-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

36.歪み



 学園長に一報が入ったのはまだ日没には早い時間で、国立病院に駆け込んだ時もまだ夕日が白亜のグラーシアを橙に染めていたのだが、気がつけば窓の景色は薄青から藍へ変わっていた。
「直接的な暴力じゃなく、魔術でやられたっぽいな。ああ、ほとんどの傷が見た目はやばいが大したことじゃねえ。だが――」
 医者が込み入った話をする時に使われる小部屋の安っぽい椅子に、医者の不養生という言葉がこれ以上なく当てはまる男はどっかりと腰掛ていた。反対側に背筋を伸ばして座る学園長の前でぼさぼさの髪をかきむしり、そのまま自分の頬を打つようにしてぱちん、と音をたてる。
「多分、こんな風に攻撃魔術をくらったんだな。それがやばかった。骨が折れなかったのは幸いだが、頭部出血でもう少し発見が遅かったらちょいと悲惨だったな」
 そう肩をすくめるのを見て、学園長は目を伏せた。
「一体、何があったんでしょうか」
「知らねーよ。突然金髪の嬢ちゃんが駆け込んできて、救急隊の出動だ。あの嬢ちゃん可愛かったなあ。あ、今はもう警視院で事情聴取中だぜ」
 学園長の瞳に浮かんだものをすぐ察知して、そう付け加える。人の表情を読むことに長けた男なのだ。思考を読まれて苦笑いを浮かべた学園長に、医者は人の悪い笑みで返した。
「てめぇの考えることなんてお見通しだぜ、学園長さん」
「そうですか。あなたもまだ煙草をやめてないみたいですね」
 顔色一つ変えずにさらっと言ってしまってから、学園長は少しやりすぎたかな、と考えた。どうしてもここに来ると、特にこの人物といると皮肉っぽさが伝染してしまう。感情の余裕のなさも一因としてあったのだが。
 無意識に人差し指と中指で架空の煙草をいじくる仕草をしていた医者は、うっと詰まって、チクショウと言わんばかりに頭をぼりぼりかいた。
「――吸っていい?」
「どうぞ」
 息を吐き出すように承諾すると、にやっと笑ってポケットからくしゃくしゃの箱を取り出し、そそくさと一本を口にくわえて火をつける。
「他の奴らにゃナイショなー。ここ禁煙なんだ」
 火をつけた後にそんなことを言うふてぶてしさは、昔から本当に変わらない。ふーっ、と目を閉じてうまそうに煙を吐き出すと、男は部屋の隅に目をやった。
「まあ、学内で有名な奴だから、集団リンチにでもあったんじゃねぇのか。今回はちと度が過ぎてたがよ、今まででも優等生がやられて病院行きって話はなくもない」
 所詮ガキだからよ、と結んで再び煙草をくわえる。学園長は答えなかった。じっと、逡巡するように膝の上で両手を重ねている。医者はそんな黙り込む学園長という珍しいものをまじまじと観察して、口を開いた。
「てめぇ」
「はい?」
 ぼそりと声をかけられて学園長が顔をあげる。医者はそんな様子をどう思ったのか、不健康そうな目を細めた。
「そりゃ自分の生徒がタコ殴りにされて心配なのは分かるけどよ、それにしちゃ顔色悪いぜ。どうせろくな生活してねぇんだろうが」
 ふっと学園長は、不思議そうに煙草を吸う医者を見つめる。この男が本心からそう言っているのか、それとも――自分が考えていたものを見抜いたのか、分からなかったからだ。
 けれど表情に浮かんだ疑念は尾を引くこともなく、代わりに彼は口元を緩ませる。
「あなたこそ、疲れた顔をしていますよ」
「るせー、医者は世に関わらず忙しいんだ、てめぇは笑ってればどーにかなる役職じゃねぇか」
「私も最初はそう思ってたんですがねぇ」
 とぼけたように言うと、忌々しげに舌打ちされた。
「てめぇのそういうとこ嫌味なんだよ直せよバカ。嫁さんいないからってよ、無茶すると早死にすんぜ」
 ガラが悪いとしか思えない物言いに、学園長は今度こそ笑った。――そう、次にやってきた声に、剣呑さが含まれていたとしても。
「定期健診もサボってるらしいじゃねぇか」
「ええ」
 肯定する。
 白い部屋。
 白い服。
 揺れるカーテン、同じ形の扉。
 切り取られた絵のような、窓の向こうの空。
 その、全てが。
「――やはり、ここは、戻ってくるべき場所ではないですから」
「……」
 医者は、そう語る男を感情が複雑に入り混じった顔で見やって、ふいと顔を背けた。その沈黙が、彼の言葉を語っていた。
 扉がノックされたのはそんな時だ。
 医者は素早く煙草の火を足で踏んずけて消すと、そのままゴミ箱へ放り投げた。煙草がゴミ箱の中に消えるのと、扉が開くのはほぼ同時だった。
 ただし、火消しに使われた床は若干黒くなっている。誰が掃除するのだろうか、少なくともこの男ではなさそうだ。そんなことをちらりと考えながら、学園長が振り向くと、白い服を着た看護師の女性がファイルを片手に扉の間から顔をだしていた。
「先生、あの男の子ですが、処置は全て終わりました。意識は戻りませんが、血圧、脈拍共に安定しています」
「おー、分かった。苦しむようだったらヒドルキシズとペニセーゼ点滴頼むな。夜の回診は予定通りだ」
「わかりました」
 金髪をすっきりまとめた若い看護師の女性は、最後にじろっと好意的でない視線を投げる。
「――で、何故この部屋は煙草臭いのですか?」
「俺の体臭だよ」
 いけしゃあしゃあとかわす医者に、看護師は更に鋭い一瞥を投げて出て行った。バタン、と荒々しく閉められた音に、医者の男は目を閉じて得意げに笑う。
 やれやれ、と学園長も少しだけ眉尻を下げて立ち上がった。
「面会はいつ出来ますか?」
「問題なけりゃ明日の朝ってとこか」
「わかりました。では何かありましたら連絡を。学園にいますので」
 とにかく、ここにいくらいても仕方ない。学園長は簡単に礼を言うと医者に背を向けた。――やはり、ここはあまり好きではなかった。いても得るものがないのなら、立ち去りたい。
 歩き出しかけた学園長の背中に、声が降りかかった。
「おい、タヌキ」
 足を止める。僅かに振り向くと、医者も立ち上がってポケットに手を突っ込み、こちらを医者らしからぬ様子で睨めつけていた。
「てめぇが何考えてるか知ったこっちゃねーし、あの坊主が何者かなんざ知りたくもねーよ。けどな、おかしいぜ。今のてめぇの目」
 僅かに瞳の色が強張る。動かない学園長に、医者は続けた。
「古本屋がよぉ、近頃のてめぇは妙だとぼやいてたが、俺もそう思うぜ。たくらみ事も結構だけどよ、――てめぇは度を知らねぇ」
 学園長は、くっと喉が笑い出しそうになるのを押し隠した。結局、何もかもお見通しだったわけだ。この目つきの悪い医者は、自分のことを知りすぎていた。
「私の望みは変わりませんよ。今も、昔も」
 口元だけで笑ってそう返し、歩き出す。
 苛立たしげな舌打ちが背に当たって落ちた。扉を開く。
「可愛くねぇ、本ッ当に可愛くねぇ」
 最後に振り向いて横顔で会釈すると、学園長は扉を閉めた。


 ***


 女子寮の門まで出てきていたキルナとチノは、背の高い警視官に付き添われた金髪の少女が見えるなり駆け出した。
「セライム!」
「――ぁ」
 呼びかけに、制服のケープの止め具を両手で握り締めて歩いていた少女の顔があがり、驚きと安堵に揺れた。張り詰めていた糸が切れたように、端整な顔立ちがくしゃりと歪む。そのまま放っておいたら、へたりこんでいたかもしれない。しかし、その前にふらついた少女をキルナがしっかりと抱きとめていた。
「怖かったわね。もう大丈夫よ」
「――っぅ、あっ」
 震えながら嗚咽を漏らすセライムを心配げに見て、チノは姉の代わりに警視院の男に会釈した。
「ありがとうございます。あとはわたしたちで連れて行きます」
「協力感謝する。立派に聴取に応じてくれたよ、この子は。ゆっくり休ませてあげてくれ」
 老年に差し掛かった男は、顔のしわを深くさせて優しく笑う。チノは、――もう知っている話ではあったが、それでも確かめたくて、ためらいがちに口を開いた。
「あ、あの――ユラスは、大丈夫なんですよね?」
 キルナも同じ目を向ける。少女たちの不安が伝わったのだろう、街灯に照らされた男は苦笑して頷いた。
「ああ、命に別状はないよ」
 その言葉にチノだけでなくセライムを抱きしめるキルナの表情も揺れて、少しだけ空気が緩んだ気がした。
「さ、セライム。帰りましょう」
 警視官が去った後、体を離してそっと背に手をまわし、キルナが促す。セライムは真っ赤になった目をこすり、しゃくりあげながらも頷いた。チノも反対側に付き添ってやる。
 金髪の少女が子供のように取り乱すのは久しぶりだったが、そうなるのも頷けよう。おびただしい血を流し、傷だらけで倒れる友人を見てしまったのだ、この平和に暮らしてきた少女は。双子の姉妹は血の紅を見ていないから、まだ冷静でいられたに過ぎない。
「――ユラス、ユラスが」
「大丈夫よ。命に別状ないって言ってたじゃない」
「そうだよ。それにユラスだよ? バカとアホは長生きするって言うじゃん」
「――っぅ、うん」
「ね? 意識戻ったらお見舞いにいきましょう。お菓子でも持ってったら一発で元気になるわ」
「――うん」
 溢れ出る涙は止まらないようだったが、セライムはそれを何度も手で拭いながら頷いた。帰ってシャワーでも浴びて、暖めたミルクを飲めば落ち着くだろう。
 双子の姉妹は互いに目だけでそう合図すると、泣きじゃくる金髪の少女を部屋まで連れ帰った。


 ***


 ぱんっ、と頬を張られても、灰色の子供はぴくりとも表情を変えなかった。
「彼に関わってはいけないと言ったはず」
 抑えた声は、けれど震えて怒りの感情を形作る。女は痺れた手を握り締め、腫れた頬を反射的に押さえる子供――ドミニクを見下ろす。
 ドミニクがある日突然姿を消し、血眼になって探して、とうとう見つけたときには何もかもが遅かった。紫の少年は血溜まりに倒れ、それを前にドミニクは殺意の塊になっていた。
 否――あと少し発見が遅ければ、紫の少年は命を落としていたろう。それが不幸中の幸いだった。紫の少年の命を奪っていたら、例えあの少年が何であったとしてもドミニクは殺人者になっていた。彼を痛めつけただけで、笑いながらあんなにも震えていたというのに。
 ドミニクは色のない唇を閉ざし、ひどくやつれた、老人のような表情のない顔をしていた。抜け殻にも似た様子は、まるで心を捨てた人形めいた印象を与える。
「何故、関わったの」
 あの時、起きてしまった現実におののきながらも、紫の少年に起きた異変に女は気付いていた。ドミニクに見上げられた、あの紫の少年は――。
 心にぞわりと冷たいものが沸き起こって、女は僅かに顔をしかめる。
 ――どこまでも、どこまでも、歪みだらけだ。
 きっとこれからも紫の少年は変質していく自分に気付きながらも、それが何であるのかは分からず生きていくのだろう。己のいびつさに気付きながら、何がいびつであるかを知らずに生きていくのだろう。
 壊れる。必ず、崩壊は訪れる。元よりあの心は泥の船なのだ。いつかは底が抜け、藻屑となっていくだろう。
 そして、ドミニクも――。
 見下ろした彼の唇がぼそぼそと動いていた。
 怪訝そうに眉を潜めて、女は――シェンナは、短い灰色の髪を耳にかけて聴覚を澄ませた。
「――どうして、あいつなんだ」
 灰色の瞳がはじける。はっとして屈んで顔を覗きこむと、突如として色を取り戻したドミニクの顔が歪んでいた。そうして血のように涙を散らしながら、小さな体がその全てを持ってして掴みかかってくる。
「なんであいつなんだ! どうして僕じゃなかった!」
 シェンナは動けない。ぶつかってきた子供の体重全てがかけられた力があまりに弱々しく、それがひたすらに重くて。脳裏にいつかの夜が駆け抜けた。あの悪夢のような夜――二つの命は、その命運を分けたのだ。
「あそこにいたのは、あそこで笑ってたのは、僕かもしれないのに――!」
 ほとばしる激情に、シェンナは半ば呆然とした。何かを言わなければいけないのに、何一つ出てこない。嗚咽を帯びた声。耳に響き、眩暈に襲われながら――。

 シェンナは、ドミニクの灰色の体を抱きしめた。




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