-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

21.学園長



 背後から光を被ったフェレイ先生は、口元から笑みを消してヘンベルク教授を正面に見据えた。
「――ヘンベルク教授。あなたに研究資金着服と薬品横流し、他三件の嫌疑がかかっています。既に研究室の凍結案は採択されました、役員理事会に出頭して頂けますか?」
 俺に背を向けているヘンベルク教授がどんな顔をしたかは分からなかったが、フェレイ先生の後ろにいるルークリフの顔が蒼白に歪んでいくのはよく見えた。そして、次の瞬間その手が翻って、懐から何かを取り出すのも。
 それは、不思議な文様の描かれた羊皮紙だった。確か授業で見たことのある――そう俺が認識するのと、ルークリフがそれを破くのは同時だった。彼の顔に残忍な笑みが走る。
 それが何であったか思い出した俺は、身を強張らせ、引きつった喉でとっさに叫んだ。
「フェレイ先生!!」
 ルークリフが何を考えたのかは分からない。逃げようと思ったのか、自棄を起こしたのか。だがあれは紛れもなく、魔術規制がされている都市内で魔術を使えるようになる魔術用品――!
 フェレイ先生がふわりと振向いた。薄手のローブが翻り、ルークリフを真ん中に捉える。その時には既にルークリフは両手で印を組み、魔術をほぼ完成させていた。全身の血を凍らせて、思わず目を固く閉じる。
 しかし、すぐに俺がはっと目を開いたのは、フェレイ先生のまるで動じていない声が聞こえたからだ。
「――精霊の御名において」
 それが近代的な印を組んで発動させる魔術でなく、古い時代に妖精族が人間に教えたとされる詠唱を用いた魔術だと悟った俺は、先生の手の中に視線を動かした。そして、先生の手にもまた、やぶれた羊皮紙があることに気付く。
 ぞくりと胸の奥底が冷えるような衝撃。ルークリフが使う筈だった魔術が、発動する直前でフェレイ先生によって打ち消されたのだと、どうにか理解する頃には、固まったまま動けないルークリフが唇を震わせて叫んでいた。
「どっ、どうして――!」
「……護符の取引もしていましたか、ルークリフ君。残念ですが君の処罰も免れそうにありませんね」
 フェレイ先生の声は決して威圧的ではないというのに、胸に食い込む深さがあった。ルークリフはやぶれた護符を指が白くなるほどに握り締めて、顔をくしゃりと歪ませる。
「な、なんで」
 ルークリフの言わんとしたことを悟ったのか、フェレイ先生は己の持つやぶれた護符に目をやって、静かに言葉を紡いだ。
「第一種魔術免許、特B級以上の持ち主には、場合によっては護符の携帯が許可されています。もっとも、使用は緊急事態にのみ許され、事後も報告書とちょっとした手続きが必要になりますが」
 そこまで講義でもするように説明して、声に苦笑を含ませる。
「まあ、こんな役職やってると色々あるものですから、役所から許可がでてるんですよ。世の中物騒ですしねえ」
 困りました、といつもの調子で首を傾げる。そうしてフェレイ先生は、俺に意識を向けた。
「ユラス君、こちらへ来て下さい」
「あ――」
 ふんわりと笑う先生に、全身の緊張が抜けていくのを感じながらも、頷いて駆け寄った。横を通り過ぎても、ヘンベルク教授はぴくりとも動かなかった。ただ、一気に老け込んだような顔をして、床の隅を見つめ続けていた。
 フェレイ先生の元まで行くと、先生はさりげなく俺の全身に目を配って特に外傷がないことを確認してから、もう大丈夫ですよ、と俺の目を覗き込んで囁いた。そうして、俯いたままのヘンベルク教授に顔を向ける。
「ヘンベルク教授。もう警視院も動き出しています。明日にはあなたの逮捕状がでるでしょう――念の為と思ってここを監視させていたのですが、まさかこんなことをするとは思いませんでした」
 がくり、とヘンベルク教授の体が傾いで椅子に沈む。その様子をフェレイ先生は見下ろして、目を細めた。
「その多くを国税で賄われている資金を着服したことも、危険な薬品を金に変えたことも許しがたいですが」
 ふっと声が強くなる。いつも穏やかなフェレイ先生の瞳に、鋼ですら切り裂くような光が宿る。まるでその世界を支配したかのような威厳すらまとって、フェレイ先生は椅子に座るヘンベルク教授に告げた。
「何も知らない生徒を呼び出して脅そうとしたことは、何よりも許せません」
 言葉の強さに俺の心臓が跳ねたのも勿論、ヘンベルク教授の体もびくりと震えた。
 そこまできて、俺は先生に言わなければいけないことがあるのに気付く。そう、この人たちは、俺の過去を――。
 その時だった。
「ちょっ……あ、あの、まずいですって! なんかこれ入ったらいけない空気」
「知るかそんなもの! ふんっ」
 妙なやりとりが聞こえてきたかと思えば、ヘンベルク研究室の扉が蹴破られるように開かれた。
「うぇっ?」
 思わずまぬけな声をあげて目を剥くと、フェレイ先生もこれは予想外だったらしく、扉の方に意識を移す。そして、先生の細い目が珍しく驚きに見開かれた。
 ――そこには。
「ちょっくら入るぞ」
 そうずかずかと入ってくる――数日前に俺に荷物持ちをさせたあの老紳士と、その向こうでおろおろしているスアローグがいた。
 スアローグは研究室と実験室のほぼ境にいる俺とフェレイ先生に気付いて、目を丸くさせる。なんでここに、とその唇が動いた気がしたが、驚きのあまり声になっていない。
 突然の乱入者となった老紳士は、相変わらず黒服を着込み、白いひげを蓄えた顔には不機嫌そうな色を貼り付けて、ぐるりと周囲を見回した。そうして、俺の後ろにいるフェレイ先生に、ぴたりと照準を合わせるかのごとく顔の動きを止める。目を細め、つかつかとフェレイ先生の目の前まで来ると――。

 おもむろにステッキを振りかぶって、固まっているフェレイ先生に振り下ろした。

「あう!?」
 がすっ、という音と共に、悲鳴をあげてしゃがみこむフェレイ先生。その場にいる全員が目を剥くのを気にもとめず、老紳士は声を張り上げた。
「この馬鹿者ッ!!」
 びりびりと空気が振動するような声だ。思わず俺とスアローグは反射的に姿勢を正してしまった。
「学園長たる者が、のこのこ現場に出てきてどうするというのじゃっ!!」
 フェレイ先生は殴られた部分を手で押さえながら、弱々しく口を開く。これは本当に痛そうだ。
「す、すみません、ちょっと緊急だったもので」
「阿呆か」
 老紳士はさらりとフェレイ先生の弁明を一蹴して、腰にステッキを持ってない方の手をやり、ふんぞり返った。うう、とフェレイ先生が眉を八の字にして呻く。
「緊急だろうが高級だろうがお前が全体を見ないでどうする! 貴様には学園長室という立派な持ち場があるだろうがッ。貴様がやるのは根回しや方針決定であってこんなことは部下にやらせておくもんだと散々教えたのをもう忘れたか。そんなことでは後一年もその座におれんぞ! ええい、これだから若いモンはなっとらん!」
「……す、すみません」
 怒号の濁流にすっかり飲まれ、先程までの様子は何処に行ったのか、涙目で頭を押さえて老紳士を見上げるフェレイ先生。
 持っていたステッキでがつん、と床を叩いた老紳士は周囲を見回して目を細めた。奥にいたヘンベルク教授が喉を引きつらせるようにして、ひからびた声をあげる。
「お、オーベル名誉教授……」
「ふん、ヒデルペリジン類の有機合成化学における有用性で名をあげた奴じゃったな。馬鹿なことをしていると聞いたから顔を見にきたが、腐り果ておって。嘆かわしい」
 ギロリ、とチンピラのような眼差しをくれると、オーベルなんとか……とか呼ばれた老紳士はくるりと背を向けた。
「学園長。説教は後じゃ、その大馬鹿二人をさっさと警視院に引き渡せ」
「は、はい」
 まだ痛むのか片手を頭にやったまま、フェレイ先生は情けない声で返事をする。老紳士はそのまま振向きもせずにスタスタと研究室を出て行ってしまった。
 まるで嵐が過ぎ去ったような後の空間で、それぞれ暫く動けなかったものの――どうにかスアローグが動いてくれた。俺のところに駆け寄ってきて、何があったんだい、と小声で聞いてくる。本当にこいつは何も知らなかったのだと内心で安堵しながら、俺は逆に質問した。
「い、今の人って誰だったんだ?」
 既にフェレイ先生も動き出して、ヘンベルク教授とルークリフを促している。
 スアローグはぎょっとした顔で、知らないのかい、とその人の名を教えてくれた。
「オーベル名誉教授。今の科学界ではとんでもなく偉い人で、神様って呼ばれてるくらいの人でね」
 そして、俺はようやくあの時荷物を持たされた老紳士の正体を知ることになるのだった。

「グラーシア学園の前学園長だよ」


 ***


「グラーシアにいらしてるならそうと言って下さい」
「ふん、なんだってわざわざお前のような若造に挨拶に行かねばならんのじゃ」
 学園長は立ったまま、諦めの笑みを浮かべた。目の前では豪奢な机を挟んで、これまた高級そうな皮製の椅子でオーベル老がふんぞり返っている。
 ヘンベルク研究室での一件の後、元々ヘンベルク研究室にかかっていた嫌疑の他にルークリフの不法な魔術行使の件もあって、学園長は二日間、目の回るような事情聴取と事態収拾に追われた。そうしてその全てをどうにか終え、休みもせずにやっとこうしてオーベル老の滞在先までやってきたのだ。
 そんな凄まじい仕事をこなしてきた学園長に、オーベル老から向けられたねぎらいは『来たか馬鹿者』の一言だった。慣れているとはいえ、学園長も一瞬遠い目をせずにはいられない。
 しかし確かに、この老紳士をこの上なく不機嫌にさせるような頼みを少し前にしてしまったのだから、文句は言えないのだが――。
「全く、久々に連絡をよこしてきたと思ったら、とんでもないことを言い出しおって。あの時ばかりはお前を後任にしたのが私の人生の唯一の汚点だと思ったわ」
「その件に関しては本当に感謝してます」
 学園長は、素直に深々と頭を下げた。発覚すれば学園町の首どころか自分の首まで空の彼方に飛んでいきそうなことを、この老紳士は実行してくれたのだ。昨日正式に逮捕されたあの二人よりも、自分たちの方がよっぽど悪どいですかね、と学園長は内心で苦笑した。
「ふん、一人の人間の戸籍をでっちあげることがどれだけ大変だったか。何者なのじゃあの少年は」
 整えられた白い口ひげを揺らして、オーベル老は学園長を睨み付けた。この一見穏やかな佇まいをした学園長はその実、平気で目上の人間に法を犯せと頼んでくるくらいの無茶をする人間であるのだ。
 頼みを聞いたとき、全くとんでもない奴だとオーベル老は一人で毒づいたものだ。無論最初は頭ごなしに馬鹿者と怒鳴ったものの、その時ばかりは学園長が始めて口ごたえをし、喧嘩同然のやり取りをしばらくした後、学園長の声音に浮かぶ今までに見たことのない真摯な光を垣間見て『さっさと引退させろ、この馬鹿者』と一言添えてから聞き入れてやったが、こんな危ない橋はもう二度と渡りたくない。
 オーベル老の問いかけに、学園長は淡く笑って目を伏せた。
「ええ――古い友人から預かったんです」
 ぴくり、とオーベル老の眉が跳ねる。彼は不可解そうな様子で、探るように学園長を見上げた。
 そうして、ゆったりと、しかし聞く者の心にずんと響く音色で紡ぐ。
「君の、古い友人、かね?」
「ええ。とても古い友人です」
 学園長は静かにそう返して、オーベル老の灰色の瞳を見返した。
 部屋に沈黙が落ちる。学術都市グラーシアの中でも、最も裕福な人間が屋敷を構える北東区域の奥は、人通りも少なく風の音しかない。その上、屋敷の分厚い壁はその音すら通さず、そこには気の遠くなるような静寂があった。
 ――互いに無言で真意を探りあった後、先に目をそらしたのはオーベル老だった。
「まあ、良い。先日、本人に会ったが中々馬鹿ではない。学園に優秀な人材が入るのは喜ばしいことじゃしの」
 沈黙のやりとりに何かを汲み取ったのか、オーベル老は背を椅子にもたれて腕を組んだ。学園長は立ったまま苦笑する。
「やはり、彼に会う為にいらしたんですね」
「当たり前じゃ。でなきゃこんな辛気臭いところに来るか。それに自分の首をかけた人間を見ずして死ぬわけにもいかんしの」
 そう皮肉げに言うと、学園長はもう一度感謝の言葉と共に頭を下げた。こういうところは素直な男なのだ。
 オーベル老が現学園長フェレイ・ヴァレナスの名を始めて聞いたのは、学園長がまだ学生の頃だった。だが、その才能を見出したのは彼が教師になってからだ。
 当時、何気なく彼と会話している内に、彼の瞳の奥に潜む光にオーベル老は気付いた。それは若い人間特有の、何も知らずに燦然と輝く光ではなかった。どのような闇の中でも、静謐な光を放つ――そう、底知れぬものを秘めた苛烈な何かが、その穏やかな佇まいの中にあった。
 その頃、理事会の役員であったオーベルは、この大陸では珍しい淡い水色の髪をした若い教師を食事に誘い出し、お前を育て、ゆくゆくは自分の後継者に仕立てたいと告げた。この男は、研究者向けではない。きっと表舞台に出せばのし上がってくる、そう見抜いたのだ。
 幸い、早くに亡くしているものの両親もグラーシア学園卒、本人もグラーシア学園を主席で卒業など、彼の経歴には汚れどころか輝かしいものしかなかった。
 オーベル老の期待通り、彼はみるみる地位を固め、期待以上の速さで時期学園長を噂されるようにまでなった。そうして、まだ30代だった彼に初めは若すぎるという声があったものの、実力を認めざるをえなくなり、また当時の学園長オーベルの傘下にいたこともあり、史上最も若い学園長が誕生したのはもう10年も前になる。あまりの彼の完璧さに、オーベル老ですら舌を巻いたくらいだ。
 一体、この学園長はどのようにして生まれたのだろうと、オーベル老は疑問に思うことがある。しかし探ってみても、彼はごく平凡にグラーシア学園で知り合った男女の間に生まれ、若い内に両親を病で相次いで亡くしていることを除けば、変わった遍歴など何もない。そう、あえて変わったところを言うとしたら――。
「いつまで学園にいらっしゃるおつもりですか?」
「ふん、こんな都市に長居すると息が詰まる。明日にでも帰るわい。お前もここに居すぎると辛気臭い人間になるぞ」
 学園長はすっかりその地位にいる者としての顔を板につかせ、目を細めて笑った。
「でも、私の家はこの都市にありますから」
 学術都市グラーシア。その地に集まるは学究の徒であり、金の亡者であり、静かな都市は閉鎖されたように外界とは切り離されている。
 ウッドカーツ家を打ち破り、この国を生み出した英雄王ウェリエル・ソルスィードの、狂気とも呼べる執念で確立した都市は、世界の先端を走っている筈なのにどこか空虚だ。
 なのに、この学園長は。

『では、お願いがあります』

 初めて食事に誘った時、目の前の男は静かに目を伏せてそう言った。

『もしも私が学園長になった暁には――』

 あれから短くはない年月が経って、あのときのもしもは現実となった。なのに、目の前の男の瞳の光は消えることはない。
 一体、何処へ行こうとしているのか。その苛烈な想いは、何を源として燃えているのか――。それが見てみたくて、自分は学園長を未だに支えているのかもしれないとオーベル老は考えた。
 そう。あの時、目の前の男は伏せていた目をあげ、こちらを見据えて、学園長になったら欲しいものがあると言った。
 きっと金だろうと当時は短覚的に考えた。自分の元で地位を固めれば、例え学園長になったとしても自分の意見を無下にすることは出来なくなるだろう。そこまで考えて取引をしたがっているのだと思った。
 しかし、オーベル老の予想を裏切って、ぽつりと言葉は全く違う方向へと転がった。

『この都市は、地価はそう高くないんですけれど、空き家がないんです。あっても売り手から直接商人に買われて研究所や魔術用品店になってしまって、個人ではどうにも手に入らなくて』

 確かにグラーシアの土地は永住する人間も少なく、そういった者たちは集合住宅を借りるのが常なので、そもそも一軒家の物件の情報が個人にまわってくることはない。グラーシアの土地を手放す人は、大抵高く買ってくれる研究者や商人たちに直接売ってしまうのだ。
 そう、今考えれば学園長の最初の願いも、とんでもないものだった。
 当時、まだ成人して少しの年月を過ごしただけでしかない水色の髪の男は――、まるで老人のようにも見える穏やかな表情で、その願いを口にしたのだった。

『家を――。この都市の家を一つ、頂きたいと思います』




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