-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

32.味の狂想曲



 心臓が痛いほどに高鳴っている。ぐるぐると視界が回転し始めるのを感じながら、胸に抱いた箱を、握り締めた。だがそうしてみても、あんなに頑張って作ったものが、不思議と心もとないちっぽけなものに思えてきて心細い。
 セライムはグラーシア学園中央棟の廊下で一人、端から端まで行ったりきたりしていた。勿論、すぐ先の部屋にいるだろう学園長に気付かれないように――だ。
 青いリボンで飾った手の平に乗る程度の小箱。中には何日も試行錯誤を重ね、一晩かけて作った努力の結晶が詰まっている。あとはこれを渡すだけなのだ。たっだそれだけのことに、何を自分は戸惑っているのだろうか。
「よし」
 完全に挙動不審な人物と化していたセライムは笑い出しそうになる足にぐっと力を入れて、ついに学園長室に向かうことにした。
 しかし、近付けば近付くほど足取りは遅くなっていく。昨晩はキルナに叱られながらも必死で菓子を作り続けた。そうして窓の外が明るくなりかけた頃、最後の材料で作ったものが焼きあがったのだ。それをキルナが口にして――。
 ――え、ええ……もうこれでいいわ、あたし、頑張ったし……、多分、お腹は壊さな……そ――。
 がくり、とキルナはそのまま机に伏した。全ての体力と精神力を使い果たしたようだった。
 最後まで自分の面倒を見てくれたキルナには、感謝してもし尽くせない。結局自分はいつもキルナに甘えてしまうんだな、と少しだけ苦いものを感じながらも、セライムはとうとう学園長室とプレートのかかったその部屋に足を踏み入れた。
「――せん、せい」
 ひっくり返った声で、それでも呼びかける。広い部屋には応接用の机と、古びた木製の本棚。大きな窓から優しい日差しが降り注ぐその部屋の主であるフェレイ・ヴァレナス学園長その人は、いつもの様子で部屋の中央にある執務机に座って仕事をしていた。おどおどと姿を見せたセライムに、学園長は顔をあげるとペンを置きながら笑いかけてくれる。
「ああ、セライム君ですか。どうしました?」
「あ、あの」
 セライムはぎくしゃくと機械のような動きで学園長と執務机ごしに対峙した。しかし、学園長の顔がうまく見れない。目は開いている筈なのに視界は白み、足は地についている筈なのに世界がぐるぐる回っている。
「こ、これ……」
 セライムは持っていた小箱を、震える手で差し出した。ちなみに包装は倒れたキルナの代わりにチノが手がけてくれた為、非常に可愛らしく出来上がっている。
「おや」
 学園長は差し出された小箱に目を落とし、そうしてセライムを見上げた。
「私にですか?」
 何気ない一言に、どきりと心臓が跳ね上がって、ぎゅっと目を瞑る。
「い、いつもお世話になっているので――」
 顔が火傷するかと思うくらいに熱い。火を噴きそうだ。
「本当ですか。それはありがとうございます」
 学園長がにこりと笑うのに、とうとうセライムはいたたまれなくなった。もごもご何かを口走りながら机に小箱を置くと、脱兎のごとくその場から逃げ出す。
 もうもうと煙があがるほどの勢いの離脱だったので、学園長が声をかける暇もなかった。
「――おや?」
 いまいち状況が掴めていない学園長が一人、首を傾げる。そこに、入れ替わりのようにライラック理事長が面食らった顔で入ってきた。
「どうしたんですか、生徒が突然飛び出していきましたけれど」
「ええ」
 折り畳んだハンカチを額にあてるライラック理事長に、学園長もぽりぽりと頬をかく。
「これを渡しにきてくれたみたいなんですけどねえ」
 少女が置いていった小箱を手にして、首を捻っている。
「ああ、今日は聖ユーノ祭ですし――、ん?」
 ライラック理事長はふと学園長が座る席の横を見て、絶句した。
 ――そこには、学園長の腰ほどの高さまで、色とりどりの包みがうず高く積まれていたのだ。とんでもない量である。
 そういえばとライラック理事長は思い出した。毎年生徒が作っている学園新聞のこの時期の記事には、ユーノ祭で誰が一番多くの菓子を貰ったかの順位付けが記されていて、ここ数年はぶっちぎりで学園長が首位に立っていたのだっけ。
「嬉しいですけど、ちょっと困りましたね」
 固まっているライラック理事長を前に苦笑しながら、学園長も菓子の山を見やる。確かに学園長は生徒からの人望も厚いから、こうなるのも頷けようものだが、それにしても膨大な量だ。
 聖ユーノ祭は、元々大陸の南の地方で始まったこの季節に花を贈る習慣を、家庭と愛の聖人ユーノの祭事と定めて大陸に広まった祭りである。これが広がりだしたのはたった数十年前のことにすぎなかったが、思った以上の速さで人々の暮らしに浸透しているようだ。若者はこういう行事が好きだからな、とライラック理事長はそっと笑った。困ったとか言いながら、実際学園長も嬉しそうだ。
「ちょっと食べてみましょうか」
 学園長は今しがた飛び出していった生徒に貰った箱の包みを解きだした。可愛らしく青いリボンで包まれた小箱を開けると、中には形が不ぞろいの茶色く丸い菓子がぎっしり詰まっている。
「手作りですか」
 ライラック理事長はそう笑った。なんだか見ていると、このいびつな形の菓子をあの生徒が必死に作っている様子が想像出来て、可愛いものだな、と若干親父臭いことを考えてしまう。
「理事長も一つどうですか」
 学園長の何気ない一言に、ライラック理事長は笑みをそのままに頷き、礼を言って小箱から菓子を一つつまんだ。
 しかし、これは何だろう。茶色の球体をしているが、チョコレートにしては硬いし、クッキーにしては形が妙だ。見慣れないが、彼女の故郷で作られる菓子なのかもしれないな、と思い、ライラック理事長は無造作に口に入れた。――噛んだ。
「――ごほっ!?」
 思わず吐き出しそうになるのを、口に手をあててこらえる。
「――!?」
 なんだ、これは。
 甘いはずなのに、――すっぱさと苦味が後からやってくる。それらは味の狂想曲となってでたらめに舌を刺激してくれて、意図せず目に涙が浮かんだ。
 咀嚼を一度やめて目の前の学園長を見る。学園長は当たり前のように同じものをぽりぽり食べていた。
「不思議な味ですねえ」
 本気か、と思いながらライラック理事長は口元を押さえたまま「ちょっと失礼」とくぐもった声で告げて、学園長に背を向けると、ぐっと顔を歪めながらどうにか口の中のものを飲み込んだ。不思議な味というよりは不気味な味だ。ろくに噛んでいない硬い塊が喉を嫌な感じに落ちていく。吐き出してしまいたかったが、女子生徒が作ったものを無下にするのは良心が痛むのでこらえた。
 呼吸を若干荒くしつつ浮いた脂汗を再度ハンカチで拭うと、頷きながら菓子(らしきもの)を食している学園長をこの世のものとは思えなくなりながらも見下ろした。
「が、学園長、それ、大丈夫なんですか」
「え? ええ、おいしいですよ」
 この人、味が分かっているんだろうか。そういえば学園長の紅茶についてのうるささは知っていたが、それ以外の食事については全く頓着している様子がないのをライラック理事長は思い出した。
 あの、あまり大量に食べるとお腹を壊しかねませんよ――と忠告をするかしないか迷っていると、そんな彼の迷いを吹き飛ばすように新たな顔が学園長室に現れる。
「失礼します」
 かつかつとヒールの音をさせてやってきたのは、高等院の教師レインだ。
「おや、レイン先生」
 その姿を見止めるなり、学園長はにこりと笑った。
「どうしました?」
「ちゃんと仕事をしているかと思って見に来たのですが」
 レインの目がすっと細められて学園長の手元に向けられる。その光に危険なものを感じ取った学園長は、笑みを若干引きつらせて首を傾げた。
「ち、違いますよ? 食べ始めたのはつい今しがたのことで」
「言い訳はききませんよ! まだ規定の勤務時間内です、学園の長たるあなたはいったいどういう了見で――」
「ま、まあ落ち着いて下さいレイン先生、ほら、これでも食べて」
「やっ、やめてください学園長!」
 思わずライラック理事長は例の小箱を差し出しかけた学園長を止めにかかる。あれは、普通の人間が食べられるものではない。
 学園長の手の中のものにちらっと目を落として、僅かに表情を変えたレインは、とにかく、と机に手をついた。
「あなたは学園の生徒や教師全員の模範となるべきお方なんです! うかつな行為は避けて下さいっ!」
 それだけ言うと、切りそろえた青の長い髪を翻して、つかつかとその場を離れていった。そんな後姿を見送って、学園長は机の上に小さな包みが置いてあるのに気付く。どうやら、クッキーが入った小包のようである。
「――おや。素直に渡せばいいのに」
 包みの存在に気付いていたライラック理事長が苦笑する。学園長もレインの来訪の真の意味に気付いて、ふと笑って包みを手にとった。


 ***


 鷹目堂に向かう途中、ウェリエルの銅像の前で俺は中央棟から飛び出してくる人影を見つけていた。あの長い金髪を振り乱しているのは間違いない、――セライムだ。
 立ち止まった俺を見つけたのか、セライムはこちらにすっとんできた。
「ゆ、ユラス!」
「おお、どうした」
「う、わ、わたし……」
 セライムは顔を真っ赤にしたり真っ青にしたり、腕をばたばたさせたりとせわしなく動き、落ち着きを失っていることは一目瞭然だった。今日は聖ユーノ祭当日だ。フェレイ先生に菓子を渡しに行ってきたのだろう。――先生が無事だといいのだが。
 実際の被害が学園長でなく理事長に及んでいることなど露ほども知らない俺は、まあ落ち着け、とセライムをいなした。
「受け取ってもらえたんだろ?」
「あ、ああそうなんだがでもやっぱりその」
「先生のことだから食べてくれるって」
 ――だから怖いんだが。それは心の中で呟くに留める。
「大丈夫だろうか」
「直接渡しに行ったなら、気持ちも伝わったと思うぞ」
 そう言ってやると、セライムはそうか、と頷いてやっと落ち着きを取り戻したようだった。
「そうだ」
 そうして、セライムがごそごそと鞄を漁りだすのになんとなく嫌な予感を察知して一歩後ずさる。
「じゃ、じゃあ俺はこれで」
「あ、待ってくれユラス」
 俺が背を向ける一瞬前に、セライムは取り出したものを目の前に差し出してくれていた。
「作ったものの余りなんだ。一個食べてみないか?」
 小箱を開けると、不ぞろいの茶色い球体の何か(菓子とは言いたくない、絶対に)が詰まっている。
「――い、いや、ちょっと腹が一杯で」
「一個だけでいいんだ。それにお前、甘味が好きだったろう? 甘いものは別腹というじゃないか」
 セライムの手に負えないところは、作っただけでは飽き足らずそれを人に食べさせたがる点にある。生来の親切心が身についているのだろう。全く持ってありがたくないんだが。
「キルナもこれだったら大丈夫だろうって」
「……お、おう」
 逃げられそうになかったので、その一言に僅かに救われながらも、俺は恐る恐る口の中にそれを放り込んだ。目をぎゅっと閉じて、それを噛み砕く。
「ごふっ」
 むせた。喉に入ったのではなく、ただ、その味のせいで。
「ん、どうした?」
 不思議そうにするセライムの前で、口元を手で押さえながらしかし、とも思う。
『まずいが――でも、それだけだ』
 いつものこいつの作るものは、はっきり言ってこんなものではない。口に入れたところで飲み込めないのだ。見や目や味、臭いの全てにおいて体が飲み込むのを拒否すると言ってもいい。――それが、これにはない。
『飲み込める……』
 ぐっと腹に力をこめると、なんとか噛み砕いたものは喉を通ってくれた。
 ――キルナ。お前はよくやった。
 今頃精魂尽きて灰になっているだろうキルナに、心の内で喝采を贈る。こんな味だが、こいつの作ったものとしては大進歩だ。
「ど、どうだ?」
「――ああ。お前にしては、よく出来てる」
 若干脂汗が浮かんだ顔で引きつった笑みを浮かべてやったが、セライムはほっとしたように胸を撫で下ろした。
「先生も喜んでくれるといいな」
「……」
 もはや、何も言うまい。
 セライムはふふっと笑って小箱を鞄に仕舞い歩き出した。
「そういやお前、カレンジュラは忙しくないのか?」
「ああ。だって渡すのは今日なんだから、前日に買いにくるのが普通だろう? 昨日は忙しかったが、今日はゆっくりでいいって店長が言ってくれてな」
 そして、空を見上げて何かを思い出したようにこちらを見た。
「そうだ。多分、売れ残りが貰えるだろうから、お前の分も貰ってこようか」
「マジかっ!?」
 俺は目を剥いた。セライムは苦笑して波打つ金髪を後ろにやる。
「全く、お前は調子がいいな。何がいい?」
「そうだなぁ……」
 世界の全てに感謝したい思いで、俺はセライムを追って歩き出した。これはあの茶色い物体を食すという試練を経た俺へのご褒美なのかもしれない。
 そうやって浮ついた気分は、俺の注意力を削ぎ落とし――。
 普段だったら気付く筈のその視線に俺は気付かず、セライムと共に学園を後にした。


 ***


「――」
 大きな灰色の瞳は瞬きを忘れたように、去っていく紫の少年を映していた。
 発育が悪いせいか、線が細く背も低い子供を普通の人間が見れば、彼が実際生きてきたよりも幼い年齢を予想するかもしれない。否――、もしも普通の人間が彼を見たのなら、まずは言葉を失うだろう。
 色を持たぬ、色彩のない灰色の目と髪。老人のようなそれは、幼い子供が持つにはあまりに異端だ。肌も抜けるように白く、陽光を知らぬ子供なのだろうと思わせる。
 そして――今の彼を見て、背筋の凍らぬ大人はいるまい。
 学園の正門前の広場を彩る大樹の枝に腰かけた彼の表情は、凄惨なまでに歪んでいた。ぎちぎちと握った枝が悲鳴をあげる。この都市での魔術の行使は連れから禁じられていたし、彼もまた行使が人に見つかれば面倒なことになると分かっていたから抑えていたが、今すぐありったけの魔力をこめてこの木を吹き飛ばしてしまいたかった。いや、木だけでない。この眼に映る何もかもを、壊してしまいたかった。
 今まで紫の少年に会いにいくのは、何故か連れに止められていた。けれど、会いたいと思った。彼がどんな顔で生きているのか、知りたかったのだ。
 連れは頑なに紫の少年についての情報を教えることを拒んだ。だから、知りたいと思う気持ちはむしろ日に日に増していった。そうして、こっそり連れの目をかいくぐってきたのだ。紫の少年はすぐに見つかった。しかし、そこにいたのは彼が予想していたのとは全く違う、心臓が握りつぶされるような人間だった。
 紫の少年。その瞳に曇りはなく、彼はそこにいた。周囲の環境を取り込んで、当たり前のように楽しげに日々を過ごしていた。
 そして、今、目の前の光景。
 紫の少年は、笑っていた。幸せそうに、友人らしき少女と共に。
 息を止めて目を見張る彼のことなど露知らず、紫の少年は歩いていった。彼の知らない場所へ、彼の想いも知ることなく。
「――なんで」
 無意識に、掠れた呟きが色のない唇から漏れた。
 ――彼は、何も知らない。
 連れが語ったそんな一言が、じわりと心を苦しめた。そういうことなのだ、何も知らないということは。紫の少年はそうやってのうのうと生きている。こんなにも痛みに満ちた、自分の苦しみも知らないで――!
「――思い知らせてやる」
 ゆるりと、灰色の子供――ドミニクは顔をあげた。憎悪の感情にじわじわ心は支配され、ぎちっと食いしばられた歯が鳴った。凶暴な力が心の底から沸いてくるのを感じながら、ドミニクはそうして笑った。子供がするそれでない、見るものを凍らせる怒りの感情を秘めた笑みを。
 ドミニクは、紫の少年がすっかり見えなくなるまで、後姿を睨み続けていた。




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