-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

30.うん、菓子だ



 あの学園長のことである。きっと、生徒から贈られたものだったら例えおぞましい外見をした得体の知れない物体だったとしても平気で口に入れるだろう。もしそれで倒れられでもしたら、学園にどれほどの損害を与えるだろうか――。
『学園の命がかかってるんじゃないのか』
 キルナは、紫の髪を持つ友人の発言を思い出して、心の底の底から溜め息をついた。あの友人の言うことは普段から大げさだが、今回ばかりはそうとも思えなくなってくるから頭が痛い。
 男子寮とは学園を挟んで反対側にある女子寮への帰路の途中、キルナは嫌な予感を胸に足を速めていた。学費を自分で稼いでいる彼女はどうしても帰りが遅くなってしまう。あのセライムのことだ、きっと今頃自分に無断で試作と称したとんでもないものを作っているに違いない。部屋ではどんな惨事が起きているだろうか。
 舌打ちしたい気分になりながら、急ぎ足で寮の門を潜る。階段を上り廊下を抜け、自室の扉の前に立つ。がんばるのよあたし、と一度自分を叱咤してから意を決してキルナは扉の鍵を開け、ノブを強く握り締めて、開いた。
 ――ぶわっ!
「っ!?」
 反射的にスカートの裾を翻して横に避けると、灰色の煙がもうもうと開け放たれた扉の中から立ち上る。
「か、火事!?」
 一瞬慌てるが、それにしては熱気がないので、ぐっ、と歯を食いしばって覚悟を決めるとキルナは部屋に飛び込んだ。――が、そんな彼女の勢いを殺がんと襲いかかってくるものがあった。
「――な、なにこの臭い!?」
 やはり今日は無理をしてでも早く帰って見張っていれば良かったと全力で後悔しながら、キルナは鼻を手で覆った。甘い臭いではあるのだが、すっぱいような苦いような臭いも混じっていて、――なんだろう、臭いというものはここまで暴力的になれるものだったろうか。
「セライムっ!!」
 電気はついているので、煙の中でもうっすらとセライムらしき人影は確認できた。
「うん? ああ、キルナ。おかえり」
「おかえり、じゃないわよーっ!」
 この煙の中でこの娘は当たり前のように火にかけた鍋の中身をかきまわしている。冗談じゃないわよと口の中で悪態をつきながらキルナは鞄を放り捨てると、すぐにベランダへ続く窓を全開にした。夏だから虫が入ってくるかもしれないが、この際贅沢は言っていられない。げほげほと外に向けてむせていると、煙も外に逃げていったのか段々と部屋の様子が見えてきた。
 机の上に散乱した食材、流しに捨てられた真っ黒の鍋、そして鼻歌まじりにぐちゃぐちゃと何かが間違っている音をさせながら鍋をかきまわしているセライム。
「――あ、あはは」
 現実逃避をしかけたキルナは、しかしどうにか正気を取り戻そうとかぶりを振った。自分が負けたらもう誰もこの娘を止める人間はいなくなる。
 しかしそれにしても、と顔を歪めながら考えずにはいられない。セライムが昔から料理音痴の味音痴であることは認識していた。だが、そう思って無理に料理から遠ざけてしまったのが悪かったのだろうか。ある程度のことは予想していたが、まさかここまでとは。
 恐る恐る近付いて、鼻をつまみながら鍋の中を覗き込み、キルナはひっと喉を引きつらせた。
「……せ、セライム、それは何?」
 震える声で問うと、セライムは上機嫌そうに答えてくれた。
「うん、菓子だ」
「なんのお菓子かしら?」
 するとセライムはうーん、と暫く唸ってから、
「……チョコレート?」
 なんで疑問系なのよ。心の中で鋭く突っ込む。
 鍋の中では黒に近い茶色の半ば固体化したもの(チョコレートだろうか?)に緑や紫や赤い物体が混じり、なんとも禍々しい様子を呈している。
「……レシピは何を参照したの?」
「レシピ?」
 初めてその単語を耳にしたように、きょとんとしたセライムは優雅に小首を傾げた。
「やっぱり必要なのか、それ」
「あ、当たり前でしょうがーっ!!」
 我慢の限界に達したキルナは思わず声を荒げた。空気が振動するような怒鳴り声に、隣の部屋の生徒がきっと飛び上がったことだろう。だがそんなこと、今の彼女に考える余裕は微塵もなかった。
「で、何!? 何入れたのよこれは!?」
「ち、ちゃんと食べれるものを入れたぞ。卵とか、コーヒーとか、あと飴」
「飴!?」
「いい香りのものだったんだ。あとは塩とか」
「塩!?」
「だってお前が教えてくれたじゃないか。塩を入れると甘みが増すんだろう? 他の調味料も色々入れてみたんだ。出来上がりが楽しみだな」
「……」
 くらりと視界が眩んで、キルナは足をふらつかせた。いけない。これはもう、全てが駄目だ。
 このまま意識を失ってしまえばどれほど楽かと思う。
『しっかり。落ち着いて、気を確かにもつのよあたし』
 元から持っている強靭な精神力でキルナはどうにか誘惑を振り払い、楽しそうに鍋の中をかきまわすセライムの後姿を前に呼吸を整えた。ふと見ると、その横では何かを切ったらしき包丁がすっかり刃こぼれしてボロボロになっている。何を、どんな力で切ったのだろうか、もう考えたくもない。
 臭いをかがないように口で呼吸しながら、背後の本棚を探る。その中から、昔使った初心者向けの菓子作りの本を取り出して、努めて穏やかな声で話しかけた。
「――ねぇ、セライム?」
「なんだ?」
 心の中で、もう一度深呼吸。実際にやると臭いでむせるからだ。キルナは開いた口から呪詛が漏れる前に、血を吐くような思いで続けた。
「わかったわ。あなたのやる気は認める、これからも自分で作ってもいいわよ」
 非常に、この上なく遺憾ではあるが、こう言うしかないのだ。
 ぱっとセライムの顔が明るくなるのに、逆に頭痛がしてくるのを感じながら、キルナは加えた。
「ただし、必ずあたしの見てる前でやること。それから、作り方教えてあげるから、あたしの言う通り作って頂戴」
「ああ! わかった、ありがとうキルナ!」
 太陽のような笑顔の眩しさに、思わずキルナは目頭を押さえる。
「……なんだって、突然自分で作ろうなんて考えるのよ」
 セライムのそんな顔を見ると、思わず問わずにはいられなかった。
「――ん」
 腕を組んで本棚にもたれかかるキルナの前で、セライムはちらっと鍋の中身を見下ろし、そうして俯いた。そんな目の前の少女にふと寂しい影が落ちた気がして、キルナは目を瞬かせて黙る。
 僅かな沈黙の後、セライムの深い青の双眸はその色を滲ませ、くっとその拳が握られた。
「もう、あと少しだと思ってな。ここで暮らすのも」
 わざと明るい声をだして、セライムはキルナに笑みを向けた。はっとして何かを言いかけるが、見知った親友の笑みは妙に覇気がなく、返す言葉が見つからない。
 幼学院に入学してこの少女に出会ったのは、まるで昨日のことのようだ。そのくらいに時は矢のように過ぎていき、気がつけばもう自分たちは高等院に進学しており、卒業も一年半後に待っている。
 この学園の性質上、生徒の多くは研究者として都市に残るだろう。しかし、この少女は――。
「だから、沢山のことをしておきたいんだ」
 目を逸らしながらそう漏らす少女を、黙ってみていることしか出来ない自分にキルナは気付いていた。故に言葉はひどく胸に突き刺さる。
 気付かれないように溜め息をついて肩をおとす。そして卑怯な台詞だと思った。そんなことを言われたら、もう放っておくなどできはしない。
 キルナ自身にとって、刻々と近付く卒業という節目は実感の沸かない遠いものだ。しかしそう思っている内に季節は巡り、それはやってくるのだろう。そして、それまでの時間はたったの一瞬だ。そのことを、セライムは分かっているのだろう。彼女がこの都市を去る、その日までに残された時間があまりに短いことを。
 せめて自分に出来ることは、その間に彼女と楽しい時間を過ごすことだけか。キルナは胸の痺れを無視して、苦笑しながらそっと頷いた。その為なら、このくらいは彼女の親友としてやらなければいけないのかもしれなかった。


 ***


 結局キルナはセライムの料理の面倒を見ることにしたようだ。なんだかんだで人のことを放っておけない奴である。
 ――いや、まあ確かにあれを放置すると警視院が出動するような大惨事にもなりかねないから、それを阻止すべく立ち上がっただけなのかもしれないのだが。
 ちなみに今日会ったキルナは、連日の料理講習で生ける屍のような顔をしていた。セライムにおいては毎日『楽しく菓子が作れる』そうで、とても生き生きとしている。聖ユーノ祭を明日に控え、今日一杯までキルナの受難は続くだろう。
 暦も秋に入ったグラーシアは、残暑が相変わらず尾を引いていたものの、夕暮れになるとようやく涼やかな風が吹き込みはじめていた。ひんやりとした優しい風の心地よさにほっとする気分で学園を後にし、鷹目堂へ向かおうと学園の正門をくぐる。
「うん?」
 ――と、俺は見慣れた後姿を人並の中に見つけていた。
 若干癖のある茶髪、同じ色の鞄を片手に一人で歩いていくのは――エディオだ。
「珍しいな」
 口の中で呟く。あいつは大抵この時間は研究室に行っているはずなのに、こんなところをうろついているなんて滅多にないことだ。一度寮に戻るつもりだろうかとも思ったが、すぐにそれは打ち消された。寮に向かう横道を素通りして、エディオはもう一つ向こうの道を曲がっていったのだ。
 思わず俺はエディオが曲がった道まで早足で行って、向こうを伺った。こちらの方角は確か、研究所区域の方面にあたる。
 幅が広く人もまばらな道を、エディオはよどみない足取りで真っ直ぐ進んでいく。そうして、ある一点で足を止めて一つの建物を見上げた。
 とても遠かったから、横顔がどんな表情をしていたのかはわからない。そのままエディオは迷うことなく門をくぐり、中に入っていった。
「――?」
 俺はわけがわからず首を傾げる。あそこはあいつが働いている場所なのだろうか?
 ――いや、違う。エディオがこの半年、俺やセライムのようにどこかへ働きに行っているなんて話は聞いたこともないし見たこともない。
「あれ?」
 ふと、そう考える内にある疑問につきあたる。エディオの身の上は知らないが、長期休業期間中にフェレイ先生の家にいたということは、何かしらの理由で実家に帰れないということだろう。なのにエディオは選択すれば学費が跳ね上がる医学を専攻している。働いていないエディオは、帰ってもいない実家の人たちに学費を払ってもらっているのだろうか?
「――俺と同じくらいに謎な奴だ」
 もうここに来て半年が経つというのに、あいつのことをほとんど知らない自分に気付く。
「自分のことばっか考えてたからなあ」
 苦笑して、ちょっとした好奇心を胸に道を曲がって歩き出した。あいつが入っていった建物がどんなものか、見るくらいなら怒られないだろう。
 それにしても何の建物だろう。ひょっとして、水着のお姉さんが勢ぞろいで待っててくれるような特別サロンだったりして――!
「マジか」
 顔をあげるが、三秒で打ち消す。ここは仮にも研究所区域だ。そのようなお店は離れた歓楽街の方に行かないと期待できないだろう。そんなことを考えている間に、エディオが入っていった建物が見えてきた。
 歩きながら見上げると、まずその大きさに驚く。勿論学園とは比較にならないが、男子寮と女子寮を足したくらいの敷地があるんじゃないだろうか。
 硬質で何処か冷たい空気を醸す白い建物は、背の高い外壁に囲まれていた。中には庭のようなところもあるのか、外壁の向こうには背の高い木が見える。
 建物の壁には一面に規則正しく並んだ窓。その下を無骨な白いパイプが何本も走る。敷地内には複数の建物があり、それらが組み合わさった様子はまるで積み木のようだ。
 そんな外見に思い当たる施設名が頭に思い浮かんだそのとき、俺は入り口らしき門の前に辿り着いた。
 ――グラーシア国立病院。
 年季が入ったプレートを掲げたその建物を、俺は正面から見上げた。
 ここから実際の建物の入り口までは10メートルほどの距離があり、その間に植え込みの木や草花が丁寧に手入れをされた様子で点在している。また、そこには車椅子に乗った老人、それに付き添う職員らしき女性や、抱えた書類に目を落としながら足早に建物に入っていく白衣を着た男性なども見えた。
「――病院?」
 確かにエディオは先程この中に入っていった筈だ。だが、首を捻る。医学専攻であるものの、まだ学生であるエディオがこんな所に何の用事だろう。
 空は晴れているというのに、また建物自体もそう古くはなさそうなのに、エディオが消えていった建物は重々しい雰囲気に包まれている。病院、という施設独特の空気がそう思わせるのかもしれない。
 眺めている内に、どこかこちらを圧迫してくるような嫌な寒気を感じて、俺は早々にその場を立ち去ることにした。ちょっとフェレイ先生の気持ちもわかる気がする。ここには出来ることなら世話になりたくない。
 口の中でそう呟いて、踵を返した。エディオのことは気になるが、正直ここに長居したくはない。それに、あまりここでぼんやりしていては鷹目堂に行くのが遅れてしまう。
「――ん?」
 つきん、と体が糸で引っ張られたように強張ったのは、その瞬間だった。
 胸が冷えるのを感じながら反射的に振り向く。
 なんだろう。背筋が凍るような、この気配は。
 突然現実が揺らめいた気がして、何度も確かめるようにして周囲を探った。
 しかし、ここは大通りと同じくらいの幅がある大きな通りで、人の気配に溢れている。周囲を歩く人たちを一人一人伺って、鋭く突き刺さる気配などないことを確かめたが、それでも俺は一歩二歩と後ずさった。
「なんだ――?」
 背筋に電流のようなものが疼いている。誰かに見られていたような気配だった。それも――刃のような冷気を秘めた眼差しで。
「――」
 まさか、とかぶりをふる。きっとこの国立病院の重苦しいイメージに必要以上に不安になっているだけだ。
 風が吹き抜けて、優しく体温を奪っていく。息苦しさなど、感じる理由はない筈だ。
 だから、俺は背中に張り付く暗い気配を振り払うようにして、足早にその場を立ち去った。


 ***


 夜のことである。
「キルナ、見てくれ! チョコレートを原材料から作ると味も良くて応用もきくみたいなんだ」
「ほざくんじゃないわよッ! そういうのは普通のお菓子成功させてから言いなさいっ」
「いや、うまくいかないのは材料のせいかと思ってだな」
「あんたよ! あんたのその腕のせいよっ!!」
 グラーシア学園女子寮の一室は、普段の幾倍も騒がしい晩を迎えていた。だが幸いなことに今宵は聖ユーノ祭前日であり、菓子作りをしている女子も多いのでどの部屋も全体的に賑やかだから、そう迷惑にはなっていない。
「……ねー、セライム、これ、何……?」
 椅子に座ってテーブルの上の一口サイズの黒い物体を指でつんつくするチノに、セライムは笑って答えた。
「クッキーだ、昨日作ったよりも形になってきたと思わないか? 食べていいぞ」
「……ううん、いいや」
 甘味が大好きなチノも流石に首を振って拒否する。一体、何をどうすればこんなものが出来るのだろうか。
 あれこれキルナが指導してはいるのだが、セライムのやることはどれをとっても凄まじいの一言だ。一をやれといえば三をやり、かと思えば三やれといったことを一しかやらない。妙なところでこだわったり、妙なものを『隠し味』と称して入れたがるので、今のところあの姉がついているのにまともなものが完成した試しがなかった。
「よしキルナ、次こそ成功する気がするぞ」
「……チノ、代わりにやって」
「えっ、無理だよ、わたし」
 燃え尽きた運動選手のような面持ちで流しに手をついて項垂れるキルナに、チノはぷるぷると首を横に振った。チノとて、菓子を作れといわれたら出来ないことはないが、この金髪の少女のお守りとなるとまるで自信がない。
「もう一踏ん張りな気がするんだ」
「どうもう一踏ん張りなのよ……」
 キルナはがっくりと肩を落として、再びレシピ本を覗き込むセライムを心底うらめしげに見やった。聖ユーノ祭は明日に迫っている。これでは今晩は眠れそうにない。
 ――もうこの際、フェレイ先生には尊い犠牲になってもらおうかな、とちらっと考えてしまう夜だった。




Back