-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

28.俺が終わるその日まで



 朝もやに落ちる世界に、淡い月が名残惜しそうに浮かんでいた。
 俺がこの家を出たときと同じ夜明けの時間、庭にある木製のテーブルと椅子はしっとりと朝露に濡れている。
 椅子に腰掛けたまま、俺は空を仰いでいた。澄んだ空気が頬をひんやりと撫でる。そうしている内に、優しいもやは次第に晴れていき、日差しが差し込み、世界が一日の始まりを予感して輝き始めていった。今日も、暑くなりそうだ。
 遠くに霞んで消えていく月を眺めるようにして、俺は空を仰ぎ続けていた。
 何故だろう。そうやっていれば、必ずあいつがやってくるのだという、確信にも似た予感があった。
 空は建物に囲まれて切り取られているにも関わらず、高くのびやかな広がりを感じさせる薄い青だ。目を凝らして、その奥を見つめる。こんなにもしっかりと空を見上げたのは、初めてかもしれない。
 この空の何処かに俺が生まれた地があるのだろう。きっと何処かに、記憶を失うまでにいた場所があるのだろう。
 しかし、こんな空を見ていると、その地で生を受けたのではなく、あの遠い空の彼方からやってきたのだと思った方がしっくりくる気がする。そこにある現実感のなさが一致しているのかもしれない。
 少しだけ、一人で笑った。なんだ。俺は突然空から降ってきたトンデモ人間か。美少女じゃないのはおあいにく様か。でもって未知なる力が使えちゃったりするんだ。なんせ俺は空から降ってきたのだから。
 ああ、なんだかもう、それでいいのかもしれない――。
 俺の予感に答えるように、遠い空に影が生まれた。ぐんぐんと一気に急降下して近付いてくる。俺は、その名を――呼んだ。
「セト!」
 優しく澄んだ空気に、声が染みていく。
 セトは俺の目の前に降り立つと、いつもと同じように胸を張って俺を見上げた。
「よお、元気か」
 苦笑して片手をあげると、セトも答えるかのようにぴんと頭をもたげる。だから足を組んで、にやっと笑ってやった。
「お前、俺の過去を知ってるんだろ」
 それは紛れもない事実。こいつは俺を、あの地に連れていってくれたのだ。
 それに、――俺の髪の色と同じ、紫色の翼。周囲から浮き出るような鮮やかな紫を持った俺とこいつは、もしかしたら兄弟みたいなものだったのかもしれない。
「ありがとうな、連れてってくれて」
 自分で放った言葉に、胸が重くなって手をやるが、構わず続ける。
「でも、もう大丈夫だ。もうやめにする、昔の記憶を無理に手繰るのは。俺は、今のまま生きていくよ」
 そう、俺はこのいびつな体を抱えて生きていく。いつか終わるのかもしれない、その終わりはもしかしたらすぐそこにあるのかもしれない。
 だけれど、それでも。
 今の俺には、今の俺としての世界がある。もう、一人ではないのだから。
 いつか、俺が終わるその日まで。
 喉の奥だけでそう紡いで、足元の紫色の鳥を見下ろして、にやりという擬音が似合うような笑みを見せてやった。
 それは精一杯の強がりだったけれども、でも、そうでもしないと俺は変われない。
 春に目覚めてから、ぐるぐると回った先にやっと見つけた、一つの誓いを、俺はしっかりとこの体で告げた。
「俺は今のユラス・アティルドとして生きていく」
 いつか見た、そして今の俺として見た、あの青く真っ直ぐな双眸を持った影のように、強くはなれなくとも。きっと、笑っていられるように。だから昔のことは、そっと蓋をしたままにしておいた方がいいのかもしれなかった。
 俺としっかり視線をかち合わせたセトは、やはり表情のない鳥の顔で、しかし何処か笑った風に見えた。だが、それを確かめることは叶わない。セトはぐんと翼を広げ、あっという間に大空と舞い上がってしまったのだ。
 本当に気まぐれな奴である。でも、きっとまたふらりと姿を見せるだろう。あいつは、そういう奴だ。
 紫色の羽根が数枚、残り香のように空を舞う。そうだ。もしもいつか俺が強くなって、全てを受け入れることが出来るようになったら――また、セトにあの地に連れていってもらえれば――。
「ユラス?」
 からから、と居間に続く戸がひかれて、セライムがひょっこり顔をだしたのはそんな時だ。
「ん、ああ」
 座ったまま振り向くと、セライムは昨日の一件があったからか、こちらを伺うようにする。だから、立ち上がって腰を手にやった。
「ああ、昨日は悪かった。もう元気だし、大丈夫だ。安心して胸に飛び込んでこい」
「――何言ってるんだ、お前」
 がくりと体の力が抜けたらしいセライムは、しかし呆れたように笑ってくれた。
「キルナとチノがいないから私が朝食を作ろうと思うんだ、手伝ってくれないか」
「おお、それは手伝わないと家が燃えるな」
「それはどういう意味――」
 セライムは不審げに目を細めたが、その先は後ろからの声に途切れて消えていた。
「おはようございます」
 セライムが振り向き、その先にいる人に俺も顔をほころばせた。
「先生」
 いつもの薄手のローブを着たフェレイ先生が、やはりいつもの様子で階段を下りてきていたのだ。
「おはようございます、先生」
 セライムがぱっと顔を明るくさせて挨拶すると、フェレイ先生もふんわり笑う。
「ええ、おはようございます、セライム君。ユラス君も、早いですねえ」
「はい、朝食作りを手伝うことになって」
「そうでしたか。あ、では出来ればサラダに入れるピーマンは控えめで」
 さりげなく切実な希望を付け加えてにっこり笑うと、先生は紅茶を淹れに台所へ向かった。
 ――いつもの朝だ。これが、今の俺が手に入れた日常だ。そう思うと、鈍く沈んでいた心が少しだけ救われる気がした。
 フェレイ先生の後姿をしばらく眺めて、俺も室内に入る。
 ――これからもこの日常を守っていこう。
 後ろ手に閉めた扉の向こうで、落ちた紫色の羽根が朝露に濡れて静かに光っていた。


 ***


 女は、紫の少年が家に入っていったのを見届けると、ふわりと屋根の上から浮かび上がった。
 短く切りそろえられた灰色の髪が鮮やかに舞ったと思った次の瞬間、女の姿は元からなかったかのように掻き消えている。流石に空間転移の術を行使したわけではなかったが、女の体が突風のように俊敏に動いたことで、瞬時の移動を果たしたのである。
 早朝、人のない道に降り立った女は、灰色のローブについた同じ色のフードを被り、己の忌まわしい姿を隠して細い道を歩き出す。
 紫の少年があの地へ向かったことは、十分想定内の範疇にあった。――むしろ遅いと思ったくらいだ。そして、そこに行ってしまった時、彼は壊れてしまうのだと思っていた。
 だからそれで終わりにしようと。壊れた彼を始末して、己の世界が終わるのを静かに待とうと、そう考えていた。
 しかし――。
 灰色のローブを着た女はふと立ち止まり、折れてしまいそうな灰色の手を己の胸にやった。
 彼があの地に向かった時、この胸には安堵が満ちたはずだった。これで終わる。終わってくれる。長い長い歪みの連鎖が、ついに断ち切られる。そう思っていた筈だった。
 ――なのに、どうしてだろう。どうして――自分は、胸に別の感情を抱いてしまったのか。彼が壊れていくことに、刺されるような痛みを感じたのか。
 違う、と女は自分に言い聞かせた。痛みなど感じる筈がない。彼も自分も、こんな明るい場所に生きてはいけない存在なのだ。だから女は全てを呑み込んで彼を監視し続けた。彼が終わるその時を、その機会を、ただ待っていた。ぽっかりと穴の開いた胸には、もう何かの感情に満たされるわけがなかったのだ。
 女は顔を伏せる。世界が朝の訪れに輝きだす中、一人だけ灰色に身を沈める己の姿を滑稽と呼ぶ他にあろうか。

 数日前。始まりの地に向かった紫の少年を、女は感情を殺して追った。彼を始末する為に、全てを終わらせる為に。
 そして、あの地での出来事。崩れ落ちた紫の少年に近付こうとした女は、目の前の出来事に息を呑むことしか出来なかった。
「――まだ、生きていたの」
 唇だけを動かして、音もなく呟く。
 女と同じ、灰色の体を持つ者。
 彼が紫の少年を連れ去った時、女は驚愕で動くことが出来なかった。彼が何を思って紫の少年を助けようなどと思ったのか、女には理解できなかった。あんなにもあの紫の少年から目を逸らし続けていた、あの彼が――。
 女は歩みを止めずに日陰を選んで進み行く。紫色の少年は、再び生きることを選択した。ならば、彼を監視し続けることが女の使命。女は都市の裏道を南へ下り、都市でも暗部と呼ばれる地域に足を踏み入れた。
 明るく華やぐ中心部とは打って変わった、寂れた猥雑な場所。早朝の時間、この辺りは眠りについてしまう為に人気はない。都市に美しさを求めすぎたが故に凝り固まった、欲望の渦巻くその区域へ、体を休める処へと女は急いだ。――急ぐ理由が、女にはあった。
 しかし、その足が止まる。風が吹いて、落ちた紙くずが舞う。
 女はぴくりとフードの中の顔をこわばらせた。
 人影のない通りで、ふわりと目に見えぬ流れが操られ、女の少し先に小さな影が降り立ったのだ。
「――ドミニク!」
 僅かの叱責を含む声で、女は短く名を呼んだ。魔力の残滓を楽しむように手でもてあそぶのは、一人の子供だった。
 年はまだ10にもなるかどうか、大きな幼い瞳に細い体、遠くから見れば何処にでもいそうな子供だ。――その体の全てを女と同じモノクロームに染め上げられていなければ。
 名を呼ばれたのにわざと気付かないふりをして魔力を放っては遊ぶ灰色の子供に、女はフードを下ろし、顔に険しいものを刻んで歩み寄った。
「勝手に外にでてはいけないとあれ程言ったのに。それに魔術を使うなとも」
「いいじゃない」
 子供は光の玉を生み出していじくりまわしながら、女の顔を見ようともしない。女はぐっと拳に力を込め、荒げそうになった声を落ち着けて出来る限り小さな声を紡いだ。
「ここは前にいた場所ではない。その力はとても目立つ――帰りましょう。薬はちゃんと飲んだの」
「シェンナはいつもそうだ」
 突然、敵意すら孕んだ目で子供は女を噛み付くように見上げた。モノクロームの重さを秘めた大きな瞳は中性的で少女のようにも少年のようにも見え、幼い顔には似合わぬ深い闇がある。眼光の強さに少なからずたじろいでしまうのを、女は表情にださないようにした。隠されぬ純粋な感情が浮かぶからこそ、子供の瞳は時に大人を貫く。
「僕を閉じ込めてばかり。それになんであんな奴生かしておくんだ」
「ドミニク!」
 先程よりは小さく、しかし幾倍もの叱責を帯びた音色で、女は再度子供の名を呼んだ。だが子供はくすり、と年相応の、それでいて残酷な笑みを浮かべる。
「今度、僕も様子を見てこようかな」
「いけない」
 女は短く切ると、半ば無理矢理に子供の手をとって歩き出した。彼らは目立ってはいけないのだ。彼らは、歪んでしまった彼らは、暗がりに生きることしか出来ないのだ。
「彼に会ってはいけない」
「なんで」
 不快そうに歩き出しながら子供が反論する。女は返答の代わりに手を握る力を強めた。この子供が春からあの小さな部屋に押し込まれ、窮屈な思いをしているのは知っている。しかし、今のあの紫の少年の姿を見たら、この子はどんな顔をするだろうか。
 だから、彼に会わせてはいけない。
 壊れてしまうのは――あるいは、この子の方かもしれないのだ。
 脳裏に過ぎった嫌な予感を振り払うようにして、女は帰路を急いだ。
 子供はもう口答えはしなかったが、濁った色の大きな瞳は何かを思案するように、静かに瞬いていた。




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