-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち 14.答えの先にあったのは 風になびく髪が、額をくすぐる。俺はそれを見上げて、何気なく一本の髪を強く引っ張った。ぷちん、という音と共に手の中に紫の髪が納まる。 そうしてそれを、空にかざすようにして見上げた。紫水晶をそのまま紡いだみたいな、透き通った深い紫色が、茜色を吸い込んできらきら光る。 指を離せば、あっという間に風に運ばれて消えていった。 普段ほとんど足を踏み入れない研究所区域は、活気とは程遠い寂しいところだった。俺がいるのは、そんな区域の真っ只中にぽつりと置き去りにされたようなベンチだ。そこは少し開けた場所になっていて、ささやかながらに木が植わっていて――恐らく、研究者たちの憩いの場所として建設されたのだろう。しかし普段からあまり利用されている様子はなく、周囲は閑散としていた。ベンチに座るのも俺だけだ。 どのくらいの時間が過ぎただろう。ふらふらと歩いていたらここを見つけて、座り込んでしまったのだ。陽は既に橙の光となり、長い影を生み出している。 そんな夕日を眺めながら、今まで起きたことをぼんやりと思い出していた。 目覚めに見た光。フェレイ先生の穏やかな笑顔。セトの翼の――何処までも深い紫色。 俺がこうやって当たり前のように学園の生徒をやっているのは、誰かの思惑によるものなのだろう。誰だか知らないけれど、きっとこの世の何処かに俺を知っている人がいるということだ。俺はその人の望まれるままに今の生活を得た。 しかし――どうしてだろう。 どうして俺は、ここに来たのだろう。 俺は、一体何を望まれているのだろう。 学生という立場で出来ることは少なく、しかも在学できるのはあと二年。そんな中で、一体何をしろというのだろうか。 ――この、得体の知れない体を抱えて。魔術規制の結界の中でも魔術が使える――結界すら跳ね返してしまう程の、人間に扱える以上の魔力を持つ、俺に。 つまり、『人間ではない』俺に。 俺は何者なのだろう。このまま、人間として紛れこんでいていいのだろうか。そしてこれからも普通の生徒と同じように学び、卒業して何処かの研究所に入るのか。もしくは働くのか。こんな力を隠しながら? 自分でもよく分からないモノを秘めたまま、俺は生きていくのか? それとも、あの時――学園への推薦状を受け取ったときに、それを破り捨ててしまえば良かったのか。自由に自分のやりたいことをやればよかったのか。 いや、そもそもやりたいことなどない。 俺は気がついたらここにいて――、今でもするべきことを見出せずにいる。 自分の過去に興味がないといったらそれは嘘だった。しかし思い出したくないとも感じていた。それはいけないことだと、心の隅では分かっているのに、俺はただ膝を抱えたままでいる。 この妙な力を抱えて、これからどうしようか。 幸いながらこの力が暴発することは今までもなかった。今回の試験でも加減を考えずにやってしまったからああなってしまったのだ。どうにか隠しながら生きていくことは、出来るだろう。 フェレイ先生にこのことを話そうか。それも何度となく考えて、だが俺は首を横に振った。それを話すということはつまり、俺が普通の人間ではないという事実を告げることになる。フェレイ先生はどんな顔をするだろうか。 同じことが頭の中を際限なくうごめき、そして、どれにも答えを見つけられない。 俺はもう一度夕日を眺めた。建物の影が長く伸びている。触れないくらいの鮮やかな茜色に染まった空は、あまりに眩しくて目を細める。 学園で出会った友人たちのことを考えた。俺と親しい奴は皆、気のいい連中だった。心から笑って、学生時代を謳歌しているように思える。 スアローグの皮肉げな笑い方やセライムやキルナ、チノがじゃれついている光景――。あいつらはきっと、幸福なのだろう。今の俺には、その光がこの夕日と同じくらいに眩しすぎた。 体が萎んでいくかのような脱力感に浸される。疲れた――、と唇が俺にしか聞こえないくらいに呟いて、そうだな、と心の中で答える。 風がふわりと通り過ぎていった。木の葉が揺れて、僅かな音が耳に届く。俺はなんとなくそれを見上げようとして――ふと意識を隣のベンチにやった。 目の前の光景に一瞬、呼吸を止める――世界が、頬の辺りでさわさわと揺れる。 いつの間に座っていたのだろう。そこには一人の男の人が座っていて、俺と同じように疲れた顔で夕日を眺めていた。 その人の姿に、自然と意識が吸い込まれる。おろしたら肩までありそうな髪は高いところでくくってあって、顔立ちも癖のない、何処にでもいそうな研究者風の若い男の人だった。 だが、そんな容貌をしているのに俺がまじまじと見入ってしまったのは、その人が夕日の茜色に完全に染まりきっていたからだ。 元の髪の色は何色だろう――銀か、白か――強い夕日の色を吸い込んで、今は鮮やかな橙色に輝いている。色白の肌も、目立たない服装も全てが橙色に染まっていた。 「――悩み事ですか」 不意に声が聞こえて、びくりと肩を震わせてから、俺はその人が唇もほぼ動かさずに喋ったのだと理解した。 「あ……」 声をかけてきたのは、あまりに俺がじろじろ見ていたからだろうか。突然のことに俺は言葉を見失って、石畳に視線をさまよわせる。 しかし俺の気まずい沈黙にも関わらず、その人はぴくりとも表情を変えずに夕日を眺めていた。 しばらく、お互いに無言の時を過ごす。だがその面持ちはとても穏やかなものに見えて、俺は緊張が解けていくのを感じながら同じように空を見上げた。 とても静かな時間だ。世界がこのまま終わってしまうかのような黄昏の中で、風の音と共に過ぎていく時を眺める。 隣に座る人も同じような心境なのか――まだ若いのに、表情のない老人のような面持ちでこの時を過ごしていた。 「他人の意思で、俺は学園に入ったんです」 気が付けば、俺は言葉を紡いでいた。だが別に、その人が聞いていようがいまいが関係ない。ただ俺は、夕焼けの虚無に向けてとつとつと言葉を続ける。 「でも俺には何を望まれているのか分からなくて。何をすればいいのか、わからなくて……」 胸も声も、熱が嘘のように入らない。寂しく風に揺られる木のように、己が生きている感覚が伝わってこなかった。このまま風に揺られていたら朽ちていけるのではないか――、そう思えるくらいに空虚だ。 「俺には、生きていく理由がないなって思ったんです。それでも――生きていかなきゃ、いけないんでしょうけれど」 そこまで言い切った俺の口元に、自嘲の笑みがかすめる。そうだ。俺には、生きる理由もないが、死ぬ理由もない。突然世界と体と生を与えられて、どうすればいいのかと迷うばかりで。 その人がどんな顔をしたのか、俺にはわからなかった。ずっと空ばかり見上げていたからだ。だから、不意に答えが返ってきたときに、俺は驚いてその人を見た。 「生きる理由があることは、はたして幸福なことでしょうか?」 何処までも茜色を吸い込んだその人は、石造のような横顔で確かにそう紡いだ。初めて会った人だというのに、言葉は俺の心の奥深くまで食い込んで、一つ体が震える。 「私も昔、そう思っていた頃がありました」 なんの感情も含まれていない、無機質な声。その人は、優しく肌を撫でていく風に乗せるようにして続けた。 「何故私は生きるのか。周りに流されるままに生きていくのはあまりに空虚で、いつかそのまま自分の存在が消えてしまうのではないかと、恐ろしくて仕方なかった」 先ほどまで黙り込んでいたその人の饒舌さに、俺は何も言えなくなって耳を澄ます。恐ろしいと口にしたその人の瞳はしかし、朝の泉のように静まり返っていた。 「だから、理由が欲しいと思いました。私が生きる確固とした理由。この体を突き動かす理由が、欲しかったのです」 一日の最後の光を全身に浴びて、髪は陽を我が物としたように輝いている。 「そうして私は、生きる理由を見つけました。私は何の為に生きるのか。私はその答えを見つけたのです。その理由の為に、今の私は生きている。私にとってそれが全てなのです」 言葉の一つ一つが耳に残って、俺は暫く何も言えずにその人のやけに細い指を見つめる。俺たちの合間を風が寂しく吹き抜けていく。答えを見つけた――そう呟く声はどこか悲しい音色をしていた。 その人は一度そこで言葉を切る。微動だにしない様は、まるで操り手をなくして置き去りにされた人形のようだった。 「しかし、答えの先にあったのは、答えに縛られた世界だった」 顔をあげて、その人を目を見る。老人のような印象を与える横顔は、ただ事実のみをとつとつと語り、俺の反応など気にするそぶりもない。それがその人をとても遠いところにいるように思わせる。 「生きる理由が定まってしまった私は、もう何も見えなくなってしまったのです」 ふと空気が流れを取り戻したかのように動いて、浮き上がるようにその人が立ち上がった。 「ぁ……」 何かを言おうとして、何も言えない自分に気づく。 その人は自分に体重があることをを知らない足取りで、風に枯れ葉が運ばれていくように歩き出していた。全身に浴びる茜の橙が、色濃く印象付けられる。 「だから、きっと理由はなくても良いのです。いつか、答えがなくとも必ず自分の足で歩いていける、そんな日がやってくる――」 みるみる横顔は後姿に。俺は指先一つ動かすことすら出来ず、ただ見ていることしか出来なかった。まるでいつかの日のように。 その人は最後に、微かに振り向いた。息苦しさに唇を震わせる俺に向けて、言葉は残酷なまでに穏やかだった。 「あなたがそうやって生きていけることを祈り、信じています」 ぶわっと思い出したように強い風が吹き抜けて、木々から葉が吸い取られていく。俺は思わず目を閉じてやり過ごした。 そうして目を開くと、その人の姿は嘘のように消えている。 「あ……」 俺は周囲を見渡して、橙色を吸い込んだ人影を探すが、どれだけ目をこらしても見つからない。 座る人を失くした隣のベンチに、はらりと木の葉が一枚落ちてきた。その光景を呆然と見つめた俺は――しばらく、そこから目を離すことが出来なかった。 *** ふらふらと部屋の扉の前まで辿りついたときには、もう辺りはすっかり暗くなっていた。鷹目堂が休業日で本当に良かったと思う。研究室にも行かなかったから、シアが心配しているかもしれない。 そういえばスアローグはどうしているだろうか。ろくに挨拶もせずに学園を飛び出してしまったから、不審に思っているかもしれない。そう考えると、目の前の扉が急に大きくなったように思えて、ノブに伸ばしかけていた手を一度おろしてしまう。 まあ、不審に思われて当たり前だよな。俺は試験中に事件を起こして、血相を変えて姿を消したんだ。そんな生徒がいたら俺だってなんだろうと思う。 ふっと口元に笑いがこみあげて、かぶりを振った。起こってしまったことはどうしようもない。問題はスアローグにどうやって言い訳をするかだ――真実など、今の俺にはとても言えない。 苦いものを口の中で転がしながら、俺は意を決して扉を開いた。 「――ただ、いま」 声が小さく震えるのが自分でもわかる。少し強めに力を込めて扉を押すと、見慣れた部屋でスアローグがコーヒーを飲んでいる光景が飛び込んでくる。電気がついていたのと相まって、それはとても明るく見えた。 すると、スアローグは普段通りに椅子に座ったまま、こちらに笑みを向けてきた。 「おかえり。大丈夫だったかい?」 「……」 何かを言うのが一つ遅れて、俺はきっとこの上なく間抜けな顔になったのだろう。スアローグはそれが面白かったのかくつくつと笑った。 「なに突っ立ってるんだい。ここは君の部屋じゃないか、存分にくつろぎたまえよ」 「あ、ああ……」 まるでいつもと変わりない様子に、俺だけがぎくしゃくしながらも動いて鞄を下ろす。ケープをゆるめながら、俺は思わず振り向いて問いかけた。 「な、なあ、今日の俺って変だったよな?」 自分でも、これ以上ないくらい情けない質問だと思う。 「君が変なのはいつものことだよ。ま、今日は試験の後から特に様子がおかしかったから、皆不思議そうな顔してたけどね」 「……やっぱりか」 制服の上着を脱いで部屋着の袖に腕を通しながら、独り言のように呟いた。そうして、ためらいがちに問いを重ねる。 「お前も、やっぱり不審に思うだろ」 「そりゃあね」 コーヒー飲むかい、とスアローグが自分のカップを軽く持ち上げたが、首を振ってベッドに腰掛けた。スアローグはそんな俺を眺めて頬杖をつく。 「だって君、まさに謎の編入生だし。何処から来たかとか、どうして来たかとか、全然話さないじゃないかい」 直接言われると胸がずんと重くなって、口元を歪めるようにして苦笑した。今や俺についての噂が様々なところで囁かれ、人々に不審の眼差しを向けられている事実は、生活をしているだけで嫌でも理解させられた。友人の存在によって窮屈な思いをすることは少ないが、それでも彼らだって俺に得体の知れない部分を感じていないわけがない。 スアローグは、そんな俺の内心を何処まで読んだのか分からない。しかしいつもの皮肉げな笑みを浮かべて言ったのだった。 「でもね、こうやって話しているときに、そういったことは必要ないだろう?」 いくらかの温かみを含んだ言葉に、俺は目を眇める。部屋の空気はあまり換気をしていないせいか篭っていたが、それも今は穏やかなものに感じられた。 自分で言ったことに照れたのか、スアローグはぼりぼりと頭をかきながら空いたコーヒーのカップを流し場に持っていった。 「ま、もし君が極悪非道なことやらかしてたって事実が発覚したら、そのときにいくらでも鬼悪魔と罵ってあげるから覚悟したまえよ」 突き放すようなスアローグの言い草に、思わず少し笑う。すっかり体から力がなくなっていたので、俺はそのままベッドに倒れこんだ。 夕刻に出会った、遠くを見ていた人のことを脳裏に思い描いた。結局あの人は名前も名乗らずに、鮮烈な橙の印象だけを残して去っていってしまった。きっと、グラーシアに住んでいる人なのだろうけれども――。 「答えの先にあるのは、答えに縛られた世界、か……」 「ん? 何か言ったかい?」 「なあ。お前、生きる理由ってあるか?」 「はあ?」 なんとなく放った問いに、スアローグはまともに顔をしかめてくれる。俺は微かに笑って、目を閉じた。今日はこのまま、寝てしまおう――。 「そんなこと、考えたこともないよ」 視界が暗闇になると同時に、体が溶けていくように意識が夢の闇に沈んでいくのがわかる。スアローグのそんな返答を聞きながら、俺は深い眠りに落ちていった。 Back |