-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

20.今日は厄日



「まずはお土産です」
 慌しい予定を平然とこなした学園長は、翌日、首都アルジェリアンからグラーシアに舞い戻った。そのまま学園に赴き、学園長室で血相を変えて待っていたライラック理事長に菓子折を差し出す。
「それどころじゃありません、学園長!」
 普段の倍は汗をかいてしきりにハンカチを額にあてているライラック理事長は、きょとんとする学園長に書類を押し付けた。
「何かありましたか?」
「とにかく見て下さい。ヘンベルク研究室の件に関する重大な資料の写しです。原本は既に提出しました」
 学園長は立ったまま要領良く二枚の紙に目を通して、僅かに目を見開き、納得したように頷いた。
「これは何処で?」
「昨日の夕方、生徒が高等院第一図書館で偶然発見し、通報してきました。不注意で落としたものと見られます」
 学園長は穏やかな表情のまま、しかし瞳の奥には底知れぬ光を秘めて、必要事項を手短に確認した。
「警視院に連絡は?」
「済んでいます。明日には逮捕状が出るかと」
「もう動かなければならないということですね」
「はい。警視院側としても、もう少し泳がせて裏の黒幕も一網打尽にしたかったようですが、こう覆せぬ証拠がでてきてしまうと」
「――ふう、これは確かに一波ありそうですねえ」
 まるで事の大きさが分かっていないような面持ちで、だが学園長は理事長に的確な指示を下す。
「すぐに学園の要人を第一会議室に。ヘンベルク研究室の凍結を宣言します」
「そう仰ると思って、既に呼んであります。急いで下さい」
 学園長はライラック理事長の手際の良さにぱちぱちと瞬きをして、にこりと笑った。
「助かります。――ヘンベルク研の動きは?」
 二人は既に話し合いながら学園長室を後にしている。ライラック理事長は真剣な面持ちで頷いて声を潜めた。
「ええ、まだ気付いてはいないようです。ですが、念の為に監視はつけてあります。何か不審な動きがあればすぐに取り押さえられるかと」
「わかりました」
 昨日の晩、ライラック理事長の耳に飛び込んできたのは、ヘンベルク研究室と闇商人との取引の契約書を拾った生徒が通報してきたというとんでもない情報であった。
 ヘンベルク研究室は違法な商品を売る闇商人たちとの繋がりを疑われており、リーナディア合州国の治安維持を職務とする警視院が学園長の承諾の下、内密な調査を行っていた。元より資金着服の疑いが指摘されていた研究室だが、警視院から薬品横流しの疑いありとの達しがあり、学園内だけ処分するわけにはいかなくなったのだ。いくらかの資金着服であれば醜聞を避ける為に事実を公表することなく研究室解体で済まされるところが、薬品横流しをしていたとなればそれは警視院が出動せざるを得ない。薬品は時に麻薬の原材料にもなるのだ。
 しかし、ライラック理事長はこれには更なる裏があると踏んでいた。それは決して証拠があるわけではなく、彼の勘によるものでしかなかったが――警視院の動きや様子に、何かの大きな力が働きかけているように見えたのだ。そう――この国の影で動くものたちの思惑がうごめいているような。
 更に今年の春になって、聖なる学術都市グラーシアに潜む闇商人たちの動きが活発化しているという噂もある。
 一体、ヘンベルク教授はどのような人間と取引をしていたのか。何処にでもいるような小太りの研究者の顔を思い出して、ライラック理事長は口の中に苦いものを感じた。


 ***


 スアローグはみるみる教室から散っていく生徒たちを横目に、憮然とした面持ちで頬杖をついていた。
『遅いな。全く何やってるんだい』
 廊下を行き交う生徒たちに目をやっても、そこによく目立つ紫色の髪は一向に見えない。午前の授業が終わり、共に昼食をとるはずの紫の少年は、トイレに行ってくると言い残して出て行ったきり帰ってこないのだ。
 もう昼休みに入ってから随分の時間が経ってしまっている。これでは食堂での昼食にありつけるかもわからない。
「ああもう」
 スアローグはがたりと椅子を鳴らして立ち上がると、鞄を肩に引っ掛けた。あまりに遅い友人を探す為である。
 早足で教室を後にし、会ったらどんな恨み言を言ってやろうかと考えながら廊下を歩いていくと、前から歩いてきた生徒の一人と目があった。顔見知りの友人だ。
「やあスアローグ。何かあったのかい?」
 スアローグのぶすっとした顔を見て生徒が首を傾げると、彼は深く嘆息して肩をすくめた。
「まあね。ユラスを見なかった?」
「見たよ」
「へっ」
 何気ない問いかけに予期せぬ答えが返ってきて、スアローグは思わず鞄を取り落としそうになった。生徒は苦笑して、だってあの人目立つし、と付け加える。
 確かに彼の紫水晶を紡いだような鮮やかな紫の髪は、他のどんな色のそれよりも目を奪われる。本人はそのことを厄介に思っているようだが、スアローグとしては正直人ごみでもすぐに見分けられるので便利に思っていた。ちなみに、目立ちたくないとか本人は言っているが、もし本当に目立ちたくないのだったら容姿の前にその性格をどうにかした方が早いんじゃないかいとスアローグはいつも言ってやりたくなる。不思議だったり不審だったりする彼の行動や言動はもう日常茶飯事で、今となっては一々突っ込む気も失せるくらいである。
 とまあ、それだけ目立つ人物である紫の少年の外見と性格に感謝しながらスアローグは続きを促したが、そこには更なる予想外の返答があった。
「うん。確か廊下で生徒じゃない人に話しかけられて、一緒にどっか行っちゃったよ」
「なんだってぇ?」
 スアローグは思い切り顔をしかめる。用が出来たのなら自分に一言くれてもいいのに。そう思うと空腹も手伝って腹がたった。これは今晩奢らせてやろうと心の中で毒づいて「そうかい」と言うと、生徒はうんと頷いて続けた。
「なんかすごい真っ青な顔してたよ。何かあったのかな、あの人謎も多いし」
「どうせ妙なことに首突っ込んでとばっちり受けてるんだろうさ」
 肩をすくめて皮肉げに零し、スアローグは生徒と別れて一人で昼食をとるべく校舎を後にした。
 この時間だともう食堂で食べる余裕はないだろう。昨日と同じく適当に購買で何か買って済ますしかない。この上なく不快そうな顔つきになったスアローグは、足早に購買までの道のりを進む。
「――のう、そこの坊」
「……」
 何か耳障りな音がしたが、構わずにずんずんと進む。
「そこの坊、聞いているのか」
「……」
 ぴくぴくと口元が引きつる。無意識にめりめりと鞄の革が悲鳴をあげるほどに持ち手を握りこんでいた。
「そこの――」
 立ち止まる。
 ぎりっと、歯軋りをした。
「ああもう、何ですか!!」
 不機嫌の絶頂でスアローグは噛み付くように振向いて、そして――。
「……」
 そこにいた人物を見た瞬間、全身を凍りつかせていた。
「……い」
 振向いたその先には、小柄な人影。一目見ただけで分かるほど高級そうな黒服を着込み、手に使い込んだ黒いなめし革の鞄を持った老紳士が、先程のスアローグなど比ではないほどに不機嫌そうな顔をして立っていた。知らない顔だが、その出で立ちからそれなりに地位のある人であること、また非常に気難しい性格をしているであろうことを、一瞬でスアローグは理解した。してしまった。
「あ、いえ……えっと」
 もう何を言っても遅いと分かっていつつも、ぱくぱくと空気を食むが、無論良い言い訳など浮かんでくるわけがない。
「この、馬鹿者!!」
 予想通り、烈火のごとく眉を吊り上げた老紳士は空気を激震させるような声を張り上げた。周囲の生徒たちもびくりと肩を飛び上がらせてこちらに注目する。
「いたいけな老人に向かってその態度は何事か! これだから最近の若者はなっとらんのじゃ!」
「……」
『――主よ、今日は厄日ですか主よ』
 思わず神に語りかけたスアローグに構わず、簡単には済まなそうな老紳士の説教は始まってしまっていた。他の生徒の奇異、または哀れみの視線を体一杯に浴びながら、スアローグはがっくりと肩を落として老人が機嫌を直すのを待つしかなかった。

 一通りの長い長い説教が終わる頃には、スアローグには世界の陽が暮れてしまったようにも思えたが、現実でも既に昼休みは終わりに差し掛かっていた。これでは本日の昼食はもう絶望的である。
 スアローグは泣きたい気分にすらかられながら、目の前でまだ物言いたげにしている老紳士を見て――ふと、その顔に思い当たるものがあって内心で首をひねった。そして、その記憶に突き当たった瞬間、ぴくりと眉を跳ね上げる。
「あ――」
 そうだ。自分の記憶が正しければ、確かこの人は。
「なんじゃ、人の顔をじろじろ見おって」
「あ、いえ」
 ステッキで地面を叩く老紳士に一歩後ずさりながらスアローグは首を振った。とにかく、今は一刻も早くこの人の前から立ち去りたい。ついでに願わくば一生再会したくない。
 しかし、今日の神はスアローグに更なる試練を用意してくれていた。
「まあ良い。して坊、先程の無礼は水に流してやるからな」
「え、――は、はい」
 老紳士はたっぷりのひげを蓄えた顔に鋭く光る目を細め、スアローグにその一言を告げた。
「私をヘンベルク研究室に案内しろ」
「……」
 スアローグは、その台詞を理解するのに通常の三倍は時間を使って、そうして顔を盛大に引きつらせた。


 ***


 心臓がどくりどくりと波打って、鼓動を頭にまで響かせる。
 俺は、もう一度唾を飲み込んで拳を握り締めた。目の前を歩いている一般的な体格の男の背が、今ではそびえ立つ山のようにこちらを圧倒してくる。
 思考を激しく巡らせながら、俺は黙って男の後を追っていた。
 キツネを思わせる細い輪郭、細い目にぎらりとした光を宿したそいつは、教室に戻ろうとした俺に話があると言って威圧するように笑いかけてきた。はじめは戸惑ったが、次に放たれた彼の言葉に全身を衝撃が駆け抜けた。
「お前の身の上についての話だ」
 まずはじめに、この人は俺の過去を知っているのかと思い至って思考が痺れた。そして、もしそうなら――この人は、俺の力についても知っているのか。全てを知っているのか。
 目を見開いた俺を見て、その男は満足げに口元を歪め、ついてこいと言った。殴られたように平衡感覚が失せたまま、俺はふらふらとその後を追うしかなかった。
 このことをフェレイ先生に言わなければとも一瞬考えたが、有無を言わせぬ目の前の男はそんなことをさせてはくれないだろう。
 どくり、と心が波打って、初夏だというのに体は氷のよう。なのに握りこんだ拳だけが妙に熱い。
 ついに俺の忘れてしまった記憶が突きつけられるのか。暗がりに沈んで、俺の心の一番奥に眠っている記憶――。
「――っ」
 吐き気を覚えて思わず口元に手をやる。昼食をとる前で良かったと思うと同時に、あまりに突然降りかかってきた事実に全身が悲鳴をあげるのを感じていた。
 それにしても、この男は何者だろうか。茶髪を長めに伸ばした、印象の薄い若い男だ。陰鬱な色を宿した瞳をしたこの男があの推薦状を書き、俺をこの学園に入れた人なのだろうか。もしそうなら、俺をずっと監視していたのか。そして今――、何かの理由があって、俺に真実を告げる気になったのか。
 様々な憶測に思考が焼かれる。男は高等院の中央棟から化学科の研究棟に入り、階段を上っていった。何処かの研究室に行くのだろうか。
 確かに研究室は密室だ。込み入った話をするにはうってつけだろう。しかし、つまりこれはこれから行く研究室の主も俺のことを知っているということか。――俺が何者で、そして何を望まれているのかを。
 男が立ち止まった部屋の前のプレートを見て、俺ははっとした。
 有機合成化学研究室、主任ヘンベルク・クロイツ。スアローグが所属している研究室だ。そして、昨日俺とセライムが見つけた妙な契約書にあった名前の当人――。
 昨日、俺とセライムは発見した書類を慌ててグリッド先輩に見せ、とりあえず学園に通報した。するとすぐに俺たちの前に厳しい顔をした役員がすっとんできて、後はこちらで対処するから絶対に口外するなと厳重に言い含められた。だから、そのことはスアローグにすら言っていないし、この男も気付いていない筈だ。
 どんどん頭が混乱していく。この男は、一体何を何処まで知っているのだろう?
「――」
 歯を食いしばって、頭を振る。とにかく、この扉の向こうに何かしらの答えがある筈なのだから、今は立ち止まるわけにはいかない。
 がちゃん、と男が開く扉の音が長い廊下に響き渡る。辺りは研究室の扉だけが続く無人の通路。まるで世界から命という命が消えてしまったかのような無機質な空間の中で、俺は前を見た。
「――ようこそ、ユラス・アティルド君」
 扉の向こうに、目の前の男と同じく白衣を着た小太りの男がいた。――俺の記憶にはない人物だ。ヘンベルク教授。この研究室の主だろう。
「突然来てもらってすまないね。私はヘンベルク・クロイツ。君に込み入った話がある、入りたまえ」
 俺は奥歯をかみ締めた。

 中に入ると、むっとする薬品の臭いが立ち込めた。頭がぼんやりとしていて、いまいち現実感がない。足が今、本当に硬い床を踏んでいるのかわからない。
 俺は促されるままに実験室に通された。どちらにも、ヘンベルク教授と俺を連れてきた男以外の人影はない。
 もしもスアローグがそこにいたら、もしもあいつも俺の過去を知っていたのだとしたら――と研究室の名前を見た瞬間から頭のどこかで思っていた俺は、幾分か胸を撫で下ろした。
「座りたまえ」
 ヘンベルク教授の低い声に、俺は実験室の奥側の椅子に座らされる。ヘンベルク教授は暗い表情のまま、もう一人の男と共に、俺の正面に腰掛けた。その瞳が鈍く光り、揺らめく――。
「改めて自己紹介しよう。私はこの研究室の教授、ヘンベルク。彼は助手のルークリフだ」
 俺を連れてきたキツネのような男――ルークリフは、冷たい表情で威圧するように口元を歪めて笑った。俺はごくりと喉を鳴らして口を開く。
「……俺のことを、何処まで知っているんですか」
 思いがけず声が震えた。無表情のヘンベルク教授の顔を見るのが恐ろしくて、薄暗い床をじっと見つめながら言葉を待つ。
 すると、俺にとっては気が遠くなる程の――実際には暫くの沈黙の後、ヘンベルク教授の声が耳に届いた。
「――君の身の上を知っている者を、知っている」
 稲妻が頭から落ちてきたような衝撃に、はっと俺は顔をあげる。俺のことを、知っている者を、この人が知っている――?
「君は人に知られたくない過去を持っているね?」
 ルークリフの機械を無理やり喋らせたような耳障りの悪い声が、胸を冷やす。しかし、それは厳密には違う。そう――俺の過去が知られたくないものなのかすら、俺にはわからない。
 しかし、ぎゅっと唇をかみ締めた俺の顔をルークリフは是ととったらしい。嘲笑するように笑って、そう身構えなくていいと言った。
「君が今から私たちが言うことをしてくれれば、私たちは何も知らないでいてあげよう」
 俺は、呆然と二人の顔を見つめた。違う――、と心の中で呟く。俺は逆に知らないのだ。俺が、何であるのかを。どのような存在なのかを。
 しかし、どう答えればいい? 恐らく目の前の二人は、俺が全ての記憶を失っていることには気付いていない。そのことを話して、逆に俺を知っている人に会わせてもらおうか? いや、そもそもこの二人にそのことを話していいのだろうか。
「君の保護者はフェレイ学園長だったね?」
 フェレイ先生――突然現れたその名を聞いた瞬間、視界が白むのを感じた。そうだ、俺の過去に何かがあることが公に発覚すれば、俺の保護者であるフェレイ先生は――。
 息を呑む俺に、ヘンベルク教授は光のない目で微かに笑った。
「伝言をいくつか伝えてくれれば良いのだ。君も、学園長も、悪いようにはしない」
 ――これは、はったりなのか? それとも本当に俺のことを知っている人物に心当たりがあるのだろうか。もしそうなら、ここは一度言うことに従えば、いつかその人物と会うことが出来るかもしれない。しかし、それはフェレイ先生を窮地に陥れることになる――。
「……」
 ぐるぐると視界がまわっている。どうすればいいのか――ぎゅっと目を瞑って考えても、答えを捻り出すことが出来ない。
 その時、不意に鳴った音に顔をあげたのは三人同時だった。研究室の扉を叩く音だ。
 ヘンベルク教授が目配せをすると、ルークリフが頷いて立ち上がり、実験室を出て行った。どうやら来訪者があったらしい。
「まあいい。ゆっくり考えたまえ」
 ヘンベルク教授は無表情で告げて、腕を組んだ。俺は息を浅くして時を過ごすしかない――。
「な、何をするんですか!」
 ルークリフの悲鳴のような声が聞こえてきたのはその時だった。ヘンベルク教授が顔をしかめて立ち上がる。
 扉の向こうの研究室で、来訪者との間に何かあったらしい。いくつかのやりとりをしていく内に、どんどん声が近づいてくる。どうも来訪者がルークリフが止めるのを構わずに研究室内に入ってきたらしい。
 そして、俺の正面の扉が開かれた。
 そこから入ってくる思いがけない光に、思わず目を細める。
「失礼しますよ」
 聞きなれた声がした。扉を開けたその向こうで、ルークリフが呆然としている。そして、同じく扉を開けた主を見つめているヘンベルク教授も、時が止まったように固まっていた。
 ――淡い水色の髪。穏やかな光を宿した瞳。身にまとうのは、ゆったりとした薄手のローブ。
 俺は思わず、呆然とその人の名を口にした。
「……フェレイ先生」
 聖なる学び舎グラーシア学園の学園長、フェレイ・ヴァレナスその人がそこに立っていた。
 穏やかな笑みを宿した瞳が、ふっと細められて――。

「私の生徒に何をしているのですか、ヘンベルク教授」




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