-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

19.俺ってば人気者ー!?



 放課後である。演習で使った荷物だけ置いてきてしまおうと、俺は一度寮に戻っていた。普段だったら鷹目堂の休業日は都市に出かけて甘味を物色したり、寮でごろごろできるはずなのだが――。
 はああ、と机に手をついてがくりと項垂れる。気分が重いことこの上ない。
 しかし、こうしていてもグリッド先輩の呼び出しが撤回されるわけでもない。元気をだしていかなければいけないのだ。
「よし」
 俺は頭を振って淀む空気を振り払うと、拳を握って頷いた。そうだ、こういうことはもっと前向きに捉えるべきだ。
 だん、と足を踏み出して、俺は思い切り拳を突き上げた。
「俺ってば人気者ー!?」

 ――がちゃっ。

 その瞬間、時が氷結した。
 開かれた扉の向こうでノブに手をかけた茶髪の同室者――エディオと、ばっちりと目があう俺様。
「……」
「……」
 ――がちゃんっ!
 視線を交わしたまま数秒キープしたと思ったら、扉は神速で閉められていた。
「――って、ちょっと待てエディオー!?」
 閉められた扉を蹴破る勢いで外に飛び出すと、既にエディオはつかつかと歩き出してしまっていた。
「違うんだエディオーっ!」
「……寄るな変人」
 すがりつくようにする俺を見ようともしてくれないエディオ。
「誤解だーっ!」
 全身を振り絞るようにして訴えると、立ち止まったエディオは緑の目で胡散臭そうにこちらを見た。そうしてふう、と息を抜いて、
「どちらにしろ、変なヤツだなテメエ」
 独り言のように呟いて、踵を返した。そのまま横を通り過ぎていって、俺たちの部屋に入っていく。そうだ、エディオは元々部屋に用事があって帰ってきていたのだ。
 がちゃん、と今度こそ冷たく閉められる扉の音を聞きながら、俺はぼりぼりと頭をかいた。
 エディオからの心象を変えるのは、ちょっと大変そうだった。


 ***


 学園の図書館は敷地内にいくつかに点在しており、俺が呼び出されたのは高等院第一図書館だった。収められている本は専門書が多く、よく学生たちが利用している。奥には入場規制が設けられるほどに貴重な文献が保管されている区域もある。
 高等院教室棟の廊下の突き当たりにある入り口で掲示板を眺めて待っていた俺は、まず名前を呼ばれて振り向いた。
「ユラス!」
 しかしその声は俺が予想していた人のものとは全く違って、目を丸くする。
「せ、セライム?」
 皮製の鞄を手にしたセライムは俺の目の前まで小走りでやってくると、にこりと深い青の双眸で笑った。
「グリッド先輩はまだ来ていないのか?」
「いや、なんていうか……呼ばれたのは俺だけだった気がするんだが」
 訝しげに問うと、セライムはなんだというようにぴんと背筋を伸ばした。
「ああ。でも手伝いとか言っていただろう? 私も今日は時間があるんだ」
 そう宣言し、図書館の中を伺うようにする。俺はそんな様子を目を剥いて凝視することしかできない。
「……や、親切だな、お前」
「お節介なだけだ、気にしないでくれ」
 波打つ長い髪を耳にかけながら、セライムは当たり前のように笑った。確かにグリッド先輩と二人でこの上なく気まずい思いをするよりは、こいつがいてくれた方がよっぽど嬉しい。
 何かと気遣ってくれるのに、そこに恩着せがましさを感じないところがこいつの良いところかもしれない。いい奴だよな、と俺は素直に口元を緩めた。
 間もなくするとグリッド先輩が現れ、俺たちは図書館のある一室に案内される。
「君も手伝ってくれるのか」
「はい。魔術科教育学専攻のセライム・ユルスィートです」
「ふむ、感心だな」
 グリッド先輩は相変わらずの気難しげな顔で頷いて、ちらっと足元に目をやった。
 ついでに俺も、部屋に通された瞬間から床を凝視しっぱなしだ。
 俺は、恐る恐る挙手をして、答えを聞きたくない問いを口にした。
「……先輩、これ何ですか」
 するとグリッド先輩は、なんだというように鼻を鳴らして、
「見ればわかるだろう、本だ」
 そう、当たり前の事実を告げてくれた。
「……」
 俺は眩暈を感じて高くない天井を仰ぐ。
 先輩に案内されたその部屋は、丁度男子寮の部屋と同じくらいの広さだろうか。しかし、そこには――ぎょっとするくらいの本たちが所狭しと積まれていたのだ。全部あわせたら数百冊あるだろうか。色や大きさも様々でついでに分野もばらばらに積まれているようだ。似たような光景ならいつも鷹目堂で見るが、なんていうか……これは、規模が違う。
 顔をこれ以上なく引きつらせる俺に、グリッド先輩は素敵すぎる指示をだしてくれた。
「これを全て図書館の元の位置に戻してほしい」
 ……。
 ……。
「えっと」
 先輩の言葉を五回くらい胸の中で繰り返して、――俺は全身の血の気がひいていくのを感じた。
「……これ、全部ですか?」
「当たり前だ」
「先輩、図書委員だったんですね」
 恐ろしすぎる現実を当たり前のように受け止めたセライムが、納得したように口を挟む。グリッド先輩は頷いて、眼鏡の位置を直した。
「他の連中が仕事を怠けてこんな事態になってしまった。ユラス・アティルド、お前は古本屋で働いているのだったな? なら慣れているだろう」
 これが図書館の見取り図だ、とグリッド先輩は固まっている俺に地図を差し出してきた。恐る恐る受け取って覗き込むと、鷹目堂の数倍はあるだろう図書館の広さに思わずよろける。
 察するにこの本は全て生徒たちに貸し出され返却されたものだろう。そうすると分野も全くばらばらということだ。そんなものを全て整理しなくてはいけないとは。何か、俺が何か悪いことでもしたか。この世には血も涙もないのか。
「よしユラス。手分けして頑張ろう」
 今にも口から魂が飛んでいきそうな俺の横で、セライムは元気に手身近な本を手に取り出した。グリッド先輩も古文書でも読んでいるような顔つきで仕分けを始める。
「……やるしかないのか」
 泣きたい気分とはまさにこういうことか、と考えながら、俺も作業を始めた。始めるしかなかった。


 ***


「悪いな、つき合わせて」
 慣れない仕草で丁寧ににラベルを確かめてから本を納めていくセライムは、俺の言葉に気にするなと明るく笑った。あの返却図書の一時保管部屋にあった本の海をどうにか分野ごとに分別し、やっとその一塊目を図書館の一角まで持ってきたのだ。それでも不幸中の幸いか、重たい本を運ぶのに辟易する俺の横で、セライムが綿の塊でも持つみたいに軽々と運んでくれたので、思っていたよりもずっと早い。
 グリッド先輩は離れたところに本を戻しに行った。仕分けが始まって間もない頃に、ヴィエル先輩に変わったことはないかと何気なく聞かれたが、特に思い当たるふしがなかったのでそう答えると、そうかといって先輩は出て行った。何かあったんだろうか。
 夕方の時間帯、図書館には人も少なく、前も後ろも本棚が立ちはだかるように並んでいた。本が傷むのを防ぐ為に、弱い照明が落ち着いた光源となって辺りを照らしている。俺も本を元あった場所に戻す作業に専念することにした。請け負ってしまった以上、なるだけ早く終わらせてしまいたい。
 だが、ふとセライムが手を動かしながら、ちらちらとこちらを伺っているのに気付く。最初は顔に何かついているのかと思ったが、口の周りをぬぐっても何もついていない。
「……どうかしたのか?」
「えっ」
 問うと、セライムは肩を飛び上がらせて狼狽した。本を落としそうになって、慌てて抱えなおす。――分かりやすい奴である。
「なんだ、俺の働く姿に見惚れてしまったか」
「いや、そうではなくて」
 普通に否定の言葉が返ってきてちょっぴり傷つく俺である。
 するとセライムはこほん、と咳払いをして、俺と向き合った。居住まいを新たにするような様子に首を傾げる。セライムはじっと俺の顔を見つめて、静かに告げた。
「お前は変な奴だな」
「……それは褒めてくれているのか」
「自分のことは何も話そうとしない」
 不意に胸を押されたように、俺の次の声は言葉にならずに喉を転がり落ちていく。俺は思わず身が強張るのを感じながら、心の内すら見透かすような深い青の双眸を見返した。そして、思いがけずその表情が真剣な光を湛えているのに、時が止まってしまったような錯覚を覚える――。
「……いや、お前が話したくないのだったら構わないのだが」
 セライムは俯いてそう漏らし、しかし次にはもう一度顔をあげていた。とろけた黄金を流したかのような見事な金髪が、どこか現実感を伴わないものとして網膜に映る。そんな様子に心を潰されてしまう気がして、俺は思わず顔を背けていた。
「お前はいつもは今日の昼みたいに楽しそうにしているのに」
 真っ直ぐな声が、穢れないものだけに鋭く胸に突き刺さる。けれど――。
「なのに、時折別人のような顔をしている」
 けれど、言うことはできない。俺には記憶がなくて、しかも――しかも、人に扱うことのできないはずの力が使えることなど。そんなことを言ってしまったら、俺はきっとこの居場所をなくすだろう。俺は本当の意味での『得体の知れないモノ』なのだから。
 ああ、やはり俺は、今の場所を失いたくないのだ。自嘲の笑みが口の端からこぼれて、整然と並べられた静かな本の世界で目を閉じる。
「……別人みたいな顔、してるか」
 半分は自分に向けて紡いだ言葉に、しばらくの沈黙の後、すまない、と囁くような返事があった。
「無遠慮なことを聞いてすまない。ただ――」
 俺はゆっくりと目を開く。今の自分はどんな顔をしているだろう。普段の俺と違う顔をしているのだろうか。――昔の俺は、どんな顔をしていたのだろうか。
「ただ――心配なんだ」
 セライムは一瞬泣きそうな顔をして、けれどしっかりと俺の顔を捉えてそう告げた。瞳には曲がらぬ光と、物悲しい闇が同時に存在している。
「何かあるのなら、相談して欲しい。それが言いたくて今日はついてきた」
 儚いとすら思えるほどに張り詰めた表情。記憶を戻す勇気もなく、何をすべきか見つけられない俺には、あまりに眩しい。
「……なんでそこまで心配してくれるんだ?」
 俺はそう問うた。セライムにとって俺は多くの接点はあるものの、ただの友人にすぎないというのに――。
「お前は見ていて危なっかしいんだ」
 セライムは持っていた本を棚にしまいだす。かたり、という音が妙に心の奥に落ちる。
「私は、後悔はしたくない」
 その横顔は、どこかの物語に登場する騎士のように凛としていて、胸の内をなぞった。
「今でなくていい。いつかでいいんだ。いつか、お前が自分のことを話してくれたら――」
 かたり、かたり。本を戻しながら、セライムはこちらを向いて少し寂しそうに笑った。まるで、この時がいつか終わってしまうのを知っているような笑みだった。
「――とても、嬉しい」
 それが何を表しているのか分からないその時の俺は――セライムのそんな笑顔に、曖昧に答えることしか出来なかった。
「そうだな、いつか……言えるのかもしれない」
 セライムはそうか、と横顔で呟いて、それ以上は何も言わなかった。だから俺も心の中にタールのようにべっとりと張り付く何かを感じながら、再び作業を始めようとして床に積んだ本を一冊手にとった。
 ぱさっと足元に一束の紙が落ちたのは、その時だった。
「うん?」
 首を傾げてかがみこむ。どうやら今手にとった本に挟まっていたらしい。借りた人が挟んだのを忘れてそのまま返却してしまったのだろうか。
「どうかしたのか?」
 訝しげなセライムの声に頷いて、俺は紙を拾い上げた。何かの書類だろうか。紙は二枚が重なって四つ折りになっている。
 それを開いてみると、横からセライムも覗き込んできた。
「なんだ、それは?」
 そこには文章の羅列とサインが書いてあり――思わず眉間にしわがよる。するとセライムは俺が考えているのと同じことを呟いた。
「契約書か?」
「なになに? ここに契約の証を照明する。サインは――ルー……クリフ・タース、と……ええと、ヘンベルク……・クロイツ――ヘンベルク?」
 俺は思いがけぬ名前に眉を跳ねさせた。
「スアローグが入っている研究室だったな? 詳しく見せてくれ」
 セライムが呆然とする俺の手から紙を取り上げて目を通し始めて――そして、はっとしたように固まった。
「――っ!」
「な、なんだ?」
「ユラス、これは――!」




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