-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

23.始まりの場所



 春の目覚めの前に、俺がいた場所。
 そこで、何かがあって、俺は全ての記憶を失った――。
 今の俺にあるのは、ユラス・アティルドという名前と、紫の髪と目を持った体、膨大な知識。そして人には扱えぬほどの魔力。あとは、俺を学園に入れた人物が持っていたと思われる学園の卒業証と――。都市の暗がりに潜んで、薬品の横流しを受けていた、俺を知っているとおぼしき人物の情報。あるいは、何故だか『知っている』と思った、一人の少女。
 全て挙げてみても、共通点など見当たらない。
 一体、俺は何者だったんだ?

 俺が目を覚ましたあの川の上流に方に上っていけば、その答えがあるんだろうか――。


 ***


 スアローグの実家は、この大陸の北、古都リザンドの近辺であるらしい。大きな荷物を担いだスアローグは、きっと帰る場所のない俺のことを気遣ったのだろう。簡単に「また一ヵ月半後」と告げて寮を出て行った。
 グラーシア学園前期終業式の後、駅前はにわかに騒がしくなり、生徒たちは濁流となって列車に飲み込まれていった。この日だけは一日に数本しかない機関車も増発し、故郷に帰る生徒たちのはしゃぎようを歌うように高らかな汽笛が何度も都市全体に響き渡った。
 翌日になれば都市は祭りの後のようにすっかり静かになる。生徒のいない学園や大通りは滅びた町といっては言い過ぎかもしれないが、正直それに近いものはあると思う。
 子供たちが、ひと時だけ何もかもを忘れられる長い夏休みの始まり――。
 その日一杯で閉鎖されてしまう学生寮を後にし、フェレイ先生の家に移動した俺たちには大きな仕事が待っていた。
 ――フェレイ先生の家の大掃除である。
 学園長であるフェレイ先生の家は一人で住むにはかなり広く、普段使われていない部屋はホコリを被ってしまっている。その上、多忙なフェレイ先生は自分が使うところでさえあまり掃除をしていない(キルナ曰く、単に掃除が苦手なだけらしい)ので、世話になる恩返しも含めて俺たちで家中の掃除をするのである。
 俺はどうにか平素を取り繕っていた。黙々とホウキを動かし続けるエディオや止まった掛け時計を直しているチノ、うっかり転んでバケツの水をひっくり返すセライムに額に手をやりながら片付けを手伝ってやるキルナに混じって掃除を続ける。
 だが、胸の内では一つの決意が固まりつつあった。
 ――あの川の上流に上ってみよう。
 そこに行けば、俺の記憶の手がかりが見つかるかもしれない。何故セライムを知っていると思ったのかや、何より俺が持つありえない力の正体も――。幸い夏季休業中で授業もないのだ。行くなら今しかない。
 フェレイ先生にそこのことを言おうとも思ったが、やめた。先生のことだから、俺がそう告げれば必ず同行を申し出るだろう。そうなって、もし旅の途中で俺が人にありえない力を持っているのだとばれてしまえば。唯一、今の俺を理解してくれる人だけに――どんな顔をされるのかと思うと、言い出すことは出来なかった。
 一人で行かなければ。
 寮に泊まった最後の晩、一人で考え抜いて出した結論だ。
 黙って都市を出ることには心苦しさも覚えたので、俺はその晩どうにか文面を考えて、先生宛に手紙を書いた。必要最低限のことは伝えなくてはいけない。その後、都市の小さな店でこっそりと旅に必要な道具を買い揃えた。川の上流まで歩いていくのだ、森の中で夜を明かすことも十分ありうる。誰も助けてはくれないのだし、準備を怠ると危険だ。

 そうして、夏季休業が始まって数日後の朝。
 全ての準備が整ったことを確認した俺は、都市を出ることにした。
 うたた寝程度にしか眠れなかった俺は、陽が昇る前に起きて隠しておいた荷物をベッドの下から取り出し、友人たちが起きないかとびくびくしながら部屋を抜け出す。
 外まで出ると、早朝のひんやりした風が頬を撫でて、思わず肩を震わせた。もう街灯は消えているものの、まだ周囲は薄青に沈んでいる。
 肩には必要と思われたものが入ったやや重い鞄。その重さを確認するように背負いなおすと、今は眠りの内にあるフェレイ先生の自宅を仰ぎ見た。
 天気の良い日はよくフェレイ先生が紅茶を飲んでいる庭の白い机と椅子が、朝露に濡れてぼんやりと紺色の影に落ちている。そして優しい趣のある家もまた、薄青の中でまどろんでいるようだった。
 ――この都市にやってきた俺を、快く迎えてくれた家だ。
 行ってしまうのかい、本当に良いのかい、と後ろ髪を引かれるような声が聞こえてくるような気がして、ふるふると頭を振ってそれを断ち切った。
 今度帰ってくるときに何もかもが終わっていることをただ祈って、俺はゆっくりと眠れる仲間たちに挨拶をした。
「行ってきます」
 ひんやりとした空気が肺に入って、体の熱を冷ましていく。夏とはいえ、夜明け前のこの時間は半袖の服では少々肌寒いくらいだ。
 だがぎゅっと歯を食いしばって、門をそっと開いた。ポストに手紙を入れて、全ての準備が終わりだ。
「よし、行くか」
 今度は自分に向けてそう呟き、歩き出す。うかうかしていると完全に夜が明けてしまいそうだ。
 早朝のグラーシアは廃墟のように人影がなく、元々大通りを避けて人気のない道を選んでいるのもあって、南の門を出るまで人っ子一人見かけなかった。一人で行くということはこういうことか、と今更ながらに寒気と心細さを覚えてしまうくらいだ。
 ――いや。でも、行くと決めたのだ。
 あのひたむきに前を見つめる少女のように、真っ直ぐに立ち向かえることは出来なくとも。せめて、見届けることが出来るように。
 びゅう、と風を切る音が聞こえたのは、俺が始めて来た折に通った南の門に差し掛かったときだった。
「んなっ?」
 誰かに目撃されることを恐れて動いていたので、突然のことに口から心臓がでそうなくらいに驚いた。
 見上げると、みるみる白んでいく薄青の空に、染みのような黒い点があった。いや、黒ではない――、太陽を浴びればきっと幻想的に輝くであろう、紫色。
 ――セトだ。
 セトはぐんぐんと高度を落として俺の上空を一周してから、ばさばさと音をたてて目の前に降り立った。
「……や、やあ。早起きだな、お前も」
 何処に行くんだい、とでも言いたげにぴんと尾羽を伸ばして胸を張るセトに、顔を引きつらさずにはいられない。なんだ、こいつは俺に発信機でもつけて監視しているのか。
 思わず自分の何処かに発信機がついてるんじゃないかと体を探りたい衝動にかられながら、俺は膝に手をついて屈みこんだ。
「ちょっと手がかり探しに行くだけだから、そんなに心配するな」
 どうも俺の言うことが分かっているとしか思えない振る舞いをするセトは、じっと俺の顔を見つめると、翼を広げ始める。そのまま思い切り翼がはためいて、小さな体はいとも簡単に大地を離れる。
 一気に空の高みまで達するかと思ったセトはしかし、ぐんっと翼を操って――俺に向けて飛翔してきた。
「のわっ」
 ばさばさ、と吹き付ける風を感じたと思ったら、肩に何かが乗った感覚。目を白黒させながら、状況を把握しようとすると、頬にさらっとした柔らかいものが触れた。
「って、ぅおい、セトっ!?」
 それがセトの翼だと知ったとき――紫色の鳥が俺の肩に乗ったのだと理解する。小さいとはいえ、腕で抱えるくらいの大きさがあるのだ。俺は柔らかい羽根の感触を頬で感じながら、恐る恐る尋ねた。
「……な、なあ。もしかして、一緒に来てくれるのか?」
 ――当たり前じゃないか――。
 そう、セトが言った気がした。代わりにセトは一鳴きして俺の肩から飛び立ち、今度こそ空の高みに上って俺の周りを旋回してみせた。
 そんな様子を目の当たりにして、俺は思わず笑った。そうだ、俺にはこいつがいるんだった。目覚めたときから、何も言わずに傍にいてくれる存在――。
 重く沈んでいた気分が一気に晴れたような気がして、俺は大きく頷いて歩き出した。
「よし、行こう!」
 みるみる空は明るくなり、すぐに陽光が差し込んでくる。世界が、一日の始まりを感じて震え、輝きはじめる。
 あまりのまばゆさに目を細めながら、俺は都市を出発した。まず目指すのは、俺が目覚めた、あの始まりの場所だ。


 ***


「……暑い」
 ぐんぐん高くなる日差しを受けて、俺は出発早々げんなりしながら林道を歩いていた。
 早朝、無人の都市を抜け出した俺はまず、記憶を頼りにグラーシアの南に広がる林へと入ったのだ。
 林といっても、入ったばかりのこの辺りは生物学専攻の生徒たちが実習をしたり、魔術用品の製作に用いる薬草畑があったりするから、道も整備されているし歩きやすい。セトは林に入ってからは俺の丁度真上を飛んで追いかけてきているのか、生い茂る葉の間からちらちらと紫の影が見えた。フェレイ先生と歩いた時の記憶によれば、そう長くない時間で目覚めの場所に辿り着けるはずだ。
 歩きながら、そっと俺は胸を掴んだ。忘れてしまった記憶を思い出さなければいけない。それがどんなに辛いものだったとしても。
 そして、何よりも――知りたい。俺のこの力。人間にありえない力を持つ俺は――人間でないとすれば、一体何者なのか。
 少々重たい鞄を背負い直して、こくりと唾をのむ。午前の林中は鳥の囀りと風が木々を揺らす音の他は、自分の足がざりざりと土を踏む音しか聞こえない。もうフェレイ先生は俺の姿がないことに気付いただろうか。そう思うと、今更ながらに何も言わずに出てきた後ろめたさが胸に広がって、鈍い息苦しさを感じたが、引き返すわけにはいかない。今引き返せば、再び一人でこうやって都市を抜け出せるのがいつになるのか分からない。
「記憶が戻って、何でもなかったように帰る」
 最良のパターンを頭の中に思い浮かべて、うん、と言い聞かせるように頷いた。今日ここで記憶を思い出せれば、そしてそれらに決着がつけられれば、俺は本当の意味で何処にでもいる学生になることが出来るのだ。
「そうだ。前向きに考えよう」
 正直、自分の記憶を探るという現実に足がすくみそうだったから、これは精一杯の強がりだった。でも、それでどうにか足は前に踏み出してくれる。
 ぐんぐん気温があがっていく中、額をぬぐって木漏れ日の漏れてくる空を見上げた。今日は雲一つない良い天気だ。理由がこれじゃなかったら、非常に気持ちのいい散歩になったかもしれない。記憶を取り戻したら、フェレイ先生の家に泊まっている面子で来よう。その時の俺は、もうふとしたことで胸に暗いものを思い出さずに済むのだから――。
「ん?」
 立ち止まって耳をすますと、遠くに水の流れる音が聞こえた。――俺の目覚めた川が近いのだ。
「確か、もう少し先から来たよな」
 ポケットから地図を取り出して覗き込む。記憶と照らし合わせて、大体俺が倒れていたらしき場所の辺りには印がつけてある。だが林道と川を結ぶ道は随分細かったと覚えているから、油断していると見落としてしまうかもしれない。
 あの日に通った時に見た光景を思い浮かべながら、注意深く歩いていく。そうして、もしかしてこれは道を見落としたかも――と不安になった辺りで、俺は獣道のような、どうにか一人が通れるくらいの小道を発見した。
 ここだ。間違いない。俺が目覚めたのはこの奥だ。迷わずにそちらに足を踏み出すと、人に踏まれた形跡のないやわらかい土の感触が足の裏から伝わってくる。苔の生えた岩に手をついて歩いていくと、若干の上り坂になった。その辺りになると、もう道とはいえない草むらになる。川の流れはもうすぐそこまで近づいてきていた。
 あの日、フェレイ先生は俺の声を聞いてこの道を急ぎ足で通ったのだろう。そして、にわかに視界が開けて――。
「あ……」
 俺は、思わずその光景に暫く立ちつくした。
 陽光を受けて明るい肌をむきだしにする岩場。
 そこを光を湛えて流れていくゆるやかな川。
 さわさわと木々が揺れて、久々にそこを訪れた俺を迎えてくれるように優しげな音を奏でる。
 ゆっくりと視界を巡らせていると、一点に自然と意識が吸い込まれた。
 川のほとりの、浅瀬に近いところ――。
 そこには、すっかり古びて痛んだ小船が横たわっていた。
 息を呑んで、拳を握りこむ。紛れもない、俺の目覚めの場所だ。
 あの春の目覚めが、もう遠い昔のことのようだ。ここで目覚めてから、俺の目の前で世界はめまぐるしく動いていった。白亜に輝く都市に足を踏み入れて、数多の人に出会って、数多の気持ちを味わって――。全ては、ここから始まったのだ。
 転ばないように岩場に下り、小船の前に立った。俺が目覚めてから数ヶ月、雨風にさらされたそれは、俺を春に乗せていたとは思えないほどに黒ずみ朽ちて苔が生え、底には雨水が溜まっていた。きっとじきに腐って自然に還っていくだろう。
 そんな小船を感慨深く見つめていると、高いいななきが聞こえてきて顔をあげた。
「セト」
 体の幾倍もの長さの翼を大きくはためかせて、セトが俺と小船の間に舞い降りる。そういえば、俺はこいつに起こされて目覚めたんだっけ――。
 懐かしさに口元を緩めた俺は、あの時の思い出に浸ろうとして、――しかし、セトと目があった瞬間、全ての思考を失っていた。
「――セト?」
 風は、なかった。
 俺とセトの間を遮るものなど何もない。
 セトの紫水晶をはめ込んだような瞳が、こちらを見つめていた。
 いや――違う。今までの無表情の動物的な目ではない。
 確固とした意思と、深い思慮、そして知恵を含んだ眼差し。それが、たった一羽の鳥から俺に向けられていた。
 口の中がひからびる。そらすことなど許されぬ、強い、それでいてこちらの瞳の奥を探るようなセトの表情に、ただ圧倒される。
「……お前」
 ごくりと喉を鳴らして、俺は今まで心の中で持っていた小さな予感を、初めて口にした。
「……お前、俺が記憶を失う前から、俺と一緒にいたのか?」
 鳥が口をきくことなど――そもそも、人の言葉を解することがあるはずないなんて、そんなことは分かっている。でも、だけれども。俺は問わずにはいられなかった。そして、乞わずにはいられなかった。
「だったら、教えてくれ! 俺は一体誰なんだ? 何処にいたんだ? なんでこんな魔力がでるんだ? あの時――俺を見ていたのは、誰だったんだ! 教えてくれ――頼むから」
 大きな声をだしたというのに、セトは身じろぎせずに、賢者のように静謐な光を湛えた目でこちらを観察している。
 ――お前にその覚悟があるのか、とこちらを探っているようにも見えた。
 だから俺も、拳を握りこんでぎゅっと目を瞑った。
「わからない――。俺が自分の過去に耐えられるかなんて。もしかしたら、知った瞬間俺は壊れるのかもしれない。でも、もう失った記憶に囚われ続けたくないんだ。知りたい。どうして、俺は、俺は――」
 こんな思いをしているのか。しなければならないのか。
 頭の奥が熱くなるが、それが何の感情によるものか分からなくて、顔を歪めるしかない。さらさらと、川はただ流れていた。夏の太陽が高いところから見下ろしている。世界は、変わらずにそこにある。なのに、俺だけが異質だ。
 セトの瞳がひゅっと風を受けたように細くなった。その体がはじめて揺らめく。鮮やかな紫色の鳥は、己の同じ色の翼を広げ、飛翔した。
 はっとしてその様子を見つめる俺の目の前で、セトの顔が薄く笑った――気がした。
「セトっ!?」
 するとセトは俺から大体20メートルほど離れた岩の上に降り立ち、こちらの様子を伺うようにする。
「……セト?」
 まるで夢の中かと疑いたくなる浮遊感の中で、半ば無意識の内にふらふらと体が動き出し、セトの後を追っていた。
 一歩、二歩――、歩きづらい岩場を、つっかえながら進んでいく。セトは俺が十分近づいたと思うと、また飛び立って同じように少し先に降り立った。
 ――ついてこいと言っているのか?
 俺は、唾を呑んで顔をあげた。セトは、俺が近づくたびにどんどん上流の方に向かっていく。
「……俺がいた場所に、連れて行ってくれるのか?」
 ぽつりと呟くが、セトは無言で俺を誘うだけだった。
 呼吸が浅くなると共に、頭の中で黒いものがもたげてくる。この先に、俺の見たかったものがある。そう思うと、視界がぐにゃりと歪む気がしたが、俺は頭を振ってひたすら行く先を追った。――セトの顔を何度も伺うようにして。




Back