-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

11.モノクロームの夢



 まるでその夢は色彩を失っていた。色で溢れている筈の世界は、しかし鮮やかに写ることはなく。
 ただ、明暗だけがぱっきりと分かたれている。そこにあるのは二つの概念。白か、もしくは黒か。たったそれだけで表された空虚な世界はざらついていて、それでいて重苦しい。
 その果てにあるものを、初めのうちはしっかりと見据えていたはずだった。必死で、それを目指そうともがいていたつもりだった。
 しかしそれは時と共に風化し、そして風化したことすら忘れていった。
 白い視界。ざらざらとビーズのように黒が駆けてゆく。自分はただ見ているだけで。足を踏み出すこともなく。霞んだ瞳で、何を考えることもなく。
 白と黒が、また、ざらざらと駆けていく。
 それが世界を成すものであって、世界の全てである――。

 そんな夢をみた。
 モノクロームの夢だった。

 ――男はふっとその目蓋を開いて、見慣れた天井を鈍い青の瞳に映した。そこにあるのは変わりない、月夜に沈む彼の寝室。
 うたた寝のような浅い眠りから目覚めるのは男にとっては一瞬のこと。体はすぐに自由を取り戻す。
 彼はゆっくりと上体を起こした。ゆるやかに機能を開始した体を闇に浸したまま、肺に溜まった空気を吐き出す。普段やわらかく笑う瞳が、今はぼんやりと虚空を見つめている。
 ――眠ることは、あまり好きではない。
 いつだって同じ夢を見る。
 繰り返し繰り返し、同じ映像を苦痛になるほどに見せられる。
 再び小さく吐息をついた口元は、微かに笑っているようにも見えた。救いようのない、己自身の体に向けて。
 男の心は縛られている。否、縛られぬ心を持った人間などいるわけがない。だが男は己を縛るものの正体を知っている。己の背にあるもの、己の心にあるものを知っている。それがどんな作用をもたらし、どんな影響を与えることかさえ、男には手に取るようにわかっている。
 そしてそれらは男にとって、どうしようもない苦痛でもあった。
 ――しかし、今は。
 今は、どこかに一筋の光が見えているのかもしれなかった。
 この身を赦すように包む、果てないと空虚を伴った光があるのかもしれなかった。
 男はもう一度息を吐き出す。体温の低い体から吐き出された息は、同じく温もりがない。――この体に、本当に心が宿っているのかわからなくなるくらいに。
 男の眠りは普段から極端に浅い。ほんの僅かな揺らぎでさえ、それは男を覚醒させるものとなる。男は目を閉じて無駄な思惟を振り払うと、窓の外に意識を投げた。
「随分、大胆なことをするのですね」
 その声が窓の外まで聞こえたかどうかはわからない。闇夜の深い時間、男の寝室は月明かりにその影を浮かび上がらせている。
 男は目を細め、おもむろに立ち上がってランプを灯した。ガスを使ったランプが発明されているこの時代には珍しい、古風な型をしたそれに発火具を使い火を灯す。すると黒と青が支配する世界に、ふんわりとした橙の明かりが広がった。
 そうして男は迷うことなく歩いていってベランダへ続く窓の鍵を開けた。窓を開くかどうかは外にいる影にまかせて、そのままテーブルへと向かう。すると、窓の外に立っていた気配はゆるりと染みるように影を中に忍ばせる。
 灰色の女はそんな己の影を踏みつけて、男の部屋へと入った。そして、背を向けてテーブルのものを動かしている男に視線を付きたてる。
「今、紅茶を入れますから」
 そう言う男は無防備にも背中をさらしたままだ。女は一瞬だけ不審そうな表情をする。この男は平和に慣れきっているのだろうか? この背に刃を突き立てられるかもしれないと、思うことはないのか――?
 だが、今考えるべきことはそれではないと、無駄な思考を散らせて女は口を開いた。
「彼はまだ、何も知らずにいるようね」
「ええ。元気にしていますよ」
 幾分か楽しげな声が返る。女の内心を知ってか知らずか。
 女は油断をしない。この男を信用するつもりなど毛頭ない。なぜならば、この男は――。
「あなたの経歴を調べさせてもらった」
 男の手が、一瞬だけ止まった。だが、すぐに作業は再開されて。
「そうですか」
 やわらかで、それでいてそっけない返答。変わらない、変わらない。そこには嘘も真実も、希望も絶望もない。あるとすれば、目の前のものを静かに見据える瞳と、そこに秘められた途方もない苦悩と。
「あなたは」
 女は、言葉を綴った。揺るがぬ真実をその唇に乗せる。男は黙って女の言葉を聞いていた。時折頷くような仕草さえ見せながら。
 女が言葉を切ると、男は僅かに振り向いた。ランプに浮かぶ横顔が、今は穏やかに笑っている。
「はい。全て、あなたの仰る通りです」
 そんな返答に、驚いたのは女の方だった。
 女は、男の全てを暴いたつもりだった。女はこれまでに男の素性を調べ上げたのだ。まず、男の名を聞いた瞬間に嫌な予感があった。だからその線で探った。そうすれば、悪夢のような連鎖がするすると出来上がって――。
 それを今、男の前で洗いざらい口にした。なのに何故男は笑っている? 笑っていられる?
「さあ、紅茶が入りました。あなたもどうぞ」
 夜の空気には似合わぬ温かな香り。無論そんなもので女の心が安らぐわけがないのだけれども。
「何を、企んでいる」
 差し出されたカップなどに目もくれず、女は無意識に問うていた。この男は苦手だ。何を考えているのか――、

 男の瞳が、静かに細められる。
 お互いの視線が、不意にゆるりと交じり合う。

「私が何を考えているか、わからない……ですか?」

 そう小首を傾げて。
 ぞくり、と背筋を何かが滑り落ちる。
 あまりに異端なその風景。
 夜も落ちた、深い闇。
 それを蹴散らす橙の炎。
 静かで鋭い夜の空気。
 そこに広がる紅茶の香り。
 ――その向こうで、ふんわり笑っている男の瞳。
「申し訳ないです」
 男は、本当にばつが悪そうに呟いた。
「一度壊れた心は……中々元には戻りませんね」
 困りました――そう言って、再び紅茶を差し出した。
 女は、それを受け取るしかなかった。
 じんわりと灰色の指がカップの熱に暖められる。だというのに、背筋はまるで氷のよう。
 男のやわらかな笑みが、底のない狂気すら秘めているような気がして。
 ふわふわと足元がおぼつかないのは、床がカーペットだからだろうか?
「それでも私は、幸福を願うのですよ」
 女の背後にある夜景を楽しむように眺めながら、男は言った。
「この都市に生きる人々に、この学園にいる生徒の全てに」
 楽しそうに――楽しそうに。
「どうか、明日も笑って生きてゆけるよう」
 歌であり、祈りでもあるそれは、不思議と夜の空気に響いて、心を揺るがせる。
「祈りは無意味だ」
 だから、女はそう抗した。
 女は救いなど信じていない。幸福など、得られると思ったことすらない。
 男は瞳を伏せて、また零れるように笑った。
「そうかもしれません」
 入れたての紅茶に口をつけて、女を正面から見据える。
「もしも祈りが通じるというのなら、全ての人が祈るでしょう。祈りは通じません、誰にも、何にも。奇跡が起こるわけも、誰が幸福になるわけでもありません。――せめて、」
 ふわっと開け放たれた窓から風が吹き込んだ。女の持つ紅茶の水面が微かに揺らめく。男の淡い水色の髪も、寂しげに揺れていて。
「せめて、己が少し救われるだけです」
 女は黙って自分の紅茶に視線を落とした。知らない香りのするその液体を。
「あの――良かったら、飲んでもらえますか。冷めてしまってはおいしくないので」
 この男は、やはり相容れないと思う。
 どこまでも覆う優しい微笑みを浮かべて、死より悲惨な絶望を軽々と口にする。それならいっそ、陰鬱な表情でも浮かべていれば分かりやすいのに。
 女が渋々といった様子で一口紅茶を飲むと、男は嬉しそうに笑った。それほど誰かと紅茶を飲むのが好きなのだろう。口内に熱を与えた液体は、不思議な香りを残して喉を通っていった。
「しかし、いけないことでしょうか」
 女はゆっくりと顔をあげる。
 男は穏やかにそこにいる。
「祈ることは、――いつか祈りが通じるのだと信じて祈ることは、いけないことでしょうか?」
「悪いことではない。無意味なだけ」
「それでも、祈らずにはいられないのですよ、人間というものは。どんないびつな形をしたものでも」
 いびつ――女の顔がその言葉に揺れる。そう、女の姿も異端だが、この男の一見穏やかな佇まいも、ある時この上なくいびつに見える。
「私がそうであるように」
 この男は、どこかで壊れている。
 その心は、どこかで破綻している。
 それを縫い作ろうとして、それでいて悠々と歩いているものだから、傷は再び軋みだして、それでもそれら全てを両手で抱えて。
 笑っている。
 強くもなく、弱くもなく。
 ただ、あるがままに。
 己に与えられた生の鼓動に沿って。
 女の喉を、言葉が滑り落ちる。
「あなたの望みは」
「彼の生を」
「彼を、始末すると言ったら」
「彼は私の生徒ですよ。教師は生徒を守るものです」
「いつ、彼が壊れるとも知れないのに」
「その為にいる教師ですよ」
「理想論だ」
「大丈夫ですよ。彼はちゃんと生きています。自慢の生徒ですよ、彼は」
「――生きているといえるの、あれで」
 女は問う。
「あなたは、何故。何故、そこまでする? 考えてみたことがあるのか、もし、彼がいなければ――」
 ――男は、笑った。その顔立ち、体つきからは、年齢がいか程かよくわからない。やわらかく細められる瞳はまるで老人のようでもあるし、しかし顔かたちは時を止めてしまったかのように若々しい。ゆったりとしたローブは体の線すら覆い隠し、本当にこの男が実在するのか、わからなくなってくる。
「……人の歩む道とは」
 耳あたりの良い穏やかな声は、その音と裏腹に重々しく心を打つ。当たり前のように傷を引きずって、抱えて、背負って、一人で歩いて。けれど男の瞳の光は消えることがない。
「言葉にすれば、僅かな時間で語れるものになるのでしょう。そうでなければ、世界は記憶に押し潰される。もし一人の人間の全てを語るとすれば、それは世界が暮れるまでに半分も語れるかどうか。それ程までに人は、様々な想いを胸に抱くのでしょう。あなたも、彼も、そして私も」
 波のように窓から風が吹き込んだ。ランプの灯が揺れる。長く落ちたカーテンの影が揺らめく。しかし男は、指先一つ動くこともなく。
「私は、彼の為にでも、――あの人の為にでも、このようなことをしているのではないのですよ」
 女の瞳が震えた。一時、その奥に女の記憶が映る。女は男を睨み付けることで、それらから眼をそらした。迷う暇などないのだ。もう終わりにしなければいけない、この絶望と歪みの連鎖を。
 なのに、男はたじろがない。その瞳の奥に、いくつもの絶望を秘めている筈なのに。それらをじっと見つめたまま、男は笑っている。苛烈なまでに強い意志と想いを秘めた微笑みを。
「私は、私の為に。この何も持たない手で、私を救う為に。私は――私であり続けましょう」
「それが彼にとってこの上なく残酷なことであったとしても?」
 だから、女は弱々しい抵抗をする。そう、女にはわからない。僅かな言葉の羅列で語られたある一人の男の生涯。しかしその中で彼は何を思い、ここまで歩いてきたのか。
 男は、紅茶を脇のテーブルに置きながら囁くように言葉を紡いだ。
「――私は、彼の幸福を願っているのですよ?」
 女は眼を閉じた。灰色の唇から零れたのは諦念の吐息。無様だと思う、こんなにもいびつな己の体が人と同じように呼吸をしているなど。
 そう、女の体はいびつだ。目の前の男も、そして彼も。全てがいびつだ。あの運命が転がり初めてから。運命は、関わったものの全てをいびつにしてしまった。元に戻ることなど出来はしない。
 どうすればいいか――。だから女は迷わないと思っていた。平然と過ぎていく日常に埋もれて、明日がやってくることを疑いもせず、諾々と日々を過ごすわけにはいかない。終焉を迎えさせなければいけないのだ。この運命の輪が、更に広がっていく前に。
 なのに、男はそれを拒絶する。自らをいびつにした運命を、男は紅茶でも楽しむかのように見守っている。いつ、再び運命が牙を剥くともわからないのに。
 暫くの逡巡の後、女は飲みかけの紅茶をテーブルに戻して、踵を返した。その心は未だ曇り淀む。しかし、女に手出しは出来ないのだから。それこそ、最初で最後の手段なのだから――。
「……あなたがそこまで言うのなら」
 女が羽織った灰色のローブの裾が、ゆっくりと翻った。
「今度こそ、彼をあなたに預ける。あなたは『全てを知っている人間』と認識した。彼の全てをあなたに任せてみよう。もう私は口出しはしない」
 顔だけ振り向くと、男と視線が交差する。
「あなたの狙いも私は聞かない。元々私はあなたを信用していないから」
 夜風が煩わしく頬を撫でた。忌わしい灰色の短い髪がさらさらなびく。
「しかし、私は彼を監視する。それが私の使命。そして、もしも彼に崩壊の兆候が現れたのなら――」
 男は黙ってこちらを見ていた。初めて会ったときと同じ顔で。じっと見ていると、心がざわめく。そうだ。言われてみれば、その顔は――。
「容赦なく、彼を抹殺しよう」
 こつり。女の靴が床を叩いた。ベランダへと影が動く。やはり男は黙ったままだった。
 女は最後に一つの問いを投げた。
「あなたは」
「はい」
 ランプに浮かび上がった世界には、一人の男が佇んでいる。
 上背が高く、痩せた体をローブに包んだどこにでもいる男だ。
 その顔は、全てを包む笑顔を乗せて。
 誰にも、何にも変えられぬ意思をも乗せて……。
「あの人を――許したのか」
 男はそっと目を閉じた。
「ええ」
 そう、そこには一人の男が佇んでいる。
 若くして地位を勝ち取り、数多の人に親しまれ、聖なる学術都市の一角に住まう穏やかな男が。
 ――しかし、女が去った後、力なく笑って俯いた彼の顔は、誰も見てはいない。




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