-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

24.『ユラス』



 力を出しすぎないように慎重に魔術を行使してランプを灯し、持ってきたパンを一切れ口にすると、俺はぐったりとその場に伸びた。草むらに薄い布一枚というお世辞にも良い寝床とはいえないが、もうその硬さを気にする余裕もない。
 俺は夕方まで休息なしでセトに導かれるまま歩き続け、日が傾いてセトが俺が足元に迫っても動かなくなったから、ここで一晩明かすことにしたのだ。
 川の水面が茜色に染まってから日没まではあっという間だったから、あの時刻から野宿の準備を始めて本当に良かったと思う。暗くなってからでは恐らく何も出来なかったろう。夜になれば自然と灯りの点る都市のありがたみを今更ながらに感じる。
 その点について感謝すべきセトは、俺の傍かつ俺が寝返りを打っても潰されないところで毛づくろいをしていた。
 ふう、と俺は体中の力を息と共に抜く。とにかく初めての野宿の準備には相当てこずった。鷹目堂で見繕った『初心者でも出来る! 初めてのアウトドア』なる本を片手にああでもないこうでもないと寝る場所を決めてランプを灯し、ここは魔物の生息区域ではないが念の為結界を張って、ようやく腰を下ろし食事に至ったのである。疲れきって食欲もでず、いつもの半分も胃に入れることが出来なかったのだが。
 200年くらい前までは、この大陸には数多の旅人がいたらしいが、いつもこんなことをしていたのかと思うと、心から彼らを尊敬せずにはいられない。
「うう、足が痛い」
 ぱんぱんになった足をさすりながら周囲を見渡す。ランプに薄ぼんやりと照らされたここ一体は、草むらと木に守られるようになったくぼ地だ。川の音だけが昼と同じく暗闇に不気味なほどに響いている。
 ランプの灯りの届かぬ遠い闇に目をやると、その深さにぞっとして思わず両腕をさすった。これはセトがいなかったらかなり怖かったかもしれない。
 まあ、何か出てきたところで鳥は夜目がきかないから役に立ってくれるとは思えないけど。――というか、セトの場合夜目がきいても普通に俺を置いて逃げていきそうだけど。
「いや、なんでもないです」
 何か用かという風にセトが首をもたげたので、俺は寝転がったまま首を振った。こいつ、本当に夜目がききそうだ。
 ランプの橙の灯りに幾分か不安を慰められる思いで、今日はあまり眠れそうにないと思いながらも目を閉じた。体だけでも休ませなければ、明日はまたどれだけ歩くのかもわからない。
『先生、心配してるだろうな』
 優しく笑うフェレイ先生の顔を思い出して、すぐに取り消す。今は、自分の記憶を取り戻すことだけを考えよう――。


 ***


「――、――」
 額に浮き出た汗を拭って、乾いた喉で声もなく喘ぐ。うだるような暑さの中、体は酸素を求めて激しく肩を揺らしていた。
 今日の朝は、セトに頬を啄ばまれて起こされ、川の水で顔だけ洗って再びセトに案内されるままに歩き出したのだが――。
 慣れない場所で寝たせいで体の節々がぎしぎしと痛む上、疲れが半分も抜けていない。体が昨日歩いていた時の倍の重さがある気さえする。
 元々運動の類は破滅的に苦手だった上、体力もそんなにないのに二日間歩き通しなのだ。季節も盛夏、日差しは川辺にぎらぎらと照りつけ、囲む森が若干それを和らげてくれるものの、昼間は無情な速さでなけなしの体力を搾り取られていく。
「――ぅ、セ、セト、ごめん、ちょっ」
 からからに乾いた喉でひきつるように言って、がくりと膝をつく。ばねでもついたみたいに体が思うように動いてくれない。
 幸いセトは崩れるようにして岩場に座り込んだ俺を、急かさず待っていてくれるようだった。少し先にいるセトを見ていると、そんな姿までぼやけてくるような気がして、辿り着く前に倒れるんじゃないかとすら思えてくる。
 目的地まであとどれくらいあるのだろうか。俺のあまり逞しいとはいえない足でゆっくり登ったとはいえ、随分上流の方までやってきた気がする。
 その証拠に、俺の横で地響きにも似た音をたてて流れる川は、初め見た時よりずっと急流になっている。周囲を取り囲む自然もほぼ原生林――否、もう完全なる森だ。
 恐らくこの辺りは整備された道もなければ、人が立ち入ることもあまりない区域だろう。この先に、本当に俺の記憶の手がかりがあるのだろうか――。
 水筒の水を乾いた口に含んで、ぐっと力を入れて立ち上がる。
 目を閉じれば、学園での出来事が夢のように通り過ぎていった。誰もが年相応の顔で笑っている、得られるとは思ってもいなかった世界。そこに帰るのだ、全ての記憶を取り戻して。
「帰ったら、まず先生に謝らないと」
 きっと今頃俺のことを心配して――下手をしたら何かしら動いているかもしれないフェレイ先生の顔を思い浮かべて、薄く笑った。
「行こう」
 ふらつく足で、身じろぎ一つしないセトの方へ歩き出す。
 すると、セトは何度も繰り返したように小さく飛翔して――。しかし、川の上流ではなく、突然方向を変え、森の中へと分け入った。
「――!?」
 そこには道などない。木々と蔦、岩と落ち葉の溜まった森の中に、枝をすり抜けるようにしてセトは飛んでいき、一つの岩の上に降り立ったのだ。
「お、おい、セト」
 慌ててそちらに体を向け、悲鳴をあげる足を叱咤してふらふらと森に分け入る。腰まである草むらをかき分けて、光の届かない森に足を踏み入れれば、ざわりとひんやりした冷たさが体中を覆った。
「――?」
 その冷たさと共に、つきん、と俺の心が硬直する。

 待て――。
 ここは――。

 顔をあげる。木漏れ日も少ない、深い森だ。ぐんと背の高い木々が生い茂る。鳥の声、虫の声、湿った足元、暗い岩肌と――。

 ――ここは。
 ――覚えている?
 ――俺は、ここに来たことが――。

「――っ」
 がつん、と頭を激しく打ったような衝撃に血が上ってくるのを感じて、弾かれたように俺はセトを見た。
 その姿がぐにゃりと歪む。セトは更に俺を奥に誘うように飛んでいく。ちらちらと木の葉の合間から零れて落ちる光。
 ぐるぐる世界が回っている。紫の影が飛んでいく。
 手を伸ばすようにして追った。見失わないように、救いを求めるように。
 ざあ、ざあ。
 背中から聞こえる川の音。
 違う、違う――。
 あの時は、もっと強い音がしていた。
 ざあ、ざあ、ざあ、ざあ。
 靴から染みて重たくまとわりつく泥水。
 不安はない。
 ただ、空虚な世界。
 肩を叩く、視界を濁らせる、あれは、雨、雨、雨――。
「――うっ」
 ちかっと世界が瞬いて、半ば無意識に体が動く。
 セトに誘われるまま、ただ前に。
 そう、あの日も。
 誰かが俺を呼んでいた。俺の名を、祈るように。
 そして、走った。世界が反転した。
 生暖かい感触。触れたことがないような。
 むっとする湿気、風がごうごうと、雨が、雨が、ざあざあと――。

 どこを通っているのだか分からない。足だけが、意識だけが、先にもっと先にというように前進し続ける。
 言葉。沢山の言葉。
 向けられた、歓喜、憐憫、恐れ、嫌悪、怒り、迷い、哄笑、悲しい瞳――。
 こぽこぽこぽ。
 紫色が、広がっている。
 明るくて暗い世界に、目が覚めるような輝きと、黒に蕩けるような暗闇が交じり合う。
 見ていた。そう、全てを見ていた。全てが等しく感じられた。
 なのに、それなのに――。
 視界が死んだ。呼吸をしているのかもわからない。
 体は動いている。
 紫色の世界の中で。その全てが幻影なのか、真実なのか。
 紫色の翼がはためく。ひるがえる。
 ちかちかと点滅する。前へ、世界が流れていく――。

「――」

 がさり。

 世界が、開けた。
 広がっていた。
 何かが、そこにあった。
 瞳は、確かにそれを映していたはずだった。
 耳元で、風の唸りが聞こえていた。

 世界は、ぴたりと、そこで止まった。

 ――どうして。
 ――どうして、こんなことが。
 ――終わる。全てが終わる。
 ――どんな気分なの。
 ――お前なんか、嫌いだ。
 ――起きなさい、さあ。
 ――私に、生きる理由を。

 ――許してくれ。
 ――『ユラス』。

 何かがうるさいと思ったら、それは自分の絶叫だった。

「――」
 体がわめく。引き裂かれる。からめとられる。
 燃えるように全てが熱い。壊れていく、壊れていく。
 呑まれる寸前、まるで体は宙に浮いたようで。
 どさり。
 砂の入った麻袋が投げ出されたような音。
 土の匂い。風の匂い。
「……どう、して」
 土の塊を、指が掴んだ。
 答えはそこにある。なのに見えない。
 白み、眩む世界。なんて無様な暗転だろう。
 どうして、どうして――。

 ざり、と土を踏む音がした。
 ざり、ざり。
 暗く沈む世界に、ぴたりと足はすぐ目の前に。

「来てしまったのですね」

 音が、音として認識されない。
 聞いたことのある、音色なのに――。

「ここはとても悲しい場所」

 降りかかる木の葉のような囁き。

「ここで人は考えた。本当の幸福、生きる理由、何故縛られるのか、そして何故己はここにあるのか――」

 なんて、
 なんて、悲しい音色だろう。

「世界はこんなにも明るいのに」

 目蓋が落ちる。
 何かを掴もうと、腕を伸ばして。それでも届かなくて――。

「だから戻って下さい。あなたは戻って下さい」

 指が触れた。冷たい手。そっと握られる。

「あなたは、それを望まれたのだから」

 がしゃん、と扉が閉じるようにして意識が途切れた。
 ――そうしてまた、紫色の夢を見る。




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