-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

18.泡沫のような栄光



「いや絶対にあの研究室には何かあるんだよだって理事長が訊いてくるんだ間違いない。ああもうなんでそんな面倒なところに入ったんだろう僕もう別のところに移籍しようかなでも気になるしああもう」
「あんた、落ち着きなさいよ」
 頭を抱えるようにして呪詛のように呟いているスアローグに、キルナが冷静に言い放つ。俺とセライムも横で片頬をひきつらせていた。
 昼休みに差し掛かる時間帯である。こいつ、一度飲み込んでしまえば何だってアッサリと処理出切るのに、それが出来ない事態になると本当に深みにはまってしまうのだ。昨日の昼からずっとこんな感じだ。
「まだ何かあるって決まったわけじゃないし、大丈夫だと思うぞ」
「のん気な君が羨ましいよ……」
 がっくりとうなだれるスアローグの横で、キルナは鞄を手に立ち上がった。
「ん、お前午後の授業は?」
「チノが風邪ひいて休んでるから、一度帰って様子見てくるのよ」
 あの子無理するから、と肩をすくめて踵を返す。本当はつきっきりで看病したかったのだろう。じゃあねと手を振ったキルナは急ぎ足で教室を出て行った。
「セライムは行かないのか?」
「ああ。風邪がうつるといけないからって、キルナがな。私だって心配なのに」
 置いてけぼりをくらったセライムが不満そうに口を尖らせる。
「寝込んでるのか?」
「いや、そうでもない。明日には元気にでてこれると思う」
「まあそうだな、ヤツは殺されても死ぬタマじゃない」
「ふふ、本人が聞いたら怒るぞ」
 話しながら、俺はセライムが持っている弁当に目をやった。キルナもチノもいないということは――。
「なあユラス。今日は昼食を一緒にとらせて貰ってもいいだろうか」
 案の定、セライムはこちらを伺うようにしてそう問いかけてきた。無論、断る理由もないので即了承する。
「じゃあ食べにいくか。おーいスアローグー」
 一人でぐったりとしているスアローグの肩をゆする。すると心の底からため息をついて、スアローグもしぶしぶ立ち上がった。
「はあ、昼食をとりたい気分じゃないんだけどねえ……」
「何を言う。腹が減っては戦は出来ないぞ。なに、パフェでも食べれば気も晴れるって」
「それは君だけだよ」
 ゆるゆると歩き出した俺たちのやりとりを笑いながらセライムがついてくる。
「そうだな。ユラスの甘党ぶりは有名な話になっているからな」
「褒めないでくれ、照れ屋なんだ」
「にしても太らないよね。全く、どういう体の構造してるんだい」
 最初は食堂の方に行こうとしたのだが混んでいたので、セライムも弁当を持っていることだしと適当に購買でパンを買って食べることになった。
 購買は昼休みの時間帯になると、外に屋台をだしてパンを売ってくれる。そうでもしないと店内が人でパンクしてしまうからだ。育ち盛りの生徒4000人の腹を満たす為にどれだけの労力が裂かれているのかは推して知るべし、である。
「おいユラス、そんな栄養のないものを選ぶな。こっちにしろ」
「うおお、俺のチョコパンがー!?」
「スアローグも、なんでお前たちはそう不健康なものばかり」
「だってこれが一番安いし」
 色々と注文をつけられながら、結局俺はハムと野菜のサンドイッチとクリームパンで我慢することになった。セライムのお達しにより、愛しのチョコパンはまた今度買おうと涙を呑んで見送りだ。
 スアローグも似たようなものを買って、適当に中庭の芝生に腰掛ける。
「たまには外で食べると気持ちがいいな」
「そうかな。ちょっと暑い気がするけど」
 確かにさんさんと初夏の陽光の照りつける芝生は少し暑いくらいだった。だがセライムはそんな光を一杯に吸い込むようにして、意気揚々と膝に乗せた弁当の包みを解く。中からはオレンジ色の容器に色とりどりの惣菜が入った、豊かな色彩が目に飛び込んできた。チーズと緑菜を挟んだサンドイッチに、野菜の肉包みから、卵焼き、動物をあしらったウィンナーに赤い野菜などがぎっしりと詰まっていて、見た目にも非常においしそうだ。俺の昼食とは天と地ほどの差である。
「うわ、僕たちには到底出来そうもない昼食だね」
 スアローグも俺と同意見だったのかそう言うと、セライムは嬉しそうに笑った。
「毎朝キルナが作ってくれるんだ」
「お前は作らないのか?」
「うっ」
 俺が呟くと、びくりとセライムの肩が揺れて長い金髪が何房か落ちる。心持ち頬を赤くさせたセライムは若干咳き込んだ後、憮然とした表情でもごもごと口を開いた。
「いや……手伝おうとするんだけどな、『手間が三倍になるからあっち行ってて』ってキルナが」
「つまり料理が苦手だと」
「ち、違うんだ! そのだな、少し鍋を焦がしてしまったり、野菜の大きさが均一じゃなかったり、味付けがうまくいかなかったりでな――って、なんだ二人してその顔は!」
 意味ありげな視線のやりとりをする俺とスアローグに、セライムの顔が真っ赤に染まる。
 ぶつぶつと文句を言いながら弁当を食べ始めるセライムを横目に、俺も笑いながら紙の包みをといた。平和なことこの上ない。
「うん?」
 サンドイッチにかぶりついた俺は、ふと空を仰いだ。鮮やかな色をした空に一点の影。それが何であるかすぐに理解して、思わず声をあげる。
「――セト!」
 影はぐんぐんと大きくなり、そのシルエットが鳥の形だと分かるようになってから、そいつ――セトが俺の目の前に降り立つまで、あっという間だった。
「わっ、な、なんだい」
 突然の来訪者にスアローグがぎょっとした声をだす。俺たちの近くで昼食をとっていた生徒の何人かも目を丸くさせていた。そりゃあ当たり前か、セトは翼を広げれば俺の片腕と同じ長さになるくらい大きい。そんなものが間近に飛んできたら誰でも驚くだろう。
「なんていうか……派手な登場するなあ、お前」
 俺の膝のすぐ前でぴんと尾羽を立てる紫の鳥セトに、俺も思わず頬を指でかく。
「なんだ、お前が飼っている鳥なのか?」
 鳥というものをこんなに近くで見る機会はそうないのであろうセライムが、興味津々といった風に身を乗り出す。するとセトは、セライムを透き通った紫の瞳で見上げた。
「んー、飼ってるっていうか、懐かれてる?」
 セトは今日みたいに時折俺の前にやってくる。しかし毎日というわけでもないし、俺の所に来る時以外は空を見ても見かけることすらないので、普段は森の方にいるのかもしれない。
 俺の曖昧な笑みをどう受け取ったのか、セライムは目を何度か瞬かせてもう一度セトを見下ろした。セトはまだセライムをじっと見上げている。
「お前、セライムが気に入ったのか?」
 セトにそう問うが、セトは黙って――いや、鳥だから当たり前なのだが――セライムの顔をつぶらな瞳に映している。
「へえ、可愛いな。セトというのか、お前」
 そんなセトの姿が愛らしく思えたようで、セライムは口元を綻ばせて手を伸ばした。セトの首を何度か指が往復すると、セトはくすぐったげに目を細める。
「珍しいね。紫の鳥なんて初めて見たよ。なんて種類だい?」
「いや、気がついたら俺にくっついてくるようになってたから、正直わからん」
「へえ? 今度生物学専攻の人に訊いてみようかな」
 俺はセライムと戯れるセトを眺めながら目を細めた。確かにセトはなんという名前の種類で、どうして俺についてきているのかは分からない。こいつはあの川辺で俺を起こし、そしてそれからずっとこうして俺に会いにくる。もしかすると俺は記憶を失う前からこいつと一緒だったのだろうか――。
「――ユラス?」
「ん?」
 ふと意識を外に向けると、セライムがこちらを覗きこんでいた。思考に耽るあまり無言になっていたからだろう。
「どうかしたか?」
「いや、なんでもない」
 笑ってクリームパンの包みをとくと、セライムは一瞬気遣わしげな表情でこちらを見た。そのまま俯くようにしてセトに目を落とす。
 そんな様子に内心で首を傾げたが、それを確かめる前に俺は視界の端に見覚えのある姿を見つけて思考を停止させていた。
「――うっ」
 それが誰だか認識した瞬間、表情を凍らせ反対側に目をそらす。しかし、その姿は俺を見逃してはくれなかった。
「む、ユラス・アティルド」
「俺は何も見えてない俺は何も見えてない俺は」
「ユラス・アティルドじゃないか!」
「俺は何も見えてない俺は何も」
「何をぶつぶつ言っている、ユラス・アティルド。丁度いいところにいた」
「俺は何も」
 ぽん、と肩に手を置かれて振り向くと、スアローグの目が「諦めたまえよ」と語りかけてきていたので、恐る恐る顔をあげると――赤い髪に分厚い眼鏡をかけたグリッド先輩が、高圧的な視線で俺を見下ろしてくれていた。
「ど……どーも良いお日柄で」
 先輩の難しげな古文書でも読んでいるような顔が俺を捉えて、そうして口を開いた。
 ――ああ、これは素敵な予感。
「今日の放課後はあいているか?」
 うん。予感的中。
「あ、今日はちょっと」
「今日は鷹目堂は休業日だったな。あいてるじゃないかユラス」
 全く悪気のないセライムが、笑顔で最悪なセリフを吐いてくれる。
「それは丁度いい。では手伝ってもらおう、放課後に学園の高等院第一図書館前に来たまえ」
 グリッド先輩は眼鏡の位置を指で直しながらそう言い放ち、相変わらず一点の乱れもない歩みでスタスタと歩いていってしまった。
「……」
 スアローグが微笑みながら十字をきってくれるのを横目に、先輩の遠ざかる後姿を見送るしかない。
「とりあえず、セライム、恨む……」
「うん?」
 何のことだという風に俺を見返すセライムの様子にがっくりとうなだれた。
「うう、セトー、味方はお前だけだー」
 俺の言葉に、ゆっくりとセトは首を傾げると。
 ――ばさばさばさーっ!
「うお!?」
 突然風が舞い上がったかと思うと、セトは俺に向かって猛然と突進してきた。ぶつかるすれすれで一気に軌道を変えて空へと飛び上がる。そのまま風をきるようにしてみるみる遠くに行ってしまった。
 ぽかん、と俺は一連の出来事を見守って――そして、手で持っていたはずのものがなくなっていることに気付く。
 しかし気付いたときは既に後の祭りで、セトはもう点にしか見えないほどに小さくなっていた。
「うおお、俺のクリームパンがー!!」
 無論、持っていかれたクリームパンはもちろん、返事など返ってくる筈もなかった。


 ***


 窓は決して小さくないというのに、日中もどこか薄暗さがわだかまる部屋には、独特のむっとする臭いが染み付いていた。古いインクと、そして何よりも彼らの扱う化学薬品が交じり合った不可思議な臭い。そう広くはない研究室の一番奥は、本棚のせいで回りこまないと中の様子がわからない。その一帯は部屋の主任ヘンベルク教授の為の空間であり、研究室の生徒でさえ用がなければ足を踏み入れない領域であった。
 だが、それは珍しいことではない。研究の内容や成果の情報は、研究室にとっては金か、もしくはそれ以上に価値のあるものだ。故にそれらは外部に漏れぬよう、研究室ごとに厳重に保管される。万が一それが漏れて、他の研究者に学会などで発表されてしまえば、例えどんな素晴らしい研究をしたとしても名声や金を横取りされてしまうのだ。
 ヘンベルクは椅子に腰をかけて書類を眺めていた。丸い顎の輪郭を指でなぞるその顔は一見、どこにでもいる研究者のそれだったが、瞳にはこの部屋のような薄暗さが落ちている。
 また、彼の意識は書類の文字を飛び越えて更に奥の彼自身へと向けられていた。
『私は、間違ったことはしていない』
 彼の研究は今、行き詰まりを見せていた。
 実験をいくら重ねても期待した結果は得られず、その間にも周囲の研究者たちが次々と新しい論文を発表して注目されていく。常に新しさを求める研究の世界で、彼はみるみる置いていかれるような心境を味わっていた。
 世間が自分に興味を失っていく。それは若い頃に価値ある論文を発表して脚光を浴びた彼にとって、耐え難い事実だった。最初は酒が増えるだけだった。続いて、研究がうまくいかない分だけ女や賭博に金を消費するようになった。
 その時は、まだ戻れると思っていた。これはひと時の休息で、一通り息を抜いたらまた元の生活に戻れると。
 しかし、享楽に太り肥えた体はいつの間にか、別のことを考えるようになっていた。

 夜型が多い研究員たちの住処は、昼休みになって顔ぶれが現れる時間に差し掛かる。かちゃん、と扉が開く音が鳴り、一番乗りで助手が入ってくる。
 その人物――ルークリフは、自分用にあてがわれた机を通り過ぎて、まっすぐとこちらに向かってきた。
「教授、よろしいですか」
 機械でも喋らせているような声に低く返事をすると、彼は本棚の脇を通ってヘンベルクの横に立った。
「例のことですが」
 ふっとヘンベルクの目が伏せられる。ヘンベルクは座ったまま自分の椅子をルークリフの方に向けて、キツネを思わせる彼の細い顔を見上げた。
「――やはり上が嗅ぎまわっているようです。しばらく、薬の件は動かない方が良いかと」
 白衣を着たルークリフはおおよそその出で立ちに似つかぬことを小声で告げる。
「そうか。向こうは了承しているのか」
「ええ。しかし別件で妙なことを聞かれました」
 続きを促すと、ルークリフは思いもよらぬ名前を口にした。
「ユラス・アティルドという、今年高等院に編入した生徒をご存知ですか」
 ヘンベルクの太い眉が動いて、怪訝そうな顔を作り出す。確か何度か耳にしたことのある名前だ。超難関で知られる高等院編入試験をほぼ満点で合格し、今期で主席の座をも奪い取ると噂される鬼才の持ち主だったか。
「噂だけは聞いたことがある。しかし彼がどうしたのだ」
 ルークリフは、彼自身も不可解そうな顔をして続けた。
「そちらの学園に紫色の髪と目をした少年が行っていないかと聞かれました。それで彼の名を教えたら突然狼狽して――いえ、どちらかというと」
 そこでルークリフは一層不思議そうに眉根を寄せて、

「――まるで怯えたような顔をして、それは本当か、と何度も」

「ユラス・アティルド……?」
 ヘンベルクは噂としてユラス・アティルドのことは知っていたが、実際に彼の姿を見たことはなかった。暗闇に住まう者が恐れるという彼は、一体何者なのだろうか。
「だが、私たちには関係のないことだ」
「いいえ、教授」
 被さるようにして、耳障りな声はしんと部屋に落ちた。ルークリフは周囲をもう一度探るようにしてから、更に暗い声で囁く。
「彼を利用するのです」
 ぎらりと細い目が輝いて、昼間だというのに寒気を覚えるほどに冷たい声が紡がれた。
「彼の保護者はあの学園長だとか。もし、ユラス・アティルドに後ろ暗いことがあるのなら、それを握れば学園長の首を握ったも同然。そうすれば煩わしい上層部も学園長の力で黙らせることが出来ます」
「――うむ」
 ヘンベルクは肉のついた頬を撫でるようにしてルークリフの言葉を胸の内に落とす。手腕を大きく評価されている学園長の弱みを握ることは、何かとこちらを有利に導くだろう。
 それにまだ若い学園長だ。このことをきっかけに彼を脅すばかりか味方につけることさえ出来れば。一見、人の良さそうな顔をしてはいるが、学園長などという地位にいるのなら世の暗部を知らないわけがない。
 ――この春。ある男に出会ってから、ヘンベルクには今までに見たことのない大金が舞い込んでくるようになった。取引をしているその男が裏で何をしているのかは知らない。ただヘンベルクは彼が望むままに薬品の横流しをするだけだった。
 一度密かに顔をあわせた時、ヘンベルクの戸惑う顔を見て男は不敵に笑った。ある程度金が稼げたら研究室など潰してしまえ、と歪んだ口が笑っていた。人生が楽しめる程度の金があれば、他には何もいらないだろう――?
 確かにそうかもしれないと思った。このままろくに研究の成果がだせなければ、その内に自分は学園を追われるだろう。名目上は異動という形で、地方の名もない研究所か学術施設に飛ばされるのだ。そこまでして自分の研究を続けたいという情熱は、既に彼からは抜け落ちていた。
 そうだ。学園長はグラーシアの顔として国の要人とも交流があるだろう。彼をこちら側につければ、研究室を潰した後も恩恵に与れるかもしれない――。
「……教授?」
 ふと顔をあげると、ルークリフの細面が窓から注ぐ陽光をかぶって訝しげにこちらを見下ろしている。自分よりも遥かに若くして研究者としての道を踏み外した助手を静かに見返して、彼は薄く笑った。
「どうやってユラス・アティルドの弱みを探る? 早くしないと嗅ぎ付けられる」
「……そうですね」
 どこかぼんやりとした頭でヘンベルクは考えた。手にしたと思えば消えてしまう、泡沫のような栄光に縋ろうとする空しい人生。僅かでも立ち止まれば、みるみる置いていかれてしまう――。
 孤独に一人、いつの間にか全てから見放されてしまっていた。
 もう疲れたんだ――、ヘンベルクはちらりと窓の外に目をやって、まるでこの都市は牢獄のようだと考えた。




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