-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

08.消えた論文



 窓の外には今にも泣き出しそうな空が広がっていて、なんとも気後れする朝だった。どうにか寝坊を免れた俺は、ぼんやりとパンを口に入れて砂糖を入れたコーヒーで喉に流すと、スアローグと共に寮をでた。無論、そこにエディオはいない。
「昼から雨だってさ。気が滅入るものだね」
 学園の正門をくぐる途中、鞄を片手にスアローグが灰色の空を見上げる。生返事をしていると、視界の端から二人の少女が駆け寄ってきた。
「朝から不景気な顔してるわね、二人とも」
「おはよう、ユラス、スアローグ」
 元気そうな二人を見て、スアローグが手をあげて返す。
「おはよう、二人とも。今日はチノは一緒じゃないのかい?」
 チノというのはキルナの双子の妹だ。魔術科の俺たちとは違って機工科に所属している。双子というだけあって、キルナと全く同じ顔をしていて、性格は――、似なくていいところだけよく似ている、とだけ言っておく。
「ええ。昨日は研究室に泊まりだったみたい。あの子ったら、忙しい研究室選んじゃって大変そうなのよ」
 そんな双子の片割れをまるで妹みたいに扱うキルナの言葉に、俺は笑って腕を組んだ。
「ああ、どうりで今日は静かだと思ったぞ」
「……チノに聞かれたらまた殴られるわよ、あなた」
 懲りない人ね、と呆れ顔でキルナに言われる。見ればセライムがその隣でくすくす笑っていた。
 こうしてみるとキルナはセライムよりも小柄なのに、態度でみるとまるでキルナの方が年上だ。キルナが何処となく大人びているせいもあるのだが、そのちぐはぐな取り合わせが面白かった。
「そういえばユラス、例の論文は書きあがったのか?」
「ああ、俺様の溢れる才能を持ってして昨日の夜に書き上げてやったぞ」
「へえ、二週間足らずで書いたんでしょ? 出来が楽しみね」
 キルナが相変わらず痛いところを平気でぶっ刺してくれるのに、遠い目をせずにはいられない。
 四人でとりとめもない話をしていれば、教室はすぐだった。俺にとっても、やっと慣れてきた場所だ。
 いつもの席に腰を下ろして、それだけで一仕事終えた気分になれて息をつく。窓の外の空はすっかり分厚い雲に覆われてしまって、教室も普段より暗く感じた。湿っぽい空気が体にまとわりついて居心地が悪い。
 こんな日なのだから、せめて何事もなく終わってくれと願いながら俺は始業を迎えたのだった。


 ***


 初めは新鮮だった授業も、段々と退屈なものに変わってしまうのは避けられないことなのか。やっとのことで昼休みを告げるベルが鳴って、俺は世の中の全てから解放されたような気分で肩を撫で下ろす。
「ああ終わった。今日も終わったぞ」
「なによ、一日の仕事終えたみたいな声だして」
 全ての授業を集中力を切らさずにこなしたキルナが呆れ顔を向けてくる。確かに俺にはこれから、あの研究室においてあの先輩に加えあの同級生と話すという一仕事が待っているのだ。でもこちらは別に嫌々やっていることではないし、とにかく退屈な授業が終わったというだけでもう俺は幸せだった。
「俺にとってはこれが一日の終わりなんだ」
「お前、夕方からは鷹目堂だろう? 怠けてはいけないぞ」
 キルナと昼食を食べるつもりなのだろうセライムが寄ってきて釘を刺してくれた。確かにそれは、さぼったら何が起こるのだか想像もしたくない。
 ――瞬間。
「セライムー!」
「のっ!?」
 うん、と思ったときには、もうセライムは後ろから思い切り抱き着いてきた人物によって前につんのめっていた。どうにかその場で踏みとどまると、慌てたように目をやる。
 鮮やかに結い上げられた淡いエメラルドグリーンの髪に、悪戯っぽい光を秘めて笑う濃い苔色の瞳。身だしなみには気を使っているのか、垢抜けた印象をくれるそいつは――。
「ち、チノ! こら、突然飛びつくと危ないだろう」
「あははっ、だって早く授業終わったんだもーん!」
 セライムに後ろから飛び掛ったのは、キルナの双子の妹のチノだった。科が違うこいつは普段は別の教室で授業を受けているのだが、昼になるとキルナ特製の手作り弁当を目当てに合流しに来るのだ。この方が安上がりなのよといつかキルナが言っていたが、流石それは女の子ならではの芸の細やかさというか。晩年寝坊ギリギリの俺には逆立ちしたって出来ない芸当だ。
「チノ、そんなに跳ね回るとお弁当がひっくり返るわよ」
 未だセライムを離さないチノを呆れた様子でキルナが睨む。うん〜、と聞いているのか聞いていないのか分からない顔で返事をするチノは、双子の姉のキルナと瓜二つだ。正直俺はまだ髪型の違いでしか二人の見分けがつかない。キルナはいつも髪を後ろで一つに結い上げているが、チノは両耳の上の方で髪飾りをつけて結っているのだ。セライムはすぐに見分けられるらしいのだが、ホクロの位置で見分けているんじゃなかろうか。
「性格はもっと凶悪なんだがな――ごふっ!?」
 ぼそりと口にだした瞬間、回し蹴りをもろにくらってその場に没する。
「ちょ、おいっ、誰がお前のことだと言ったんだ!」
「ふんっ、ユラスの考えることぐらいお見通しだもんねーっ」
 はきはき喋るキルナよりも間延びした口調で、しかし姉以上に口達者なチノはふんぞり返るように言い放って、キルナに縋りついた。
「お姉ちゃん、ユラスがいじめるのー」
「よしよし、半殺しにしていいわよ」
 チノの頭を撫でてやりながら、キルナが女神の微笑みを浮かべて凶悪な台詞をのたまってくれる。にやり、と影で笑うチノの表情にも俺は戦慄を隠せない。
「うー、なんだか賑やかだねえ」
 声の先に目をやると、今にも目蓋が完全に落ちてしまいそうなスアローグがふらふらとやってくるところだった。
「よしスアローグ。疲れたときは糖分補給が一番だ、学食行ってプリンパフェ食べるぞ」
「……学食はともかく、パフェは勘弁してくれたまえ」
 元気がなかったスアローグが更にげっそりした顔になる。だが学食には付き合ってくれるようだ。
「よし、それじゃあいざ学食に――」
「ユラスさぁんっっ!!」
 教室を出ようと足を踏み出したのと、それはほぼ同時だった。
 教室中が震撼するような呼び声を鼓膜にくらって、俺は文字通り飛び上がる。
 無論、音としての衝撃に飛び上がったのは俺だけではないようで、その時点で教室にいた全ての人間が叫んだ主に目を向けた。下手をしたら廊下にいた奴から隣のクラスの奴までそちらを見たかもしれない。
 そのくらいの爆音で俺の名を呼んだのは――キルナよりももっと小柄な体の何処からそんな声がでるのかと聞きたくなる少女、シアだった。
「し、シア……?」
「ユラスさんっ、ユラス、さ――」
 何があったのかわからず困惑する俺に、シアは俺たちのクラスの扉に縋りつくようにして――言葉を詰まらせたと思った直後、ぼろぼろと大粒の涙を零しはじめた。頭の中が氷にさらされたかのように冷えていく。
「ぃっ……? ちょ、シア――?」
「……ユラス。あなた、何やったの?」
「ひ、人聞きの悪いことを言うなっ。おいシア、どうしたっ」
 クラスメイトたちの好奇の視線に身を焼かれながらもシアの元に駆け寄ると、真っ青な顔をしたシアはがくがくと震えながら俺を見上げた。
「――ろ」
 消え入りそうな声が、小さな唇から漏れる。涙で色を滲ませた瞳を一杯に開いて、シアは押し出すように言った。
「論文が――なくなってるんです」
「……」
 暫く思考を停止させた俺は、ゆっくりとその意味を理解すると同時に、背筋が冷えていくのを他人事のように感じ取った。
「――なんだって?」
 嘘だろう、と心の中で叫びながらも、既に足は研究棟の地区へと走り出していた。
 雨が、静かに地面めがけて降り出した。


 ***


「わた、私、授業が早く終わったから、先に来てもう一度読み返そうと思ったんですぅ――、でも、でも、そしたら」
 第二考古学の研究室はまるで荒らされた形跡もなく、昨日俺たちが帰ったそのままの状態で俺とシアを迎えてくれた。しかし俺が論文をしまった筈の引き出しを開いてみると、確かに論文は消えている。
 シアはすっかり蒼白になって、縋るような目で俺を見ていた。だが俺だって何がどうしたのか見当もつかない。他の引き出しも手当たり次第に開くが、やはり消えた論文は見つからなかった。
 ――盗まれたのか?
 そんなこといったって、学生が短期間の付け焼刃で書いた論文、欲しがる人間がいるはずもない。
 ならどうしてだ。俺は確かに、昨日ここに論文をしまったのに。
 学会は明日だ。現時点でこれでは――参加は絶望的である。
「――ぅっ、えぐっ」
 俺と同じことを考えているのか、背後にシアの噛み殺せない嗚咽が聞こえた。俺はただ、思考を巡らせることしか出来ない。
 もし誰かが論文を勝手に持っていったのだとしたら、最初に疑うべきはこの研究室の真の持ち主である、例の扉の向こうの先生だ。研究室の外から入る分には鍵がかかっているが、中からだったら無理がない。
 しかしその考えはすぐに捨てなければいけなかった。例の扉の前に立って目をこらしたが、堆積した床の埃に最近扉を開けた形跡は伺えない。
 つまり、犯人は外部からこの研究室に侵入したということだ。
「あんな論文持ってって何に使うんだ」
 思わずぼやいてしまう。利用価値があるとしたら、俺たちへの嫌がらせくらいか――。
「ヴィエル先輩は?」
「多分そろそろ来る頃ですけれど、まだこのことは――」
「じゃあ先輩が持ってったのかもな」
 ヴィエル先輩がそんなことするだろうかと思いつつも、シアを落ち着ける為にそう言って、俺は窓の外を見た。すっかりくすんでしまった窓の外では雨がしとしとと降り注いでいる。
 ――嫌な天気だ。むっとするような湿気と、雨が土を叩く音。まるで耳を通さずに体の隅々から中に入り込んでくるようで、それだけで気が滅入るというのに――。
 だしぬけに古びた扉が開いたので、俺とシアは二人でぱっと顔をあげた。
「あ、ヴィエルせんぱ――」
 だが、俺が言いかけた言葉は喉の中で途切れていく。その先に立っていたのが、桃色の長い髪をした先輩ではなく、赤い髪に分厚い黒縁の眼鏡をした男子生徒だったからだ。
 ――グリッド先輩。
「なんだ、声がしないからいないのかと思った。何をやっているんだ」
 いつもと変わらぬ高圧的な声で、褐色の目を不審そうに細めながらぐるりと周囲を見渡す。そして、俺の表情と、何よりもシアの瞳に溜まった涙を見て、その顔が更に不可解そうなものに変わる。
「一体」
「――論文を知りませんか」
 座り込んで論文を探していたはずのシアが、いつの間にか立ち上がってグリッド先輩を見据えていた。強い声が、先輩の声を掻き消して耳の中に響く。
「……なんのことだ」
 先輩はその質問の意味を理解出来ないようで、不快げに眉間に皺をよせた。だがシアの瞳に秘められた只ならぬものを感じ取っているらしく、それ以上は口を閉ざす。
 何か行動を起こさなければ、何かを言わなくては。そう思って口を開いたが、俺の喉が音を紡ぐ前にシアが再び口を開いていた。
「私たちの、論文が、なくなりました」
 一切の否定を許さない事実を、外で降りしきる雨ですらぼかせない現実を、きっぱりと告げる。
「あんな論文、無くなっても私たちが困るだけなのに」
 ざわりと首筋の空気が沸き立った気がした。シアをこのままにしてはいけない――、嫌な予感が無数の針となって全身を刺す。しかし、俺がそれを止める前に、シアは言ってしまっていた。
「あなたが論文を――!」
「シアっ!」
 腹の底から声を絞り出したつもりなのに、俺の言葉はそう大きなものにはなってくれなかった。けれど、シアの耳には届いたらしい、彼女の見開かれた瞳がこちらを向く。その中に映るあらゆる想いに、俺は歯を食いしばって首を振ることしか出来ない。
「……ぅっ」
 シアは肩を震わせて拳を握り締めると、微かな嗚咽を漏らした。しかし次の瞬間にはそのまま膝をついてしまうのかという予想を裏切り、少女の体は風のように動いていた。
 グリッド先輩の横を押しのけるようにして、シアは傘もささずに外へと飛び出していってしまったのだ。
 あっという間に後姿は雨で灰色にけぶり、見えなくなってしまう。研究室には俺と先輩の二人が取り残された。
 追いかけようかと俺は一瞬思考して、しかし今追ったところで何も言うことの出来ないであろう自分に気付く。シアの気持ちは分かっているつもりだった。シアだってグリッド先輩を心から疑っているわけではないのだろう。だからこそ俺は動けなかった。
 グリッド先輩は無言で立っていた。ふと見返すと、その片手をポケットに突っ込んでいるのが少し先輩らしくないな、と馬鹿らしいことを感じてしまう。
 俺はきっと情けない顔をしているんだろう。そう思いながら僅かに笑った。俺には、何も出来ない。ただ、ただ、俺は俺を取り巻く全ての物事に翻弄されて。
「……すみません。本気で言ったんじゃないと思うんです」
 グリッド先輩はいつもの能弁さが嘘のように表情を変えなかった。何か考え事をしているのかもしれない。
「すみませんでした」
 そうしてグリッド先輩は、傘をさして出て行くまで結局、何一つ口を開くことはなかった。


 ***


 研究室に一人で座って、何時間が経ったろうか。
 この空模様では陽の動きなど全く読めない。仕方なく時計を見ると、既に日が傾き始める時間になっていた。
「……行かなきゃ、だな」
 誰も聞く者はいないのだが、そう呟いた。今日は夕方から鷹目堂の予定なのだ。ヴィエル先輩は、姿を見せない。
 もしかしたら本当にヴィエル先輩が論文を持っていったのかもしれないなと何処かで思った。何の気なしに持ち出して、俺たちが勝手に騒いで、最後はシアがぎょっとした顔で、でも安堵にその場に座り込んでしまって――。
 そう夢想して、しかしそんなことはないだろうと目を伏せた。騒ぐ子供の横でまどろむ猫のように、先輩はいつも俺たちを眺めているだけだ。今回の論文に関して、先輩はむしろ関わりを避けているようにすら思えた。そんな先輩が今更論文に興味を示すはずがない。
 誰もいない、雨の音しかしない研究室で一人、ぼんやりと考える。
 そういえばうっかり昼飯を食べ損なってしまったが、今は何故だか空腹感も起きなかった。朝からの気だるさが未だに体にまとわりついている。湿気の多い空気、天から降り注ぐ水の嵐、濡れて水が染みる靴と、頬に張り付く髪、暗くけぶる景色、口に入ってくる雨水と、誰かの、誰かの声――。
「――ぅ」
 不意にずんと頭の奥が重くなった気がして、俺は顔を歪めた。思わず髪の中に手を突っ込んで指で頭を触って、世界が遠くなっていく感覚を繋ぎとめようとする。
 息を深く吐き出して、そのまま髪をかき回した。何が不快なのだかわからないことが、それ以上ない不快となって襲ってくる。
 俺は、結局この学園に入って何をするべきなのだろうか。
 俺は俺を知っている何者かによって学園へ入ることを促された。何らかの意図をもってして、その人は俺をこの学園へと編入させたのだろう。だが俺は、そんな学園の中で何をすべきなのかを知らない。
 古びた椅子の背もたれに身を預け、研究室とは名ばかりの廃れた部屋を見回した。埃の積もった本棚がずらりと並ぶそこに、手がつけられた形跡はない。
 俺はきっと、この学園での生活に慣れて、流れるままに暮らし続けているのだろう。幸い、生きていくのに必要なものは全て揃っている。稼ぐ先と、帰る先と、――そして、この体と。

 しかし、いつかそれは終わる。

 何故だか俺は、そう思った。
 それが卒業のときなのか、もしくはそれよりも前になるのかはわからない。
 だが、終わる。
 ――ざわりと胸の内から滲み出す、それは確信にも似たもの。
 気持ち悪いとまではいかないが、気持ちいいとも思わない。白い布の中央にぽつりと黒い点が染み付いているようで、それは見落としてしまいそうな程に小さいというのに、拭えない。
 俺がこの学園に入ったことには、意味がある。
 俺のことを知っている誰かの思惑を叶えるために。
 そして、その終わりのときに――。
 ――だしぬけに、がちゃん、と音がして研究室の扉が開いたのはその時だった。
「なっ?」
 物思いにふけっていた俺は慌てて自己を取り戻し、そちらを向く。そして、思わず来訪者の名前を口にだしていた。
「ヴィエル先輩」
 背中に長く垂らした、遠目からでもよく目立つ桃色の髪。それは今日のような雨の中でも鮮烈な印象を網膜に残す。
 眠たげともとれる化粧が乗った顔が、ゆるりと俺の姿を捉えた。俺が違和感を感じたのはそのときだった。
 ヴィエル先輩の歩みは何故かおぼつかない。ゆったりとした動きで先輩はいつもの席まで移動する。しかしその右手が脇腹にやられているのを見て、思わず俺は論文のことすら忘れて立ち上がった。
「せ、先輩。具合でも悪いんですか?」
「んー」
 珍しく先輩の表情にいつもと違うものが宿った。それは苛立ちのような、痛みにこらえているような、苦渋に近い表情だ。
 先輩は、ルージュがたっぷりのった唇から苦しげな息を吐いて、そして言っていた。
「魚にあたった」
 俺の膝が、折れた。
 その一言は見事に俺の緊張をぶった切ってくれて、俺は思わずその場に蹲ったまま動けなくなる。
「……腹痛ですか」
「そんなトコ」
 へたり、と脱力した俺は床に頬をつけた。もう起き上がれないんじゃないかと本気で心配したくなった。
 ヴィエル先輩はシアがいないのをいいことにタバコを咥えてそそくさと火をつける。それはあまりにいつものヴィエル先輩で、そして何処かでほっとする光景だった。
「って先輩! そんなトコ、じゃなくて大変なトコなんですよっ!」
 俺は我に返って机を叩いた。慌てて今日起こった出来事を説明する。先輩は煙をくゆらせながら俺の話が終わるまで外を眺めて。
「――で、持って行った人物に心当たりは?」
 全てを語り終えた後、そう俺に問いかけた。ちゃんと話を聞いてくれていることに安堵を覚えながら、俺は首を振った。
「いえ、ないです。先輩にはありませんか?」
「……」
 先輩はぼんやりと虚空を見ていた。そうしてゆったりとした口調で、ないね、と答えた。
「……明日は絶望的ですね」
「所詮期待されてなかったサ。それよりもシアを気遣ってやりな」
 俺はこくりと頷いて、席を立った。もう鷹目堂に行かなければいけない。
 ――雨は憂鬱だ。身も心も、何もかも重くなる。
 疲れきった俺は、自分と入れ替わりに誰かが研究室に入っていったことなど、露ほどにも気づかなかった。


 ***


 扉が開いたのに、彼女は振り向くどころか一瞥をくれることもしなかった。そんな様子が不快で、扉を開けた主はむっとした顔で桃色の髪を睨めつける。
 どうして何度もこんなところに訪れなくてはいけないのか――、彼はそう思いながらも、そこに足を運んでいた。学会を明日に控えた今日、自分の仕事を他の者に任せすらして。
 苛立つ彼の右手はポケットの中を無駄にまさぐっていた。その指先に触れる羊皮紙の切れ端――、そう、それを見つけさえしなければ、先ほども様子を伺っただけで扉を開けなかっただろうし、今ここに来ることもなかった筈だった。
 学会の前日を迎えて様子を見にきたとき、建物の影に落ちていた、栞ほどの大きさの羊皮紙。何気なく拾って眺め、そこに書いてあった文様を見て愕然とした。
「――おい」
 不躾な声で、グロウディッド――人からはグリッドと愛称される生徒が呼びかける。この娘に直接話しかけるのは、一体いつぶりだったかと頭の何処かで考えながら――。
 彼はその右手に、既に力を失った羊皮紙を乗せて突きつけた。

「これは、どういうことだ」




Back