-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

26.だからあなたは彼の元へ



 紫色の夢を見る。
 何処までも深みに落ちていく。
 底のない孤独を、落ちていく。
 何をしていたのか。
 何をするべきだったのか。
 何ができたのか。
 こぽこぽこぽ。
 世界はあまりに、遠かった。
 己の体ですら、あまりにあまりに遠かった。
 暗くて明るいそこには、影、影、影。
 ぼんやりと散乱する。
 浮かんでは散っていった想いのように。
 なのに、一体何を考えていたのだろうか。
 心は、何を思い浮かべていたのだろうか。
 ただ――。
 あの時も。
 あの時も。
 ただ、ただ――。

 何処までも深みに落ちていく。
 そう。全ては、紫色の夢だった。


 ***


「――」
 ゆるりと光が目に飛び込んだ。
 世界が、ゆったりと回っている。
 そう、いつだって世界はこんなに色に満ちているのだ。色とりどりに輝いているのだ。
 頭がぼんやりとしている。体がまるで別人のもののようだ。
 霧の泉に浮かべられた小船のように、頼りなくたゆたっている。
 一体、どうしてしまったんだろう。
 俺は――。
「――ん」
 かさかさにひび割れた唇が、震える。
 俺は、俺は――?
 思考が浮上する。体がここに存在する感覚が戻ってくる。
 そして、ここはどこだろうという疑問、今までいた場所の記憶――。
「うっ」
 ずきりと頭が痛んで、うっすら開いていた目を固く閉じた。
 どくん、どくん、と心臓が鳴っている。
 ここは……何処だ。
 そう、俺は確か、あの川の上流にセトに導かれるままに上っていって。
 それで。
 それで?
 鉛のように重たい体が軋む。
 再び目を開いて周囲のものを認識しようとするが――どうにもだるい。
 しばらくの時を費やして、俺は自分がベッドの中にいることに気付いた。
 そして、その部屋に見覚えがあることも。
 ああ、ここは確か――。
 ――しかし、どうしてこんな場所にいるのだろう。
 記憶がそこだけぽっかりと抜け落ちている。儚い光が手中に収まった瞬間消えてしまったように、あるべきものをなくした不安に視線をさまよわせるしかない。いくら探しても見つかるわけなどないと、分かっているのに――。
 部屋には誰もいない。今日は何日だろう。窓の外からは、知っている景色が優しく午後の光を降り注がせている。動くたびに不快感があったが、どうにか体を起こした。
 ぱさり、と何かが膝に落ちる。茫洋とそれを眺め、濡れた布であることに気付く。そういえば、額が妙にひんやりとしている。この布があてられていたのだろう。ということは、この体のだるさは風邪か何かによるものだろうか。
 浅い呼吸を繰り返しながら、するりとベッドから抜け出す。踏みしめた床は足に吸い付くのに、どこか現実のものでないように思える。
 そこに体重を込めるのに一瞬ためらったが、目を閉じて立ち上がる。全身の重みに足がふらついたが、どうにか崩れずに留まった。よろよろと、扉までの短い距離を長い時間をかけて歩く。なんて頼りない姿だろうと思ったが、全身を襲う気だるさと頭痛の中では、それを笑う余裕もなかった。
 そうしてドアノブまでやっとのことでたどり着き、それを震える手でまわし、開く。
 古びた扉は軋みながら開き、俺の瞳には見たことのある廊下が映った。そして、とんとん、と階段を上がる音も。
 ぼんやりと壁に手をついたまま立っていると、程なくして長い金髪の少女が洗面器を手に姿を現した。そう、その少女の名は――。
 平衡感覚を失っていく視界の中でゆっくりと考えている間に、少女の方が先に俺の姿を認識したらしい。少女はぴたっとからくり人形のように固まった。
 涼やかな深い青の双眸を限界まで見開いて、ぱくぱくと口を開け閉めする。そして、両手で抱えていた洗面器を危うく取り落としそうになって慌てて持ち直し、こちらに駆け寄ってきた。
「ユ、ユラス! 起きたのかっ」
 突然鼓膜を鋭く叩かれて、反射的に体が強張る。そいつは廊下の窓縁に洗面器を置いて、こちらの様子を覗き込んできた。
「まだ熱があるみたいじゃないか、こら、ちゃんと寝ていろ!」
「――セライム?」
 ようやく目の前の少女の名を思い出して、確認するように口にする。ひび割れた喉ではまるで老人のような音しか紡げないのがもどかしい。
 陽を浴びてゆるゆる波打つ髪を眺めていると、少し目が覚めた気がした。こちらの様子を不審に思ったのか、怪訝そうに首を傾げられるのを、なんとなしに認識する。だからこの上なく億劫だったが、もう一度口を開いた。
「――セライム、俺、どうして」
「覚えていないのか。お前、倒れていたんだ」

 どくん。

「……ぇ」
 意識が――傾ぐ。
 言葉が、たっぷりの時間を使って意味を成して、胸に溶け込んで。
 喉が何かを紡ごうとして、しかし干からびたそれは使い物にならない。
「一昨日の朝、家の前に倒れていて――熱もあって、医者を呼んだり、皆心配していた」
「――」

 どくん。

 緋色の絨毯がひかれた古めかしい廊下。
 窓から降り注ぐ、白い光。
 そこに立って、こちらを見る金髪の少女。
 そうだ。
 思い出した。否、既に思い出していた事実を、やっとのことで俺は飲み込んだ。
 ここは、あまりに見慣れた、フェレイ先生の自宅だ。
 暖かな匂い。やさしく時間が流れる場所。
 でも――どうして。
 どうして、ここにいるんだ。
 だって、あの時確かにふらつく足で、川を上って。
 緑のざわめきも、川の音も、吹き抜ける風の感触も、全て覚えているのに。
 そう。セトはあの時、突然森の中に入っていったんだ。だから追った。腰ほどまである草むらをかき分けて進んだ、それも覚えている。中に道はなく、そこには。
 ……そこには?
 俺は、そこで。
 俺は、俺は、俺は。
 何を、見た――?
 はっと息を呑む音。
「ユラス?」
 セライムの細い指先が、宙をさまよう。
 こちらを目を丸くして見つめる姿がぼやけて、震える。
 おもむろに指を自分の頬にやった。
 濡れている。頭が熱い。
 それが何なのかに気付いて、自分でも少し驚く。
 なのに、ぼろぼろと零れていくものは止まる気配がなく――そうして俺は、理解した。
「ぁ……」
「ユ、ユラス、どうしたんだ?」
 慌てるセライムの声が、とても遠い。
 ゆっくりと瞬きをして俯く。濡れた睫が小さな水滴を散らす。
 何もかもがぼやけている。全てが夢なのかと疑うくらいに。
「……ごめん」
 そのまま、震える声で告げた。
 刃となる言葉だと分かってはいたが、それを言わずにはいられなかった。
「ちょっと、一人にしてくれ」
 俯いていたから、セライムがどんな表情をしたのか分からない。
 だが、小さく体が震えるのが分かった。沈黙の後の押し出すような言葉は、ずぶりと胸に食い込んだ。
「そうか――すまない」
 言ってから廊下を駆けるようにして去り、階段を下りていく。
 俺は、緩慢な動きで腕に目元を押し付けると、ゆるゆると部屋に戻る。
 ここは確か、普段生徒が使わない来客用の個室だ。そこを先程よりは確かな歩みで進み、ベッドの前まで来て、――俺はどさりとそこに倒れこんだ。全ての音は死んでいた。痛い程の沈黙を耳にしながら、俺はただ目を開いていた。
 どうして、戻ってきてしまったんだ。どうして、それを思い出せない? あの川のほとりで、セトが森へ向かったところまでは鮮明に覚えているのに。
 ――記憶に、拒まれたのか。
 そうやって何も変わらず、変われずに、俺は帰ってきてしまったのか。
「……っぅ」
 掛け布を握りこむ。
 何故、記憶が戻らないんだ。
 あそこで俺は一体誰に会って、何を見たんだ。
 分からない――分からない。なのに、心がこんなにも苦しい。理由の分からない悲しみが胸に渦巻いて、垂れ流されてゆく。
 どうして俺は、生きているんだろう。生かされているんだろう。こんないびつな体を抱えて、死ぬまで歩いていくんだろうか?
 嗚咽もなく、ただ雫が顔を伝うのを感じながら、目を閉じた。
 吐き出した息は、お前は生きているのだと嘲笑うように熱い。
 俺には、こうやって生きることしか出来ないのだ。どうあがいても、どう考えても。記憶に怯え、記憶に縋り、しかし記憶を取り戻すことも出来ずに。

 こんこん、と扉が叩かれたのは、どれくらいの時間が経ってからだろうか。
 涙も止まった俺は、ベッドに伏したままだった。だが、次に聞こえた声にびくりと指先が震える。
「ユラス君、起きていますか。私です」
「ぁ――」
 反射的に顔をあげて、上体を起こした。聞く者を安心させる不思議な優しさを含んだその声の主は、痛い程によく知っていた。
「――はい」
 ベッドに腰掛ける体勢になって、ぎりぎり扉の向こうに聞こえるくらいの声を絞り出す。そうして、開いた扉からフェレイ先生がこちらを捉えるのを見た。
 フェレイ先生は、不安と安堵の入り混じった複雑な表情を瞳に湛えていた。俺は、そんな顔を真っ直ぐに見れず俯くことしか出来ない。
「まだ、寝ていたほうが良いですよ」
 初めに部屋に落ちたのは、そんな言葉だった。こちらまで歩を詰めたフェレイ先生に促されるようにしてベッドに入る。だが、上半身だけは起こしたままでいた。先生に、言わなければならないことがあったからだ。
 フェレイ先生の顔に、俺の勝手な振る舞いへの叱責はなかった。ただ、一杯の心配の色で染まっていた。
「――すみませんでした」
 顔を伏せて、必死で声が震えそうになるのを抑えながら、俺は頭を下げた。
 フェレイ先生はベッドの隣の椅子に腰をかけて、小さく息を吐き、
「心配しました」
 そう、それだけを紡いだ。そこにフェレイ先生の全ての気持ちがこめられていた。
「川の上流に行ったのですね?」
 ゆっくりと言葉を選ぶようにして紡がれたそれは、俺が書いた手紙を読んでのものだろう。そっと頷いて、フェレイ先生の顔を伺う。
 するとフェレイ先生はふっと小さく笑ってくれた。
「怪我がなくて、本当に良かった」
 その優しさがじわりと染みて、掛け布を握り締める。
「――探しましたか」
「ええ。初めは追いかけたのですが、もう遅くて。ユラス君が倒れていたのを見つけた朝、届けをだすつもりでいました」
「すみません」
 本当だったら、もう全てを思い出している筈だったのに。全ては終わっている筈だったのに。
「……俺、随分上っていって、森に入って――見たはずなのに。わかったはずなのに」
 肩が震える。何もかも闇に塗りつぶされてしまった。あの森に入った瞬間、全て、全て。
「ユラス君。落ちついてください。無理に思い出すのは良くありません」
 染み入るような音色に目を閉じる。そのまま、右手で顔を覆ってゆっくりとかぶりをふる。
「……覚えてないんです、何もかも」
「あなたは、二日前の早朝に家の前に倒れていました。そう、彼が教えてくれたんですよ」
「――?」
 手を離してフェレイ先生を見る。先生は静謐な瞳でこちらを見返していた。
「セト君が。私の部屋の窓辺に彼がいて、家の前に飛んでいったのです。そちらに向かったら、あなたがいたのですよ」
「――」
 フェレイ先生は俺が事実を飲み込んだことを確認するように頷いて、その後セトはどこかに飛んで行ってしまった、と小さく添えた。
「やはり、記憶を取り戻したかったのですか?」
「……俺は」
 両手を組んで、ぐっと力をこめる。
「どうすればいいのか、分からない……」
 何一つとして記憶を思い出すことも出来ず、受け入れることも出来ない。
 そして、受け入れられないのは記憶だけではないのだ。
「――先生」
 俺は、誰にこの名をつけられたのだろうか。
「――人の定義は、何ですか」
 誰に育てられたのか。
「人の形をしていれば、人間でしょうか」
 誰を両親に持っていたのか。
「周囲の人にそうだと認められれば、人間でしょうか」
 誰の言葉を聞いていたのか。
「それとも――自分がそうだと信じられれば、人間でしょうか」
 そして、何をしてしまうモノなのか。
 こちらの言葉に黙って耳を傾けるフェレイ先生の前で、組んだ手をほどいて手の平に目を落とした。
 そのまま、ゆっくりと力を込める。
 ふわり、とそこには光が生まれた。
 光はみるみる大きくなり、手の平の上で子供の頭ほどにまで膨らむ。
 この都市ではありえない光景、あってはならない光景。フェレイ先生の肩が、ぴくりと動く。
 そして、俺を見た。あまりに異端な、この存在を。
 でも、俺はそれを見返せない。その顔を、見ることが出来ない。
「なら」
 ――どうして、俺は、『生まれてしまったんだろう』。
 散っていく、光の粒。

「――先生。俺は、化け物でしょうか」


 ***


 聖なる学術都市の研究区域、その外れに置き去りにされたようなベンチで、影は体を丸めるようにして口元を手で押さえていた。
 激しく咳き込むと同時に、高いところでくくった色のない灰色の髪が頼りなく揺れる。苦しげに顔を歪めながら手を離すと、細い手にべっとりと紅いものがついていた。
 無表情にそれを眺めて、ふっと目を伏せる。指を動かそうとすると、かすかな痺れがあった。
 もう、どうしようもないのだと分かっている。こうなることは、遥かな昔から定められていたことなのだ。だから、何とも思わずに判断した。魔術の行使がこの体に酷く負担をかけると分かっていたとしても。
 二日前、影は崩れ落ちた紫の少年を連れて都市に戻り、家の前に彼を横たえ、その横顔を見下ろした。昔の夢を見ているのだろうか、どこか苦しげな顔をした横顔だった。しかし、影にそれ以上のことをすることは出来なかった。あとはあの水色の髪の男がどうにかしてくれるだろう――そう信じて、影は背を向けた。
 彼はきっと生きてゆける。そうでなければ、どうして己に生が与えられたことに意味があろうか。
 そう、紫の少年、彼は希望だ。全てを失い、もう何一つとして得ることの出来ない影にとっての、たった一つの希望――。
 灰色の影はふと、気配を感じて顔をあげた。ゆるりとその先を目で追う。すると風を切る音と共に、一羽の鳥がすぐ横に降り立った。
 ――紫色の鳥だ。
「――」
 影は微かに灰色の瞳の色を揺らめかせる。前から気がかりだったのだ。紫の少年の前に度々姿を現し、そして今回は彼をあの地に誘った一羽の鳥。自然とあまりに相反する紫の羽は、まるで彼とそっくりの色だ。しかし、その正体については影の記憶にもなかった。
 だが、鳥の瞳が影をじっと見つめた瞬間――影は、全てを理解した。
「……あなたは」
 かすれた声が色のない唇から零れて、影は目を伏せる。
 この鳥は。
 その言葉の先は胸の中で途切れ、霧散していく。残ったのは、理解の後の空虚だけだ。
「私を、嗤いにきたのですか」
 そのまま影は暫く口を閉ざした。人気のない灰色の建物に囲まれた空間は、廃墟のように寂しい。紫色の鳥は身じろぎ一つせずに表情のない瞳に灰色の男を映している。
 影は疲れたようにかぶりを振って、手の中のどす黒い色に目をそばめた。
「それでも、私は幸福です。外からそうとは見えなくとも、私は今、幸福なのです」
 自らに言い聞かせるように紡いで、そのまま目を閉じる。目蓋の裏に思うは、あの嵐の日の情景――。
「私には、生きる理由があるのだから」
 背筋を伸ばして、その体の全てをモノクロームで染め上げられた灰色の男は真っ直ぐ前を見た。もう振り返ることなどしないと決めた、朽ち果てるまで戦う意思がちらりと表情のない灰色の瞳に瞬いた。
「私は、大丈夫」
 影は、そうして紫色の鳥を見下ろした。自分が得られることのなかった鮮やかな色をした一羽の鳥に向けて、そっと願いをかけた。
「――だからあなたは彼の元へ」
 きっと迷い苦しんでいる彼の力になってくれるよう。いつの日か、彼がその足で立ち、その心で自らを望み、歩んでいける日まで。
 紫の鳥は、言葉を受けると翼を広げ、飛翔した。
 空高く舞い上がる、紫の影。ぼんやりと見送っていると、はらりと膝元に一枚の紫の羽根が落ちてきた。
 それを拾い上げて、再び影は空を見上げる。そういえば、あの地にいた自分はこうやって空を見上げたことがあったろうか――と、考えながら。




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