-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

09.有象無象のものたち



 フローリエム大陸全域を国土とするリーナディア合州国。英雄ウェリエルの手により法治国家となったこの国の魔術への規制は、世界的にも類を見ない程に厳しい。
 基本的に特定の免許が無い限り全ての魔術行使が禁じられ、また一定以上の魔力を行使する為には役所への申請が必要となる。これらは全て、魔術を使った犯罪の防止策である。
 またこの法律の適用にあたって、建国から現代の間にほぼ全ての都市に魔術規制の結界が張られることになった。街中で魔術を行使できる場所は、特別な許可を得た地区か国が管理する施設のみである。
 しかし、それは緊急時にあっても魔術行使ができないという弊害を生んだ。犯罪防止や人命救助の為に使われる魔術ですら、この国は封じてしまったのだ。
 そこで、政府は苦肉の案を出してこれを乗り切ることにした。それが一般に『護符』と呼ばれる魔術用品である。
 これは羊皮紙に複雑な文様を描いたもので、この護符を使った者は結界を一時的に無効にすることが出来る。使い方は至って簡単で、羊皮紙を半分に破くのみ。ほとんどが一瞬で結界無効の効力を使い果たしてしまうが、物によっては半日も結界を無効に出来る強力な護符もある。無論、製作方法や構造は一般には知られていない。
 政府はこの護符を厳重に管理し、所持及び使用には種々の免許と特別な許可を得ることを義務付けた。許可のない人間は使うことはおろか、持っていることですら罪になる。
 こうして魔術行使の規制された都市の中で、例外として魔術を行使できるシステムが成り立ったのである。
 だが、人の欲に際限はなく、僅かたりとも隙間のない部屋はなく、漏れない秘密がないように、違法となっている護符の売買は裏社会で行われていた。
 政府も無論、この闇取引には目を光らせているが、結局のところいたちごっこは終わらず今日に至る。
 そしてこの学びの都、学術都市グラーシアでも、陽の目をかいくぐって暗がりの魔術用品店に行けば――護符の取引は、確かにされていた。

「これは、どういうことだ」

 グリッドの手には、破られた護符の片割れがあった。彼としても、数度と見たことはないし、見たといっても授業中に資料として教師が持ってきたものを遠くから見ただけという程に遠い世界のものの筈であった、護符の片割れ。
 椅子にだらしなく座った桃色の髪の少女ヴリュイエール――ヴィエルは、初めてグリッドの手の中のものを一瞥して、興味をなくしたように顔を背けた。
「なんでアタシに訊くのさね」
 ヴィエルの独特の訛りは彼らの故郷キヨツィナ大陸の山間部出身者に見られるものだ。そんな彼女の紡ぐ言葉に痺れを切らしたのか、グリッドの顔が怒りに歪められた。
「お前くらいしかいないだろう、こんなものが買える場所に行くのは!」
 怒鳴り声が、安い窓ガラスを震わせる。嫌な余韻を残して、再び部屋には静寂が落ちる。
 真面目で頭の固いグリッドでも聞いたことがあった。学術都市グラーシアの外れにある歓楽街には非合法の魔術用品店が軒を連ねており、そこでは政府が管理している筈の護符すらも売買されているのだと。
 そして、ヴィエルは否定しなかった。桃色の髪をさらりと払って、化粧の乗った瞼を伏せる。
「で、だから何さね」
 僅かに開いた横顔の瞳には、動じた様子など少したりとも見えなかった。前からそうだった。こちらの話を聞いているふりをして、何の表情も見せない。何も言おうとしない。
 フローリエムの地で彼女の髪は異彩を放ってよく目立つ。しかし、誰に話しかけられようと、それが善意であれ悪意であれ、彼女はずっと気だるげな目でそうしていた。
「法律も知らないのか」
 何処かで無駄だと思いながらもグリッドは続けた。そして、自分が聞きたいのはそんなことではないのも、理解していた。
「お前がこれを使ったのなられっきとした犯罪だ。僕がこれを役所に届ければ捜査が入る。逃げられないぞ」
 ヴィエルは口を閉ざしたまま。その胸の奥で一体何を考えているのか、垣間見えることすらない。
 だから嫌いだった。自由気ままなふりをしながら、何でも一人でやってのけようとする、その態度が。そうやって誰にも助けを求めないで突き進んでいく、その傲慢さが。自分が一体どれほどのことをしているのか、知りもせずに。
「何があった」
 その問いが不毛なものだと知りながら、グリッドは問いを重ねた。どうせ少女は語らない。それが身に染みて分かっている筈なのに、しかしそうせずにはいられなかった。
 返ってくるのは沈黙だと思っていた。だから、返答があったことにグリッドは目を見開いた。
「この近辺には近寄らない方が身の為かもしれないね」
 ヴィエルの細い指が、彼女の脇腹に添えられていた。部屋の照明は暗く、しかし彼女の顔は青白く照らされて。
「アタシも何かは知らないサ。でも、」
 もう春も終わるというのに、グリッドは不意に寒気を覚えて顔を強張らせた。知り尽くした筈の聖なる学び舎の空気が、突如として刃のように体を刺す気がした。
 桃色の髪の少女は、自らの傷をおくびにも出さず、ただ忠告だけを告げていた。
「学園に――何かが入りこんでいるね」


 ***


 学園長室では、その主がふと走らせるペンを止めて窓の外に目をやるところだった。
 決して広くはない部屋はいつも通り扉が開いていて、外の湿気た香りをそのままに運んでくる。薄手のローブを身にまとった学園長は、黙って降り注ぐ雨を青い瞳に映し続ける。
 すると学園長は不意にかたりと椅子から立ち上がって窓の傍まで歩み寄った。濡れた緑と、灰色にけぶる建物、続く雨。それらを暫く無感動に眺めていた学園長は、そっと目を細めた。
「……今年は」
 ぽそりと独り言が薄い唇から漏れる。細い影が、僅かな室内の明かりによって床に描かれて、静かに揺れる。
「沢山の方を、お招きしてしまったようですね」
 溜息にも似た言葉は、無論、誰に聴かれることもない。学園長は一人、ゆっくりと思案にふけるように瞑目した。
 暗くなった視界の中、遠い雨の音がやわらかく届いてくる。
 次に学園長が目を開いたとき、その口元にはいつもの笑みが浮かんでいた。見るものを包み、優しく見守る穏やかな微笑み――。
「さて、もう一仕事ですね」
 再び椅子に腰掛けて、机の上の書類に目を通し始める。そう、彼の胸にあるものは、誰も知ることはない。しかし、荒野にぽつりと佇む聖なる学術都市は確かに、有象無象のものたちによって、侵食され始めていた。


 ***


 夜遅くまで雨は続いたものの、朝になると陽光が雲の間から差し込み、濡れた石畳をきらきらと輝かせた。それすらも昼までには乾き、明るいグラーシアの情景が戻ってくる。
 そしてまるで何事もなかったかのように、俺たちが参加する筈だった学会も、終わった。
 俺たちは結局論文を提出できず、席に座って傍聴するのみの存在となった。来ないかと思ったシアは、俺の隣の席で黙って学会の内容を聞いていた。ヴィエル先輩は姿を見せなかった。
 学会の中にはグリッド先輩が所属する研究室の発表もあり、俺はちらりとシアの横顔を伺ったが、茶髪をひとくくりにまとめた少女は発表をじっと見つめているだけだった。
 最後の発表が終わり、閉会の挨拶が告げられ、場内は拍手で満ちた。俺たちも周囲と同じように拍手をして、――そうして俺は、シアを見た。
「……なあ、シア」
「はい」
 拍手の音に声はかき消されて、その唇の僅かな動きだけで俺は返答を察した。彼女はぎゅっと唇をかみ締めて俯いたままだ。
 そうしている内に拍手も消え、講堂内の空気が動き始めた。みるみる他の人たちが席を立って去っていく中、俺とシアは座ったまま、しばらく黙っていた。
 談笑しながら人々が消えていくのはあっという間。何度目になるかわからない溜息をついた俺は、息苦しさを感じながら隣の少女に問うた。
「グリッド先輩に謝ったか?」
「……」
 シアは俯いて、沈黙で答えを返した。憔悴した横顔は痛々しくて、俺は高い天井を無駄に仰ぐ。
 結局、論文の行方も、何故論文が無くなったのかも、真実を掴むことは叶わなかった。立ち止まらずを得なかった俺たちを残して、世界だけが進んでいく。もう、講堂一杯にいた筈の人々はまばらになってしまっていた。
「おい」
 だから、その声を聞いた瞬間――俺とシアは、二人して肩を飛び上がらせるようにして振り向いていた。
「何をしている。学会は既に終わった」
 一番後ろに座っていた俺たちの背後には、分厚い眼鏡の向こうの瞳を不機嫌そうに細めたグリッド先輩の姿があった。
 シアは体を硬直させたまま、視線をさまよわせる。俺も何を言えばいいかわからず、先輩の顔色を伺った。しかしグリッド先輩はどうも昨日の怒りをぶつけにきたわけではないようだ。代わりにふん、と鼻を鳴らして腕を組んだ。
「丁度いい、少し付き合ってもらおうか」
 それだけ言うと、踵を返して歩き出してしまう。
「え、ちょっ」
 俺は慌てて立ち上がった。その間にも、俺たちに誘いをかけたとは思えない速さで先輩はつかつかと歩いていってしまう。
「お、おいシア。行こう」
「……」
 シアはちらっと俺の顔を見て、少しだけ泣きそうな顔をして、それでも頷いた。負い目があるんだろうが、きっと今謝れなかったら一生機会は巡ってきそうにない。
 二人で恐る恐る先輩の後を追っていくと、外はすっかり日差しが強くなっており、思わず目を細める。先輩は講堂を出ると、食堂の方に歩いていった。

 休業日の学食はがらんとしていて普段よりもずっと広く思える。
 グリッド先輩はいつもと同じように、背筋をぴんと伸ばして奥の席まで進んでいく。俺たちもそれに倣って、先輩が腰を下ろした席の反対側に座った。
 シアが最後に座ると、その場には重苦しい沈黙が落ちる。
「――あの、先輩」
「すみませんでした」
 それを打破しようと俺が声をかけた瞬間、被さるようにしてシアが言い放った。驚いて隣を見ると、ぎゅっと唇をかみ締めながら、シアが強い光をその瞳に秘めてグリッド先輩を見据えている。
「昨日の一件は、申し訳なく思っています」
 今にも震えてしまいそうな声を、グリッド先輩は全く動じないそぶり聞いて鼻を鳴らした。
「ふん。そんなことを気にしていたのか。あの場で一番怪しかったのは僕だ、疑われて当然だろう」
 シアの瞳が跳ねて、グリッド先輩を見つめた。先輩は当たり前のように眼鏡の位置を指で直すと、ふう、と息をついた。そういえば、今日のグリッド先輩は何処か気難しげだ。普段だったらもっと滝のように罵言を浴びせかけてくるのに。
 何かを思案するようにグリッド先輩は目を一度閉じて、そうして口を開いた。
「さて」
 その瞳がこちらを向くのに、俺は思わず居住まいを正す。
「――お前たち、どんな論文を書いたんだ?」
 俺とシアは、顔を見合わせた。




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