-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

31.朝の光景



 紫色の夢を見る。
 音がしている。
 大きな音――小さな音。
 張り詰めた空気。
 こちらを向いた、ぽっかりとあいた黒い穴。
 何を言っていたのだろう。
 深い迷路に迷い込んだように、ぐるぐると言葉は幾度でも同じところに戻ってくる。
 けれど、いつしか均衡は破れ、世界は暗転した。
 音。
 あれは、争いの音。
 思惑の交差。
 鋭い音。
 黒い穴は、去っていく。
 代わりにやってきたものがあった。
 大きな、灰色に光るそれはぼんやりと瞬いて、こちらを捉えた。
 言葉があった。
 鏡のようにそこに何度も言葉は反響し、色濃い感情が染み付いた。
 繰り返される内に、染みはしだいに大きく広がり――。
 世界が暮れてゆく。
 軋んで、傾いで、ぱらぱらと破片が零れて。
 誰が手繰ったわけでもなく、誰がそう願ったわけでもなく、ただ、世界は錆びていった。
 ――何をしていた?
 壊れていく世界の中で、何をしていたんだろう?
 跳ねるような声。
 どうしてだろう。
 あのときは、それが酷く遠いものだったのに――。

 ――お前なんか。

 それがどうして今になって――。

 ――お前なんか――!

 どんっ、と力は胸を突き抜けた。
 ひび割れた世界が、乱暴な音をあげて――。


 ***


「――っ!」
 見開いた瞳に飛び込んできたのは、暴力的なまでの光の嵐。
 胸を掴んで喉の奥で引きつった声を漏らし、呼吸を忘れていたことに気付く。
 体が火の玉になったように熱い。嘔吐の後のような倦怠感にさいなまれながら、全身を使って息を吸い込んだ。
 胸が上下している。荒く吐き出される息が、自分のものではないようだ。
「――ぅ」
 びっしりと汗をかいた額に手をやって、――俺は、ようやく自分が目覚めたことを知った。
「――」
 遅くに寝たわけではないのに、体が鉛のように重たい。
 ――夢を見ていたのか。また、あの夢を。
 今までも同じような夢を見たことはあったが、ここ最近はそのようなこともなくなっていた。なのに――。
 昨日、あの病院の前で妙な視線を感じたからだろうか?
 今は何時だろう。もう部屋は様子が捉えられるくらいに明るいから、朝であることに間違いないのだけれど――。
 汗をびっしょりとかいた体が気持ち悪かったので、まずはシャワーを浴びようと思って起き上がったその時、不意に聞こえた物音に顔をあげた。
 テーブルのものを動かす音だ。スアローグがもう起きているのかもしれない。
「ん、スアローグ?」
 呼びかけながらベッドから足を下ろし、スリッパにつっかけ――俺は、テーブルの椅子に座っているのがスアローグでないことに気付いた。
 長めに伸ばした前髪の向こうにある鮮やかな深緑の瞳、意思の強そうな薄い唇に高い鼻という、この大陸ではありふれた容姿をしたそいつ――エディオが、そこにいた。
 エディオも俺が起きる気配に気付いていたのか、こちらを見て不審げに目を細めている。しかしすぐに興味をなくしたのか、それまで読んでいたらしき本に眼を落とした。
「……お、おはよう」
 返事は期待できなかったが、とりあえず挨拶をして、俺ははじめて時計を見上げる。
 ――普段の起床の、たっぷり三時間前の時刻だった。
 妙な夢を見たばかりに変な時間に起きてしまったらしい。
 そのまま二度寝する気も起きなかったので、俺は立ち上がるとエディオの反対側の席についた。
 反対側といっても、コーヒーのポットと小皿がいくつか乗れば満員の小さなテーブルであるから、おのずとエディオが近くなる。エディオは俺に無関心な様子で読書を続けていた。
「……コーヒー、貰うぞ」
 妙な沈黙に耐え切れず、俺は空のカップにエディオが淹れたらしきコーヒーを注ぎ、いつものように砂糖を八個入れてかきまぜると口に含んだ。
「――ぶっ」
 噴いた。
 甘みはいつもと同じ強さだったんだが――なんでだろう、そんなのを吹き飛ばすくらいに、苦い。
「うーうー」
 げほげほとむせながらカップの中をあらためると、明らかにいつもスアローグがだしてくれるコーヒーの色ではない。
 吸い込まれそうなほどに漆黒のその液体は心なしかどろりとしていて、ポットに目をやると、普段の三倍の量の豆が入れてある。
 口の中に残る劇物のような苦さに顔をおもいきりしかめながら、普段この後にコーヒを淹れなおしてくれてるんだろうスアローグに力一杯感謝する俺である。
 そうして、そんな俺の反応など気にもとめていないエディオをまじまじと観察した。
 いつもは始業ぎりぎりに起きるから慌しいが、今のこの空間は一切の物音もしない朝霧の中のような静寂が横たわっている。初めて見る、エディオにとっての朝の光景だった。
 玄関の方は暗いからか、横に備え付けられた台所の電気がついていて、朝の薄暗さと交じってぼんやりとした影を作っている。
 エディオが読んでいるのは、医学書のようだ。わき見もせず、淡々とページを進めていく。
「エディオってさ」
 俺はとても飲めそうにないコーヒーのカップを手で弄びながら口を開いた。
「なんで医学専攻にしたんだ?」
 ぴくり、とエディオの形の良い眉が動いた。深みのある緑の目だけが、こちらを射抜くように視線を注いでくる。
 それに若干胸を冷やしながらも、俺はエディオの表情を読み取ろうとした。何故だろう、前から俺に向けられる感情が他人に向けられるそれと違う気がしていたのだ。
 しかしその真意を探る前に、エディオはがたりと音をさせて立ち上がった。鞄に手早く読んでいた本をしまい、踵を返して歩きだす。
 ばたん、と最後に締められた扉の音が、まるでエディオからの返事のようだった。


 仕方ないからシャワーを浴びて濡れた髪にタオルをあてていると、リリリ、と時間になると小さな鐘を突くからくり時計が鳴って、俺がいつも寝ている二段ベッドの上の段からうめき声が聞こえてきた。
 ごそごそとシーツを被った塊が動いて、むっくり起き上がる。長く伸ばした金髪をかきあげて、スアローグは気だるげなため息をついた。
「おお、おはよう」
 だからなるべく明るい声をかけてやると、スアローグもおはよう、と返して――。
「――え?」
 気だるげな表情を吹っ飛ばして、固まった。
 寝起きだというのに見開かれた瞳がこちらを映して氷結しているようだったので、手をはらはらと振ってやる。
「――ぃ」
 スアローグは、かくかくと口を動かした。
「今、何時?」
「安心しろ、いつもの時間だ」
 スアローグは暫く沈黙して――。
「寝よう」
「おい!?」
「夢だ。ユラスがこんな時間から起きてるなんて夢に決まってる。それか天変地異の前触れだ」
 言いたい放題である。
 その後、暫く不毛なやりとりをしてからどうにかスアローグにこれが現実であることを認識させ、やっとのことで飲めるコーヒーを淹れてもらうことが出来た。
「本当、変なものでも食べたんじゃなかろうね」
「俺も正直そう思う」
 コーヒーというものは、淹れる人が違うとこんなにも変わるものなのか。そう思い知りながら、ゆっくりカップの中身をすする。
「エディオってあんなに朝早く出てくんだな」
「早朝講習に欠かさず参加してるからね。君もちょっとは見習いたまえよ」
 確かにこうやって過ごす余裕のある朝も良いものだ。最も、こんな時間に起きるなど毎晩あの夢でも見ない限り無理だろうけれど。でもそんなのは御免だった。あの夢は、出来ることならもう見たくない。
 それに――と、俺はぼんやりと今日のことを思い出した。もし今日ぐらいの時間に起きても、エディオは――。
「俺、エディオに嫌われてんのかな?」
 牛乳を入れたコーヒーの優しい茶色を覗き込みながら呟くと、スアローグはふいとこちらを見てテーブルに頬杖をついた。ふう、と息をつくスアローグは返す言葉を捜しているようだ。
 こいつだって、俺やエディオのことを何も見ていないわけじゃない。むしろ、こいつは他人の感情の動きに敏感な方だ。
「……エディオはね、昔から努力家だったんだよ」
 いいにくそうにスアローグは表情を歪めた。カップに口をつけたまま俺が頷くと、ぎこちなく笑ってみせる。
「本当は、元々そんなに出来る人じゃないのかもしれない。でも、彼の才能は努力すること自体にあるのだよ。君も見てるだろう? あの努力で、エディオはAランクをとって医学を専攻してる」
「ああ」
 頷く。そう、エディオは不思議なほどに勉強に打ち込み続けている。そして、他のことはいらないとばかりにぱっくりと削ぎ落としているのだ。
 けれど、俺に関しては何かが違った。無関心ではないのだ。今日見たあの緑の目は、確かな感情を持って俺を射抜いていた。
 スアローグは嫌そうな顔で肩を落とした。まるで、これからのことを言いたくないようだった。
「だから、君のことが気に入らないんだろうよ」
 ――顔をあげて、スアローグを見る。するとスアローグは逆に目を逸らすようにして続けた。
「君は元からAランクで入ってきただろう? しかも、その才能を切り捨てるみたいにDランクの専攻とったりして」
 僕は何も思っちゃいないけどさ、と付け加えて、肩をすくめてみせる。
 ――ああ、と俺は思った。
 理解がひんやりと頭を埋めて、ぐらりと視界がぶれる。
 ――そういうことか。そうなのだろう。
 考えてみれば当たり前だ。俺は、あいつがあんな風に努力を重ねて死ぬもの狂いで勝ち取ったものを軽々と捨てて見せたのだ。俺がエディオの事情を知らないのと同様に、俺の事情を知らないエディオから見たら、俺はこの上なく腹立たしい存在になるだろう。
「気にしない方が良いよ、ユラス。どうしたって、相性の良くない人間はいるものさ」
 黙りこんだ俺を気遣うように、スアローグがいつものように片頬だけで笑ってみせた。
 俺はこっくりと頷いて、まだしっとり濡れている髪に手を突っ込む。
 確かにスアローグの言う通りなのかもしれない。今更専攻を変えてどうにかなるとも思えないし――。
「そういえばさ」
 こんな空気は苦手だったのか、この話は終わり、というように立ち上がってこちらに背を向けたスアローグに、問いを投げた。
「あいつが病院に行ってるの、知ってるか?」
 何気ない問いだった。だから、スアローグの反応は予想したものが返ってくると思っていた。
 なんだい、それ――、または、ああ、それはね――と。
 しかし、スアローグはこちらに背を向けたまま、動かなければ言葉すら発しなかった。
 何かがおかしいと、もう一度スアローグを見直したとき、唐突に言葉が部屋に落ちた。
「――見たのかい?」
 その音色が、いつものスアローグの声ではない。
 じわりと緊張した空気が腹の底に染みて、俺は目を瞬いた。そこではじめて、自分の一言が触れてはいけないものだったのだと気付く。
 しかし、それでも時は戻せず流れてゆく――。
「そのことを、今後口にだすなよ。探ってもいけない」
 鋭い声だった。しかし、震えた声でもあった。まるで、何かに怯えたような色をしていた。
 何がどうなっているのか分からない。ただ、それが強い忠告であることを体中で感じ取りながら、俺はごくりと唾を飲んだ。
 ふと、スアローグは振り返った。そこにあったのは、いつもの皮肉げな笑みではなかった。
 苦しげな笑みは、逆行に照らされて深い闇を織り成して――。
「下手に人の中に立ち入ると、傷つくのは自分の方だよ――ユラス」
 朝日の差し込む息苦しい部屋の中、スアローグはそう結んだ。




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