-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

25.双子の墓参り



 カーンカーン、と船の到着を告げる鐘が高らかに鳴り響く。懐かしい空気が二人の到来を喜ぶように、潮の匂いに交じって豊かに香った。
「チノ、忘れ物はない?」
「えへへ、大丈夫だよ。お姉ちゃん」
 キルナは妹の元気そうな顔を見て、頷き返す。長旅であったが、疲れはさほどのものでもないようだ。自分と瓜二つの顔をした双子の妹のチノは、甘えるように横に寄り添ってくる。
 大ぶりの荷物を抱えた双子の姉妹は、一年ぶりの故郷の土をその足で確かめるようにして、船から降り立った。二日後の帰りの船券を大事に仕舞って、キルナは町の様子に目を細める。
「随分元通りになったねえ」
 隣で感心したように目を丸くする妹に、笑って答えた。
「当たり前よ。もう九年も経ったんだもの」
 フローリエム大陸の南に位置する、イザナンフィ大陸。その北西、遥かな昔年から栄える港町カラノア。双子の姉妹が生まれた町であり、また九年前の地震で甚大な被害を受けた町である。
 町の長い歴史でもまれにみる震災に襲われた当時の様子は、とても正視できるものではなかった。中心部では家屋が軒並み倒壊し、山では土砂災害、更に港には巨大な津波が襲い掛かり、その様子は数百年も前に今となっては絶滅したエルフによって一度町が滅ぼされた事件当時の記録と並ぶ程におぞましいものだった。
 しかしこの地方の者は時代を超えて逞しく、今ではすっかり復興し、元の華やぎを見せている。無論、見た目は完全に復興したとしても、隠せない傷跡は未だに残ってはいる。キルナは活気を取り戻しつつある町の様子にそっと目を伏せた。この故郷では、悲しいことがありすぎた――。
 短い滞在の間の宿を借りる家を目指して、双子の姉妹は町並みの変わったところを指摘しあいながらしばらく歩いた。木と漆喰、煉瓦を組み合わせた温かみのある家並みは、フローリエム大陸には見られないこの地特有のものだ。また坂道が多いのは、元々山を切り開いて人が住み始めたのがこの町の始まりだったからという。
 今でも町は広がり続け、山間では開発が進んでいる。双子の父親も、そんな開発員の一人だった。それが結果として悲劇に繋がってしまったのだけれども――。
「ただいま、おばさんっ!」
 扉が開いた瞬間、チノは心からの笑顔で出てきた中年の女性に飛びついた。
 黄がかった肌に淡い青の髪を短く切った、イザナンフィの民と呼ばれる民族の典型的な容姿を持った女性である。小太りだが優しさと愛嬌に満ちた顔、そして仕事のせいで太く荒れた指で女性はチノを力一杯に受け止めた。
「お帰り! よく帰ってきたねえ、二人とも」
「シノンおばさん、お元気そうで何よりです」
 礼儀正しく頭を下げるキルナに、シノンはやだねえ、と太い声で破顔した。
「そんな畏まんなくていいったら。ふふ、キルナちゃんもチノちゃんも、すっかり綺麗になって。男がたーんまり寄ってくるだろう?」
 苦笑しながら頬に手をやるキルナと首を傾げるチノのそれぞれの反応に、あっはっはと豪快に笑う。
「もう、おばさんったら」
「まあまあ、まずはあがんなよ! 向こうのことを聞かせてほしいねえ」
「お世話になります」
 シノンの家はお世辞にも広いとは言えず、また生活も質素だ。シノンの夫は震災で足が不自由になり、働くことが出来なくなった。シノンは三人の子供と夫をこの九年間一人で支えたのである。その苦労は、彼女の顔に刻まれた深いしわと骨ばった硬い手がよく表していた。
 それでもカラノアの女は元気が取り柄と言いながら強かに生きた女性はよく笑い、よく喋る。双子が震災で両親を失い、途方にくれた先にまず声をかけてくれたのは、両親と仲が良かったこの女性だった。自身も余裕がない筈なのに、面倒を見てくれたあの時の優しさは今も双子の胸にしっかりと染み付いている。
 しかし、彼女の置かれた状況を幼いながらに理解した双子は、そう長く世話になれないと感じた。あまりにその時は貧しく、シノン一人の手で彼女の家族、そして双子の姉妹を養うのは無理だということが、幼い瞳にも理解できたのだ。そして双子がだした答えは――この町を出ること、そして母の母校であった、グラーシア学園の受験だった。
 現在、あの時よりささやかながらシノンの生活は改善されている。聞けば子供たちも働ける年になり、家計もどうにか安定しているそうだ。一年前に会ったときより若干太ったシノンの姿が何よりもそれを表していると、キルナは内心で胸を撫で下ろした。
「こっちにはいつまでいるんだい?」
「ええ、三日間くらいは」
「そうかい、もっと長くいてくれてもいいんだけどねえ」
「でも、おばさんに迷惑だし、わたしたちも学費稼がなきゃだし」
 困ったように笑うチノに、シノンは立派になったねえ、と眩しそうに語った。
「天国でユウナさんとヒガさんも喜んでるよ。そうだ、そっちにはいつ行くんだい?」
「これから行ってこようと思います」
 そうかいそうかい、とシノンは何度も相槌を打つ。
「なら、リンさんの家の二軒先に最近花屋が出来たから、そこで買っていくといい。私からもよろしく伝えておくれよ」
 古い友人を懐かしむように目を細めるシノンに、双子の姉妹はそれぞれ大きく頷いた。


 ***


 キルナは花束、チノは木の実が入った焼き菓子の包みをそれぞれ抱え、長い坂道を登っていった。町の外れであるこの辺りは、人で溢れる中心部と違って、時の流れさえも変わってしまったかのような静けさが落ちている。
 そう、辺りには整然と並べられた墓石の数々。道端に植えられた木々が、さわさわと潮風にゆられている。水色のワンピースを着たキルナと、オレンジのブラウスに白いスカートを着たチノは、そこを登りきるまで言葉を交わすことはなかった。本来こういったところに来る時は黒い服を着るべきなのだろうが、二人があえて選んだのは普段と同じ格好だ。何故なら、これから会う人にはありのままの自分を見て欲しいから。
 ざあっ、と草が揺れた。

「ただいま、お父さん、お母さん」

 先に口にしたのはチノだった。キルナは隣で軽く会釈する。
 目の前には小さな墓標。そこに刻まれた名に、そっと胸の中でただいま、と呟くと、キルナは持っていた白い花束を墓標の前に置いた。続いてチノも包みをその横に置く。白い花は母が好きでいつも飾っていたもの、木の実の焼き菓子は父の大好物だ。毎年一度の双子の墓参りは、供えるものも変わらずに続けられていた。
「お父さん、お母さん、あのね――」
 チノは毎年のように、この一年で身の回りに起こったことや変わったことを墓標に語りかける。キルナはチノの報告に耳を傾けながら、目を閉じた。
『お父さん、お母さん。あたしたち、17歳になりました』
 もう遠くなってしまった父と母の顔を思い出して、心の中でそう語りかける。
 震災の日、父はいつものように山の開拓作業に行った先で土砂災害に巻き込まれ、母は子供たちを庇って崩れた家の下敷きになり、幼い双子の姉妹は大切な家族と家を失った。
 それからは、たった一人の家族と呼べる双子の片割れと共に手をとりあって、ただがむしゃらに生きてきた――。
『あたしたち、なんとか元気にやってます。どこかで見守っていてくれてますよね?』
 チノは前に来た日からの一年をもう一度辿るようにして、記憶を語っていく。優しい学園長のこと、同室の金髪の親友のこと、授業のこと、研究のこと――。
「そうそう! あのね、今年は編入生が入ってきたんだよ」
 チノの楽しげな報告に、キルナはふっと目を開いて妹が語る人物を脳裏に描いた。
「変な人なんだ。んっとねえ、髪も瞳も紫だから、ディスリエ大陸の人かなあ。すごい綺麗な色なんだよ」
 甘い物をあれだけ好んでいるのに肉付きが悪く、折れてしまいそうな細い体。年頃の少年しては若干低めな背丈。目が覚めるような紫色の髪と瞳がなければ、かの教師陣の目を飛び出させる成績で編入してきた少年の顔はあまり特徴がなく、表現できる言葉が見当たらない。美形というわけでも、醜男というわけでもないし、どちらかというと中性的な顔立ちといっても良いかもしれない。そう、一番似ているとしたら模写された絵に描かれた妖精族の顔が当てはまる気がする。
「すごく頭良いんだけど、でも真面目ってわけでもなくて。うん、むしろ能天気かなあ」
「そうね。ついでにアホだわ」
 妹の説明に辛辣な一言を添えると、妹も全く悪びれる様子なくそうそうと肯定した。見た目も印象的な紫の少年は、その中身については一度どうなっているのか思考回路を覗きたくなるくらいに予測不能だ。へらへら笑って余計なことに首を突っ込み(あれはもう何も考えていないんじゃないかとキルナは思っている)とばっちりをくらって泣きそうになりながら事態収拾に東奔西走しているが、とても学習しているようには思えない。稀代の秀才が編入するという噂を聞いてあれこれ人物像を想像していたキルナは、実際の本人に会ったとき、これは稀代の秀才ではなく稀代の変人の間違いではなかろうかと考えたくらいである。
「――でもね」
 ふと、チノの声がやわらぎ、問いかけるような口調になった。
「なんか、たまに変なんだ。あれ、違うな――いつも変なんだけど、たまにね、突然黙り込んじゃうときがあって」
 そう。それはキルナも知っているし、セライムなどはそんな彼をとても心配していた。
 いつも底抜けに明るく気ままに生きているように見える紫の少年は、ふとした時に突然別人のような顔で口を閉ざすことがあった。初めの頃はまだこの都市に馴染めないからなのかと思ったが、それは違う、ともキルナは感じていた。
 そんな時の彼の表情は、暗い顔でも、悲しげな顔でも、寂しげな顔でもない。
 ――そう、あれは。
 どうして、自分はここにいるんだろう、と。
 目の前に広がるものに、ただ呆然としているように見えた。
 全ての表情が消え去ったその瞳は、一体何を考えているのだろう。
 諸説が広まる彼の出生について、事実らしきものを知っている者はいない。本人に聞いてもそれとなくかわされてしまうし、あの表情のない顔を見たキルナは、正直それを聞くのが怖かった。だから、彼を理解しようとするセライムはなんて強いんだろうと思う。
「うん、それで夏休みの始まりにふらっといなくなってね。故郷に帰ったのかな?」
 紫の少年は、キルナとチノが都市を出発する前日に前ぶれもなく姿を消した。学園長は笑って『少し、出かけると言っていましたから』と説明したが、キルナはその言葉の奥に隠れる焦りや戸惑いを察知していた。
 だが学園長はその日一日外出し、帰ってきたのは夜も遅くなってからで、次の日の朝一の列車でキルナたちは都市を後にしたから、学園長が何に焦っていたのかは結局分からず仕舞いだ。そして、紫の少年が何処に行ってしまったのかも。
「まあ、あたしたちが帰るころにはケロっとした顔で戻ってるわよ」
「うん、そうだね」
 当たり前のようにそこにいて、なのに不意にいなくなってしまいそうな少年への不思議な不安を振り払うように言うと、チノも頷いた。
 チノはそうして、両親が眠るそこで全てを語り終えると、小さく俯いた。ぱさり、と髪が気遣うようにその横顔を隠す。静かに佇む灰色の石はいくら語りかけても返事はなく、風だけが吹き抜けていく。何かに耐えるようにチノの口元が震える。
「チノ」
 だから、その名を呼んだ。この子が返事を求めているなら、それをするのは自分だ。
 自分と同じように、妹も大きくなったと思う。けれど、高等院に入ってからは自ら多忙な研究室を志望し、体を壊すこともあった。一途な妹は真っ直ぐであるが故に、時に自身のことすら見えなくなることがある。まだまだこの子には自分が必要なのだ。見守ってやらなければいけない。自分は――この子の姉なのだから。
 こちらに振向いた妹へ、笑いかける。今出来る一番の笑みを。
 ただ一人の家族である双子の姉に、妹もうん、と少しだけ潤んだ瞳で返した。
 例え自分たちの生きる世界に何があろうと、妹だけはこの手で守る。幼い頃、強い意志をもって立てたその誓いを、再び心の内で声にした。そう、この地はいつだって大切なことを再確認させてくれる――。
『お父さん、お母さん。あたし、頑張るから』
「そろそろ行きましょうか」
「……うん」
 港町の墓地を、今日も優しい潮風が吹き抜ける。双子の姉妹は、連れ立って歩き出した。




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