら考えていた。

 目を開く。外からの音が聞こえたからだ。何か、言っている。
「――聞こえるかー? 自分の名前、言ってみろー」
 呪文のような、ゆっくりとした妙に大きな声。顔の近くで喋られているのかもしれない。
 名前。名前か。覚えている。
「――……ユラス、アティ……ル、ド」
「歳いくつだー?」
「――じゅう、ろく」
 喋るのが酷く億劫だ。けれど、外界はそれで満足したようだった。
「よし、異常ねーな。ここはグラーシア国立病院、てめぇ怪我人、俺は医者。質問あるかー」
 ぶれた映像は歪んでずれて、そうして元ある形を取り戻す。
 赤茶色のあちこちに跳ねた髪。白い服、中年の男。目を覚ました意識が、人として捉えるべきものを捉えていく。
 体は動かない。痺れと鈍痛と気だるさ、体中にまとわりつく異物。その意味するところは――。
「――生き、てる?」
「生きてるぞー。脈拍・血圧異常なし、栄養あるもんとってりゃ元気になる。安心しとけ」
 口の中がからからに干からびている。胃の中が空っぽだ。――甘いもの。甘いものが食べたい。頭がくらくらする。
 男はまた何かを言っている。名乗ったらしい。そして、聞いたことのある名前も聞こえた。
「てめぇのバカ保護者ももうすぐ来るからな。あと、オトモダチも来てるぜ。セライムとかいう可愛子ちゃんもな。この野郎、青春しやがって」
 ――セライム。
 とろけて流れたような、腰まで波打つ金髪。深い、呑まれるような青の双眸。
 ああ、あいつか。
 話がしたかった。何の話でもいい。他の奴らとも。
 かちり、と頭の中でずれていたものが、一つはまった感覚。じんわりと、その異物は頭の中で熱を放っていた。
「動くんじゃねーよ。魔術治療で見た目の傷塞いでるだけだかんな。まぁ、すぐに起き上がれるようになるぜ」
「――失礼します」
 重なる声。別の気配。
「ユラス君!」
 早足に、こちらに近付いてくる。するりと赤茶の髪の男の顔が消えて、知った顔にとってかわる。
「――ぁ」
 俺は、笑った。
「――レィ、先せ」
 かすかに目を細めて口を引きつらせただけのそれは、笑みには見えなかったかもしれない。けれど、よく見知った淡い水色の髪の人――フェレイ先生は、あまり知らない表情をしていた。泣きそう、って言うのかもしれない。心配させてしまったようだ。先生にはいつも迷惑をかけてばかりだ。反省しないと。
 そんなことを考える。すると、また気配が現れた。
 医者の人が立ち上がって、何か言った。ちらちらと単語が聞こえる。任意、聴取、同伴――。
 すると、知らない人が二人、俺の横に立つ。
「警視院本部――」
 それはよく分からない単語の羅列だったが、ようやく俺もだんだんと理解してきた。俺が何故今ここにいるのか、そして、これからどうなるのか。
「――話してくれるね?」
 ああ、俺は。
「はい」
 俺は、再び目を覚ましたのだ。
 俺が被害者となった、傷害事件の事情聴取が始まった。


 ***


 妙に冷静でいられたのは、自分に降りかかったことを忘れていたからじゃなかった。だから、言われれば全て思い出せたし、それで理性を欠くこともなかった。
 俺が経験したこと全てを、俺は重たい口を動かして語った。灰色の子供のこと。林の中のこと。何もかも――けれどそれはどこか夢の中の様子を語っているような頼りないものに思えた。
 どうしてだろう――。今思えば、全てのことが幻だったようにすら思える。
 夢で見たことと現実で起こったことが交じり合っているような、奇妙な記憶。
 そんな感じに語ったからだろう。俺が話し終えた時、警視院の人たちは奇異の視線をこちらに向けていたし、医者の人に至っては絶句。フェレイ先生だけが、心配そうにしていた。
「ええと」
 警視院の若い男の人は、整えられた茶髪をがしがしとかいて、持っていたファイルに目を落とした。
「では何故、君はその――灰色の髪の子についていったんだい?」
「……ついていかないと、って思ったんです」
 自分でも、意味不明だと思った。でも確かにその時はそう思ったのだ。
「その子と本当に面識がないんだね」
「はい」
 医者の人の口が、微かに動いた。――精神科行きじゃねぇのか、と言っている気がした。俺も正直そう思う。
「――あの」
 口を開いたのはフェレイ先生だった。
「このようなことは考えられませんか。――精神術を行使された、とは」
「精神術?」
 聞き返す警視院の男に、答えたのは医者の方だ。
「医療魔術の一つで、相手の心に干渉する術だよ。昔は犯罪者や精神病患者に用いられたが、失敗が多いわ人道的じゃないわで今は法律で行使が禁じられてる。だがよ、こりゃ魔力値450以上必須の超高等魔術だぜ。その子供が護符持ってたとしてもありえねーよ」
「護符を持っていることからしてまずありえません」
 医者の物言いにむっとしたように警視院の男が言い返す。魔術規制の結界を一時的に解除する護符管理は警視院の管轄なのだ。
「――とにかく、学園長先生。学園内に灰色の髪の子供はいないんですね?」
「ええ、私が知る限りでは。念の為調べて頂いても構いません」
「感謝します」
 警視院の男はそう言ったものの、苛立ったように再び髪をかき回した。どう報告書書きゃいいんだ、と顔が雄弁に語っている。まず灰色の髪の子供という存在からして疑わしいし、そんなものに襲われたと言っている俺の頭が一番疑わしいのだろう。でも襲われたのは襲われたのだし、どう弁明したらいいんだろう。
「あの」
 俺は、一つ疑問に思っていたことを掠れた声でどうにか押し出した。
「なんで俺、発見されたんですか」
「ああ」
 完全に俺を頭のおかしい奴と思い込んでいるらしい、警視院の男は胡散臭そうにこちらを見ながら教えてくれた。
「君、鳥を飼っているそうだね。紫の鳥。そいつが、あの金髪の女の子を現場まで連れていってくれたそうだ。主人の危機を察知したんじゃないのか」
 ――セト。
「はぁ?」
 俺がその名を口の中で呟いたのと、医者が素っ頓狂な声をあげたのは同時だった。
「ねぇよ」
 医者はひきつった顔で手をはらはら振る。
「犬でもあるまいし鳥がそんな知能あるわきゃねぇ。鳥頭って言葉知らねーのかよ」
 バカにされたと思ったのか、警視院の男の顔がぱっと赤らんだ。だが何かを言う前に医者はそれより、と俺にきつい視線をくれた。
「おい、その鳥、紫って――どんな紫だ」
 何故か顔が青ざめている。
「……俺と同じような紫です」
 頭にも包帯が巻かれているのだろうが、見えないこともないだろう。すると、医者は悪いものでも食べたような顔で言葉を詰まらせ、首を振った。
「冗談じゃねぇ。ねぇよ、そりゃありえねぇ」
 警視院の男も、俺も、きょとんとする。
 フェレイ先生は――前を見ていた。真っ直ぐ、前を。
 医者は悪夢でも語るように、続けた。

「いいか、紫の鳥は絶滅してる。もう、とっくの昔に」
 俺は、ゆるゆると目を見開いた。


 ***


 次の日には人に手伝ってもらいながら起き上がれるようになり、俺は個室から共同部屋に移された。体はろくに動かせないものの、知り合いが何人も来てくれたから気も紛れた。
 セライムは俺を見た瞬間、泣きながらすがりついてきた。いや、襲い掛かってきた。――全治が三日ほど伸びた。
 キルナとチノは、セライムを泣かせたと言わんばかりに険悪な視線を送ってくれた。――理不尽な上に怖かった。
 スアローグは、キルナとチノに半ば引っ張られる形でやってきた。俺が全身見るも無残、と聞いて見に行くのが怖くて病院の前をうろついていたところを発見されたらしい。見たら見たで、俺が笑顔で見舞い品を要求したので、「僕の心配を返したまえぇぇ」とか言いながらその場にへたり込んだ。――おもしろかった。
 鷹目堂の主人、ハーヴェイさんも来た。――逆に心臓止まるかと思った。平謝りした。とにかく謝った。命だけは、と懇願した。一緒に来たティティルが「兄ちゃん、大丈夫? 頭打った?」と聞いてくるくらいに謝った。ズモモモモ、と得体の知れないオーラを放つハーヴェイさんは、怯える俺に「さっさと治して戻って来い」と残して去っていった。ちょっとかっこよかった。クビは免れたみたいだ、でも早く治さないと殺されるかも。
 他にも、沢山の知り合いが来てくれた。フェレイ先生も、ほんの少ししかいられなくとも毎日顔をだしてくれた。
 沢山の人が、俺を現実の世界に連れ戻してくれる。
 目覚めたとき、ぼんやりとしていた世界が、今ははっきりと見えるようになってきた。
「――感謝、しなきゃだな」
 午後。
 一番奥の俺のベッドからは窓が見える。切り取られた外の世界は,まばゆい光に包まれているようだった。綺麗だ。隣で寝てるおいちゃんのイビキと寝言がなければ、最高だった。
 ベッドの隣に置かれた鏡をなんとなく手にとって、自分の顔を映す。まだベッドからは降りられないが、もう頭の包帯はとれていた。頬には白い布がまだ貼り付いているけれど。
「髪、切った方がいいな」
 紫の髪の一束を指でつまむ。正面から見ると、前髪が斜めにスパーンと切れていた。流行の五歩くらい先をいってる感じだ。他にも焦げたのか、ところどころ伸びたい放題だった髪が不可思議な具合になっている。
「変な色」
 鏡に映る自分に向けて、呟いた。
 濃い紫。目を引く色だ。
 ――紫の鳥は絶滅してる。
 まるでそれは、俺に向けられた言葉のように思えた。そう、ありえない、という存在がそのまま俺を指したものとして聞こえていた。
「……絶滅種、ユラス・アティルド」
 ボケている場合ではない。しかも笑えない。
 けれど――どうしてだろう。いやに頭はすっきりとしていた。
 あんな恐ろしい目にあったというのに、今ではそれが夢のように思えて、そして前よりも世界が明るく見える。
 きっかけは、多分あの時、俺の中で何かが弾けた瞬間だろう。それは分かるのだけれど、でも何故だろうと思うと答えは出てこない。この体に残されたのは、結果だけだ。今の俺という、この結果。
 けれど――髪に指を差し込む。
 ここに、俺がいる。そんな当たり前のことが、どうしてか明確に分かる気がして、嬉しかった。
 心の空白に、何かが満ちたような充足。
 ……。
 ――ん、ちょっと待て。
 これって言い換えると――。
 年下の少年に散々いたぶられて、満足しちゃってる俺様。
「やばい」
 大丈夫か、俺。
 急に頭を抱えたくなる。窓から身を投げてしまいたい。
「天にまします我らが主よ――」
「ユラス、大丈夫か」
 スアローグよろしく祈りの文句を口走った途端、声をかけられた。
「……セライム。俺はもう駄目だ」
「ん、ど、どうした! 大丈夫か? 安心しろ、今医者を呼んで――」
 すごい勢いで勘違いしてくれる。
「――や、いつの前にいたんだ?」
「えっ? 今しがたのことだ。どうした、どこか痛いのか」
「……哲学的な理由で死にたいと思った」
「なんだそれは」
 素のまま端整な顔を不審げに曇らせてくれる。――セライムは、いつでもセライムだった。
「今日は一人なのか?」
「ああ。キルナとチノは学園祭準備で手が離せなくてな。よろしくと言っていた」
 セライムは脇の椅子に腰掛けて、肩にかかる金髪をはらう。
 そう、この分だと俺の退院は学園祭に間に合いそうにない。学園が一番賑わう三日間は空しく高見の見物で終わってしまうだろう。
 だが、そんな切ないモードに浸る前に、俺はセライムの持っている淡いオレンジの箱に全意識を注いでいた。
「――セライム、その箱は」
「ああ」
 セライムはにこりと笑って箱を開けてくれた。
「ディヴェールのプリンだ」
 白目を剥く。
「せ、セライム」
「うん? ――あ、すまない、プリンは苦手だっ」
「俺は今、お前が生きていることに感謝する!!」
 ディヴェールのプリン。
 菓子屋ディヴェールのプリンと仰る。
 あの、なめらかで濃厚な味わいがいろんなことをどうでもよく思わせてくれる麻薬のような、あのプリンと!
「よく分からないが、食べるか?」
「食べる」
 即答する。生きてるって素晴らしい。
「なんだか、妙に元気だな」
「そうか?」
 ありがたくプリンとスプーンを貰って封を開ける。ミルクがたっぷりと入った、優しいカスタード色のお目見えだ。最初はそのものの味を楽しみ、その後奥まで掘っていき底から顔を覗かせるほろ苦いカラメルを絡めて頂くという、一つで二度おいしい一品だ。
「……結局、まだ犯人は見つかってないみたいだな」
「ん、ああ」
 空になった箱を脇に置いて、セライムは膝の上できゅっと拳を握る。俺は生返事をしながらプリンのおいしさに感動していた。やばい。口元がにやける。
「……なあ、ユラス」
「うん?」
「お前、本当にその、犯人に心当たりはないのか」
「んん」
 プリンを口いっぱいに含んで顔をとろけさせる俺と、それを真剣に見つめるセライム。
 なんというシュールな図だ。
 セライムの頭が、がくりと前に落ちた。
「お、お前な。私は真面目に聞いているんだ。また同じ目にあったら」
「またあったら、殴る」
 ぽそりと呟いた言葉に、セライムは顔をあげた。
「とりあえず、殴る。ムカついたし、あんな理不尽にボコボコにされて」
 心の中に、ぞわりと湧き上がったもの。
 持ったことのなかった衝動。抑え込んでも膨れ上がったそれは、確かに今の俺の中にあった。
 そう、視界が明瞭になった分だけ、よく見える。
 己の感情、意思、――そう、自分が何を感じているのか。
 俺は――あいつが、嫌いだ。
 セライムはぽかんと口を半開きにしたまま、こちらを見ている。だから、苦笑してスプーンを振った。
「や、まあ手加減はする。なんか俺にも否があったっぽいし」
 どんな否があるのかは知らないけれど。
「……」
 セライムは、何度も瞳を瞬かせていた。唇が微かに動いた気がしたが、震えただけかもしれない。
「お前――いや」
 怪訝そうな表情を首を振って散らせたセライムは、ふいに真面目な顔つきになった。
「――心当たりがあるのか」
「うん?」
 逆にきょとんと首を傾げる俺に、セライムは身を乗り出してくる。
「お前に否があるって、やはり何か心当たりがあるのか?」
「――」
 詰まった。
 プリンの甘さに口の紐が緩んで、ちょっといけないことを口走ってしまったようだ。
 どうしよう。
 何か誤魔化す方法は、と俺はちらちらと周囲に目をやった。部屋に六つあるベッドは、四つが埋まっていたが、内二人は寝ているし他は今は姿がない。つまり、割となんでもできる状況だ。
 考えを巡らす。セライムをここで昏倒させ、夢の中の出来事だったことにする――いや、逆にこっちが昏倒させられるにきまってる。
 これは真実を言うしかないのか。でもこんなところで真実を語ったって、なんか嘘臭い――。

 それだ。

 俺の頭をひらめきが閃光となって駆け抜けた。
 想像してみる。
『実はな……俺、記憶喪失なんだ』
 なんと胡散臭いセリフか。他人に言われたら、まず冗談としか聞こえない。
 それにもっとこう、記憶喪失っていうのは暗くて重々しい雰囲気の人間がなるもんだ。いや、単なるイメージだけど。
 よし、これでいこう。笑いをとって誤魔化せば、こいつの場合なんとかなりそうだ。
 心の中で頷いて、俺は出来るだけ真面目な表情を作った。
「実はな――」
 いいにくそうに口を開くと、セライムは一言も聞き漏らすまいと厳しい顔をした。だから俺もなるべく人に聞こえないように、次の言葉を紡ぐ。
「俺、記憶喪失なんだ」
「――」
 セライムの全てが、固まった。瞬きはおろか、呼吸すら止まったようだった。
 言葉を失うって、こういうことなんだろうと考える。
 暫く、沈黙が落ちた。完全に思考が停止しているようだったので、こちらから仕掛けることにして、明るい声で――。
「――なーんて」
「本当か」
 耳朶を叩く、鋭い音色。気圧されて、思わず出しかけた言葉が喉の奥へ消えていく。
 セライムの目が、真剣なままだった。
「それは、本当か」
 ――信じちゃった。
 俺様、なんて計算違い。
 こいつ、もしかすると『実は余命も半年で……』とか言っても信じるんじゃないか。いや、そんな呑気に考えている場合じゃなくて。
「い、いや、冗だ」
「そうなのか!?」
 すごい剣幕で詰め寄られた。殺られる、と思った。元から顔立ちが整ってるだけあって、ド迫力だった。めちゃめちゃ怖かった。
 慌ててのけぞった為、まだ癒えていない背中が悲痛な叫びをあげる。
「――ぅ」
 深海を思わせる青に射止められて、吸い込まれた。嘘や誤魔化しを許さぬ、真っ直ぐこちらを貫く瞳。
「そうなのか」
 ――思わず、カクカクと頷いてしまった。誘導尋問ってこんな感じか、とあらぬことを考える。
 頷いてしまってから、はっと息を呑んだ。セライムも、身を引いていた。
「……」
「……」
 今度は、互いに固まる。
「い、いや、あの」
 わなわなと手を震えさせる俺に、突然次の言葉は振ってきた。
「――すまなかった」
「はい?」
 思わず敬語で聞き返す。見ればセライムもぶるぶると震えていた。
「すまなかった! その、お前の気持ちを考えずに立ち入ったことを聞いてしまって」
「あ――いや」
「今後、気をつけた方が良いことはあるか? 何でも言ってくれ、力になる!」
「ええ――その」
 また詰め寄られる。こいつだけは、絶対に刑事にしちゃいけない。確実に誤認逮捕の嵐だ。
「ま、まずは落ち着いてくれ」
 痛切な願望を口にすると、セライムは肩で呼吸をしながら浮かしていた腰を元に戻してくれた。
 ――さて、どうしたものか。食べかけのプリンに目を落とす。
 ふうと息をつくと、どっと疲れが押し寄せてきて、なんだかどうでも良くなってきた。無理に誤魔化し続けるのも、ちょっと限界かもしれない。
 こいつだったら、知られても構わないか。更にこいつの場合、うっかり他の連中にも漏らしそうだけれど。――それも、その時か。
 とりあえず、プリンを一口。甘いものが口の中でとろけていくのを感じながら、俺は決心した。
「そうだな。今までと変わりなくしててくれ」
 そう笑うと、セライムは小さく口をもたげた。
「そうか――その、いつから記憶がないんだ?」
 じんわりと心に染む問い。けれど、突き刺さるものではなかった。言葉には、こちらを気遣う想いが込められていたからかもしれない。
「生まれてからこの学園に入るまで、全部ない」
 セライムの瞳が揺れた。俺の気持ちでも想像したのだろうか。
「でも、大丈夫だ」
 だから、笑った。
 この体はひどくいびつで、あの子供が言っていたように、本来俺はあってはならない存在なのかもしれないけれど、それでも、俺は流されながらでも、――生きているのだから。
「大丈夫だ」
 あらゆる想いは言葉にならず、俺はそれだけを繰り返した。俺の中に芽生えたものに気付きながら、それが何であるかは分からずに。
 けれど、今の俺は満ちている。そう思うだけで十分だ。
「そういや、セライム」
「なんだ?」
 未だ不安げなセライムに、この期に乗じてと問う。
「お前、俺がここに来る前に俺に会ったりしてないよな?」
 返答はすぐにあった。
「ああ。お前に初めて会ったのはフェレイ先生の家だ。それがどうかしたのか?」
「――そうか」
 すんなりと答えは胸に落ちて、俺は納得する。こいつは嘘はつかない奴だ。こいつが言うなら、そうなのだろう。
「私がどうかしたのか?」
「いや、早く元気になって復帰しないとな」
 今度こそ俺はうまく誤魔化した。ああ――とセライムも不思議そうに返事をして、何度か一人で頷き、そうだな、と呟いた。逡巡が終わったらしい、その顔は笑顔で溢れていた。
「よし、じゃあ食べろ! 沢山食べないと元気になれない!」
 神速で俺の両手からプリンとスプーンが消える。あれ、と思ったときにはセライムの手でプリンの乗ったスプーンが俺の口の中に突っ込まれていた。
「ムグ!?」
 女子に食べさせてもらえるという男子としてこの上ない素敵イベントの筈なんだが――、この色気のなさは、なんだ。しかしそんなことを考える前に次の一撃。ちょっと待て、まだ飲み込んでない!
「ゴホッ!」
 目にも留まらぬ速さで俺の口とプリンを往復するスプーンの鮮やかな動きに見とれる暇もなく、プリンはめでたく器官に入ってくれた。無論、スプーンというかセライムの手は止まることなく口内にプリンを詰め続ける。

 こうして危うく俺は、世界初のプリンで溺れ死んだ男として名をしらしめかけるのであった。




Back