-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

07.二つの影



 数日後、幾晩かの徹夜の果てに俺たちはどうにか論文を仕上げることができた。
「終わりましたぁ、完成ですぅ! 第二考古学研究室、渾身の一作!」
 すっかり疲れたのか目を赤くしたシアは、それすら吹っ飛んだ様子で喜んでいる。
 ヴィエル先輩はずっとそんな俺たちの様子を眺めるまま、時折タバコを吸いに外にでながら、しかし毎日欠かさずに来てくれていた。今は先ほど出て行ったきり。きっとすっかり暗くなった外で、紫煙をくゆらせていることだろう。
 学会まであと二日。俺たちはなんとか様々な文献を照らし合わせて、ウッドカーツ家の大舞台への登場となる事件への考察を書くことができた。実際大したことのない内容だが、学生という身分で提出するには十分だろう。
 そして俺の失った部分は――あれから、何事もなかったかのように沈黙を続けている。しかし調べてみると、今回の件以外にも俺の記憶と正史の記述とが食い違う点はいくつかあった。俺には当たり前の知識として身についているのに、現実をみるとまるで違う――、絵柄はあっているのにはめ込むことができないジグゾーパズルのように。
「じゃあ、先輩も呼んできますねぇ! 皆でお祝いしましょうっ」
「いや、お祝いは学会が終わってからだろう……」
 連日の研究作業とシアの扱いに心身共に瀕死状態の俺は声の調子を落として呟いた。まあシアが浮かれるのもわかる。こんな見るからにボロボロ、いつ潰れてもおかしくないような研究室からまともな論文が完成したのだ。これが第二考古学研究室再生の第一歩になると思っているのかもしれない。
「ヴィエル先輩、ほんっとタバコ多いな」
「そうですねぇ、最近は特に酷いですぅ」
 どうしたものやら、とこめかみをぐりぐりしながらシアは扉の方に視線を投げる。ヴィエル先輩が吸うタバコの量は並大抵ではなく、俺が踏んだところ毎日軽く数箱はあけている。先日、資料を探している途中で棚の一角に大量のタバコが隠れているのを発見したほどだ。だがシアに言えばすぐに捨てにかかって一悶着ありそうなのでナイショにしてある。
 それに、俺の菓子類の消費量もシアやスアローグがぎょっとするくらいになっていた。きっとヴィエル先輩にとってのタバコは俺でいう甘味類みたいなものなんだろう。これがないとどうも落ち着かない。
 そう思うとまたなんとなしに手が伸びて棒つき飴の包みをといた。咥えると爽やかな味が口一杯に広がり、やっと一仕事終えたのだという気分になれて、背もたれに体を預ける。
「――でも」
 シアはにこっと寝不足の顔に笑みを浮かべた。
「ずっと来てくれてましたから。私たちのこと、見守ってくれてたんですよぉ」
「ヴィエル先輩が?」
 机の上を片付けてから先輩を呼んでこようと思っているのか、シアは立ち上がってその辺に散らかったものを整理しながら頷く。
「勿論ですぅ。先輩はいつだって、私たちを影で支えてくれているんですよ。何も言わないし、言うといえば敵作っちゃうことばかりですけど」
 曖昧に頷きながら、俺は変わらぬ口調で喋るシアの顔を見た。いつでも物事をきっぱりと判断するその瞳が、今はふんわりと緩んでいる。
 しかし俺の記憶している先輩といえば――孤高で強く、それでいて人生を楽しんでいるような、ちょっと変わった人でしかないのだが。
 シアはそんな俺の思考を汲み取ったのか、そういうものです、と笑ってみせた。
「この研究室に所属しているはずの生徒って本当は10人くらいいるんですよ。でも――ほら、ここって人気もなければ先生もアレだし、実際誰の目にもとまってない、誰にも相手にされてないボロっちい研究室じゃないですかぁ」
 ――なんだかんだで自覚はあったらしい。それにしてもそこまで言うか。
「高等院に入れば研究室所属は必須ですぅ。でも研究室自体が機能してなければ午後からずっと遊べることになるんですねぇ。お陰で誰も来てくれません。でも、先輩は来てくれますぅ。私が頼みに行ったら、面倒臭いって言いながら、それでも来てくれました。そういう人なんですぅ。困ってる人、放っておけないんですね」
 すっかり錆び付いた安いランプが、建てつけの悪い部屋に無粋な光を灯している。
 とんとん、と資料を束ねて、シアは真っ直ぐとこちらを見た。
「ユラスさんだって、きっとどこかで守られていますよぉ。先輩、そういう人です。グリッド先輩とだって、ホントは仲良くできるはずだったのに」
 その言葉に、俺は片付けを始めていた手を止めた。シアはとつとつといつもの調子で語りながら、手を動かしている。
「グリッド先輩はですねぇ、最初はヴィエル先輩のこと心配してたんですよぉ。先輩の髪の色、確かに先輩の故郷では嫌われているのかもしれません。でもこっちに来ればそれは逆に好奇の目にさらされるんです。目立ちますからね、桃色は。それに故郷での扱いの話は皆知ってますから、先輩は腫れ物に触るみたいにされていて、……だからグリッド先輩は最初、ヴィエル先輩に親身な言葉をかけてたんですぅ」
「グリッド先輩が?」
「でもヴィエル先輩、昔からあんな感じでしたからぁ、グリッド先輩怒っちゃって。それで今の状態ですぅ。グリッド先輩はぶきっちょさんですから、どう声をかけていいのかわからないイライラが全部怒りになっちゃう人なんですよぉ。あはは、私と一緒ですねぇ」
 自分で言って自分で照れたのか、シアは頬に手をやる。
「なんだお前、実際グリッド先輩に随分と高評価じゃないか」
「そんなことないですぅ! 私、あの人嫌いですぅ、あんな短気で口が悪くて頭脳派気取り、思い込みが激しくて性格が悪魔の数百倍くらい歪んでる人なんて見たことないですぅ! 一度あの発酵しかけるほど曲がり腐った根性叩きなおしてやりたいと常々思ってますぅ」
 シアは真面目な顔でそう言い切って、最後に、でも、と付け加えた。
「でも、悪い人じゃないですよ」
 さらり、と当たり前のように。
 散らばった資料を揃えて本の上に積むと、シアは眼鏡を外してごしごしと目をこする。
「はあぁ、眠いですねぇ」
「――」
「どうしました? ああ、もうこんな時間ですねぇ。いい加減寮に戻らないと明日が大変ですぅ」
 慌てたように急ぎ気味でぱたぱたと資料をまとめるシアを俺は暫く呆然と眺めていた。いや、なんというか――。
「……お前、すごい奴だな」
「はい?」
「いや――正直な感想だ」
「なんですかぁ、変なものでも食べましたか? ぼんやりしてないで片付け手伝って下さいよぅ」
 シアは唇を尖らせると、一括りにまとめた髪を翻して外へと出て行った。ヴィエル先輩を呼びにいったのだろう。
 すぐに聞こえてくるヴィエル先輩とシアのやりとりを聞きながら、俺も席を立って簡単に片付けをした。大事な論文は引き出しの中に入れた――鍵はついていないが、こんな研究室に盗みに入る人間なんてどう考えたっていないだろう。というか、盗みに入ったら逆にあの黒ずんだ扉の向こうの人物に魂でも抜かれそうである。
 一応戸締りを確認して、他の二人と共に俺は研究室に鍵をかけた。今日こそやっと安眠出来ると吐息をつきながら。
 俺たちがいなくなるのをじっと観察していた影が、ゆるりと動き出したことも、知らずに。


 ***


 夜もとっぷりと暮れた頃、やっとの思いで自分の部屋の扉を開くと、スアローグが部屋着姿ですっかりくつろいでいた。
「おかえり、ユラス。毎晩頑張るねえ君も」
「うー、疲れた。疲れたぞ俺は」
「そんなの顔見ればすぐ分かるさ。なんか飲むかい?」
「コーヒーとミルク1対3で砂糖8個いれてくれ」
「了解したよ」
 最近になってやっとスアローグは俺の好みを理解してくれたらしく、もうこの手の話には何のツッコミもやってこない。こいつは今はあんまり忙しくないのだそうで、のんびりとした面持ちで台所に向かってくれた。
 俺はよろよろと奥に歩いていって鞄を投げ出しケープをゆるめる。ぱりっとして清潔感はあるが窮屈ともいえる学園の制服を脱げるとなると、それだけで開放感があった。そのままどさりとソファーに倒れこむ。
「疲れたー疲れたんだー死んでしまうー」
「それはさっきも聞いたよ。そら、ありがたく飲みたまえよ」
 スアローグからマグカップを受け取って、行儀が悪いと思いながらも寝転がりながら口をつけた。朝に淹れおきしてあったものだから決して香り高くはないのだが、甘いというだけで俺の心を癒してくれる。
「最初はあんな研究室に行くなんて正気の沙汰かと思ったけど、中々どうしてうまくやってるもんだねえ」
 シアに聞かれたら撲殺されそうなことを呟きながらスアローグは頬杖をついてにやりと笑った。
「もしかして、ハーレム状態なのをいいことに好き勝手やっているのかい?」
「そうだったらこんな顔にはならない……」
 コーヒーをすすりながら言うと、スアローグはくつくつと笑い声を漏らして十字をきってくれた。これ以上ありがたくないこともないんじゃなかろうか。
「そういやお前、実家が教会だったよな」
「そうだよ? ま、小さいところだけどね」
「……お前、専攻教科なんだっけ」
「化学だよ」
 ……。
 いや、なんていうか。
「も、もう少しアレな教科にしなかったのか? ほら、神学とか宗教学とか」
 するとスアローグは苦虫でも噛み潰したような顔で首を振った。
「実家で耳が腐るほど説法聞いてるのに、なんだってそんな勉強しなきゃいけないんだい」
「つったって、将来を考えてだな」
「僕は次男だからね、家業は兄さんに任せて家をでるつもりだよ」
 やりたいことをやるのさ、とスアローグは皮肉げに口の端を片方だけ吊り上げる。その仕草はまさにスアローグお得意のもので、俺も思わず笑った。
 しかし、ふとその言葉が俺の胸に刺さったのも真実であった。やりたいこと――そう、やりたいことがあってスアローグはグラーシアにやってきた。俺は、やりたいことがない。ただ誰かの思惑でこの地に足を踏み入れて、日々を送っている。どうすればいいのか、何を考えればいいのかもわからずに。
 漠然とした不安は、いつでも胸の中にあった。本当に俺はこのままでいいのか、と。
「そういやエディオはまだ帰ってこないのか?」
「ああうん。いつものことだしね、泊まってくるのかもしれない」
 医学を専攻するエディオは、スアローグ曰く昔から学業に関しては並々ならぬ努力を見せ、夜も遅いことが多かったのだという。しかも高等院にあがると研究室への宿泊も許可されるため、俺たちと顔を合わせる機会は本当に少ない。
 こうして同じ部屋になったわけだが、未だに俺はエディオと会話らしい会話をしたことがなかった。スアローグと話をしているところも全く見受けられない。いや、声をかけてみようかとは思っているのだが、あいつは――。
「すごい奴だよな。春休みもフェレイ先生の家で勉強ばっかしてたみたいだ――し?」
 がちゃがちゃ、と扉の方から音がして俺とスアローグは振り向いた。
「おや、噂をすれば」
 開かれた扉の向こうから整った面構えをした同居者――エディオが姿を現した。初めて会ったときはヤクザのような雰囲気だったが、ヴィエル先輩と違って制服はきちんと着こなしている。そんなエディオはただいまの一言も言わず、相変わらずの仏頂面のまま俺とスアローグの横を通過した。
 そのまま鞄を無造作に投げ捨て、制服もケープと上着だけ面倒くさそうに脱ぐと、ばたりとベッドに倒れこんだ。
 ――静寂が、落ちる。
 そう、朝はまず俺が寝坊しがちなのに加えてエディオは早朝補習で早くに出ていってしまうし、夜はこうして帰ってきても会話の余地なく寝てしまうのだ。
「……」
 ベッドの上でエディオはぴくりとも動かない。既に何人たりとも邪魔することは許されぬ眠りに入ってしまったようだ。
「なあスアローグ」
「なんだい?」
「エディオって昔からこうなのか」
「うん、そうだね」
 当たり前のように答えてくれるスアローグにただならぬものを感じてしまうのは俺だけだろうか。
 そんな俺の心情を察したのか、スアローグははらはらと手を振ってくれた。
「まあその内慣れるさ。悪人じゃないんだし」
 それは――分かる。愛想が極端に悪いというだけで、実際に学園の中でのエディオは『優秀な学生』だ。勉強態度は真面目で評価ランクはAだし、決して教師に無愛想な態度はとらず、むしろ礼儀正しい方であった。
 しかしその友人関係については驚くほど希薄だ。必要以上の会話を求める様子が全くない。まるで他人には興味がないというような、そんな雰囲気がエディオにはあった。
「もう遅いし僕たちも寝ようか」
「そうだな。あの三分ダッシュには巻き込まれたくないぞ」
「じゃあその寝起きの悪さをどうにかしたまえよ」
 痛いところをつかれて俺は後頭部をかいた。どうにも朝起きたばかりの時間帯は、体から倦怠感が離れてくれないのだ。
 ふう、と息をついて俺はベッドへと向かった。また、今日という日が終わる――。


 ***


 辺りは真の闇だった。
 まるで自分が生まれた、あの闇の中のような。
 しかし、ここにはじきに陽がさす。ここにはきっと、朝がくる。それだけが、あの闇の中とは違う。
 自らの闇の中で、まさか朝がくるとは思っていなかった。自らの命は、夜の内にきっと消えてしまう。そう思っていたし、希望も持っていなかった。
 だから、だから、自分は――。
 あの、希望の塊を――。
 自分にはついに得られなかった、その希望を――。
 影は目を閉じる。もう、何もかも、闇の中だ。自らが思ったことも、自らがしたことも、そしてこれからするであろうことも。
 人の気配がないことを確かめて、静かに踏み出す。音はない。まるで世界に一人取り残されてしまったかのよう。
 影は辺りの気配に注意しながら、その建物に近づいた。虫の音すらしない夜だった。
 あらかじめ複製しておいた銀色の鍵を懐から取り出し、無駄なく扉を開く。するりと中に入り込むと、むっと古い紙と土の匂いが鼻をついた。普段は声で賑わうその部屋も、今は気が遠くなるような静寂に落ちている。
 影は動く。自らの目的を果たすために。暗がりの中、必要なものを抜き取ると、何事もなかったかのように部屋を後にする。
 影が外に踏み出たのと横から鋭い衝撃波がやってきたのは、ほぼ同時であった。
 頬の辺りで風が唸るのを感じた瞬間、影は体を倒して刃をかわした。刃はそう強力なものではない。行き場を失った風の塊は、そのまま背後の木を大きく揺らすに過ぎなかった。
 すぐに体制を立て直して、闇を見据える。そう強い魔力を持った人間ではないが、魔術規制の結界の張られた都市で魔術を行使するなど、常人のすることではない。
「……アンタ、ちょっと前からこそこそと何の用さね」
 影は――もう一つの、影を見た。
 艶やかな少女の声が、低く耳朶を叩く。その声にも、体の輪郭にも、覚えがあった。微かに影は目を細める。まさか自分に気づいていようとは――。
 そう無感動に思考する間に、影の体は行動を起こしていた。ぐんっ、と弾丸のようにその体が少女の声の元に迫る。舌打ちの音と共に、少女の輪郭も動いた。素人ではないようだ、逃げるのかと思ったが、むしろ自ら大地を蹴って飛び込んでくる。
 その殺気にぴりぴりと空気が張り詰めるのが感じ取れたが、影の心は僅かたりとも揺らいではいなかった。何故なら――。
 女――そう、まだ女と呼べるかも怪しい少女の目が、暗がりの中で見開かれる。彼女は自らに降りかかったことを、どう感じていたろうか。
 彼女の体が動かなくなった。否。その動きを、何かの力で止められていた。きっと全身の力で抗おうとしているだろうが、そんな力では影の放った魔力に到底及びはしない。
「――っく!」
 驚愕と悔しさに歪む表情が、食いしばられた歯列から漏れた声で容易に想像出来た。次の瞬間、二つの影が重なり合った。

 ――少女は、無残にその場に崩れ落ちた。




Back