-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

12.山盛りピーマンとの格闘劇



 フェレイ・ヴァレナス。誉れ高き第19代目グラーシア学園長の地位にある彼を、その日、試練が待ち受けていた。
「……」
 学園長は硬直したまま、その物体を見つめていた。普段穏やかな顔は今や引きつり、額には脂汗が浮かんでいる。
「あははっ、先生には大盛りー!」
「ちゃんと食べなきゃダメだよ〜!」
 その周りを踊るようにはしゃぎまわるのは小さな悪魔たちだ。学園長は瞳を若干潤ませながら、がくりと肩を落とした。
「……困りました」
 聖なる学び舎グラーシア学園、幼学院。いるのは9歳から12歳までの幼い子供たちばかりだ。小さな悪魔――もとい、幼学院の緑と白を基調とした制服を着た生徒たちは、心の底から嬉しそうに学園長を苛めていた。
 ――給食の時間である。
 幼学院は中等院や高等院と違って三食給食制だ。子供に好かれる学園長は、給食の時間になると幼学院にやってきて子供たちと昼食をとるのが長年の日課になっていた。
 危なっかしい給食当番の生徒の手で盛られていく給食。今日の献立は、豚肉のシチューとパン、そして――ピーマンのサラダであった。
 既に学園長の苦手なものを知り尽くしている悪魔たちは、笑顔で学園長の皿にサラダを山盛りにしてくれた。子供たちと同じ小さな木の椅子に長い体を収めて、学園長は皿の上にあるものをなるべく見ないようにして黄昏る。動物園のように賑やかな教室ではあっという間に給食の準備が整い、日直がいただきますの合図をした。
『いただきまーす!』
 無邪気なその掛け声が、学園長には『地獄にようこそ』と聞こえていた。
「先生ーっ、残したらいけないんだよーっ」
 隣に座った子供が満面の笑みで言ってくれる。――皿にピーマンを山盛りにしてくれた給食当番の子だ。
「そうですね、いただきます……」
 学園長はいささか遠い目になりつつも、フォークを手にとり歯を食いしばって敵を見つめた。鮮やかな緑色をした、おぞましい敵だ。
 ごくりと唾を飲み込んで、それを震える手で口に――運ぶ。
 口を入れた瞬間、なんともいえない苦味が一杯に広がって、ぞわりと背筋が凍った気がした。
 その感覚から一秒でも早く抜け出そうと、ろくに噛み砕かずに無理矢理飲み込む。間髪いれずに手探りで牛乳の瓶を手に取ると、ぐいっとあおった。
「――」
 ふう、と水を得た魚のように呼吸を取り戻すまで、きっかり10秒。
 まだまだサラダは、悪魔たちの手により山のように盛られていた。
 口元を歪めるしか、なかった。

 半泣きでピーマンを食べている学園長を遠目にクラスの担任は見やり、苦笑を漏らすしかない。
 この学園長、手腕は一人前なのに、味覚は10歳児のままだ――と。


 ***


 山盛りピーマンとの格闘劇を終え、いささか憔悴した面持ちで学園長は廊下を歩いていた。
「……帰ったらお茶でも飲みましょうかねえ」
 ぼんやりと呟く。学園長に言わせれば、どうしてあんな苦い物体が人間の食べるものなのかと問いたいくらいの代物だ。思い出すだけで胃が嫌な具合に動く気がして、学園長はすぐに忘れることにした。
 グラーシア学園中央棟の廊下は、初夏の陽光を受けて何処までも穏やかだ。すれ違う教師たちと挨拶を交わしながら、窓の向こうで揺れる中庭の花々を楽しむ。
 頭の中で午後の予定を組みながら暫く歩いて――、その足が止まったのは、学園長室もすぐそこというところだった。
「先生」
 広い廊下の片隅に、所在なげに佇む生徒が一人、こちらを見つめていた。
 長い髪を腰までおろしたその少女は、生徒の中でも得に見知った子で、思わず頬が緩む。
「おやセライム君、どうしましたか」
 セライムは小さく会釈をして、こちらを伺うように見上げてくる。
「少し――いいですか」
 そうやって不安げに問いかける様は、入学してきた頃とまるで変わらない――学園長はそんなことを考えながら頷いて、学園長室に促した。
 学園長室に生徒がやってくるのは珍しいことではない。ちょっとした相談をしにやってくる生徒もいるし、教えを請うてくる生徒もいる。そしてどうやらセライムは前者のようであったし、その内容も学園長は薄々感づいていた。
 しかし、そんな内面は顔にださず、ソファーを勧めるとすぐに紅茶を二人分淹れた。湯気と共にやわらかい香りが部屋一杯に広がって、なんとも心が和む。
 そうしてセライムと反対側のソファーに腰掛けて、紅茶を一口飲む。セライムもおずおずと紅茶に手を出して、そっと口に運んだ。
「……すみません、お忙しいのに」
「気にしないで下さい、まだお昼休みですし」
 時計をちらりと見ると、午後の授業開始までには余裕があった。セライムは零れる髪を耳にかけながら、微かに笑う。
「先生にはいつも迷惑をかけっぱなしでした」
 ふとその言葉に、昔のことが思い出された。学園長は笑って首を振る。
「いいえ、私も好きでやっているんですよ。気にすることはありません」
 セライムは深い青の双眸で学園長を見つめ、そして今度こそ本物の笑みを漏らした。
「先生はそうやっていつも優しいから」
 悪戯っぽい笑みは、昔のセライムにはないものだった。まだ幼かった金髪の少女にあったのは、不安と、恐れと戸惑い――。
「だから昔からそれに甘えていたんですけれど」
 無論、今でも少女からそれらが消えたわけではなかった。むしろ逆だろう、彼女の不安は日に日に大きくなっている筈だ。
 しかし少女はもう一人ではなかった。仲の良い双子の姉妹や、同級の友人たちに囲まれて、だから少女は年頃の娘と同じように笑うことが出来るのだ。
 そうして、入学した頃から見違えるように背の高くなった少女は、ぎゅっと紅茶のカップを握って告げた。
「でも、あと二年で私は――卒業です」
 学園長は、ゆるりと頷いて静かにセライムを見る。強い瞳で見返すセライムの瞳には、幾重もの恐れが詰まっていた。しかし、それを押し込めて精一杯の背伸びをして、セライムは目をそらさなかった。
「私は、戻らなくてはいけません。それはとても、怖い――こと、ですけど」
 とても古い記憶は、色あせて脳裏に映る。

 大きな荷物を抱えた少女。
 夕暮れに、ぽつりと一人。
 聖なる学び舎のはずれを、とぼとぼと歩いて。
 そうして、こちらを見て、
 小さな口が、ぽろりと言葉を零す――。

 目を伏せる少女があの時からどれだけ成長しているのかは、わからない。人の成長など、毎日のように見ている人間にはわからないものだ――。
 学園長は何も言わずに頷いて、続きを促した。セライムはきゅっと唇を噛んで、抑えた声で紡ぎだした。
「いつまでも逃げているわけにはいかないと思うんです。だから、だから――ちゃんと前を見なきゃいけない」
 そうセライムは無理矢理に笑った。きっと締め付けられるような痛みをその胸に感じているだろうに。それでも少女は前を向こうと、必死だ。
「だから、今年の夏は、少し長く帰ろうと思って……います」
 頷きながらそれらを聞いていた学園長は最後に大きく頷いて、少女に語り掛けた。
「わかりました。でも、無理はしないでいいんですよ。ゆっくりでいいんですからね」
 自分の言葉で少女を救えるとは思っていない。こんな自分が救えるのは、たった一人しかいないことなど、分かりきっていた。
 しかし救いにはならなくともせめて、僅かな光になってくれれば。
 セライムは返事と共に頷いて、席を立った。そろそろ昼休みも終わる頃だ。
「ありがとうございます。本当に――あの家に入れてくれた先生には、感謝してます」
 真面目にそう言われると、若干照れくさいものがこみあげた。
「照れますね。困りました」
 そう言うと、セライムも笑う。
「でも、まだ二年もありますからね。感謝されるにはまだ早いですよ」
「いいえ。先生にはいつでも感謝で一杯です」
 そう断言したセライムは、失礼しましたと頭を下げた。いつでも礼儀正しい子だ。そして、真っ直ぐに育ってくれたように思う。
 自分の弱さを見つめて、自分の足で歩こうともがいて、自分の想いを伝えようとする。
 己の昔とは、大違いだ――、学園長はそっと目を眇めた。
「また、いつでも来て下さい」
「はい」
 生き生きとした笑顔でセライムは返事をして、学園長室を後にした。
 学園長は後姿を見送って、一人、残った紅茶に口をつけた。香り高い紅茶は、いつでも心を穏やかにしてくれる。
 この学園長室にやってきて、何年もの時が経った。あの少女くらいの歳だった頃は、今の自分がこんなことをしているなど、夢にも思わなかった――。
「そう。未来なんてどうなるか、本当に分からないものですからね」
 もういない少女にぽつりとそう呟くと、学園長はセライムの紅茶を水場に片付ける。自分のものは執務用の机に置くと、山になった書類の束を見やった。
「三時からは理事長と打ち合わせでしたっけ」
 やることはいくらでもある――、学園長は静かに執務用の机に向かった。
 そう。今のこの自分こそ、自分がありたいと願っていた自分なのだろうから。


 ***


 スアローグと食堂で腹を膨らませ、たわいもない話を花を咲かせて俺たちは歩いていた。
「学園を卒業したら旅にでるぞ。世界中の甘いものを制覇するんだ」
「そうかい。多分おそらくきっと素晴らしい夢だと思うよ」
「案ずるなスアローグ。お前も連れていってやる」
「心の底から遠慮させて頂くよ。ところでユラス、明日は試験だって知ってるかい?」
「んな?」
 軽い口調で言われて、俺は眉間にしわを寄せた。
「やっぱりね。君は朝の連絡事項をいつも聞いていないから」
 スアローグが呆れた視線を送ってくれる。そんなこと言われたって、朝は眠たくて仕方ないのに教室まで濁流のような生徒の流れに乗っていかなければいけないのだ。そんなこともあって、朝の担任からの連絡は鞄を抱いて机に突っ伏したまま、ほとんど右から左に聞き流していた。ちなみにもっと早く起きろという小言は聞こえないことにしている。
 で、ありがたいスアローグの説明によると明日は魔力測定試験なるものがあるらしい。
「なんだそれ」
「まさか君でも似たようなことやったことあるだろう? 文字通り魔力を測るのさ、だから予習とかはいらないけれど、心の準備はしておきたまえよ」
「――ふむ、魔力を」
「うん」
「――測る」
「そうだね」
 目を閉じて、きっかり10秒熟考して、俺は目を見開いた。
「ちょ、なんだってぇー!?」
「なんだい」
「すすすスアローグ、それはマジかっ」
「君ね、一体何処に入学した気でいたんだい。ここはグラーシア学園魔術科だよ、魔・術・科。当たり前じゃないかい」
 こめかみに指をめり込ませて口元を歪めるスアローグ。
 ――いや、そりゃ確かにここは様々な分野を学べる学園であっても、俺たちの科の根本にあるのは魔術だ。対をなす機工科とは逆に、魔術を用いて学問を解き明かす、または魔術についてを解き明かすことを目的とする。だからそういう試験はない方がおかしいんだけれど――。
 びくり、と右手が無意識に強張る。ティティルを連れて国立魔術センターに行った日の出来事を思い出したのだ。魔術を行使しようとした瞬間の、あの全身が粟立つような禍々しい悪寒。
 あの後も何度か魔術を行使する機会があったが、その度に俺は猛烈な不快感を味わっていた。いや、予感――と言った方が正しいかもしれない。だから、なるべく魔術を行使することは避けていたのだ。
 また、魔術を行使しなければいけないのか。
 そう考えると、頭の奥が僅かに痛んで顔をしかめる。
「大丈夫かい? そんなに重く考えない方が良いよ。それに魔術測定で一々深刻な顔してたら実習だらけの後期はどうするんだい」
「あ、ああ」
 思いがけず内心が表情に出てしまっていたようで、頭を小さく振ってごまかす。スアローグの言う通り、秋からは魔術実習が始まるのだ。この程度でうろたえていたら、とてもやっていけないだろう。
 だから嫌な予感を振り払うように唇を噛んだ。そうだ、決して恐れることなんてないんだ。普通に測定を行えばいい――。
 ふと風のように角からセライムが飛び出してきたのはその時だった。
「おおセライム」
「あっ、ユラス」
 見事な金髪をなびかせてセライムは足を止める。ここまでどれだけ走ってきたのかは知らないが、息一つきらしていない。キルナやチノと一緒でないのが不思議だった。
「なんだ、何処かに行ってたのか」
「ああ――野暮用だ。もうすぐ予鈴だぞ、お前たちも急いだ方がいい」
 セライムは上機嫌そうに言うと、俺たちとすれ違って教室の方に走っていった。研究室に行くのに荷物を取りに行ったのだろう。
 そのままスアローグと歩き出しながら腕を組む。
「元気だな」
「そうだね」
 スアローグはうんうんと頷いて背後を振り返った。
「昔から運動神経がいいんだよ。お嬢なのに意外な一面ってところだね」
「お嬢?」
 ふと引っかかった単語を繰り返すと、スアローグはきょとんとした顔でこちらを見る。
「知らないのかい?」
「知らないぞ」
「セライム・ユルスィート。ユルスィート財閥っていったら有名じゃないかい――ああ、君はこの国の人間じゃないから知らないか」
 当たり前のように説明してから、スアローグは俺の髪の色で俺が外国から来ているとを察したらしく、すぐに納得してくれた。しかし財閥と聞くだけである程度俺にも予想がつく。
「……財閥っていうと、良家なのか?」
「良家も良家、あれは正真正銘のお嬢様だよ。ユルスィート財閥はこの国有数の巨大な企業だからね。その現会長がセライムの父親さんってわけさ」
「……」
 けろりと当たり前のように言ってくれるスアローグ。
「……マジか」
 俺はそう呟きながら顎が落ちるのを止めることが出来なかった。なんというか、やっぱりあの容姿は良い所のお嬢さんならではのものだったのか。
 突然セライムの後ろにとんでもないものが広がっているように思えてきて、俺は思わずこめかみを押さえる。
「ま、だからって学園で優遇されるわけでもないしね。普通に付き合えばいいのさ、普通に」
 前から思っていたがこのスアローグという男、なんだかとてつもなく肝が据わっているんじゃなかろうか。
「セライムもそう望んでいるし、ね」
 そう付け加えるのに、俺は心を指でなぞられた気がして瞳を跳ねさせた。確かにそうだろう――セライムは自分がそんな家の出であることなど、一切口にしていない。セライムをそういう目で見る人間も、彼女に近い者だけで考えるなら一人もいない。
 しかし、おかしいよな。そうだとするとセライムにはそりゃもう立派な実家があることだろう。なのにあいつは今年の春、ずっと先生の家に滞在していた。
 実家と揉めてでもいるのだろうか。そんな考えが脳裏を過ぎったが、俺は考えを取り消した。それはあいつの問題だろう、俺が勝手な考えを巡らすことではない。
 もしあいつが相談でもしてきたら、聞いてやればいいのだ。といっても、その相談役はキルナに持っていかれそうだが――。
 そう思うと、ふっと喉の奥から笑みが漏れた。
「なんだい、にやにやして。気持ち悪いね」
「……いや、俺ってやっぱ頼りないよな」
「頼れるとは思えないね」
「お前のそういう正直なところ、割と好きだぞ」
「男に好かれるのはゴメンさ」
 不毛なやりとりをしながら、気がつけば研究棟のすぐ近くに来ていた。スアローグの所属する研究室はこの研究棟の一つにある。俺の所属するところは――まだ、結構遠い。
「じゃあまた」
「おう」
 挨拶を交わして別れる。俺はこれから、この研究棟を越えた先まで歩いていかなければいけない。考えるだけで萎えてしまう。
 それにしても、と考えた。
「セライムには、家族がいるんだな――」
 まるでその事実が心に響かなくて、違和感だけが残る。
 あいつの家族――それをなんとなしに想像するのと、ずん、と頭が重くなるのは、ほぼ同時だった。
「――っ?」
 不意に頭から流れ落ちるように不快感が体を駆け巡って、俺は顔をしかめた。
「つ……」
 額に手をやって、ふらつく足でどうにか平静を保つ。
「……なんだ……?」
 セライム。
 その単語。
 ゆるゆると波打つとろけた黄金の髪。
 青の双眸。
 きつく引き縛られた、唇――。
「……っく」
 頭を強く振って脳裏に浮かぶ映像を払った。でないと、視界ですら黒いもので塗りつぶされてしまいそうだった。
 しかし――。
「セライム?」
 その単語を、かみ締めるように、繰り返す。
 俺は……。
 俺は、セライムを知っているのだろうか?
 いや、違う。
 知って、いたのか?
 俺は、記憶を失う前に、あいつに……会っていた?
「……まさか、な」
 俺は自分で頬を打ってその思考を取りやめた。あいつとはこの学園で初めて出会ったのだ。セライムだって俺のことを知らなかったのだから、元々会っていたなんてある筈がない。俺はそう言い聞かせて全てを振り払った。
 何故か。
 何故かそれは、――とてつもなく恐ろしいことのように、思えたから――。




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