-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

16.幸福なこと



 ぱたぱた、と棚のホコリをモップで払っていく。奇妙な老紳士と別れた後に向かった鷹目堂は、既に窓辺から街灯の光が差し込める閉店の時間に差し掛かっていた。先ほどまでは研究者風の男性や制服を着た学生たちが各々古本を物色していたが、もう店内に人気はない。
 客の都合には文句がつけられない為、鷹目堂での仕事は日によって忙しさが全く違う。次から次へと会計所に本を持ってこられて慌てる日もあれば、今日のようにゆったりと時が過ぎていく日もある。
 人がはけたので、俺は店の外にある看板を閉店時のものに差し替え、後片付けに入っていた。本の整理は重労働ではあるが、これだけは嫌いでない。俺と違う時間を生きた人々の残した書籍の数々は、興味をそそるものばかりだった。勿論、あまりに立ち読みにふけって仕事をさぼっていると、ハーヴェイさんにこの世の終わりがくるような眼光で睨まれるのだが。
 モップを動かしていると、ふいにちりんちりん――と涼やかな音がした。学術都市グラーシアに古くから佇む古本屋、鷹目堂の古びた扉が開いたのだ。
「あ、今日はもう店じまいで――」
 俺の声は、客の姿を捉えると同時に喉の奥へと消えていき、はっと背筋が正されるような驚きに変わっていった。
 穏やかな面持ちで鷹目堂を訪れたその人の名を、呼ぶ。
「フェレイ先生」
「こんばんは、ユラス君。元気に働いているようですね」
 相変わらず薄手のローブに身を包んだフェレイ先生は、にこりと笑って会釈する。俺が働き出してからフェレイ先生がやってきたのは、これが始めてだった。
「珍しいですね、こんなところで」
 そう言うとフェレイ先生は苦笑して頬を指でかいた。
「ええ、ここのところご無沙汰していましたね。遅くなって申し訳ないですが、少し寄らせてもらいます」
 まあ確かにフェレイ先生はいつも忙しそうだし、今日も予定の合間を掻い潜ってやってきたのかもしれない。
「よく来るんですか?」
「ええ、学生の内からお世話になっていました」
 そういえばフェレイ先生ってこの学園の卒業生だったんだっけか。だったら学生時代から利用していたのも頷ける。ここは学生なら二度はお世話になるというくらいに有名な店だし――。
 フェレイ先生は会計所に視線を向けて、にこやかに声をかけた。

「こんばんは、ハーヴェイ。この前頼んだ本ですが」

 ――からーん。
 音は、俺の指からするりと抜けていったモップによるものだった。
 ……いや、えっと。
「フェレイ。お前が頼む本はいつも面倒くさい」
 どーん、と巨体が座っているというよりはそびえ立っている感じで会計所にいらっしゃるハーヴェイさんが、当たり前のようにそう返す。
「だって学園の図書館にも国立図書館にもなかったんですよ。頼みの綱はここだけだったんです」
「遠出させやがって。コラソンの古本市で偶々見つけた」
「コラソンの古本市? いいですね、他に目ぼしいものはありませんでしたか?」
「お前な」
「……」
 落ちたモップを拾うのも忘れ、脳みそをフル回転させて現状を把握しようとする俺である。
 ええと。
 フェレイ先生がハーヴェイさんを気軽に呼び捨てで呼んで。
 ハーヴェイさんもまた先生を気軽に呼び捨てで返して。
 なんだかとっても、フレンドリー……?
「……」
「すみませんね、いつも手数をかけます」
「そう思うなら頼むな。――これだ、『アトラス論における遺伝子の進化』、間違いないな?」
「ああ、そうです。良かった、絶版になったと聞いてもう手に入らないと思っていました」
「……」
 俺は本棚の影から、事件現場を目撃してしまった家政婦のような心境でやりとりを見守る。
 いや……まあ、確かに。確かに、フェレイ先生が学生だった頃はハーヴェイさんも同じく若かったろうし、二人とも三度の飯より本が好きな種族だから気があってもおかしくないし、その交友が今になっても続いているといってもおかしくはない――の、だが。
 フェレイ先生は古びた本を手にとって、興味深そうにページをめくっている。普段あまり表情を緩ませないハーヴェイさんが、そんな先生を呆れた眼差しで見上げていた。
 俺は自分の指で自分の頬を思いっきりつねってみた。
「いてっ」
 突き上げる痛みに、これが夢でないことを悟ってしまう。
「……マジか」
 ようやく落としたモップを拾い上げ、部屋の片隅に目をやりながら一人呟く。
 なんだかとても違和感のある真実を横目に、俺は後片付けを続けるしかないようだった。


 ***


「つい長居をしてしまいますね」
 フェレイ先生は受け取った本を抱えて、夜の大通りを俺と並んで歩く。丁度俺の仕事も一段落したので、一緒に帰ることになったのだ。
「先生、ハーヴェイさんと仲良かったんですね」
 今でもあの会話が夢なんじゃないかと思いながら俺が言うと、先生は若干苦笑して、そうですね、と呟いた。
「学生時代からあそこにはよく通いましたから」
 そう、遠くのことを思い出すように目を細める。学術都市の夜は大通りといえど人も少なく、廃墟のような寂しさがある。学園生の大半は寮の門限を気にして帰ってしまうし、研究所の人間も離れた歓楽街の方に行ってしまうから、店も早くに閉まってしまうのだ。月明かりさえ跳ね返してしまう街灯に照らされる大通りは、やっと客がきたとばかりに俺たちの影をぴんと映している。
 こつり、こつりと石畳を足音が叩く音が妙に耳に響いて、俺は鞄を肩にかけなおした。
「ユラス君?」
 ふと名前を呼ばれたのに顔をあげる。先生の顔にはこちらを伺うような色が見えた。
「どうしましたか、元気がないですよ」
 嘘偽りなくこちらを心配する瞳に覗き込まれて、一瞬言葉に詰まった。心の中まで見透かされたような気分で目を逸らす。
「……そう見えますか」
「ええ、ここのところ見かけるたびに」
 流石は教師というか、俺がどうにか奮いだしていた空元気すら見抜かれていたらしい。暗い方向に表情を隠すようにして俺は曖昧に笑う。
 ――フェレイ先生に、この力のことを言ってみようか。
 そんなことがふと頭の中を駆けた。今のところ、俺を知る人の中で唯一、俺に記憶がないことを知っている人だ。それにフェレイ先生だったら、きっと――きっと、俺の持つ力を、恐れたりしないだろうから。
 しかし、とも胸の内が囁く。はたして理解してくれるだろうか。

 理論的に言ってしまえば、俺は『人間ではない』。

 あまりにいびつな存在の俺を、目の前の人は受け入れてくれるのだろうか。
 暫く沈黙を続ける俺に、フェレイ先生はそれ以上何も言わなかった。そういう人だ。他人の心に土足で入ってくるような真似をしたりはしない。だが、その優しさが今の俺には染み入るように痛かった。
「記憶は、まだ戻りません」
 だから俺は、呼気を飲み込むようにしてそう告げた。でも、この力のことを言うわけにはいかなかった。
「ええ」
 俺よりも背の高いフェレイ先生は、ゆっくりと俺の言葉をかみ締めるようにして頷く。街灯に照らされた顔立ちが、夜風に目を細めた。
「記憶を取り戻したいと思いますか?」
「――わかりません」
 少しの間をおいて、俺はそう答える。正直な答えだった。
「思い出さなきゃいけないって分かってるのに、思い出したくないと、そう思って。どうすればいいか、分からなくて――」
 思い出さなければいけない記憶。それが、とてつもない悪夢のような記憶であることを、俺は何処かで認識していた。だから目を背けた。耳を塞いでこの都市に逃げ込んだ。
 自分の声が縋るような響きを持つのを感じて、俺はきっと誰かに助けて欲しいのだろうと思い知る。しかしその行為ですら恐ろしくて。もてあました不安と恐れが中途半端に口の端から零れていくのがあまりに無様で、知らずと拳を握りこんでいた。
「もしも、ユラス君が記憶を取り戻したいというのなら」
 ふわっと風が吹き込むように先生の声が舞った。不思議な声だと思う。高くも低くもない、ごく普通の声なのに何故かよく響く。
 フェレイ先生はゆったりと足取りでしかし瞳に光を宿しながら、俺に告げる。
「私は出来うる限りの助けをしましょう。しかしユラス君」
 その口元に笑みはなかったが、口調は染みるように穏やかだ。何処にでもいそうな顔をしているのに数多の人望を集める先生は、静まり返った夜道で静かに続きを紡いだ。
「時には逃げてしまってもいいのですよ」
 俺は、先生の顔を見た。先生は俺の顔を見返して笑う。
「一つのことばかり考えていると、気がつけば何も見えなくなっている。自らを見続けてしまっては、自らを失うこともあるのですよ」
 こちらに向けて放たれたはずの言葉はどこか独白めいていて、俺は目を瞬いた。フェレイ先生の淡い水色の髪は、街灯の明かりを吸い込んで銀色にも見えた。
 フェレイ先生は苦笑と共に、薄い唇から吐息を漏らして目を閉じる。
「私なんて、今となってはきっとこの都市を離れては生きていけない。私はこの都市のことばかりに目を向けてしましたから」
 俺は、今日出会った老紳士のことを思い出した。フェレイ先生が学園長になってからは長い年月が経っているという。しかし先生の若い頃の話は聞いたことがない。
「先生は、ずっとこの都市にいたんですか?」
「はい。八歳で学園に入学し、卒業した後もこちらに住んでいました。そうして気がついたら、この都市に縛られてしまった。他の町にいる自分など、想像も出来ません」
 フェレイ先生はふと空を仰ぐ。こちらが明るいからか、夜空に浮かぶ星はどことなく霞んで頼りない。先生は幼い頃からこの空を見上げていたのだろうか。何処もかしこも栄えているはずなのに、何故だか寂しいこの都市で。
「だから、自分から逃げ出してでも他のことに目を向けるのは、きっと悪いことではないのですよ」
 ――そうでなければ、人は生きていけないのだから。
 呟いた先生の薄手のローブが、風にはたはたと揺れた。涼しい夜風が心地よく体を冷やしていく。
 笑うフェレイ先生を見上げて、穏やかな顔のその奥に何があるのだろうと俺は考えた。俺を拾い、助けてくれたフェレイ先生の年を重ねた表情の向こうに、何が渦巻いているのだろうと。だが思案しても、答えはない。
「ユラス君。あなたには友人がいるでしょう? あなたが何者であったとしても、今のあなたを受け入れてくれる友人が」
 人の手で作り出された空虚な都市に、やわらかな声が響く。
「それは、とても幸福なことですよ」
 例えその奥に何があったとしても、優しさに満ちたそれは確かに俺を慰めてくれた。だから俺は正直に頷いて瞳を閉じた。
 青味がかった灰色で照らされる町並みは廃墟のようでもあるが、同時に穏やかな静けさも潜めている。次に目を開いたとき、俺はしっかりと自分の足で歩いていることを自覚できていた。
「そういえば、先生。昼に先生を知ったようなそぶりで話す人と会ったんですけど」
「私をですか?」
 フェレイ先生はきょとんと首を傾げる。こういう仕草はちょっと子供っぽい。俺は頷いて続けた。
「はい。ええと――随分とお年を召した感じの人でしたけど、身なりはちゃんとした男の人です。荷物持つように頼まれたから、暫くついてったんですけれど」
 俺がそう説明する間に、フェレイ先生の瞳にひらめきが走った。ぱちぱちと何度か瞬きをして考えこむフェレイ先生に、今度は俺の方が首を傾げる番だった。
「あ、やっぱりお知り合いでしたか?」
「ええ――」
 フェレイ先生は珍しく言葉を濁して、そしてちょっと困ったような顔をして、困りましたね、と独り言のように呟いた。

「確かにその方、私の知り合いかもしれません」


 ***


 300年の間世界を支配したウッドカーツ家を打ち破った、ウェリエル・ソルスィード。かの英雄により建設された、誉れ高き学術都市グラーシア。学びの都と賞されるその地では世界の英知が集められ、最先端の研究が行われている。都市の南北に向き合ったグラーシア学園とグラーシア国立図書館の双璧に挟まれるようにして広がる町並みは、そのほとんどが学術に関する施設だ。永住する者こそ少ないが、世界中から探究心溢れる研究者が集まってくる為、都市は人で溢れ返っていた。
 しかし、そこにいるのは本と研究を何よりも愛する研究者ばかりではない。むしろ、そのような人間は実際のところ希少ともいえるだろう。
 学者という肩書きを仰々しく背負ったところで、結局のところ彼らは金や権力への欲にかられる人間だ。朝から晩まで己の好奇心の為だけに生きていける聖人のような人間などほんの一握りだ。
 だがそれを糾弾しようなど、ヴィエルは少しも思っていなかった。むしろ、この都市を学びの聖域などと呼ぶ方が空虚で滑稽だ。例え世界を発展に導く発明をする彼らだって、結局のところは血の通う人間なのだ。
 ヴィエルは桃色の髪を払って煙草を咥えなおした。その奇抜な色から自然と目を引く髪は、昔から長いままだ。短くしたいなどと思ったこともない。
 彼女がいるのは、都市の中でも南東に位置する賑やかな通りだった。大通りが昼間に華やぎ、夜は廃墟のようになるのとは間逆に、この辺りは暗くなる程に灯りが増えて活気付く。至るところに酒場が点在し、それらは研究者たちに夜の楽しみとして利用されていた。同時に治安が悪いため学園ではこのような場所に行くことを禁じていたが、ヴィエルに小言を聞く耳などない。
 彼女は艶かしい歩き方で通りを進み、馴染みの店の看板に目をやった。周囲から視線が集まるが、彼女は気にした風でもなかった。なんといっても彼女の容貌は、何処にいても人の目をひく。
「よおヴィエル」
 酒場に入れば常連たちからの挨拶があった。軽く受け流してカウンターに向かう。
「ユラス・アティルドの件は」
 カウンターの奥にいる主人に、歩きながらそう問いかけた。主人は体の線が細く一見軟弱にも見えるが、壮年に差し掛かった瞳は相手を萎縮させる鋭い光を宿している。彼はふっと口元だけで笑うと、煙草の火を灰皿でもみ消したヴィエルを面白げに眺める。
「今回はお前さん、随分熱心だなあ。惚れてるみたいだぜ」
 ヴィエルはだらしなく椅子に腰掛け、眠たげな目で主人を見返した。能書きは良い、というサインに主人はクッと喉を鳴らして笑った。
「そうだなあ、俺も気になったし、一通りは調べてみたが――」
 狭い酒場の中には何人かの常連がたむろしているが、ヴィエルのような年頃の者は無論いない。当たり前だ、一般にこの地区は汚らわしいものとして忌避されている。特に歓楽街でも奥に入れば違法なものを取り扱う店や犯罪も多いので、入り口近くの酒場ならともかくこんな奥地にやってくる若者はそういない。
 とても聖なる学術都市に住んでいるとは思えない厳しい容貌の主人は、しかしヴィエルの予想を裏切って手を振った。
「それが全くのシロ」
 ヴィエルの瞳がぴくりと跳ねた。飲むかい、と主人に訊かれたが、ヴィエルは首を振って先を促した。
「ユラス・アティルド。確かに戸籍はある。学園長の知り合いの子といったが、その知り合いってのは実在する人物だったよ。ユラス・アティルドはその三子にあたるらしい。ディスリエ中部の出身になってたな」
 紫色の髪と瞳をした少年の姿をヴィエルは脳裏に思い浮かべた。今年の春、学園に編入してきた謎の少年。編入試験でほぼ満点の成績を収め、今期で主席の座を奪うとも噂される秀才ぶりは今となっては都市でも有名だ。しかし屈託のない笑顔を見せる彼は、その過去については一切を語ろうとしない。
「ま、軽く調べた程度じゃボロは出さねぇくらい周到な奴とも考えられるがな」
「――あの学園長が保護者ってところがそもそも気に入らないね」
 ヴィエルは、ユラス・アティルドの保護者を名乗る現学園長がどうも好きになれない。それはこの主人も同じなのか、彼はカラカラと笑った。殺気を放てば泣く子も黙る顔つきをしているが、こう笑うと愛嬌がある。
「全くだ、あんな胡散臭い奴いやしねえ。品行方正で皆の人気者、それでいて学園を統率する手腕の持ち主なんて完璧な人間、いたらそれは人じゃねえぜ」
 そして、その傘下にいる紫の少年。あの少年と出会ってからだ、何処からか監視の目が張り付き始めたのは。悔しいことにただの小娘でしかない自分に太刀打ちできる相手ではなく、簡単に返り討ちにあってしまったのだが。
 また、これは本当に気のせいかもしれないが――、ヴィエルはふとしたときに、あの紫の少年から不可解なものを感じることがある。それが何なのだか、はっきり言葉にすることは出来ないのだけれども――。
 妙なほどに様々な知識を持ち、それでいて何処にでもいる少年のように笑い、しかしその奥に、深い闇を感じる、ちぐはぐな少年。どうにも腑に落ちない。全て自分の杞憂だと思えばそれまでだが、あの少年を中心として、何かが動いている気がする。
「そういえば。よおヴィエル、お前さん、奴と会ってから変なことに巻き込まれ始めたんだったな?」
「それが何さね」
 カウンターに頬杖をついて紫煙を吐き出すヴィエルに、主人はすっと目を細めて声を低くした。
「こっちもだよ。今年の春――そう、丁度あの生徒がやってきた頃から、裏の辺りが何やら騒がしくなってやがる」
 その言葉にヴィエルが怪訝そうな顔をした。薄暗い酒場の空気は、ねっとりと体にまとわりつくように重たい。
「妙な顔が増えたってもっぱらの噂だ。しかも分を弁えてねえ連中らしい。気をつけな、どうもあの生徒も学園長もきな臭い」
 分を弁えていないという言葉の指すところは、元々この辺りに根ざしている闇商人たちの繋がりを無視しての違法な仕事――護符や違法魔術用品のなどの売買、薬品の取引など、彼らにとって目に余る行為が挙げられる。
 紫の少年の出現と共に現れたという者たち。それらも全て、彼が呼び込んだのだろうか。もしそうであれば、彼は何をしようとしているのだろうか。
「あんまり深入りしないことだ。場合によっちゃ、お前さんも危険だぜ」
 自分の倍以上の年月を生きている主人の忠告に、ヴィエルは黒ずんだ床を眺めたまま、返事をしなかった。




Back