-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

27.ありえない存在



 目を覚ましたとき、部屋は暗がりに落ちていた。
 うたた寝のような浅い眠りを繰り返して、どれくらいが経ったろう。ぼんやりと思い出す先には、魔術を行使してみせた俺に向けられた言葉。今は何も考えずに休んでいて下さい、と畏怖や嫌悪ではなく、ただ痛ましいものを見る目でこちらを見据えた、フェレイ先生の顔だ。
 あれからいつ眠りに落ちたのかはよく覚えていないし、もう、部屋には誰もいない。いつの間にか、額には再び濡れた布が載せられていた。しばらく取り留めのないことを考えながら紺色に落ちる部屋を眺める。
 しかしそうしていても眠気は訪れなかったから、おもむろに体を起こした。眩暈がしたが、我慢できないほどのものでもない。
 フェレイ先生が座っていた椅子は、今はぽっかりと寂しくベッドの脇に佇んでいる。先生は今、どうしているんだろうか。
 ベッドから抜け出して、ふらつきながらも部屋をでる。廊下には灯りがともっていて、その明るさに顔をしかめた。耳をすませば、子供の話し声が階段の方から聞こえてくる。ここは確か三階の筈だ。壁に手をつきながら階段に顔をだすと、丁度フェレイ先生と幼い生徒たちが二階にあがってきたところだった。
「ぁ――」
 フェレイ先生は、きっと居間で眠りこけてしまったのだろう幼い子を腕に抱いていて、その横を少し年上の少女が歩いていた。
「せんせー、約束だよ。明日もちゃんと、続き読んでね?」
「はい、分かっていますよ」
「読まなかったらキルナお姉ちゃんに頼んでご飯全部ピーマンにしちゃうから」
「――そ、それは大変ですね。ええ、約束しますよ」
 フェレイ先生にじゃれつく幼い声と、苦笑まじりに答える優しい声。
 そのまま二階に降りていくと、フェレイ先生は俺に気付いてにっこりと笑った。
「おや。ユラス君、起きたんですか」
「あ、ユラスお兄ちゃん」
 はっと瞳を大きくさせた幼学院四年生のアザリアは、俺の姿を見るなり心配そうに首を傾げた。
「もうお風邪、平気なの?」
「……あ、あぁ」
 俺の気まずい返答に、そばかすの浮いた顔でそっか、と笑うアザリアを、フェレイ先生が促した。
「ほら、アザリア君。もう遅いですから、お話はまた明日にしましょう?」
「むー。私だってもう12歳なの――ふぁぁ」
 アザリアが噛み殺せなかった欠伸をして、フェレイ先生はほころぶように笑った。
「ほら、眠いときは眠らないと、大きくなれませんよ」
「むー」
 ごしごしと目をこすったアザリアは不満そうにはぁい、と返事をして俺に手を振ると、少し先にある部屋の扉を開いた。すっかり夢の中にいる一番年下のルルーネを抱いたフェレイ先生も続いて中に入る。
 すると中からいくつかのやりとりの後、最後におやすみなさい、という言葉が聞こえて、フェレイ先生は部屋から出てきた。そうして、こちらを向いてふんわりと笑う。
「もう体は平気ですか?」
「ぁ――は、はい」
 本当は少しふらつきがあったが、こくこくと頷くと、先生はそうですね――と思案するようにした。
「下にはまだセライム君たちがいますが、行きますか?」
「……」
 気まずげに俯いてしまう。先生はそんな俺を気遣うように頷いて、では書斎に、と言って踵を返した。
 その後姿を追いながら、どうして俺のあの力を見たはずなのに、いつもと変わらぬ接し方をしてくれるのかと思う。俺は奇異の目で――下手をしたら恐怖の目で見られても当然の存在だというのに。
 書斎に着くと、フェレイ先生はまずランプを灯し、ポットにあらかじめ入れてあったお湯で紅茶を淹れた。勧められるままに椅子に座ると、先生も机を挟んで古めかしい椅子に座る。
「落ち着きましたか?」
 流れるような動作で紅茶を注ぐフェレイ先生に問われ、俺はどちらつかずの小さな返事をして俯いた。書斎は壁という壁の全てを本棚に覆われ、更に机の上にも本が詰まれ、それらを入り口の両脇と机の上のランプが明るく照らしている。狭い部屋なので、光源はそれで十分なのだ。
「はい、どうぞ」
 淹れたての紅茶を差し出されて、俺は会釈してカップを手にとった。じんわりと暖かいそれにためらいがちに口をつけると、優しい香りの熱い液体がからっぽの胃に染み入った。
 息をつくと全身から力が抜けていくようで、とつとつと口を開く。
「――驚かないんですね」
 フェレイ先生は紅茶のカップを置いて、苦笑するようにする。
「驚きはしましたよ。――いつごろ気付いたのですか?」
「……魔力測定試験です」
 やはり、というようにフェレイ先生は頷いた。あの事故は先生の耳にも届いていたのだ。
 再試験の時、俺ははどうにか力を抑えこんで平均的な値を本気で出しているように見せかけ、『俺のせいで』事故が起きたのだと周囲に悟られないようにしていた。そのため、あの件の原因は機械の故障ということで落ち着いていたのだ。
 しかし同時に俺は、自分の力にぞっとしていた。俺にとって、もてる魔力を注ぎ込むことより、平均的な数値まで魔力を抑え込むことの方が困難だったのだ。少しでも気を抜けば、魔力は最初の試験と同じく留まることを知らずに膨れ上がっていただろう。
 この魔力は、人間にはありえないものだ。そこに何かしら思い当たるものがあれば、まだ理解できたのかもしれない。しかし――俺は記憶を全て失ってしまっている。何者なのかと問い続けたところで答えもなく、探しに行ったところで答えらしきものに耐えられもしなかった。
「辛かったですね」
 だから。
 次に聞こえた声は、まるで想像もしていなかったもので、反応が遅れる。
 顔をあげた先のフェレイ先生は、ひたとこちらを静かな瞳で見据えていた。
「その様子だと誰にも言えなかったようですね。ずっと一人で。辛い思いをしたでしょう」
「――」
 呆けた顔のまま、降りかかる声を受け止める。知らずと意味も分からず首を横に振っていた。
 何かを言おうとして、しかし言葉はぼやけて形にならず、無駄に喉が震えるだけだ。
「すみません」
 ようやく言葉に出来たのはそれだけだった。紅茶の香りがした。優しく心を溶かす、優しい香り。
 歯を食いしばったが、こみあげてくるものは抑えられない。こんな顔を見られたくなくて、隠れるように下を向いた。
「すみません、すみません」
 うずまく心中がせめぎあって、繰り返しひたすらに紡ぐ。目元を手で覆う。残った腕で体を抱えるようにした。何かに触れていないと、押し潰されてしまいそうだったからだ。
 机を挟んだ向こうのフェレイ先生は、ええ、と小さく返事をして、あとは黙っていた。
 だから、ふるふると頭をふる。鼻をすすって、乱暴に目元を拭うと、手を離した。飛び込む光は優しくまばゆく、濡れた目元がひんやりと冷える。
 息を吐き出して、目を閉じ、開いた。震えるからだを抱いて、熱くなった顔を歪める。
「――大丈夫です、すみません」
 たった一握りだけ残った空元気で気丈を装ったが、傍から見れば滑稽な子供とそう変わりはなかったろう。でも、そうでもしないと蹲って大声をあげてしまいそうだった。
 大層酷いことになっているであろう俺の顔を見て、フェレイ先生はそっと目で頷いた。
「それにユラス君、あなたの力はそう驚くほどのものでもありません。人にない筈の魔力を行使した人間は、過去にも存在しています」
「え――」
 もう一度鼻をすすって目を丸くする俺に、フェレイ先生はふんわり笑う。
「有名なのはアレクサンドリア家ですね。これは伝説の宝珠と契約を交わしたものとされていますが、これによってマディン大陸が消滅したのは知っているでしょう。また、血に濡れた11年の時代に海を駆けた大海賊テスタ・アルヴの嵐を裂き、海中に船を潜ませたという術も、人の使う魔術では考えられないものです」
「で、でも」
 それは、今となっては御伽噺のように考えられている伝説だ。だったらその技も誇張が加えられていてもおかしくはない。
 反論しかけた俺の胸中を読んだかのように、フェレイ先生はええと言って続けた。
「そう。これは過去の事象であり、今となってその真偽を掴むことは難しいでしょう。しかし、ユラス君――ここは、学術都市グラーシアですよ。ちょっと待って下さいね」
 かたり、とフェレイ先生は立ち上がって、背後の本棚をあさり始めた。指で背表紙を辿っていって、一冊の本までくるとぴたりと止め、それを取り出す。
 そうして再び椅子に腰掛けると、紅茶を飲みながらぱらぱらと本のページを捲った。
 やはり教師だけあって、その様は非常に堂に入っている。思わず見とれていると、フェレイ先生はぴたりとあるページで手を止めて、これです、と呟いた。
「グラーシアの生物学者の著書です。今から何十年か前の研究ですね、――人間に扱える魔力の限界について」
 心臓を掴まれた気分で俺は息を呑んだ。思わず身を乗り出すと、フェレイ先生は本をこちらに向けて差し出してくれる。
「そこでは確かに人に出せる魔力には限界があると結論付けられています。しかし、それは『人が出せる』というわけで、扱えないというわけではない」
 フェレイ先生の講釈を聞きながら、本文に目を走らせる。
 ――以下のような実験――被験者甲と被験者乙の放出せし魔力を密室内にて被験者丙に合成させ、再放出――。つまり、二人で放った魔術をもう一人が受けて魔力を合成したということか。
 ――って。
「む、無茶じゃないですかこれ!」
「まあ、研究者は強かというか、神経が図太いですからねえ。実験がばれた瞬間当局が吹っ飛んできたらしくてですね、関係者が処分されたそうですよ」
 のんびり首を傾げてくれるフェレイ先生を前に、俺は顔をひきつらせた。魔力はいわばそのまま力の塊だ。それを二人分受け入れるなんて、火のついた爆弾を二つ受け取るみたいなものだ。普通にやったら間違いなく死んでしまう。
「ええ。かなり高位の魔術師が命がけでやったそうなんですけれど、命だけはどうにか取り留めたそうです。しかし体中あちこちをやられてしまって、一生ベッドの上だったとか。そして――」
 その魔術師が最後に放った魔術は、人に扱える魔力の限界値を超えていた、と文献には記されていた。フェレイ先生は表情に生物学者としての知性を見せる。
「一般に人間が使役できる魔力は500とされていますが、何故その数値なのかについては分かっていません。しかし、それ以上の魔力については行使の可能性が今のところ判明している。つまり、何故限界があるのかを突き止め、そしてそのたがさえ外してしまえば」
「――限界を超える魔術を使える人間が、生まれる」
 自分の手の平に目を落とす。フェレイ先生はええ、と頷いて再びカップに口をつけた。
 今更ながらに俺は自分の過去に想いを馳せる。俺は――過去に、そのたがを外されてしまったのだろうか?
「ですから、ユラス君。あなたは『ありえない存在』ではないのです」
 フェレイ先生は次の言葉を続けようとして少し戸惑い、俺の表情を探るような目をした。俺はこくりと唾を飲んで、まだ若々しさを残した先生の瞳を見返す。
 すると先生は頷いて、おもむろに口を開いた。
「覚えている限りで、あなたが行ってきた場所のことを教えて頂けますか」
 心が跳ねて体が強張るのを感じたが、ぎゅっと膝の上で拳を握って、俺は頷いた。
 俺が行ったあの地は、紛れもなく俺の過去に関わる場所なのだから、そのことも語らなくてはいけない。少し迷ったが、セトが俺を連れて行った事実も正直に告げた。
「ユラス君の足で二日――そこはもうウィーネ州に入っていますね。あの上流沿いの近辺は大陸の有数の森に覆われていましてね、周囲に人里はなかったと記憶しています」
 思案するようにフェレイ先生は顎に手をやって先を促した。俺はゆっくりと頷いて目を閉じる。ここからは――正直、考えるだけで眩暈がする。
「はい――人の手が入ってないみたいな、深い森でした。昼間だっていうのに中が薄暗くて、入るのに躊躇したくらいで」
「どこまではっきりと覚えていますか?」
「えっと――そう、腰まである草むらを越えて、森に入って。中はひんやりしてて――」
 ずきり、と頭が痛む。
「――すみません。覚えてるのはそこまでです」
 ぽっかりと抜けた記憶に歯軋りをする。たった数日前のことなのに、どうして思い出せないんだ。
「ユラス君」
「違う――そう、走った? 音が――してて、違うと思って――?」
「ユラス君。いんですよ。無理に思い出そうとしてはいけません」
 諌められて、額を押さえて呻く。
「先生、――どうやったら思い出せるでしょうか」
「――」
 フェレイ先生は、口元を引き縛って暫く考え込んだ。
「――想起障害、いわゆる記憶喪失を含め、人の精神に関わる研究は今のところ他と比べてまだ未発達です。知り合いに聞いた話ですが、記憶を失った原因によっても治療法は違い、その方法も今だ議論が交わされているとか。まず何故ユラス君が記憶を失ったのかを知る人物がいない限り、治療は難しいでしょう。――しかし、ユラス君」
 呼びかけに顔をあげると、不安げに揺れる先生の表情がランプに照らされていた。
「前にも訊きましたが、本当に記憶を取り戻したいと思いますか?」
「――」
 呼吸が苦しくなった気がした。それでも、――それでも、俺は。
「果たして無理に思い出す必要はあるでしょうか。日常生活に支障はありませんし、それに」
 再び暗い場所に落ちていきそうな思考を、次の言葉が弾けて散らせる。
 フェレイ先生は、真っ直ぐな瞳でこちらを見据えて。

「ユラス君は今のままでも良いと思いますよ。皆、今のあなたを受け入れてくれているでしょう?」

 時が一瞬、止まったようだった。
 まるで、胸の内にあったものが氷解していくように、何かがじわりと胸に染む。
「――いいんでしょうか」
 無意識に、そう問うていた。
 どんな辛いものであっても自らの過去を知らなければいけない、そう思っていた。
 自分が何者であるのかを知らなければいけないと、そう思っていた。
 それらを乗り越えて、変わらないといけないのだと。全てを知った上でこそ、何処にでもいる人間として生きていくことが許されるのだと。
「だって俺、明らかに普通じゃないです」
「でも、今のユラス君は普通の子になれるでしょう?」
 にこりとフェレイ先生はそう笑った。
「そうですね、もし話せるのでしたら信頼できる友人に記憶がないことを話しても良いかもしれません。大丈夫ですよ、あなたの周りにいる子は、皆良い子です」
 唇が震えた。そんな、俺が記憶をなくしていることなど、一番知られてはいけないと思っていた。なのに――。
 拳を握りこんだ俺に、フェレイ先生はただ穏やかだった。
「これはユラス君が決めることですが、少なくとも私はそう思っていますよ」
 ゆるりと染みる、紅茶のように優しい声。淡い水色の瞳と髪は、今はランプに浮かんで橙色に。
 いつか都市のはずれで会った人を思い出した。どこかフェレイ先生と似ていた人だった。ただ、先生とは決定的な違いがあった。
 長い旅路を経たかのように疲れきったあの人と違って、目の前のフェレイ先生の瞳には光がある。優しげな、それでいて強い光が。
 ――いつか、答えがなくとも必ず自分の足で歩いていける、そんな日がやってくる。
 あの人は、そういった。そうなのだろうか。過去の自分を知らなくても、こんな体を抱えて生きてゆけるだろうか。
「大丈夫ですよ」
 フェレイ先生は、まるで俺の思考を呼んだかのように繰り返す。
「きっと、生きていけます」
 不意に、その声に深みが増した気がした。しかし、言葉の奥底に何があるのか、今の俺には知る術もなく――。
「どんなにいびつな形をしたものでも、きっと生きてゆけるのですよ」
 フェレイ先生は、そう笑ったのであった。




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