-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

10.優しい時間



 グリッド先輩は一通りの話を聞き終えると、腕を組んで考え込んだ。
「……あの、何か」
 俺たちの書いた論文については、嘘偽りなく洗いざらい話したつもりだ。恐る恐る尋ねると、先輩は鼻から息を抜いて再び眼鏡の位置を直した。
「確かに、奇抜ではあるな」
 低い声でそう告げる。俺とシアはその真意が掴めずに首を傾げた。するとグリッド先輩は人もまばらな食堂を眺めながら、眉間にしわをよせる。
「しかし、それだけだ。お前たち、学会のなんたるかを知らないだろう」
 そんな物言いにシアがむっとした顔で先輩を睨んだ。グリッド先輩はシアをちらりと一瞥して、目を伏せる。
「グラーシアは学問の独立を謳ってはいるがな――」
 珍しく先輩はそこで言葉を濁し、もどかしそうに顔をしかめた。
「現実は違う。思うがままに研究ができると思ったら大間違いだ。学問の世界にも派閥があり、強い勢力の学説に基づかない論文は異端とされて忌避される。そうなれば圧力がかかって研究の予算もおりにくくなる。お前たちの研究室がいい例だろう」
 俺は、あの研究室に閉じこもる主のことを思い浮かべた。確かに、俺たちの研究室は既に誰からも興味をもたれない場所になりつつある。召喚術という異端な行為が原因だろう。
「お前たちがあの論文を発表したところで、それは単に奇異の目で見られるだけだったろうな」
「で、でも……!」
「それが現実だ」
 シアがくってかかろうとしたが、言い放たれた言葉に反論出来ず、拳を握り締めて俯く。だが、きっとグリッド先輩も内心ではシアと同じ思いなのではないかと俺は思った。先輩の、それらを口にするときの顔でよく分かる。
「そうだな――盗まれたというからどんな論文かと思ったが、単にお前たちがおかしな注目を集めるにすぎないものか。そうするとますます動機が分からないな」
 そんな独り言にも似た呟きに、俺はふとグリッド先輩を見た。
「先輩、無くなった論文のこと考えてくれてたんですか」
 てっきり、自分には関係ないと無関心を装うと思っていたのだ。するとグリッド先輩は苦虫を噛み潰したような顔をして、指で眼鏡を押し上げた。
「は、なんで君たちの問題を僕が解決しなければいけないんだ。ただ少し、そう、ほんの少し気になっただけだ」
 最初ははっきりとした言葉が、次第に小さくなっていく。その様子に俺は思わず吹き出した。
「ありがとうございます」
「なんだ、礼を言われる覚えはない。勘違いするのはやめたまえ」
 そうは言っているが、頬が若干赤らんでいる。ああ、そうだ――確かにグリッド先輩は、悪い人じゃないんだ。
 シアもそんな先輩にきょとんとした顔でいた。グリッド先輩はとうとう恥ずかしくなってきたのか、がたり、と席を立つ。
「とにかく。今度からはもっとマシな論文を書いて戸締りに気をつけるんだな」
 言い残すとグリッド先輩は制服の白いケープを翻して去っていってしまった。その場には俺とシアが取り残される。
 がらんとした食堂の中、俺もシアも、暫くは先輩の去った方を呆けたように眺めていた。そうして姿が見えなくなってやっと、俺は肩をなで下ろしてシアを見やった。
「なんだ、怒られるのかと思ったら優しかったな」
 シアはまだ呆けた顔でぼんやりとしている。
「おい、ほら。泣いてる暇はないぞ。次は頑張らなくちゃ書類的にもやばいしな」
 そう言うと、思い出したようにシアの目に涙が浮かんだ。若干ぎょっとしたが、目をそらして腕を組んだ。うん、正直こういうのは慣れてない。
 隣でしゃくりあげる声が聞こえてきて、俺はなんと声をかけたものかと思い悩む。すると、天の助けが遠くの方から駆け寄ってきてくれた。
「ユラス!」
 とろけた黄金の髪を惜しげもなく振りまくようにして走ってきたのは――セライムだ。
「学会が終わったんだってな。どうだ、楽しかっ――」
 どうやら休日だというのにわざわざ制服を着て俺を探しにきてくれたらしい。しかし俺の隣に座って顔を伏せるシアに気づいた瞬間、天の助けは地獄からの使者となり、咎めるような眼差しを俺に向けてくれた。
「――ユラス、お前、何をしたんだ」
「人聞きの悪いことを言わないでくれ」
 心から切に頼む。
「ごっ、ごめんなさっ、……っぅ」
 隣で止まらない涙を必死で拭い続けるシアを見かねたのか、セライムは反対側の席に座って顔を覗き込んだ。
「大丈夫か、ほら、このハンカチを使うといい」
「す、すみま……せっ」
 すっかり顔をくしゃくしゃにしたシアは、何度も頷きながらセライムの厚意を受け取る。
「すみませ……ん、私、頑張りますからっ……、もう、泣いたりしませんからぁ……」
 俺は机に頬杖をついて頷いた。
「そうだな。頑張らないとな」
「ユラスに何かされたのなら私に言ってくれ」
「セライム、誤解だ……」
 真剣な顔でシアを慰めているセライムの一言に、がくりと首を落とす。
 午後の優しい時間が、ゆるやかに過ぎていく。
 俺は頬杖をついたまま、そんな二人を穏やかな気持ちで眺めていた。


 ***


 聖なる学び舎グラーシア学園の制服を一点の乱れなく着込んだグリッドは、真っ直ぐに寮に向かった。本来ならこの時間、彼の研究室では打ち上げが行われているのだが、頭の中にあるもののせいでとても騒ぐ気にはなれなかった。
 馴染んだ階段を上がり、自分の部屋へと進んでいく。模範的な生徒である彼の歩き方はその評判に違わず淀みがない。
 自室の扉の鍵をあけて中に入る。学園では幼学院、中等院、高等院と院が変わるごとに寮の部屋も変わるが、中等院と高等院の部屋は大きさも形もそう変わらない。その為だろうか、まだ高等院に入って丸一年しか経っていないのに、入った部屋は何年も同じところにいるような感慨を沸かせた。
 同室の生徒たちは出かけてしまったらしく、部屋には誰もいない。グリッドはおもむろに周囲の気配を探り、そしてポケットから羊皮紙の欠片を取り出す。それを目を細めて眺めると、思い切った風に台所に向かった。
 台所は簡易的なものであるが、コンロと水場がついている。グリッドはコンロの火をつけると、その火の中に羊皮紙の欠片を投げ込んだ。
 火に触れたそれは一気に炎の塊となって燃え尽きる。ぱっと黒い墨が舞って、グリッドはそれをじっと見据えた。
 頭の中には、少女の紡ぐ言葉がぐるぐると回っていた。
 
『学園に――何かが入りこんでいるね』

 もしかしたらそれは少女の適当な誤魔化しだったのかもしれない。しかし、その声の重たさが耳に焼き付いて離れなかった。
「――何が起きている?」
 燃えている火を見つめながら、グリッドは一人呟いた。
 決して大事が起こったわけではない。あったとすれば価値もない論文が一冊盗まれ、そしてあの寂れた研究室の目の前で魔術行使が行われたというだけだ。なのに、何故、こんなにも肌がざわめくのだろうか。
 だが一人考えたところでどうにかなる問題でもない。しかも自分は完全なる蚊帳の外だ。
 だから、自分の考えることは何もない――そう思いながらも、グリッドは予感を抑えられずにはいなかった。
「――何が、起きるんだ?」
 聖なる学び舎グラーシア。白亜の学園に忍び寄る影たちを予感しながらも、しかし彼はそれらを一笑に付すことしか出来ない――。


 ***


 桃色の髪の少女は未だに痛む脇腹を抑えて、自室の窓辺に腰掛けていた。
 同室の生徒たちはいない。当たり前だ、自分という存在は他者に避けられるものなのだから。
 少し身じろぎをすると、また腹が痛んで眉を寄せる。気絶するほどに強く殴られたそこには、青い跡が刻まれていた。だが制服で隠すことが出来る腹部で良かったとは思う。
 少女としても、あの影の正体が何かと聞かれれば答えられない。気がつけば、影は自分たちに付きまとっていた。古びた研究室には視線が張り付いていた。
 一体、何の為にあの影はあるのか――少女は思考にふける。
 そう、影が付きまとい始めたのは、下の学年が研究室に入ってきてからのことだ。そして、下の学年にいる者で最も怪しいのは――。

 あの、紫色の髪と瞳をした、少年だ。

 同じ色素しか使っていないのかと思う程に鮮やかな紫色をした髪と瞳。顔立ちが目立たないだけに、その色が鮮烈な印象となって残っている。
 学園長の知り合いの子だと聞いた。しかし彼は自分の過去について語ることはおろか、触れることすらない。そして、不意に見せる遠くを見たまま黙りこんでいる姿。考え事をしているというよりは、むしろ何も考えていないような。
 不思議な少年だった。あの少年を中心として、何かが動き始めているのだとすれば。そして、それらが自分を巻き込んでいくものだとすれば。――少女は、黙っているつもりはなかった。

 窓の外を、たった一羽で紫の鳥が飛んでいく。翼をはためかし、尾羽を膨らまし、風に乗るようにして、孤高な鳥は飛んでいく。
 一人、窓辺で黙り込んでいる少女がその姿を見ることは、ない。




Back