-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち 29.聖ユーノ祭 容赦ない日差しが照りつける今年の夏は気温の上がり方も激しく、もう夏季休業も残り僅かだというのに厳しい残暑が続いていた。大地深くに根を張る木々などはまだ青々とした葉を茂らせているが、庭先の草花などはすっかりしおれてしまっている。 「――なんなんだ、この暑さ」 へたり、とフェレイ先生宅の居間で机に伏す俺の横を、キルナが雑誌で顔を扇ぎながら通っていった。 「ほんと、勘弁して欲しいわよ。もう授業が始まるっていうのに」 「あうー、お姉ちゃん、氷菓子食べたいー」 「さっき食べたでしょ、おなか壊すわよ」 チノはソファーにだらしなく身を預けてぐったりしている。朝食をとった後の時間、何もすることがないと決まって外に遊びに行こうとするこいつも、流石に暑さで動けないようだ。 他の面子も、各々同じような具合に潰れていた。朝食を終えるなり出て行ったエディオですら、横顔にうんざりした表情が見えたくらいだ。 夏季休業は残すところ僅かとなり、あと三日で授業が始まる。しかしこの様子だと、始業までにとても猛暑は和らいでくれそうにない。こんな外を歩いて授業を受けにいかなければいけないなどと考えた日には全てのやる気を喪失しようものである。 最初は冷たかった机も体温で生ぬるくなってしまって、俺は仕方なく起き上がって背もたれに体を預けた。暑い。 「皆さん大丈夫ですか?」 フェレイ先生が二階から降りてきて、死屍累々といった居間の様子に首を傾げる。その姿にどこか違和感があったが、暑さで半分とろけた頭では考える気も起きず、適当に挨拶するに留めた。 「あとで氷菓子でも買い足しましょうかねえ」 のんびりとそう言いながら、フェレイ先生は台所に消えていった。まるでいつもと変わらない。着ているものもいつもの薄手のローブだし――。 ……。 ローブ? 「……うん?」 ちょっと待て。 薄手っていったって、先生の着ている服は全身をゆったり覆う典型的なローブだ。いつも似たような服を着ているから気に留めなかったんだが、あれ、すごく暑いんじゃなかろうか。しかも台所に消えていった――って、この陽気で熱い紅茶を淹れるつもりだろうか。 「よくあれで暑くないよねえ」 チノも同じことを考えていたのか、ソファーに伸びたまま元気のない声をだす。 「いつもあんなんなのか」 「先生が半袖着てるところなんて見たことないわよ。しかも、この季節で熱い紅茶飲んで汗一つかかないのよ」 病気なんじゃないのかしら、とキルナは髪に手を突っ込んで、ふと視線を傾けた。その先にいるのは、俺たちとは離れたところで暑さも忘れた様子で椅子に座り、なにやら紙を覗き込んでいるセライムだ。 「セライムー? 何やってんのよ」 「――ああ」 セライムは生返事をしつつ、背筋を伸ばして両手で持った紙を凝視している。キルナは怪訝そうな顔をして近寄り、後ろからセライムが見ているものを覗き込んだ。すると形の良い眉がぴくりと動く。 「――なに、これ」 「うわっ!」 真後ろで声をだされたからか、セライムは椅子から飛び上がった。その拍子に持っていた紙がぱさりと床に落ちる。 「き、キルナ! いつの間に後ろにいたんだ」 「だって話しかけても聞いてないんだもの。なーに、これ」 「なにー? セライム何見てたのー?」 ソファーに伸びていたチノも興味が沸いたのか、キルナとセライムの間に分け入るようにして覗き込む。おもしろそうだったので、俺も席を立った。 「い、いや、そんなに大それたものではないんだが」 慌てるセライムを横目に、キルナとチノが覗き込んでいるものを俺も拝見する。 ――そこには。 「う、うおっ!」 「わっ」 「ちょっ」 それが目に飛び込んできた瞬間、俺は双子を押しのけて一枚の紙を手にし、食い入るように見つめていた。 黒いインクで輪郭が描かれ軽く色づけされただけの小さな絵と、そこに添えられた短い文章。それらが紙一面にいくつも散らばっている。 「こ、これは――」 「カレンジュラの今度の聖ユーノ祭用に売り出す小菓子だ」 カレンジュラとはセライムが働いている喫茶店で、持ち帰り用に小菓子も売られている。おずおずと説明するセライムの横で、俺は爛々と目を輝かせ新作の菓子たちの絵を喰らいつく勢いで見回した。 オレンジの香りのチョコレートの詰め合わせ、焦がしたキャラメルと木の実を混ぜてクッキーで挟んだ焼き菓子、粉チーズを振り掛けて香ばしく焼き上げた棒状のパイ――味を想像しただけで史上の喜びに包まれる。 「――行かなくては」 戦場に赴くことを決意した騎士よりも熱い使命感を胸に、重々しく頷く――と、ぱこん、と俺は後ろから雑誌で叩かれた。 「あのね、あんたが買いにいってどうするのよ」 「んな?」 振り向くと、キルナが呆れきった顔で手を腰にやっている。その隙にチノが俺の手から宝の地図をかすめていき、にやつきながら値踏みを始めた。こいつも相当甘いものに目がないのだ。 「そうだな、それは聖ユーノ祭用だと言ったろう?」 セライムが苦笑してくれるのを見て、首を傾げた。 「なんだ、それ」 「この地方にはな、聖ユーノ祭といって女性が大切な人に小さな菓子や花をあげる習慣があってな。うちの店も、その日にあわせて沢山小菓子を作って売るんだ」 「へえ。男が買ったらいけないのか?」 「変な趣味があると思われたいんだったら、いいかもね?」 極上の笑みで残酷に言い放つキルナに、がくりと肩を落とす。確かにそれはちょっと頂けない。 「大丈夫だよぉー、お金くれればわたしが買ってきてあげる」 「マジかっ」 ソファーに座りなおして足をばたつかせながらどの小菓子を買うのかを算段していたチノは、こちらを見てキルナと寸分違わぬ笑みを見せた。 「学食のイチゴパフェ奢ってくれたらねっ」 「ぐほっ」 さりげなく見返りを要求してくるこいつはやっぱりキルナの妹なのだと再確認させてくれる。 「そうね、あんたが美男子でモテモテだったら黙ってても大量のお菓子が舞い込んでくるんだけど、まあ、それじゃあねえ」 「……頼むキルナ、皆まで言うな」 品定めするように俺の顔をまじまじと見てくるキルナに切に頼む。俺だって女子にときめかれる容姿でないことは分かっているが、はっきり言われると立ち直れそうにない。 ふと見ると、会話に参加しないセライムは先程と同じく何か考え事をしているようだった。 「セライム、どうかしたのか」 「あ、いや」 セライムはぴくりと顔をあげると、曖昧に笑って手を振る。 「売り子をやるから品名と値段を覚えなくてはいけないと思ってな」 そうは言っているが、どこか心ここにあらずといった様子だ。何か悩み事だろうか。キルナも俺と同じ印象を持ったようで、怪訝そうな目をしたが――こちらは何か思い当たる節があったのか――。 ――キルナは、寒気を覚えたように顔を引きつらせた。 *** 「なんだい、この暑さは。世界が終わるんじゃあるまいね」 一ヵ月半ぶりに再会したスアローグの第一声はそれだった。始業の二日前、学生寮の運営が再開したので、フェレイ先生の家に厄介になっていた俺たちもそれぞれの寮に戻ってきている。大きな鞄をひっさげたスアローグが現れたのは、部屋の暑くこもった空気に顔をしかめながら扉と窓を全開にし、久々に自分の寝床に腰を下ろした矢先だった。 半袖のシャツの襟元を指でつまんでぱたぱた動かしながらスアローグは荷物を降ろし、いつものテーブルに備え付けられた椅子に腰掛けた。 「エディオは?」 「荷物降ろしてどっか行ったぞ」 結局この夏休みでエディオと話すことはほとんどなかった。エディオは意図して俺を避けてるんじゃないかと思えるくらいに、俺のいる場所に姿を現さない。 スアローグはちらっとこちらを見て、まあ彼らしいね、と言って持っていた新聞を興味なさげにテーブルに捨て置いた。 「全く、列車で暇つぶしに新聞買っても同じ記事ばっかだしさ」 「お、この前の官僚殺人何か進展あったか?」 ちょっと身を乗り出すと、スアローグは新聞をこちらに放ってくれた。数日前、首都アルジェリアンで著名な政府の官僚が殺害されたのだ。この大事件は瞬く間に大陸全土を駆け巡り、ここしばらくの新聞はこの事件について騒がしく特集が組まれている。何でも猟奇殺人だったそうで、被害者は刃物で滅多刺しにされていたそうだ。犯人はまだ捕まっていない。 俺は興味本位で事件がどうなっているのか知りたくて、新聞を覗き込んだ。しかし、これといって進展はないようだった。新聞の一面には亡くなった官僚の葬儀の様子が記されている。 「犯人未だ逃走中――やだなぁ、この辺にいたら」 「平気だろうよ、どうやら恨みの犯行らしいからね」 それにしても物騒な世の中だねえ、とスアローグは頬杖をついてぼやいた。全くである。もっと明るい話題はないものかと新聞をめくっていると、つい最近聞いた単語が目に飛び込んできた。ページをめくる手を止めて見入ると、やはり間違いない。――聖ユーノ祭だ。記事に目を通すと、今年の人気の小菓子の情報などがつづられている。 「スアローグ、聖ユーノ祭って知ってるか?」 「え? うん、そういえばもうすぐだったね」 スアローグも知っているということは、やはり有名な行事のようだ。そう言うと、スアローグもそりゃね、と片頬だけで笑った。 「本来は南の地方で花を贈る習慣から始まったそうだけど、今じゃ国民にとっての一大イベントだね。ま、菓子屋の陰謀だよ」 こいつの言うところによると、この学術都市グラーシアは都市柄そのような行事に疎く、菓子屋が専用の小菓子を売り出す程度だが、こいつの実家のある町では祭りに向けて特別に町中が飾り付けられているらしい。 「大掛かりな行事なんだな」 「そりゃあ、若者が好きそうな話じゃないかい。女子たちが色めきたってただろう?」 「あー。確かにセライムも様子が変だったっけな」 「――え?」 ぼりぼり頭をかきながら何気なく呟いた俺の言葉に、スアローグの眉が跳ねた。 「セライムが?」 「ん? ああ、菓子の絵見入って考えこんでたぞ」 「……それは」 段々と雲行きが怪しくなっていくスアローグの表情に首を傾げると、スアローグは視線を逸らしながら顔を引きつらせた。 「どうかしたのか?」 「うん、ちょっとね」 言いにくそうに言葉を濁す。そうして明後日の方向を向いたスアローグは、俺にぎりぎり聞こえるくらいの声で呟いた。 「もしかすると、嫌な予感がするねえ……」 *** 二日後、久々の賑やかな学園に足を踏み入れ、久々の人ごみにもまれながら教室にたどり着くと――。 キルナが、机に突っ伏したまま動かなくなっていた。 「――おい?」 やっぱり、という顔で肩をすくめるスアローグの隣で、俺は目を剥く。こんなキルナを見るのは初めてだ。手折られた花のようにしなだれているキルナの横で、セライムが立ったままおろおろしている。 「あ、ユラス」 所在なげに目線をさまよわせていたセライムはすぐにこちらに気付いて、しめたといわんばかりに挨拶もせずキルナを指差した。 「聞いてくれ、キルナが――」 「ユラス」 瞬間、思わず飛び上がりそうになるような低い声が被さる。隣のスアローグと共に身を凍らせてその発言元――キルナを見ると、ぎぎぎ、と顔をあげて鬼のような形相でこちらを睨んでくれた。 「いっ」 反射的に一歩身を引いた俺に、キルナは逆にセライムを指差した。 「――この子を止めて頂戴」 「な、なんでだキルナ!」 机に手をついて反論するセライム。話が読めているらしきスアローグは、遠い目でやりとりを眺めている。 「あんたねぇ――」 頭痛を覚えているのかキルナはこめかみに手をやりながらセライムを睨んだ。なんだ、仲の良いこいつらがこんな険悪な雰囲気になるなど、よっぽどのことがあったのだろうか。 「ど、どうしたんだ」 「どうしたもこうしたも」 「そうだ、聞いてくれユラス」 二人は同時にばんと机を叩いて、きっ、とこちらを向いた。 「セライムが!」 「キルナが!」 ぎょっとして思わず後ずさる俺に、二人はそれぞれ声を張り上げる。 「今度の聖ユーノ祭は自分でお菓子作るなんて言い始めたのよ!?」 「それをキルナが許してくれないんだ!」 ……。 ふっと、俺の脳裏を夏の出来事が掠めていった。 そう、あれは確か夏季休業中、フェレイ先生の家でセライムに朝食作りを手伝って欲しいといわれた日のことだ。二人で台所に立って料理をしたあのとき――。 ――うん? 塩味がききすぎたか? じゃあ砂糖で中和すればいいかな ――あれ、なんか味が違うな。隠し味をもう少し入れて、あ、これも入れてみよう! おいしくなるかもしれない ――ああ。色が紫になったが、まあ栄養はいい筈だぞ。色々入れたからな! ――炒めるときはあれだろう、こうやってフライパンを揺らすといいんだろう、ふんっ! ん、わっ、火が燃え移った!? ――ゆ、ユラスどうしよう、野菜を切ったらまな板まで切れてしまった! 「……」 俺は、思い出を胸いっぱいに反芻して頷く。 そうして、にっこりセライムに笑いかけた。 「やめとけ」 「なっ……」 俺を味方につけようという目論見を失敗させたセライムは何歩かよろけて、悲痛な表情でこちらを見た。 「なんでだ!」 悲痛な表情になりたいのはこっちである。 「や、そんなこと言われてもな」 ちなみにあの日の朝食の出来は、もう思い出したくもない。キルナがこのようになるのも頷けようものである。なんていうか――これだけは喧嘩をしてでも阻止した方がいい気がする。万人の平和の為に。 「でも、なんだって手作りしたいんだ?」 「手作りの方が気持ちがこもるじゃないか」 憮然とした表情でセライムは口をとがらせる。 「それに、別にキルナに教えてくれと言っているわけでもない。一人で責任を持って作るつもりだ」 「……そんな恐ろしいこと、できるわけないじゃない」 頭を抱えるキルナの気持ちはよく分かる。こいつの料理は見ていても恐ろしいが、見ていないともっと恐ろしい。 「大丈夫だ、簡単なものにする! 迷惑かけないから」 どうやらセライムもかなり本気のようで、退く気はないようだ。 「で、誰にあげるつもりなんだ?」 どのように手をつけようかと考えながら俺は問うた。一体誰が被害者に予定されているのだろうか。 「あ、ああ」 セライムは少しためらって、俯きがちに呟いた。 「――その、フェレイ先生にと思ってな。いつも迷惑をかけていたから」 ……。 キルナは顔を手で覆い、スアローグは力なく首を振って虚空を見上げ、そして俺は真っ青になった。 Back |