-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

15.老紳士



 日差しがちりちりと肌を刺激する季節が、グラーシアにも訪れていた。日を追うごとに空の色は濃くなり、道行く人々は暑さに思わず上着を脱いで、まばゆい陽光に目を細める。
 しかし学究の徒が人口の大半を占めるこの都市では、変わらぬ様子で学者たちが己の研究に没頭していた。学園の生徒を除けば都市にいる子供は極端に少なく、陽のあたる大通りは授業のある日中において子供の姿はほとんどない。都市が賑わいだすのは、大抵授業が終わる夕方になってからだ。
 そんな夕暮れ、俺は鞄をひっさげて、正門前の広場を人ごみに紛れて歩いていた。日中の暑さも冷め、優しい風が生徒を労うように吹き抜けていく。
 ウェリエルの銅像を前方に捉えつつ懐中時計を覗くと、思っていたよりも少し早い時刻だった。鷹目堂に行かなくてはいけない時間まで、まだ結構な余裕がある。
「どっかで暇を潰す、か……」
 ぽりぽりと頭をかいて息を抜く。
 あの魔力測定試験の日からは、既に一週間が過ぎていた。まるで何事もなかったかのように時は流れ、未だに俺は心の整理がつかないでいる。
 自分の過去を、そして自分の力の謎を、知ろうとすべきか、放っておくべきか――。
 いや。放っておいてはいけないのだろう。人間ではありえない魔力の正体は、掴んでおくべきだと思う。
 しかし、誰に相談できるわけでもなく、手がかりがあるわけでもなく、同じところをぐるぐるまわるばかりの日々を送る。
「ありえない魔力――、やっぱり人間じゃないのかな、俺」
 そんな笑えないことを一人ごちて、額に手をやる。胸の内が濁ったように重たくて、歩みも自然と遅くなった。
 だからかもしれない。しわがれた声は、左手の方から聞こえてきた。
「――のう。のう、そこの坊」
「へっ?」
 振り向くと、ウェリエルの銅像を取り囲む花壇の石縁に座る老人と目が合う。白い立派な口ひげを蓄え、黒い礼服を着込み、手には同じ色のステッキ、足元には黒い大きな鞄。いかにも老紳士といった風体の人だ。
「……俺ですか?」
 訝しげに問いかけると、老紳士はニッと笑って頷いた。しかし知り合いどころか見たこともない人が、俺に何の用だろうか。
 恐る恐る寄ってきた俺を、老人は色褪せた目で見上げ、とんとん、とステッキで地面を叩いた。
「はい?」
「なんじゃ。これだから最近の若い者は。年寄りが困っているのに声の一つもかけんとはけしからん」
「は、はあ」
 目を丸くしながらも、どうにか相槌をうつ。――なんなんだ、この人。
 老紳士はフン、と不機嫌そうに鼻を鳴らすと足元の大きな鞄に視線を流した。
「私は腰が悪い。学園まで来てどうにか用事を足すまでは来たのじゃが、どうも午後になって調子が悪くなっての」
 俺も、口元を歪めながら彼の大きな鞄を見る。老紳士はステッキで石畳を叩きながらこちらの言葉を待っているようだ。
 変な沈黙が俺たちの間に落ちる。
 俺の頬をたらりと汗が伝っていった。
 ええと、この展開ってつまり――。
「……」
「……」
「……あの、俺が荷物持ちましょうか」
 いたたまれなくなったのは俺の方が先だった。
「ほう! それは助かったぞ。良い良い。老人を労わることは大切じゃ」
 ぱっと老紳士の顔が明るくなり、がくりと脱力する俺である。なんだか、妙な人にからまれてしまったようだ。
「そら、何をぐずぐずしておる。私に時間を浪費させるつもりか」
「は、はい」
 急かされて鞄を持つ。なめし革の大ぶりの鞄は使い込まれていて、とても高価なものに見えた。そういえばと老紳士を見ると、着ている黒服も質の良さそうなものだし、線は細いが背筋は年齢を感じさせないほどにしゃんとしている。もしかしたら何処かの富豪ってやつかもしれない。学園に用で来たというのだし。
 老紳士は立ち上がると、ステッキを片手にスタスタと歩いていった。――本当に腰が悪いのだろうか。
「ま、まあ時間はあるし……」
 苦虫を噛んでしまった心境で俺は自分にそう慰めると、彼の後を追った。鞄は確かにちょっと重かった。


 ***


 10分後。
「だからな、私はガツンと言ってやったのじゃ。私の若い頃に比べてあの奴ときたら――」
「――はあ」
「お前もわかるだろう。そもそも学者というものはな――」
「――はあ」
「よって近頃のたるみきった若者を一から叩きなおさにゃならんのじゃ。私が考えるには――」
「――はあ」

 俺は、ぶんぶんステッキを振りながら講釈を続ける老紳士の相槌機械と化していた。

 老紳士は大通りに入ると東北地区――つまりフェレイ先生の自宅もある住宅街の方へと歩いていった。この近くに住んでいるのだろうか。何処まで行くのか聞きたかったが、こう豪雨のごとく話されていると、突然話をそらすわけにもいかない。
 聞いている限り、どうやらその老紳士は学者のようだった。しかし学園の教授でもなさそうだし、何処かの研究所に所属している風でもなかった。
 一体何者なのだろう――いや、その前に。
『……いつまで続くんだ、この話』
 もう前の話のどこから今の話が派生してきたのかも思い出せない。最初はちゃんと会話を成り立たせようとした俺だが、それが無駄だと数十秒後には気付き、今や会話を右から左に流すことでどうにかついてきている。とにかくよく喋る人だ。
「のう、お前もそう思うじゃろう!」
「……はあ」
 住宅に囲まれた細道には、至るところで初夏の花が鮮やかに咲いている。しかし生憎今の俺にはそれを楽しむ気分になれない。
 心の底からげんなりした気分で、恨めしげに手から下げた黒い鞄を見やると、俺は何度目になるか分からない溜息をついた。そうすると更に鞄が重くなった気がして、また気分が一つ落ちていく。
「――ところで坊」
 俺のそんな悲哀などこれっぽっちも分かってくれてない顔で、老紳士はこちらを向いてニッと笑った。
「何故、この地に英雄ウェリエル・ソルスィードは一からこのような都市を作り上げたのだと思うかね?」
「え?」
 もしかしたら、それが俺に向けられた初めての問いだったかもしれない。見返すと、意地の悪そうな瞳が試すような表情でこちらを伺っている。
「どうした、答えられんか?」
「……」
 完全にしどろもどろになっている俺を、にやにやしながら眺める老紳士。
 えっと、これは答えなくてはいけない雰囲気な気がする。
 俺は目を瞬かせながら、質問の意図は飲み込めずとも意味は飲み込んで、恐る恐る口を開いた。
「ええと――」
 慌てて頭の中で考えを整理しながら言葉を紡ぐ。なんでこんなところでこんな質問を受けなきゃいけないんだろうか。
 しかし口を開いてしまったからには誤魔化せず、老紳士の視線に面白げな光が宿るのを横目に、仕方なく続けた。
「た、確かに資金面、物資面などの点からこんな大平野の中央に都市を建築するのは正気の沙汰ではないと思います。当時はまだ蒸気機関車もない時代でしたし。都市の建設にあてられた莫大な費用は全てウェリエル個人の財産と、彼を支援する人々からでていますが、そのお陰で晩年のウェリエルは平民と同程度の暮らししか出来なかったと聞いています――けど」
 ちらりと老紳士の反応を伺うと、彼は嬉しそうに頷いてステッキを振った。どうやらとりあえずは機嫌を損ねなかったらしい。
「そうじゃな。そうじゃ。まさに狂気ともいえる執念じゃ、こんな都市作っちまうなんてな」
「え、ええ。しかし元より多くの学校の設立に従事してきたウェリエルは考えました。元から人の営みのあるところに建てる学校は、少なからずその地域の影響を受けてしまう。文化の面でも、力の面でも。地域の文化が学校に根ざしてしまうことは自明ですし、人の住む地域には必ず富のある人がいて、資金面からも彼らからの干渉は受けざるを得ない。それでは真の学問の追及にならないと考えた。だから、ウェリエルは何もない場所に陸の孤島を作り上げたんです。誰の支配も受けず、何の干渉もされない学びの楽園――学問の、独立」
 そこまで言うと、不意に老紳士はカラカラと笑い出した。
「良い良い。中々優秀な生徒じゃ。それであとちょっと顔が良かったら私の若い頃にそっくりだったの」
 褒めているのか貶しているのかわからないことをアッサリ言ってくれて、表情が意図せず歪むのを抑えられない。
 そんな俺など見もせず、老紳士は上機嫌な口ぶりでステッキを振った。
「そうじゃ。この地は南北に伸びる蒸気機関車が唯一の生命線となった陸の孤島じゃよ。そうそう、最初は本当に孤島に都市を作るって案もあったらしいがな。坊の言った通り、この都市は国からの支援以外の投資を非常に嫌がる。ウェリエルの理念に則っているのじゃろうな。しかし」
 そこまで言うと、老紳士はふっと声を低くして呟いた。
「所詮、実際はそれも絵空事じゃよ」

 フェレイ先生の自宅の近くを通り、老紳士の足は更に奥へと進んでいく。ついに行ったことのない道に入ったので、忘れないように道順を覚えながら、俺は今度こそ老紳士の話に聞き入った。
「学問の独立。結構なことじゃ。世俗に囚われず、己の知的好奇心のみで研究が成されれば、それはきっとウェリエルの悲願であり、また学問のあるべき姿の一つなのかもしれんな。だが現実は違う。学問の世界も今はすっかり縦の繋がりに縛られ、資金の横流し、賄賂といった汚職が後を絶たん。予算の為に企業に尻尾を振り、汚い取引に手を染め、何をとっても金、金、金。世の中金が全てと思う奴ばかりじゃ。ま、売れない研究やっても実際腹は膨れんしのう」
 そういえば、グリッド先輩も同じようなことを言っていた。力がある者の学説に沿わない論者は、学会内で異端となる――、学問の世界も縦社会であるということだ。
「学びの都グラーシアといえど、住む者は人間じゃ。そしてその誰もが純粋なる研究者ではないんじゃのう。あの学園長のように」
「フェレイ先生?」
 突然でてきた名前に瞳を跳ねさせると、老紳士は不敵な笑みを浮かべてステッキでとん、と地面をついた。
「これ以上ない変人じゃよ、あの学園長は。面倒な仕事と責任ばかり負わされる矢面に平気で立って、10年も経つというのにまだ根をあげん。あの忙しさでは学者としての本分などこれっぽっちも発揮できないのにな」
 そこまで言うと、老紳士は何かを思い出したようにふと遠くを見る目になり、それ以上何も言わなかった。
 確かにフェレイ先生はいつも仕事をしているか生徒の面倒を見ているかだ。ええと――あの先生、確か生物学者だったんだっけか。といっても、知識については万能なんだけれども。でもよくよく考えれば、確かにフェレイ先生の論文は読んだことがない。
 それにしてもこの人、なんか偉い人っぽいし学園にいたんだし、こうやって先生のことを話すということは――。
「あの、フェレイ先生と知り合――」
「さあ着いた」
 俺の声とほぼ同時に、老紳士はぴたりと足を止めて右手の方に意識を向けた。俺も慌てて立ち止まり同じ方向を見る。
 ……時が止まった。
「――」
「何呆けた顔をしておる、着いたといったじゃろう」
「……をを」
 老紳士の叱責も耳に入らない俺は、思わず門を見上げながら感嘆の声を漏らしていた。
 そう、見上げるほどに巨大な門が、俺の視界一杯にそびえ立っていたのだった。奥には美しく整えられた庭園が広がっていて、その向こうにこれまた金かけましたと主張しているような白亜の豪邸がある。
 俺にとっては、毛の先ほどもご縁がなさそうなところだ。
「……ここがご自宅ですか」
「阿呆。こんな悪趣味な家に誰が住むか。私の自宅はアルジェリアンにある、ここは親類の家じゃ」
 自分の親類の豪邸を悪趣味の一言で済ませた老紳士はちょいちょい、と指をしゃくった。その意図を察して黒い鞄を差し出すと、満足げに受け取ってニッと笑う。
「ふむ。ご苦労であった」
 老紳士は重たい鞄を持ったにも関わらず、まるで腰の痛みを感じていない様子で門を開き、中へと入っていった。
 俺は呆けた顔で突っ立ったまま、それを見送ることしか出来ない。名前も知らない老紳士が消えた豪奢な通りの風景が、まるで俺を招かざる客として拒絶するようにひゅうと風で頬を叩いた。




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