-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

13.魔力測定試験



「毎回のことながら緊張するな」
 セライムが気難しげな顔で手を握ったり開いたりすると、隣のキルナがふふんと余裕の笑みを見せた。
「なーに、別にそこまで成績には関わらないし心配することじゃないわよ。んー、でも今回こそ400代に行きたいわよねー」
「いいねえ、優等生は。僕はこういうのは苦手だよ、疲れるし」
 いつもは飄々としているスアローグは、本番が近付いて緊張してきたのか、気だるげな顔で溜息ばかりついている。
「ちょっとユラスー? あんた、大丈夫?」
 ――で、俺は。
「……大丈夫、じゃない」
 俺は、他人を喋らせているような心境でそう告げた。
 周囲には同じクラスの生徒たちがたむろしている。ここは学園の一角にある魔術測定室。俺たちはそこに詰め込まれ、測定試験の始まりを今か今かと待っているのだった。
 測定室の奥の壁には小さな扉と窓がついている。窓ごしに見える向こうの部屋には、複雑に描かれた文様が床一面に広がり、中心に腰の高さほどの重厚な機械が据え付けられていた。機械の上に乗っているのは、頭ほどの大きさがある水晶玉だ。今は担任のレイン先生がしきりにその機械をいじくっている。
 ――今日は、魔力測定試験の日だ。
 グラーシア学園魔術科の生徒は、年に二回こうやってこの部屋に集められ、一人ずつ魔力の測定を行う。参考程度ではあるが成績に響く試験であり、また魔術規制のかかった学園に通う生徒にとっては数少ない腕試しの機会となるため、この日に特別な思いをかける生徒は数多い。
 魔力の強弱に数値が与えられるようになったのは割と最近のことだ。これもグラーシアの英知が成した業である。この発見はリーナディア合州国の曖昧だった魔術使用に関する法律に多大なる影響を及ぼし、より正確な数値による魔術規制が定義されることになった。
 更にその技術は術者の魔力を測定する装置をも生み出し、こうして俺たち学生の試験に使われているわけである。
「お前、本格的な測定は始めてだろう?」
 セライムが気遣うような目で覗き込んでくる。かくかくと俺は油をさし忘れた機械人形のようなぎこちなさで頷いた。周囲を見ると、俺と同じように緊張している奴や、今日こそはと熱い闘志を燃やす奴、余裕たっぷりの顔で欠伸をしている奴など、様々である。
「まあ、最初は緊張するわよね。でもあなた、第四種免許とるときに似たようなことやったでしょ? あれと変わらないわよ」
「お、おう……」
 人差し指を立ててそう言ってくれるキルナに、胃の辺りをさすりながら返事をする。確かに少し前に俺は通称第四種免許と呼ばれる魔術行使の免許をとりにいった。免許といってもなんてことはない、魔力値300以上の魔術を行使するのに必要な証だ。高等院卒業には免許の取得が義務付けられていたから、早めに行ってきたのだ。その時の審査といったらお手軽なもので、今あるような水晶玉の前に立たされて純粋に魔力を注ぎ込み、安定して300の値まで到達出来ればあとは簡単な面接ですぐに貰える。ようはその程度の魔力が扱えることを示す免許なのだ。
 俺がやったときも、心を落ち着けて魔術行使を行ったら嘘みたいにすぐに測定用の針が300を突破し、『もういいよ』と測定員が横から声をかけてくれたので一瞬で免許がとれてしまった。だから、それと同じようにやればいいんだろうけれど――。
 何だろう。この不安は。
 俺は自分の手の平を一度見つめて、再びガラス窓の向こうの水晶玉を見た。
 あの部屋には魔術封印を無効にする結界が張られているのだろう。これから俺は、あそこに入って、単純な魔術を行使する。
 なのに、いやに心臓の音が高く鳴っている。胸に異物がつかえたように呼吸が浅くなっているのに気づいて、俺は人にわからない程度に顔をしかめた。こんな恐れなど、抱く必要はない筈なのに――。
「それでは皆さん、よく聞いて下さい」
 顔をあげると、レイン先生が小さな扉から出てくるところだった。ざわついていた空気がぴたりと止まり、全員の注目がそちらにいく。
「これから、今期一度目の魔力測定試験を行います。まず注意点を――」
 レイン先生は持っている分厚いファイルをめくりながら、カツカツと音を立ててガラス窓の正面に立った。
「まず、分かっているとは思いますがこの測定結果は決して成績に大きく影響するものではなく、またあなたたちの才能を決め付けるものではありません。過度の無理はしないように」
 そう、この魔力測定試験の結果が参考程度にしか扱われないのは、レイン先生の言う通り生徒に無茶をさせないためだ。魔力とは確かに強いに越したことはないのだが、グラーシア学園では実践よりも理論を多く学ばせる傾向がある。もし強い魔術を行使することを優先するなら、グラーシアではなく首都アルジェリアンにある仕官学校で軍人として学ぶ方が『魔術師』としてはよほど強くなれる。
 グラーシアでも研究などで魔術を使用する場合もあるが、それも並大抵のものならそう強い魔力は必要としない。学問の独立――力や権威に左右されずに学問を拓いていくことが、学びの都グラーシアの歌い文句なのだ。それに、魔術行使は神経を擦り減らすような集中力が必要となり、体にも大きな負担がかかる。魔術測定試験で意地を張りすぎた結果、体が持たずに卒倒してしまう例も毎年のようにあるという。
『体が持たない、か……』
 ふと、目の前が一瞬眩んだ気がして、俺は歯を食いしばった。どうも今日は調子が良くないようだ。
 グラーシアがこんな方針であるため、入学してから俺は魔術を行使することはほとんどなかった。だが、使う機会はいくらでもあった。学園内には魔力が測定出来る装置が用意されていて、セライムやキルナが気晴らしに行っていることは知っていたし、あの後もティティルと何度か魔術センターに足を運んだ。なのに何故か魔術を行使することは避け続けていた。
 どうしてだろう。
 俺は、記憶を失くす前に、魔術を行使することに関して何かがあったのか――。
 目を閉じる。しかし、何も見えない。
 俺の頭の中にあった黒いものは、学園に溶け込んでいく内にみるみる小さくなっていった。普段の生活をしていればまるで気にならないし、初めの方にあったあの頭痛もすっかりなくなった。
 それは、喜ぶべきことなのだろうか。確かに不快な思いをせずに済むのにはほっとした。学園生活の楽しさに浸りこんでいくごとに、辛さは確かに和らいでいったのだ。
 だから、今の俺はそんな自分に身を委ねたままでいる――。
「今回は初めての人もいるので、一度手本を見せます。よく見ていて下さい」
 レイン先生はそう告げると、もう一度奥の部屋に入って中央の水晶玉の前に立った。白い壁に先生の青い髪がよく映える。ガラスごしに俺は先生の動作をじっと見つめた。
「測定は1分間行われます。その間にでた最も高い数値を記録します」
 生徒たちの視線を浴びたレイン先生は、持っていたファイルを横の机に置く。そして不思議な文様の描かれた床の上でぴんと背筋を伸ばし、水晶の上に手をかざすと、静かに息を吐き出した。
 空気がざわめく。世界を動かす流れが、人の手に操られて収束していく。
 ふっとレイン先生の細い指から光の粒が零れた。風もないのに先生の長い髪が流れに沿ってなびく。するすると光の糸が周囲を取り巻き、弾け、また集まっていく。
 しかし俺の目はそんな幻想的な光景よりも、レイン先生の足元にある機械の方に釘付けになっていた。人間の英知の証でもあるそれは、光り輝く水晶玉の下で無骨な灰色に照らされている。
 そして、端の方にある目盛りについた赤い針が、ゆっくりと動き始めた。みるみる針は100の目盛りを突破し、200、300――と増えていく。
「流石の腕前だわね。こんな短時間でここまで持ってくなんて、並大抵のことじゃないわよ」
 腕組みしたままキルナが呟くと、スアローグもうんうんと頷いて光の渦の中にいる先生を尊敬の眼差しで見た。
「すごいよね。僕には到底真似できそうにないよ」
「どうしたユラス。気分が悪いのか」
 顔を横に向けると、セライムが気遣わしげにこちらを伺っている。
「なんだ、顔色も悪いぞ。医務室に行くか?」
「い、いや――なんでもない」
 その澄んだ青い双眸に心の中を見透かされたような気がして、俺は慌てて手を振った。どうにか誤魔化そうと、視線をあちこちにさまよわせる。
「そ、そうだ。なんであの目盛りは500までしかないんだ?」
「ああ、あれか。人の体がだせる魔力には限界値があってな、それが500なんだ。といっても、400以上がでる人間すらそういないんだがな」
「なーに、あなたそんなことも知らなかったの? よっぽど田舎から来たのね。つまり500以上でる人間はいないってことよ。妖精族とかは出せるらしいんだけどね」
 キルナに呆れた視線を向けられ、俺は口元をひきつらせた。まあ確かに、ここでは常識中の常識なのだろう。つまり、500以上の値は人間には行使出来ないから、目盛りもそこまでしか設定されていないということか。
 俺はいくつまででるんだろう。この前の免許をとりにいったときは300まではでたから、そのくらいはいくんだろうけれど――。
「平均でどれくらいでるんだ?」
「うーん、人によるけど、340でれば上出来だね。370代がトップクラスさ」
「あたしは今度こそ400いってやるわ」
 狩人のような目をしたキルナが、水晶を睨みつけながら不敵に笑う。スアローグが軽く肩をすくめてみせると、セライムも俺に笑いかけた。
「大丈夫だユラス。初めてなんだから、無理せずやれるだけやればいい。300を超えると突然辛くなってくるが落ち着いていけば330くらいは余裕でいく」
「お、おう……」
 そう言っている間に光は消えていき、レイン先生がゆるりと目を開いた。目盛りを見ると396とでている。キルナやスアローグが言う通り、流石グラーシアの教員だけあってかなりの使い手だ。
 レイン先生はふう、と肩の力を抜いてガラスごしに俺たちを見渡した。
「良いですか、これでおしまいです。もう一度繰り返しますが、くれぐれも無理をしないように。では番号順に並んで下さい」
 そう張りのある声で指示すると、レイン先生はガラス窓にカーテンをかけた。個人の魔力値が外から見えないようにする為だろう。いよいよという面持ちで生徒たちは小さな扉の前に並び始めた。
「まずはアレス・グリフォン君」
「はい」
 先生に呼ばれて男子生徒が中に入っていく。俺は自分が呼ばれたわけでもないのにどきりとして体を硬くした。何も起こるはずがないと、分かっているのに――。
「いよいよねっ。ああ、早くやりたいわー!」
「キルナ、無茶は良くないぞ。お前はいつも見ててひやひやするんだ」
「あらっ、なによーセライムったら。あなただっていい成績とれたらフェレイ先生に褒めてもらえるかもしれないじゃない」
「お、おいっ。なんでそこで先生がでてくるんだ。別に私は、そんな――」
 じゃれつく二人を横目に、俺は白いカーテンがかかった窓ガラスを見つめた。あの奥で、きっと、きっと俺は――。
「……いや」
 首を振る。きっと大丈夫だ。不安は気のせいだ、何も起こる筈がない――。
「どうしたのさユラス。黙ってるなんて君らしくないね」
 スアローグに言われて、俺はどうにか笑みを作った。そうだ。こうして笑っていれば、きっと生きていける。
「いや、今日の昼は何食べようか考えてたんだ。プリンパフェにするかチョコパフェにするか、いいやアイス3食盛りも捨てがたい」
「うっ……考えるだけで口の中が甘くなるね」
 そう。このまだ短い期間で俺が一つ学んだこと。
 俺は、こうやって気のいい仲間と過ごす時間が楽しい。そしてそういった時間に身をおけばおくほど、古い記憶の影は遠いところに霞んでいく。まるで夢の記憶のように、思い出されることもなくなっていく。
 もしかすると、それでいいのかもしれない。このまま記憶が思い出せなくても、今の俺として生きていけるのなら、過去のことは忘れ去ってもいいのかもしれない。
 俺にはこうやって、俺を気遣っている友人たちがいるのだから――。
「ユラス・アティルド君」
 現実に返ると、レイン先生が扉から顔だけだしてこちらを見ていた。いつの間にか俺の番がきていたらしい。
「はい」
 俺は返事をしてそちらに体を向け、歩き出した。
 俺の名前はユラス・アティルドだ。だが、誰にその名をつけられたのか、俺は知らない。学園に来る前の記憶もない。家族もない。俺には、何もない。
 しかしそれでも歩いていけると思った。生きていけると思った。過去に囚われることなく、大空を舞う鳥のように、自由に――。
「精霊の加護を」
「頑張るんだぞ」
「いってらっしゃい」
 友人たちに手を振り返して、俺は小さな扉をくぐった。


 ***


 測定室は窓ごしに見た通り、中央にぽつりと装置が置いてあるだけの狭い部屋だ。しかしそこは入る者に得体の知れない畏怖を抱かせる。床一面に黒色で描かれた複雑な文様が広がっているからだ。細やかなそれは、かすれているところなど微塵も見受けられない。魔術規制の結界を無効にする為のものだろう。
「魔力測定は始めてね?」
「はい」
 迎えてくれたレイン先生は真剣な面持ちで頷き、手に持った分厚いファイルをめくった。
「今日の体調はどうかしら」
「いえ、特に」
「ではそこに立って。水晶玉に手をかざしてちょうだい」
 職員の中でも若手のレイン先生は、そう思わせないほどにてきぱきと俺に簡単な説明をしてくれた。それら一つ一つを確認して頷くと、レイン先生は右手にペンを持って隣の椅子に腰掛ける。
「ゆっくりでいいのよ。落ち着いて」
「はい」
 俺は頷いて、目の前の水晶玉に手をかざした。
 水晶玉の下からは無骨な黒いパイプが何本も伸びていて、人一人分の体積はあるだろう機械につながれている。魔術だけではなく工業の面にも大きく力を入れたこの国ならではの技術だ。俺は深く息を吸い込む。
 ――さあ、ついにやってきた。狭い部屋の中、覚悟を決めた俺は、頭一つの大きさもある水晶を睨んだ。
 胸に湧き上がる不安を噛み殺す。俺は、この学園の生徒として生きていく。だから、こんなところで立ち止まるわけにはいかない。
「それでは、――どうぞ」
 レイン先生が測定器の電源を入れた。先生の手本を見ているときには聞こえなかった微かな機械の唸り声が聞こえてくる。
 目を閉じて、体の力を抜く。魔術とは、目に見えないほどの細かさで留まることなく動き移ろう世界の流れを操る技だ。世界は、一時たりとも同じであることはない。
 暗闇の中、機械の騒音に耳朶を叩かれながら心を研ぎ澄ます。世界の流れを読み取るのだ。何処から流れてきて、何処へ向かっているのか。
 すると、ふっと体が深くに沈んだような感覚と共に、海中にいるような気分に襲われる。初めはその違和感に体が反応するが、構わずに身を委ねた。体の重たさが感じられなくなり、俺の体は深海の底に沈んでいく。
 ――ああ、見える。
 肌が感じる。流れが、どちらに向いているのか。俺の細胞の一つ一つが、それらを敏感に感じ取って伝えてくる。
 前に魔術を行使したときとは明らかに違う感覚。そうだったのか。恐れる必要などなかったのだ。一度受け入れてしまえば、力の流れは羽根のように軽やかにそこにあった。心にあった恐れが、目を曇らせていたのだ。
 みるみる俺の周りの空気が呼応して、歓喜するように飛び跳ねる。その心地に、耳元でざわめく何かを、心の奥底で震える何かを、なにもかも無視して更に深いところを目指した。
 そうして、世界の流れを心が読み取った。そこには、僅かな不快すらない。代わりあるのは、かちりとはまったパズルのピースのような、暖かい充足感だ。
『――なんて』
 とても暗い、暗い場所。光が舞う。流れている。流れている。
『なんて、心地良い場所だ』
 前に魔術を行使したときとはまるで違う。身を委ねたくなる優しさに包まれて、花を束ねるように流れの渦を手にとっていく。
 その時の俺はもしかしたら、笑っていたかもしれない。体が周囲と同化していく心地良さがじんわりと手足から体中へと伝わってきて、更にその深みに落ちていこうとする――。
 鋭い叫び声が耳に突き刺さったのは、その時であった。
「危ないッ!!」
「――え」
 目覚めの感覚にも似た心地で瞳を開いた俺の目の前で、世界は目まぐるしく動いていた。
 どんっ、と何かに強い力で押されて、俺の体は嘘のように薙ぎ倒される。その瞬間、胸が冷えるような甲高い破裂音と共に視界を煌くものが鋭く突きぬけ、現実感を見失う。
 硬い床に体を叩きつけられて、かっと体が熱くなる。みるみる戻ってくる五感が、俺にその異常を知らせてくれた。
「――な、」
 何かが焦げる嫌な臭いが鼻をついて、思わず袖で顔を覆う。顔をしかめて起き上がると――その光景が俺の網膜に突き刺さってきた。

 ――そうして、ぞっとする。

「……」
「大丈夫っ? ユラス君」
 俺は先生の声も半ば無視して、目の前に散乱したものたちを――見る。
 それらを認識した瞬間、ゆらりと視界が揺らめいた。
 割れて粉々になった水晶。白と黒の文様が描かれた床に四散したそれが、照明にきらきら輝いて現実感を削ぐ。焼け焦げて煙をあげる機械の変色した表面と、鼻につく嫌な臭い。水晶に繋がっていた筈の太い管は、だらりと地面に水晶の粉にまみれて横たわっていた。
 そして俺の視線が、ある一点で凍りつく。
 俺は――。
「大丈夫? 突然装置が不具合を起こして――」
 俺は――。
「ごめんなさい。古い機械だから、何処か壊れていたのかもしれないわ」
 レイン先生は落ち着いた様子で俺に大した怪我がないことを確認すると、ぱきぱきと割れた水晶の欠片を踏みながら機械に近付く。
「……先生」
「落ち着いて、ユラス君。あなたが悪いんじゃないわ」
 レイン先生は不思議そうに、俺と機械を交互に見やりながら頬に手をやった。

「ただ、あなたが魔術行使を始めたらどんどん針が動いていって――」

 耳鳴りがする。とても嫌な耳鳴りだ。
 ざわざわ。人のざわめきがする。そうだろう、いくら防音のされている室内だからといって、水晶の割れる音は隣の部屋まで届いていた筈だ。
 レイン先生もそれを聞いて慌てて部屋を出て行った。騒ぐ生徒たちを一喝する先生の声。俺は座り込んだまま、目盛りを凝視している。

 目盛りの針は、500をとうに越して振り切れていた。

「――な、」
 何があった――と自分に尋ねても、覚えているのは魔術を使い始めたときの光景と、ゆるゆると暗いところに引きずりこまれていくあの感覚と――。
 頬の辺りがかゆい気がして手の甲で拭うと、ぬるつく何かの感触があった。どきりとして確認すると、手の甲に赤い血がついている。先ほどの砕けた水晶の破片が掠めたのだろう。
 だが俺はその血と、俺の手をじっと見つめた。喉の奥がからからに乾いている。体が凍ってしまったかのように動かない。
 何があった。何が起こった。何が、何が俺に起きた。
 心の底が狂ったようにそうわめくのを、別の部分が冷ややかに眺めている。
 分かっている癖に。知っている癖に。

 自分がどんな存在なのか。

 自分がどういったことをしてしまう存在なのか。

 違う違う――心がまた震える。俺は知らない、何も知らない。忘れてしまった、昔のことは。どうやったって思い出せないんだ。
 それは嘘だ――心が残酷なまでに穏やかに紡ぐ。単に俺は逃げているだけだ。全てに蓋をして封をして、表面を繕って生きているだけだ。
 しかしそれを認めてしまったら、何かが壊れる気がしていた。認めてしまったその瞬間が、きっと俺の終わりの時だ。
 くらくらと酩酊したように視界が揺らぐ。
「他の先生を呼んでこなきゃ。ユラス君、あなたも外にでて――、?」
 外の生徒を落ち着かせて戻ってきたレイン先生が、へたりこんだままの俺を見て訝しげな顔をする。
「ユラス君。ちょっと、大丈夫っ? 気分が悪いの!?」
 瞳は先生の顔を映しこんでいる筈なのに、何も見えない。
 手の甲の血の赤さ。温かみのある体。知らなかったものたち。光で溢れる世界。知ろうともしなかったものたち。
 俺という存在。誰かに望まれた、俺という存在。
 俺が持っている、この力。

 ――空を、紫色の鳥が舞っている。


 ***


 走っている内に喉の奥が切れたらしい。口の中に血の味が滲む。息があがって、呼吸すらままならなかったが、それでも俺は走った。
 あの後どうなったかはよく覚えていない。でも試験が延期になったことは確かだった。大勢の教員がやってきて何かを聞かれたが、どう答えたのだったか。セライム辺りにも声をかけられた筈だったが、その事実さえ、今の俺にはあやふやで――。
「――っく」
 元々運動に慣れていない細い体はあっという間にその体力を使い果たして、俺は壁に手をついて俯いた。呼吸が詰まって酷く咳き込むと、強い吐き気に襲われたが、既に胃の中のものは全てだしてしまっていた。
 世界がぐるぐる回っている。ここにいる感覚が、限りなく希薄になる。まるで雲の上を歩いているように足元がおぼつかない。
 俺は授業から解放されると共に走り出していた。学園を飛び出して、大通りを西の方に向かう。都市の西には数多の研究所がひしめいている。どれも同じような白い建物で、人影はあまりない。しかし俺は更に人気のないところを探して走り続ける。
 確かめなくてはいけない。
 きっと今の俺の顔はとんでもなく酷いことになっているのだろう。俺だって、いつこの体が崩れてしまうのか分からない。俺は、俺を知らないのだから。だから、確かめなければいけない。
 足が鉛のように重たい。随分走ったが、どの辺りまで来たのだろうか。顔をあげると、そこは大きな建物の裏側にあたる日陰だった。視線を上に向けると、まばゆい空の青が視界を焼く。都市の中心部にある時計塔は随分遠いところに見えた。ここは研究所の区域の中でも、外れた位置に当たるのだろう。
 そう思うとがくりと体が折れて、ろくに受身もとれないまま日陰の冷たい地面に座り込む。どん、という膝の衝撃も何処か遠いものだった。ぼんやりとした頭で、地面をまさぐる。指で触れると、硬い感触があった。お前は生きているのだと、語りかけてくるように。
 俺は目を閉じて周囲の空気を伺った。目を閉じてしまえば世界は闇に包まれて、誰もいない大地に一人取り残されてしまったようにすら思える。
 しばらくそうやってその一帯が無人なのだと確認すると、俺はゆるゆると瞼を開いた。
 地べたに座りこんだから制服が汚れただろうが、何の気概も沸かなくて、わだかまる空気を肺から吐き出す。
 両の手の平を開いて、俺はそこをじっと覗き込んだ。
 俺の手だ。
 今年の春――俺は目覚めた。
 歯を食いしばって、心の中で、紡ぐ。
 俺は、全ての記憶を失くしていた。運よくフェレイ先生に拾ってもらって、最寄の町を訪れた。それがこの、学術都市グラーシア。そうして、そこに図ったような手際の良さで俺の編入推薦状が届いていた。
 そうして、俺はこうして当たり前のように生徒の一人として溶け込んで。
 しかし――。
「俺は、誰なんだ」
 いや違う。俺が問いたいのは、そんなことではなく――。

「俺は、何者なんだ」

 手の平に、力を込めた。耳元で、ざわりと空気が動く。がつんと誰かに殴られたかのような衝撃があったが、構わずに力を込め続けた。
 握りつぶしてしまえるほどの光がそこに生まれる。俺の両の手の平に。ぽろぽろと、零れていく。落ちていく。
 ここは外れといっても都市の中だ。魔術規制の結界は、ここにも届いている筈だ。
 なのに、俺の意に沿って光は生まれ続けている。
 もしも魔術規制の結界の中で魔術を行使出来るのだとしたら、それは魔術結界を解除する道具を持っているか、それか――封印を破るほどの魔力を使うかだ。
 がくがくと指が震える。集中力が散ったからか、光は大した力になることもなく、また無に散っていった。ひからびた喉で何かを紡ごうとして、しかし言葉を見つけられずに唇だけを動かす。
 振り切れた針。みるみる深い場所に落ちていった自分。あのまま流れの渦の中に身を置いて力を手繰り寄せていったら。

 一体、どうなったのか。

「どうなった……って」
 先生は機械の故障のせいにしていたけれど――俺には、わかる。
 俺は、きっと機械が受け止められる以上の魔力を、そこに流し込んでしまった。
 機械が受け止められる以上の魔力――そう。頭の何処かで声が響く。

 つまり500以上でる人間はいないってことよ。

 振り切れた針の赤さと手の甲についた血の赤さが重なって、ぶれる。
 俺は一人、空を見上げた。




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